浄霊の原理を分らせるために、黴菌から説くと一番分りよいのです。つまり霊の曇というものは、黴菌の元ですから、黴菌の元というものをだんだん細かく考えるとよく分ります。それを簡単に書きました。
御論文〔科学で病気は治らない〕
科学で病気は治らない
(『医学革命の書』より)
科学の進歩は、科学発見以前の世界と較べたなら、比較にならない程素晴しいのは今更言う迄もないが、さりとて向後百年、千年後を想う時、それは想像も出来ない程の超驚異的文明世界である事も勿論である。そこでよく考えてみると、今日迄の科学の進歩は、端的にいえば光学の進歩でしかない事である。即ち小さなものが拡大して見える硝子玉の進歩である。大は天体観測の望遠鏡から、小は微生物発見の顕微鏡に至るまで、つまり大と小の極端の進歩で、中間は殆んどないといっていい。そこで医学に関する面を主としてかいてみるが、現在の処電子顕微鏡で見得る限度は二十万倍とされている。此限度内で把握された微生物即ち黴菌、又はウイルスを病原としているのが医学の考え方である。そこで医学は此菌を殺滅すれば、病は治るものと信じ、それを建前として研究を進めているのは言う迄もない。
処で考えねばならない事は、右の如く二十万倍以下の菌を対象としており、それ以上の菌を重視しない事である。としたら玆に問題がある。それは真の病原は二十万倍処ではない。百万倍か、一千万倍か、科学者は想像もつかないであろう。それのみか仮に一千万倍の菌が見えるようになったとしても、それで根本的治病が可能なるかというと、之も分りよう筈がない。或は真の病原は菌の大きさ処ではなく、無限であるかも分らない。としたら科学が如何に進むとしても、病気を治す事は絶対不可能であるのは断定しても間違いはない。それに就いて言いたい事は、医学は紀元前彼のヒポクラテスが創始したものであって、已に二千有余年を経ている今日、今以て病気は解決出来ないのである。併し言うであろう。十八世紀後半俄然として科学が勃興し、それに伴って医学も発達したのであるから、此儘で漸次進歩の暁、理想的医学となるに違いないから、それを期待しているのである。
処が医学の病理の如く、病原は悉く黴菌としている以上、前記の如く顕微鏡が如何程進歩し、微生物の極致まで発見されたとしてもそれで解決出来ないのは右によっても明かである。又別の面から見ても、人間の生命は造物主が造られた万有中、最も神秘極まるものであって、他の物質とは根本的に違っている事を知らねばならない。之は説明の要はない程高級な存在である。言うまでもなく智性、思想、感情等の思想的面は他の動物には全然ない。此意味に於て人間以外の一切は、科学によって解決出来ると共に、益々進歩発達させねばならないのは勿論であるというのは一切の物質は人間よりレベルが低く、従属されているものである。
従って人間が同一レベルである人間を、自由にする事は真理に外れているから、どうしても人間以上であるXの力でなければならない。だとすれば人間が作った科学を以て、人間の病気を治そうとするのは、如何に見当違いであるかが分るであろう。故に治らないのが当然である。標題の如く科学で病気の治らない訳は分ったであろう。又次の例を挙げてみると一層ハッキリする。昔から至大無外、至小無内という言葉がある。勿論大も小も無限という意味である。例えば大空の無限大と共に、微生物の本質も無限小である。之を人間に譬えれば想念の無限である。宇宙一切、森羅万象如何なる事物でも想念の届かぬ処はない。之によってみても人間は如何に高級であり、神秘な存在であるかが分るであろう。
従って人間の病気と雖も、有限である科学では治し得ないと共に、無限の力によらなければ治し得ないのは明々白々たる事実である。此理によって医学の誤謬の根本は、人間と他の物質との違いさを知らない処にある。としたら、その幼稚なる未開人的といっても過言ではあるまい。以上思い切って科学にメスを入れたが、現在の処私の説は到底信じられないであろうが、科学の理論物理学が実験物理学によって確認されると同様、私の唱える理論が実験上確認されるとしたら、之こそ真理である。只私の説が余りに飛躍しすぎているので、直に受入れられないだけの事で、承認されるのは時の問題でしかあるまい。
以上の如く無限の病原を、無限力によって万人を救う例として、現在日々数万の患者が救われている。例えば医学では絶対不治とされ、死の宣告まで受けた患者が、医学の医の字も知らない人々が数日間の修業によって得た方法を以てすれば、忽ち起死回生的に全治する。又彼の盲腸炎の激痛でも、術者が数尺離れた所から、空間に手を翳すだけで、二、三十分で痛みは去り、間もなく下痢によって排毒され全治する。結核菌を呑んでも感染しない、感冒に罹る程健康は増すとしての喜び、目下流行の赤痢、日本脳炎など、数日間で全治する等々、例は何程でもあるが、之だけで充分であろう。従って此著を読んだだけでは余りの偉効に到底信ずる事は出来まい。恰度幼稚園の児童に、大学の講義を聴かせるようなものである。此大発見こそ夢の現実化であり、不可能が可能となったのである。私は断言する。何人と雖も之を身に着ける事によって、完全健康人となり、安心立命の境地になるのは断言する。
故に此事が全世界に知れ渡るとしたら、空前の大センセーションを捲き起すと共に、文明は百八十度の転換となるであろう。その時になって臍を噛むとも間に合わない。此例として明治以後西洋文明が国内を風靡するや、今迄嘲笑され下積になっていた人達が、一挙に新時代を受持つ栄誉を担うに反し、旧思想に捉われ頑迷な丁髷連中は、慌てて後を逐うとも追いつかなかったのと同様である。而も此大発見たるや、それよりも幾層倍、否幾十層倍大であり、永遠性があるとしたら、徒らに躊躇逡巡バスに乗遅れないよう敢て警告するのである。
今の医学というものは顕微鏡医学です。顕微鏡で微生物を発見し、それによって医学の一種の革命的のものになったわけです。ところが微生物というものはどこまでも小さいのです。私は昔から〝黴菌と言うのは大きな物だ、大粒な物だ〟とよく言いましたが、今顕微鏡で一生懸命になっているのは大粒の物で、まだまだ小さな物があります。本当から言うと無限なので、教えられないものです。ですから顕微鏡がこれから進歩して、今の二十万倍から三十万倍、五十万倍となるでしょうが、そういう事はごく手前の事です。本当は無限なのです。というのは世界というものを考えてみると、大きく言えば大空が何処まで行っても限りがないのと同じなのです。だから「至大無外、至小無内」という言葉がありますが、小さいのも無限なのです。それが真理ですから、そう考えてみれば、顕微鏡などというのは、他の事には役に立ちますが、人間の生命を扱うべき病気に対しては何にもなりません。何となれば無限を見ようとしてもそれは出来ない事です。丁度大空の壁を見ようとするのと同じようなものです。大空に塀がありやしないかと思って見るようなものです。医学が顕微鏡を捨てるようになれば、少しは進歩するのですが、それを何にもならない顕微鏡にこだわって、それを大したものと思ってますから、今読んだとおり滑稽なものです。そこで、黴菌は粒子ですが、何億万倍、何十億万倍と何処まで行っても分らないくらいなものですから無限ですが、その無限なるもの、一つの気休みたいなもので、空気は割に粗い物ですが、空気よりもっと細かい物で、霊気です。それで霊気というものは無限なものです。そこで無限の病菌というものは、曇で、悪いもので、毒素ですが、無限な毒素です。そうするとこっちでそれを治すという事は、此処(掌)から出るやはり無限なる力をもっているもので焼くのです。昨夜読んだお蔭話の中に、レントゲンがどうしても写らないのです。空洞か何かがあった人ですが、それがはっきりしないと勤務に困るので、はっきり写してもらおうと思ってお守をとって写してもらったらはっきり写ったのです。お守をかけている間は幾度やっても駄目なのです。そうするとお守から出る光はレントゲンより強いわけです。この間にもそういう事があって、今度は三度目ですが、お守の光によって遮られるというわけですが、それはレントゲンから出る光よりかお守から発する光の方が強いわけです。ところがレントゲンは何でも通すという強い光ですが、それが通さないという事になると、お守から出る光の方がずっと強いわけです。そうすると無限の毒素を焼き尽くすという事に不思議はありません。これは科学的説明ですが、科学的と言っても神霊科学ですから、今の科学よりずっと上の進んだ上等のものです。ですからこの神霊科学が分れば、今の科学というものは非常に幼稚なもので、幼稚園程度です。神霊科学は無限なのですから、唯物医学はもっと低い事になります。この原理がだんだん世界に知れたら、それは大変なセンセーションを起こすわけです。
この次は「神霊の解剖」というのを書くつもりですが、「神霊の解剖」というのは即ち神様を解剖するわけです。これは今までの宗教や何かでは、そんな勿体ない事をして、神様に対して恐れ多いと、テンデ手をつける者はないのです。だから今までは神様を非常に恐れていたわけです。神様に対する親しみというものがなかったのです。ですから〝恐れ多くも〟という事を書きますが、これは本当ではありません。若し恐れるとしたら、自分を恐れるのです。それは人間くらい恐ろしいものはありません。神様は善ですから少しも恐ろしい事はありませんが、人間は悪だから恐ろしいのです。それは人間は何をするかわかりません。しかし神様はそういう事はないので、何も悪い事はしません。人間は悪の元だから、大いに恐れるというのは自分を恐れるという事です。ですから神様を解剖してもどんなにしても決して恐れる事はありません。決して罰が当る事はありません。罰を当てるという事は、自分が自分に罰を当てるという事です。そういう事もだんだんに書きます。
それから台風については、前に書いた事があるから分ってはいますが、又新しく書きましたから幾分かは違った点があるはずです。
御論文〔台風の霊的考察〕 【註 栄光二一九号】
台風の霊的考察
(栄光二一九号)
今度の九州の大風水害は、いかに惨憺たるものであったかは、新聞ラジオで詳細報告されたから、ここでは略すが、では一体台風というものの原因は何かという事は、誰も知りたいだろうが、科学では今のところ全然分っていないから私はかくのであるが、何しろ科学はいつもいう通り、浅薄極まる表面的物の見方であって、内在せる根本には触れていない以上、いかに進歩しても分るはずはないのである。そうして台風といえども人間の病気と同様、それ自体科学の分野ではない。霊の分野に属しているのである。それなら宗教で分りそうなものだが、実は分り得る程の高度の宗教はまだ出ないから致し方がないので、そこで私は神から教えられた真の原因を説くのである。
以前もかいた事だが、この世界における森羅万象一切は、絶えず汚穢が溜ると共に、それに浄化作用が起って浄められるのが法則となっている。従って地上の霊界、現界共に絶えず汚穢が溜り、ある限度を越えるやここに浄化作用が発生する。それが台風であって、つまり風で吹き払い、雨で洗い浄め、天日で焼くのである。この理によって今回のごとく田畑百数十万町歩も水底に沈んだという事は、全く人肥金肥の肥毒によって土壌が汚され切っているからで、それを洗い浄めなければ農作物に影響を及ぼし、減収になって食糧難に陥る憂いがあるからである。そうなるとここに浄化担任の神々はその活動を開始されるのである。
また破砕され流されたりする家屋は、その物の霊に汚穢が充ちたためであり、溺死した人間はやはりその人の霊に罪穢が溜って、生存の資格が失われたからである。これで大体分ったであろうが、ついでだから今一つの事をかいてみよう。それは火災である。これも知らるる通り、年々増加の趨勢にあり、国としての損害は軽視出来ないものがある。これらもやはり浄化であって、それぞれの建造物に罪穢が溜っているからである。それは今日どんな家でも土地購入、建築等に費した金が汚れていると共に、使用の場合その家屋を大なり小なり間違った事をするからで、これも現代生活上ある程度は止むを得ないが、それでも神仏の信仰者か余程善徳を積むとしたら、それだけ穢れは消されるからいいが、そういう人は滅多になく、ほとんどは罪の溜め放題であるから、どうしても火で焼き浄めなければならないからで、それが火災の原因である。火災の多いという事は無信仰者や悪徳者のいかに多いかを物語っている訳である。また山林もよく焼けるが、これも購入費やその目的に含まれている不正や邪念の汚れのためであるのは言うまでもない。
以上のごとく現代人は神を信ぜず、霊的智識なく、ただ物質のみを頼りにする以上、災害の多いのも当然であって、これが厳正なる神律であるから致し方ない。それに盲目なるがため末梢的手段のみで防ごうとする以上、根本的でないから、結局賽の河原の石積と同様である。従って結論としては人事を尽くすと共に、神を本位として罪穢を溜めないようにする事で、それ以外万全の方法はない事を心得べきである。
こういう事も知っておかなければいけません。何時も言うとおり、相応の理というものは、何でも穢れれば自然にその穢れを浄化するという、そういうものが発生するのです。ですから世の中に悪い奴が多いという事は、悪い奴が必要なのです。これは大乗的の見方ですが、人間がずるい事をして金を溜め、財産をつくる。そうするとそういうずるい事をしたものは穢れてますから、どうしてもそれを掃除しなければならないのです。そうすると泥坊が必要であり、巾着切りも空巣狙いも必要なのです。必要というよりか、悪い奴がそういうものをつくるのです。掃除をさせるようなものです。ですから悪い黴菌がわくという事は、人間が間違った事をして、毒素や膿のような物を溜めるから、どうしてもそれを掃除するものが自然に発生するのです。自然に発生して、それが伝染して伝染病や何かになって、それによって掃除するのですから、つまり言うと、人間にそういった害を与えるようなものは、害を与えるようなものを人間がつくるのです。だから人間の一切の災というものはみんな浄化作用の道具です。己が汚たない物を溜めるから、それを掃除するものがあるので、それが自然に出来るのですが、本当は自然でなくて人間がつくるのです。そこをよく知ればいろんなそういった災というものは仕方がなく、やむを得ないものです。だから九州の大水害にしても、それは人間がそういった大水を出して洗わなければならないように汚ごすからです。汚ごれを溜めるからです。従って台風は天災ではなくて人災だという事を前に書いた事があります。凡てそういった頭で見るとよく分ります。自分が苦しみ、ナンテ不運だろうという事を嘆く前に、そういった不運やそういう事をつくるという事です。自分がこしらえるのだからして、誰を恨む事もないので、まず己を恨むよりしようがありません。今の人間はそれを知らないからして、自分の罪を棚に上げて、人が悪い、社会が悪い、教育が悪い、政治が悪い、制度が悪い、と何でも彼んでも自分以外に原因があるように考えるのです。それを又偉い学者とか偉い人が<自分達もそう思うのですから仕方がないが>大いにそういう事を言いふらすのです。だからみんながそう思い、そう思うから何でも彼んでも人を恨み世を恨み、始終不平満々としている。そのために自分で又罪をつくり、その罪を掃除しなければならないいろんな苦しみや何かを起こす。そこで又恨むというので、結局二進も三進も行かなくなって自殺するとか人を殺すとか、いろんな事になるのです。人を殺すという罪は、自分が霊界に行っていろんな苦しみをするという事になります。ですから根本を間違えているために、どこまでも悪い事をするのです。それと関連のある事で、もう一つ読ませます。
御論文〔世のインテリ族に物申す〕 【註 栄光二二〇号】
世のインテリ族に物申す
(栄光二〇二号)
およそ世の中に命の要らない人は一人もあるまい(自殺者は別だが)。ところがこれ程尊い命が救われ、その原因である病気が治ってしまうとしたら、それで問題解決何も残らないはずである。とはいうもののそんなドエライ治病法がこの世の中にある訳がないから、そんな戯けた事をいったところで始まらないと誰しも言うであろう。もちろん科学の努力といえどもこの事以外にはないが、今日までのところそれは全然不可能であった。ところがこの解決方法が発見されたとしたら、これこそ二十世紀の大問題でありしかもその発見者が我救世教であるという事が判ったなら、何人も驚嘆到底信ずる事は出来ないであろう。それは事実が証明している。例えば医学で見放された重難症患者が、疑っても信じなくとも容易に全治するという素晴しい医効は、古往今来絶対あり得ない事で、全く夢の現実化である。むしろ余りの偉効に逆に疑いを抱く人さえあるが、それも無理はない。何しろ現代人は子供の時から、病気は医者と薬で治すものと教育され、常識となっているからである。従って本教浄霊医術は、原子爆弾がブッ放されない以前、いくら説明されても分らないと同様であろう。
そのような訳でインテリ族中の丁髷の人々はどんなに説明しても事実を目の前に見せても、信じ得ないその頑迷さは全く不可解である。それどころではない、専門家の医師でさえ自分で見放した病人が浄霊で助った奇蹟を見せられても、ただ首を捻り溜息を吐くばかりで、進んで研究しようともしないロボット的態度である。恐らくこれ程の迷信は人類史上類例があるまい。ところがそれと同様の不思議さがまだある。それはインテリ中の宗教学者である。彼らはいわく、元来宗教が病気を治すのは間違っている。元々宗教は精神的救いであって、肉体的救いは医師の領分であるというのである。なるほど一応はもっともらしく聞えるが、一歩退いて考えればこうなるであろう。それは医学で真に病気が治るとしたら問題はないが、事実は何程医学を信じ、博士や大病院にかかり、言う通りに最新の療法を受けても一向治らないどころか、反って益々悪化し、命までも危うくなるので、医療を諦め吾々の方へ来るのである。ところが浄霊を受けるやたちまち奇蹟的に全治するので吃驚して入信する。という訳でそれを聞き伝えた人々は後から後から来る。これは当然であって何ら不思議はない。本教異常な発展がそれをよく物語っている。
これを春秋の筆法でいえば、新宗教少なくも本教の発展は、全く医学の無力のためであるから、結果からいって医学が新宗教を発展させている訳である。ゆえにもし医学が吾々の方で治らない病気を治すとしたら、患者は何を好んで世間から疑惑に包まれている吾々の方へ来るかという事である。そうして医学も宗教も、その目的は人間の不幸を除き、安心立命を得させる点において同様であり、その根本が健康である以上、他のいかなる条件が具備しても零でしかあるまい。この意味においてどんなに有難い経文でも御説教でも、立派な学説でもそれだけでは幸福は得られない。単なる精神的慰安でしかないのは、今日の既成宗教を見ればよく分るごとく、そのほとんどが衰退の一途を辿っている。これに気付かない限り、ついには潰滅の運命あるのみと言わざるを得ないのである。
それに気が付いてか付かないでか、宗教学者は口を開けば現当利益は低級なりと非難し、額へ八の字を寄せなければ読めないような活字の羅列をもって高級宗教のあり方としているが、これこそ現実離れの御道楽か、自己保全の御念仏でしかあるまい。もしこれで救われるとしたら、それは大衆ではなく、一部の食うに困らない閑人か、都会の仙人くらいであろう。君らがそういう原稿を書きつつある間にも、大衆は病に悩み、貧に苦しみ、押寄せる社会不安に怯え、東奔西走しているのが現実である。しかもこれに対し数百数千年以前の教説の焼直しをしたとて、何の役に立つかと言いたいのである。
以上思うままをかいたが、これも世を憂うるの余りで諒して貰いたいのである。ここで重ねて言いたいが、医学でも宗教でも他のいかなるものでもいい、とにかく人間の最大脳みである病を治す事で、ただそれだけである。先年毎日紙で懸賞募集した標語の第一等は「先ず健康」の四文字であった事を覚えているが、これだけで多くを言う必要はあるまい。
この前結核は衰弱をさせない事と、それには肩を柔らかくする事を話しましたが、無論肩を柔らかくする事が一番食欲が出ますから、胃病でも心臓病でも非常に結構なのです。心臓病は左の肩が凝ってますから、この肩を柔らかくするとまず治ります。それから他のいろいろな病気などもそれによってよくなります。今どんな人をみても頸の廻りと頭にありますが、これは何時も言うとおり毒素が肩に溜まって固まり、それが頭を使うと頸の廻りから頭に移行して其処に溜まるのですからして、丁度肩が頭の一つの入口です。ですから入口をゴミだらけにするようなものです。門の所をよく掃除しないから、風が吹いてゴミが室内にはいって来るようなものです。それから肩は上半身と下半身のつなぎ目になっているわけです。それで肩を柔らかくするという事が一番肝腎なのです。そうして男の場合は肛門ですが、女は前にもう一つ穴があります。そこで頸から頭の毒が溶けると、下から出るのです。だから女のコシケなども大体頭から下がるのです。他からも下がりますが、それは少ないので、大部分は頭からです。それから男の方は赤痢、痔ですが、痔は殆んど後頭部です。それからもう一つ肝腎な事は、女というものは割合にヒステリーなどが起こります。憂鬱的になるのです。イライラするとか、頭が重いとか、頭が晴れ晴れしないという事は、女は男よりか自由のないという事もありますが、しかしイライラするという事は大体夫の仕向け方が大いに原因してますが、しかし夫の仕向け方というよりか、妻君が機嫌よく夫に尽くすという事によって非常に違うわけです。ところが妻君が不承々々に従うとか、イヤイヤお役でやるような事だと、亭主も面白くないという事が、夫婦間の事についても大いに影響し、その原因は何処にあるかというと、そういう女の人は必ず前頭部に熱があります。前頭部に熱があるとイライラするのです。ところが前頭部に熱があるという事は其処に毒があるのですが、この毒というものは何処からかというと下からです。ですから前頭部を浄霊すると共に、下の陰部も浄霊しなければならないのです。陰部を浄霊すると前頭部の熱も冷めます。そうすると気持良くなります。しかしみんな此処に気がつかないのです。これは浄霊ですから離してやるのですから何でもありません。ですからそういう場合には頭をやると共に下の方をやるという事を心得ておくのです。そうすると効果が倍になります。それから頭の中心に非常に毒が溜まりやすいのです。何時も言うとおり、後頭部は感情、前頭部は理性ですが、此処はその真中になってます。だから此処をやるという事は必要です。それからよく頭の芯が痛いとか、芯が気持が悪いという事を言う人がありますが、やっぱりこれです。肺病などにもよくありますが、肺病でどうしても熱が冷めないという事は大抵頭の熱です。ですから肺病の原因は肺にはないのです。肺は中間の機関です。頭から頸の廻りで肺病は大抵治ります。ただ肺は溶けた物が痰になって咳で出るという事になりますから、そこで衰弱しやすいのです。衰弱という事は食欲が最も関係がありますから、食欲さえ多ければ百人が百人みんな治るわけです。浄霊するだけは毒が減って行きますが、ただ衰弱で参ってしまうので、そこで肩という事になります。そういうようなわけで、病気の原因というものは大抵その部分の原因という事はありません。ただオデキや何かはその場所ですが、他の内臓の病気というものは、原因は病気の現われた所ではないのです。これは何でもそうですが、元があるのです。丁度芝居みたいなもので、舞台にいろんなものが出るということは、原因は楽屋にあるのです。楽屋で準備して、そうして舞台においてよい芝居とか悪い芝居ということになるのです。ですからそこの楽屋を見つけて、其処をやるのです。それは大体決まっているのです。ただ肺だけは何処からでも一旦肺にはいって行くのです。頭でも手でも足でも、何処の固まりでも溶ければ一旦肺にはいって痰になって出るのです。ですから肺病は肺の病と言いますが、表面に現われたのが胸だからそう思ってしまうのですが、そうではないので、体中の病と言ってもよいです。それは頸から肩から腹から背中から、溶けた毒はみんな一旦肺に行くのです。ただその場合、多く溜まっている所と少なく溜まっている所の違いはあります。そこで肺病で一番多いのは頸の廻りです。ですから私は結核というものは頸の病だと言った方がよいと思います。又頸の廻りに溜まった毒というものは必ず熱が出ます。それが溶けて痰になるのです。だから人間、頸は非常に肝腎なものです。借金も首、サラリーマンも首で心配してます。よく〝首ねっこを押さえる、首が危ぶない、バッサリと首を切る〟と言って首が一番肝腎なものです。それで頸の中にも急所があります。咽頭結核は此処のが溶けて、溶けた物がはいって行って、肺から出る場合に痰に毒があるから、その刺激で咽喉が痛んだりいろいろするのです。それで物が呑み込めなかったり、声が枯れたりするのは、みんな咽頭結核と言いますが、これは頸の廻りの毒が一旦肺にはいって、その痰に毒があるというものです。又頸自身の毒のために咽頭結核になるという人もあります。それからロレツが廻らない人や舌にオデキのある人は、咽頭部の毒のためです。その毒が、廻りくどい(肺を通らずに)事をしなくて直ぐに此処から出ようというのです。その場合に此処に相当固まった奴が舌に固まって、口がきけないというわけです。ですからとに角咽頭部です。それから食欲は肩と心得ていればよいのです。それから淋巴腺ですが、此処に熱が出ると前頭部に直ぐ移ります。この熱が前頭部に一番影響するのです。それは此処の毒が前頭部に始終行くのです。だから頭の悪い人は気がふさいだり、怒りっぽかったり、気持が悪いという事は、みんなそれなのです。ですから神経衰弱とよく言いますが、これはやっぱりその原因の一番は淋巴腺です。それから中風も頸の横側の人と後頭部(延髄)の人と両方あります。その固まりが溶けて脳溢血になるのですが、こういう人は中風になっている時はそうですが、ならないうちも棒みたいな固まりがありますから直ぐ分ります。
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