七月二十七日

 医学については、分るようにいろいろな説き方をしてますが、「医学革命の書」に出す原稿で、これは又別の面から説いてみました。人によっては、かえって分りよいと思って書いてみました。

 御論文〔科学では病気は治らない〕

科学で病気は治らない

(『医学革命の書』より)

 科学の進歩は、科学発見以前の世界と較べたなら、比較にならない程素晴しいのは今更言う迄もないが、さりとて向後百年、千年後を想う時、それは想像も出来ない程の超驚異的文明世界である事も勿論である。そこでよく考えてみると、今日迄の科学の進歩は、端的にいえば光学の進歩でしかない事である。即ち小さなものが拡大して見える硝子(ガラス)玉の進歩である。大は天体観測の望遠鏡から、小は微生物発見の顕微鏡に至るまで、つまり大と小の極端の進歩で、中間は殆んどないといっていい。そこで医学に関する面を主としてかいてみるが、現在の(ところ)電子顕微鏡で見得る限度は二十万倍とされている。(この)限度内で把握された微生物即ち黴菌(ばいきん)、又はウイルスを病原としているのが医学の考え方である。そこで医学は此菌を殺滅すれば、病は治るものと信じ、それを建前として研究を進めているのは言う迄もない。

 (ところ)で考えねばならない事は、右の如く二十万倍以下の菌を対象としており、それ以上の菌を重視しない事である。としたら(ここ)に問題がある。それは真の病原は二十万倍処ではない。百万倍か、一千万倍か、科学者は想像もつかないであろう。それのみか仮に一千万倍の菌が見えるようになったとしても、それで根本的治病が可能なるかというと、之も分りよう(はず)がない。(あるい)は真の病原は菌の大きさ(どころ)ではなく、無限であるかも分らない。としたら科学が如何に進むとしても、病気を治す事は絶対不可能であるのは断定しても間違いはない。それに()いて言いたい事は、医学は紀元前彼のヒポクラテスが創始したものであって、(すで)に二千有余年を経ている今日、今以て病気は解決出来ないのである。(しか)し言うであろう。十八世紀後半俄然として科学が勃興(ぼっこう)し、それに伴って医学も発達したのであるから、此儘(このまま)漸次(ぜんじ)進歩の(あかつき)、理想的医学となるに違いないから、それを期待しているのである。

 (ところ)が医学の病理の如く、病原は(ことごと)黴菌(ばいきん)としている以上、前記の如く顕微鏡が如何程進歩し、微生物の極致まで発見されたとしてもそれで解決出来ないのは右によっても明かである。(また)別の面から見ても、人間の生命は造物主が造られた万有中、最も神秘極まるものであって、他の物質とは根本的に違っている事を知らねばならない。(これ)は説明の要はない程高級な存在である。言うまでもなく智性、思想、感情等の思想的面は他の動物には全然ない。(この)意味に(おい)て人間以外の一切(いっさい)は、科学によって解決出来ると共に、益々進歩発達させねばならないのは勿論(もちろん)であるというのは一切(いっさい)の物質は人間よりレベルが低く、従属されているものである。

 従って人間が同一レベルである人間を、自由にする事は真理に外れているから、どうしても人間以上である(エックス)の力でなければならない。だとすれば人間が作った科学を以て、人間の病気を治そうとするのは、如何に見当違いであるかが分るであろう。故に治らないのが当然である。標題の如く科学で病気の治らない訳は分ったであろう。(また)次の例を挙げてみると一層ハッキリする。昔から至大(しだい)無外(そとなし)至小(ししょう)無内(うちなし)という言葉がある。勿論(もちろん)大も小も無限という意味である。例えば大空の無限大と共に、微生物の本質も無限小である。(これ)を人間に(たと)えれば想念の無限である。宇宙一切、森羅万象如何なる事物でも想念の届かぬ(ところ)はない。(これ)によってみても人間は如何に高級であり、神秘な存在であるかが分るであろう。

 従って人間の病気と(いえど)も、有限である科学では治し得ないと共に、無限の力によらなければ治し得ないのは明々白々たる事実である。(この)理によって医学の誤謬(ごびゅう)の根本は、人間と他の物質との違いさを知らない(ところ)にある。としたら、その幼稚なる未開人的といっても過言ではあるまい。以上思い切って科学にメスを入れたが、現在の(ところ)私の説は到底信じられないであろうが、科学の理論物理学が実験物理学によって確認されると同様、私の唱える理論が実験上確認されるとしたら、(これ)こそ真理である。(ただ)私の説が余りに飛躍しすぎているので、直に受入れられないだけの事で、承認されるのは時の問題でしかあるまい。

 以上の如く無限の病原を、無限力によって万人を救う例として、現在日々数万の患者が救われている。例えば医学では絶対不治とされ、死の宣告まで受けた患者が、医学の医の字も知らない人々が数日間の修業によって得た方法を以てすれば、(たちま)ち起死回生的に全治する。(また)彼の盲腸炎の激痛でも、術者が数尺離れた所から、空間に手を(かざ)すだけで、二、三十分で痛みは去り、間もなく下痢によって排毒され全治する。結核菌を()んでも感染しない、感冒に(かか)る程健康は増すとしての喜び、目下(もっか)流行の赤痢、日本脳炎など、数日間で全治する等々、例は何程でもあるが、(これ)だけで充分であろう。従って(この)著を読んだだけでは余りの偉効に到底信ずる事は出来まい。恰度(ちょうど)幼稚園の児童に、大学の講義を聴かせるようなものである。(この)大発見こそ夢の現実化であり、不可能が可能となったのである。私は断言する。何人と(いえど)(これ)を身に着ける事によって、完全健康人となり、安心立命の境地になるのは断言する。

 故に(この)事が全世界に知れ渡るとしたら、空前の大センセーションを捲き起すと共に、文明は百八十度の転換となるであろう。その時になって(ほぞ)()むとも間に合わない。(この)例として明治以後西洋文明が国内を(ふう)()するや、今迄嘲笑され下積になっていた人達が、一挙に新時代を受持つ栄誉を担うに反し、旧思想に捉われ頑迷(がんめい)丁髷(ちょんまげ)連中は、(あわ)てて後を()うとも追いつかなかったのと同様である。(しか)(この)大発見たるや、それよりも幾層倍、(いな)幾十層倍大であり、永遠性があるとしたら、(いたず)らに躊躇(ちゅうちょ)逡巡(しゅんじゅん)バスに乗遅れないよう(あえ)て警告するのである。

 固苦しくて学校の教課書のようでしたが、少し面白いのを読ませます。

 御論文〔御守から出る光波〕

御守から出る光波

(栄光二二三号/『世界救世教奇蹟集』新稿より)

 今迄に二回、御守の光に遮断されレントゲンの光が透過しない実例を本紙に載せたが、今回で三回目の右と同様な事があったので、科学的にいえば三回の実験を経て、最早確定したといってもいいので、新しい言葉でいえば霊科学上の定説となった訳である。人も知る如くレントゲンは殆んどの物質を透過する強力な素晴しい光波として礼讃しているが、それ程の強力な光を御守から放射される光で阻止するのであるから、全くレントゲン以上の強力な光線である。ではこの驚異的光線は何によって生み出すかというと、これこそ如何に説明しても到底信ずる事は不可能である。即ち私が半紙一枚へ墨と筆とで光の一字を大書した文字から、右の光線が放射されるのであるから、神秘以上の神秘である。

 これは科学的に言っても分りますが、最初に読んだのにあった微粒子というものが、科学で証明できると言っても、科学の理論です。しかし理論でもなお分らない事がありますが、それについてこれを読むと、なお分ります。

 御論文〔超科学〕

超科学

(『医学革命の書』より)

 私は先日ラジオで、最近帰朝した湯川博士を囲んでの、座談会の録音を聴いたが、それによると最近科学の方でも、余程私の説に接近して来たようで、喜びに堪えない次第である。それによれば素粒子論に対して、物性論という新しい説を話されたが、それは素粒子は目に見える粒子であり、物性論は目に見えぬ原子をいうらしいが、もちろん前者は実験物理学であり、後者は理論物理学であるから、これこそ私が唱えている前者は体であり、後者は霊という事になる。としたらようやく科学も吾々の方へ鞘寄せして来た訳である。

 これについて従来から理論物理学者が新説を立てる場合、想像、推理、仮定が基本となり、実験に移るのであるが、湯川博士の場合もそうで、初め新発見の中間子(素粒子)にしても、幸い米科学者が実験中、宇宙線撮影の際偶然発見され確認されたので、その功績がノーベル賞授与となった事は衆知の通りである。ところがそれに一歩前進した理論が右の物性論であり、この研究が現在主眼となっているようだ。しかしながらこれが実験によって確認されるまでには、まだ相当の迂余曲折を経なければならないと共に、事によると意外な難関に逢着するやも知れないと思うのである。というのは現在の顕微鏡がそこまで発達するには容易ではないからで、そうかといって仮にこの物性子が実験によって把握されたとしても、それだけでは何ら意味をなさない。要はそれが人類の福祉にどれだけ貢献されるかである。ところがこれに対して科学では夢想も出来ない重点がある。それは現在以上科学が進歩するとすれば、吾々が常に唱えている霊の圏内に飛込んでしまうからである。霊の圏内とはもちろん宗教であるから、そうなると当然科学の分野から離れてしまい宗教に隷属する事となる。という訳で唯物科学の現在は進歩の極致に達し、今や壁に突当らんとする一歩手前にまで来たと言える。従って壁を突き破るとしたら、顕微鏡の能力を今より数倍以上、数十数百倍にも引上げなければならないかも知れないがそれは無理である。よしんばそれが可能としても、何世紀かかるか見当はつかないであろう。以上によって考えてみても、今後の世界は科学でも哲学でも既成宗教でもこれ以上の進歩は至難とみねばなるまい。この意味においていよいよ現在文化のレベルから超越した(エックス)が現われる時が来たのである。このXの一大飛躍によって現在のごとき行詰り文明の一大危機を打開し驚嘆すべき新文明を創造するのであって、それが私の使命である。

 次に素粒子論と物性子論について一層深く掘下げてみよう。そうして私の唱えている素粒子とは物質を構成している細胞のごときものであり、それは物と霊子との結合である。換言すれば前者は陰子であり、後者は陽子である。これがあらゆる物質の本体であるが、今日までの科学はそこまでは未発見であった。ではこのような高度の科学理論に対し、私のような浅学の者がなぜ発見出来たかというと、もちろん主神が必要によって私に教えられたのであるから、私は史上何人も知り得なかった万有の真理を会得したと共に、実験科学的にその実証を示す力をも与えられたのである。それがこの著の付録である治病実績報告であって、もちろん多方面の信徒から寄せられたものである。なお言いたい事は宗教にしろ科学にしろ、最も貴重なる人間の生命を救い得るとしたら、これ以上の福音はあるまい。今その原理を詳しく説明してみよう。

 言うまでもなく人間は万物の霊長であり、地球の王者であり支配者でもあり、天地間一切の万有ことごとくは、人間のために必要な存在であって、第一は人間の生命を保持し、第二は一人一人の使命を援助しているのはもちろんである。という訳で生命力をより旺盛に、健康で活動出来るようになっているのが人体である。としたらたまたま健康が(そこ)ねられ、生命を脅かすものとして病気なるものが発生した以上これを排除すべき作用が起るのは当然であって、何ら不思議はない。考えるまでもなく他の条件がいかに具備しても不健康である限り、人間使命の遂行は出来ないからである。この意味において科学でも宗教でも何でもいい、病さえ解決するものなら、それが真の科学でもあり、宗教でもある。としたら現在までの宗教も科学も遺憾ながらその能力がないから、真の科学でも真の宗教でもない事は分り切った話である。としたら正直にいって現在までの文明は仮のものであって、本当のものでない事は余りにも明らかである。

 これは大学以上の講義です。今読んだとおり、今の科学というものは実にお粗末なものです。他の科学は大分進んでますが、特に医学に限っては、まるっきり子供瞞ましくらいなものです。それに貴重な命を任せるのですから、その危ぶない事と言ったら、実にヒヤヒヤします。大本教のお筆先に〝今の世は井戸の端に茶碗をおいた如くで、危なうて神は見ておれんぞよ〟とありますが、うまい事を言ってます。それで今の科学は黴菌説で、あらゆる病原は黴菌としているのです。それで黴菌というものは非常に小さいものと思ってますが、医学で見ているのは非常に大きなもので、まだまだ何処までも小さいものです。さっき読んだとおり至大無外、至小無内というので、小さいも大きいも無限なのです。大空にたとえてみれば、大空の大きさというのは限りがありませんが、これは科学者も分っているとみえて研究しませんが、しかし顕微鏡の研究の事を考えると、顕微鏡で黴菌を研究するというのは、大空の囲いが何処かにあるに違いないと研究しているのと同じです。ただ黴菌の小さいのを発見すればよいと思って顕微鏡でやっているのですが、何処まで行っても発見されるはずがありません。それは大空の壁と微生物の小さいのと同じ事なのですから、無駄な事を命がけでやっているのですから、勿体無い話です。つまり掌から出す光はレントゲンが通らないという事は、光が細かいからです。レントゲンの方はもっと粗いのです。そうして力というものは細かいほど強いのであり、粗いほど力が無いのです。ですから何馬力と言って、馬力というのは、馬の力ですが、馬というあんなに大きなものの力ですから知れたもので、それがだんだん細かくなるに従って強くなります。ですから掌から出る光は、光としては一番密度が細かく、濃いのです。それでレントゲンの方は粗いからして通す事ができないのです。つまりそういったものは細かいほど高級で上等なのです。だからうまい事を言ってますが、素粒子と言って、「素」というのは粗いという事です。素粒子というのは細胞の小さいものです。それで物性子というのは、物の性質の(もと)になるもので、これは目に見えないものです。これを見ようとして実験科学をこれからやるのですが、これを摑まえる事はできようがないのです。だからどうしてもこれを摑まえるには顕微鏡で見えない世界にはいるよりしようがないので、その世界というのは宗教の世界です。この宗教の世界といっても、今までの宗教というのがごく下の世界なのです。だから今までの宗教は科学よりかもっと粗いのです。科学が素粒子を発見したとすると、今までの宗教は素粒子よりも粗いのです。大素粒子です。何故と言って、各宗教では今病院を造ってますが、という事は、もう科学にお辞儀をしているのです。科学との戦いに負けているのですから、負けた方は粗いのです。つまり宗教の方は素粒子まで行ってなかったのです。結局科学との戦いで、科学が今までのように進歩してないうちは宗教の方が勝ったのです。昔からの古い宗教はとに角多くの人を救えたのです。ところが今は宗教の方が力が無くて科学の方が力があるから、そこで無神論者が増えるのです。それは科学をやれば無神論者になります。科学を勉強した人だと無神論者になりますが、それはそうなるのが当り前です。そこで科学をやっつけられるのは救世教よりないのです。これは素粒子よりずっと細かいのです。レントゲンで通す事はできないのです。それでレントゲンの光線を作るのに大変な苦心をしてます。先日新聞に出てましたが、レントゲンを扱っている技師は、何十年とやっていると、レントゲンのために命までが無くなっているのです。とに角四十年やれば駄目だと言われてます。そういうように命がけで作る光線よりも強いものですが、それをさっき読んだとおり裸で七秒間で書いて、レントゲンより以上のものを作るのですから、こっちの方は、丁度軍備で言えばアメリカと朝鮮よりもっと違います。そこで科学でも哲学でも、丁度今は物性子、目に見えない世界の手前に来ているのですから、どうしてもその先を分らせなければならないのです。それでこの論文ができたら湯川博士に送ってやろうと思ってます。湯川博士という人は割合に信仰心のある人で、結局科学も窮極は神だという事を言っている人ですから、割合に分ると思いますが、そうかと言って、科学者が宗教家に頭を下げるのは、どうも体裁が悪い、体面上工合が悪いですから、簡単に頭を下げるというわけにはゆかないが、これからの窮極に対するヒントを与えるという事になりますから、余計な無駄をしなくて済むわけです。そのヒントを得るという事はどういう事かというと、研究を変えるという事です。しかし研究を変えるという事は、医学は科学では駄目だという事です。他の事は科学で結構なのです。いろんな機械にしろ原子科学とかは何処までも進歩させなければならないのです。ただ人間は他の物質と違うという事が科学ではまだ分らないのです。というのは人間は非常に高級な動物だから、人間の病気を治し、生命を延ばすという事は、人間以上の力を持たなければできないのです。ところが其処らにある物質上の発明、電気や動力というものとは全然段が違います。ところがそういうものと人間の体、人間の病気、生命を同じに見ているところに大変な間違いがあります。その認識さえできれば、科学者は医学の研究をやめて他の研究を一生懸命にやればそれでよいのです。そして救世教の浄霊ですが、浄霊で治すという事も或る期間までです。つまり浄霊とは薬毒をとる方法ですから、薬毒を入れないようになれば浄霊の必要もなくなるから、薬毒を入れないという真理さえ分ればよいのです。と言ったところで、そう簡単に薬毒を抜く事も大変です。あなた方が疥癬などで随分膿を出して、もう毒はないと思っても、それからまだまだウンと毒が出てくるのです。それはどんな人でも、自分であきれるほど毒が出て来るものです。私などもそうで、此処(側腹)に固まりがあって始終浄霊してますが、これが五十年前の肋膜の薬毒です。それから始終頭が痛くなりますが、これが三十七年前の歯の薬毒です。ですからどんな人でも薬毒をとるとしても一生涯でとり切れる人はまずありません。三代目くらいで漸くとれるくらいです。即ち薬が毒である事が分ってから、孫の代になってすっかり無くなるくらいなものです。しかしすっかりとれなくても、働くのに差し支えないくらいに健康になればそれでよいです。私などもそんなに毒がありながら、普通の人より健康で働いているのですから、そう悲観する事もありません。そこでこれを知らせ信じさせるのが大仕事なので、それが救世教の一番の仕事なのです。

 それで今言うレントゲンを通さない素晴らしい光が簡単な文字から出る、その元は一体何かというと、これも意外な所にその元があります。その元は太陽の黒点なのです。太陽の黒点というものが宇宙の中心で、力の根源です。それで太陽は非常な大変な熱い光ですが、この光の元というのは太陽の黒点にあるのです。ですから()のポチは黒点を書いてあるのです。これは黒点と言っても一つではないので沢山あります。望遠鏡で見ると沢山見えますが、この粒々が大変な意味がありますが、それはいずれ発表する事があります。又この粒々が救世教の仕事に非常に関係がありますが、そういう事を言うと、あまり飛躍し過ぎて、フラフラになってしまいますから、分りやすい程度の話をするわけです。そういうようなわけで、黒点というのはあらゆるものの一つの力の根原、精気の根原と言ってもよいです。ですから一切を支配しているのです。それから宇宙の中心と言ったらよいでしょう。それで太陽の熱度というものは大変なものです。ところが滑稽な事は、この頃日本でもそういう会ができるようですが、宇宙何々会と言うのがあって、これの最終の目的は月の世界に行く事だそうですが、月の世界は学者に本当に分らないため、月の世界に行ける、地球と大差ないように思っているらしいのです。だからロケットを作ったり、その中に空気を溜めたりして、そういう研究をやってますが、実に子供がオモチャを作っているようなものです。月の世界というのは氷の固まりですから、その冷たさというものは、太陽の反対ですから、零下何度という簡単なものでは分りません。全然熱がないのですから、若し行けたとしても、行った瞬間、月世界の手前まで行った瞬間凍り付いてしまいます。そういう馬鹿げた事を真面目になって研究しているのですが、丁度今医学者が薬で病気を治そうとして研究しているのと同じ事でテンデお話になりません。だからとに角さっきも読んだように〝未開人と同様だ〟という事は本当に間違ってはいません。有りのままを書いたわけです。そういう事も、そうつき詰めるほどの事もありませんが、大体を知っていれば、場合によって恐ろしい事も、科学の進歩にのぼせている人を相手にした場合にも、本当の根本を知っていると、へこます道具によいと思って話したわけです。これからだんだんに書きますが、そうなると宗教とか科学とか言うのでは限られます。大体宗教というのは宗祖の教えです。人間はよい事をする、悪い事をしてはいかん、親に孝行を尽くすもの、粗末にしてはいけないという、一つの道徳です。しかしただそれではいけないのです。それはやはり神様があって、神様の教えに基づいてのそういうやり方をするのですが、ただ神様と言っても、今までは最高の神様は出なかったのです。二流、三流の神様です。それで科学に負けるような事になったのです。だから釈迦、キリスト、マホメットと言ったところで、私からみればまだまだ子僧くらいにしか思いません。今度の歌に書いてあります。そういう事を言うと、知らない人が聞くと、あんまり大き過ぎるので、誇大妄想狂で頭がおかしいと誤解されますが、信者はただ知っていればよいのです。

(*このお言葉は昭和28年ー1953年。人類の月面着陸は昭和44年ー1969年。)

 話は違いますが、この頃信者の女の人で化粧品をだんだん使わないようになって来ました。ところで化粧品中毒が如何に恐ろしいかという事をちょっと話してみます。今日来ているかもしれませんが、その人は歯がグラグラするのですが、これは歯医者に行けばすっかり抜いて総入歯というところです。この原因は何処にあるかというと、この人は顔に始終熱があるのです。浄霊して熱をとるのですが、なかなかしつこいのです。この熱がとれるに従って歯が締まってくるのです。この熱というのが化粧品中毒です。よく昔から逆上症と言いますが、これは逆上というのですから、血が下から上るように思いますが、そうではないのです。昔は昔でオシロイをつけます。これは鉛毒と言って鉛が元になってます。これが皮膚からしみて行って、皮下の中毒になって、そこに浄化が起って熱が出て、それで顔が熱くなり、逆上せるというのです。これは男にはないので、殆んど女です。これは昔のオシロイ中毒です。今はクリームとかいろんな物ができて、それにいろんな新しい薬を入れるために薬毒が強くなってます。それに舶来の物は大いに薬を使います。よく新聞の広告に、アメリカで流行る化粧品とか言ってますが、薬毒のあるのを知らないから、日本人はアメリカ製ならきっとよいのだろうと有難がって高い金を出して使いたがりますが、ところが今アメリカでは、女の顔が荒れるというので大変な問題になっているそうです。荒れないようにと思いつつますます強い薬を使って逆をやっているわけです。やっぱり肺病の薬と同じ事です。ところが実際において化粧品をやめると、一時は真黒な渋皮みたいな顔になりますが、それを我慢すると、それは非常にきれいな顔になって来ます。本当の肉色になります。それに信者は血がきれいになりますから、余計自然の美が現われるわけです。尤も今の人は顔ばかりでなく、体にも薬を入れるから、そのために顔が汚なくなったり、色が悪くなってます。だから化粧品を使わなければならなくなるのです。そして一番顔色が悪くなるのは漢方薬です。顔の青い、艶気のない、カサカサした人に聞いてみると、必ず漢方薬をのんでます。それから女で真黒な顔の人は漢方薬中毒です。その点においては西洋の薬は顔色にはあんまり影響しません。ただ西洋の薬は顔がカサカサになるのです。だから今の女の人の顔というのは必ずカサカサしてます。滑っこくありません。そこで化粧品を直ぐにやめろとは言いませんが、だんだん少なくして、或る時期に行ったら、大いに勇気を出して全廃することです。そうすると第一、この中毒が抜けると化粧したよりかきれいになります。それからあらゆる事が非常にプラスになります。化粧品代は要らないし、それから時間が節約になります。特に若い人などのこれに対する時間というものは大変なものです。それこそ少しお洒落な人は二時間や三時間は何でもありません。これは一種の執着です。しかし、これもはっきり話さなければ分らないが、花柳界に居た人はそういう事はなく早いです。素人に限って遅いのです。それは花柳界に居た人は営業上お座敷がかってくると直ぐに行かなければならないので手早いのです。ところがそうでないお嬢さんとか、少しお洒落な人になると大変なものです。それから外では、劇場などで便所に行って、少し長いと思っていると、手洗所でこうやっているのです。だからそういう人に芝居などを見せても、最初の幕などはちょっと分らないでしょう。始終中途ばかりを見ている事になります。そういうようで、ただ化粧をやめると顔が汚なくなるという一つの迷信があるために一生懸命にやってますが、そうではないという事を教えるわけです。この中毒がすっかりとれると、前に化粧していた時よりきれいになります。それを知ったら安心して化粧迷信から逃がれるようにする事です。これも一種の救いの一つです。

 

 

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