九月六日

 今書いているのは、何時かも話した「医学革命の書」ですが、この間は「序文」を読んだので、その次に載せるので一番根本的のものが大体出来上りましたから読ませます。

 御論文 医学革命の書〔現代医学論〕

現代医学論

(『医学革命の書』より)

 (この)著を編纂(へんさん)するに当って、私は非常な決心をした。というのは医学なるものの実体を、ありのまま発表するとしたら、何人も驚嘆せずには居れないからである。(これ)程進歩したと思い、世界万民が謳歌(おうか)し、信頼している現代医学に対し、私は真向(まっこう)から鉄槌(てっつい)を下すのであるから、人類救済の為とは言い(なが)ら、(まこと)に忍び難いものがある。(しか)(なが)ら神は万人の生命を救うべく、私をしてその大任に当らせた以上、私と(いえど)も絶対者の命に従わざるを得ないと共に、現在病魔の為に地獄の苦しみに呻吟(しんぎん)しつつある人類社会を見る時、その原因が医学の誤謬(ごびゅう)にある以上、到底(とうてい)晏如(あんじょ)たるを得ないのである。(ゆえ)()し現在のままの(めい)(もう)を続けるとしたら、人類の将来は果して如何(いか)になりゆくや、思うさえ慄然(りつぜん)とするのである。

 そうして(これ)をかくに当っては、先ずその根本から明らかにせねばならないが、それには()ず現代人の科学至上(しじょう)観念である。序論にもある通り科学さえ進歩させれば、何事も解決されるとする科学過信の思想であって、その為事実よりも学理の方を重視し、如何なる発見創造と(いえど)も、既成(きせい)学理に合わない限り拒否して取上げないとする偏見であって、(これ)が文化的と思っているのであるから困ったものであるが、(むし)ろ之こそ文化の反逆でしかない。何となれば文化の進歩とは、定型的学理を打破し得る程の価値あるものが発見されたとしたら、躊躇(ちゅうちょ)なくそれを取上げる、(ここ)に文化の進歩があるのである。(ところ)がそれを頭から否認するという丁髷(ちょんまげ)思想であって、この代表ともいうべきものが現代医学であるから、偏見を通り越して科学にはない(はず)の新しい封建である。という訳で(この)著を読んでも、余りの意想外な説に容易に信ずる事は出来まいと思うが、(しか)し事実が何よりの証拠である。それは今日の如く医学が進歩したに(かか)わらず、至る所病人の氾濫(はんらん)である。ヤレ病院が足りない、ベッドが足りないとの悲鳴は常に聞く(ところ)で、現代人残らずといいたい程何等(なんら)かの病気を()っており、真の健康者は(ほと)んど皆無といってもよかろう。(これ)()にみても分る如く、()し現代医学が真の進歩であるとしたら、病気の種類も病人の数も年々減ってゆき、病院は閉鎖の止むなきに至り、医事関係者の(ことごと)くは失業者とならねばならない(はず)であるにも(かか)わらず事実はその反対であるとしたら、(ここ)に疑問が生ずべきだが、一向そういう気振(けぶり)はみえない(ところ)か、益々迷路を驀進(ばくしん)している有様で、その危うさは到底(とうてい)観ては居れないのである。従って私は(これ)から徹底的に説くと共に、事実の裏付をも添えてある以上、如何なる人でも(ほん)(ぜん)として目覚めない訳にはゆかないであろう。

 そうして現代人の病気を恐れるの(はなは)だしく、一度病に(かか)るや早速医師の診療を受ける。(ところ)(これ)(また)意想外であって、治るようにみえてもそれは(ある)期間だけの事で、根治とはならない。その(ほと)んどは慢性か再発かのどちらかである。(これ)を常に見る医師は気が付きそうなものだが、そうでないのは(これ)も迷信の為である。そこで見込通り治らない場合、仕方なしに他の医師に助勢を頼むか、他の病院へ行けと勧める。勿論入院すれば多くは手術を伴うから臓器は除去され、その病気は起らないとしても、必ず他の病気に転化するのは医師も常に経験する(ところ)であろう。右は最も普通の経過であるが、中には医師に確信がないまま入院や手術を勧めるので言う通りにするが、確信があってさえ治る事は滅多にないのに、確信がないとしたら駄目に決っている。その結果患者の方から金を出して、モルモットと同様研究材料にされる事も屢々(しばしば)あるが、殆んどは泣寝入りである。

 (ところ)が手術も受け、(あら)ゆる医療を続けつつも治らないのみか、益々悪化し、金は(つか)い果し、二進も三進もゆかなくなり、果ては自殺を図る者さえ往々あるのは、よく新聞に出ているが、そこ迄ゆかないまでも病気が原因となって、色々な(いま)わしい問題を惹起(じゃっき)するのは衆知の通りである。今日(あら)ゆる悲劇の原因を調べてみれば、そこに必ず病ありで、昔から犯罪の陰に女ありを、私は悲劇の陰に病ありと言いたい位である。それに引換え我浄霊医術によれば、如何なる重難症でも短期間に、(しか)(わず)かの費用で快癒(かいゆ)するので、(これ)を医療と比べたら雲泥の相違であるのは、全く真理に叶っているからである。(ここ)(おい)て如何なる無神論者と(いえど)も、今迄の不明を覚り早速入信、文字通りの安心立命を得るのである。

 次に知らねばならない事は、一体人間なるものは何が為に生まれ、誰が造ったかという事である。(これ)こそ昔から誰もが最も知りたいと思っている問題であろう。勿論(もちろん)人間なるものは科学者が作ったものでもなく、造物主即ち神が造ったものに違いないのは、極端な唯物主義者でない限り、否定する者はあるまい。というのは人間は神の(おん)目的たる理想世界を造るべく生まれたものであるから、生きている限り健康で活動出来るのが本来である。(しか)るに何ぞや、病気に(かか)るという事は異変であって、其処(そこ)に何等か真理に外れている点があるからで、(この)点に気付き是正(ぜせい)すれば治るのが当然である。(ところ)(これ)に盲目なるが為、全然無関係である科学に持ってゆくので、治らないのが必然であって、肝腎な造り主を忘れているからである。

 そうして今日迄(こんにちまで)の病理は、大体左の如くである。即ち漢方医学に(おい)ては、五臓の疲れ(また)は不調和の為であるとし、西洋医学に(おい)ては黴菌(ばいきん)感染によるとしている。(この)どちらも(まこと)浅薄(せんぱく)極まるものであって、(いささ)かも根本に触れていない迷論である。(しか)も後者は機械的ではあるが、科学的ではないといったら何人も驚くであろうが、それは事実が語っている。今日医師は患者から()かれた場合、病理も病原も見込も、科学的に説明が出来ないのは医師も認めているであろう。つまり病気の真因が分っていないからである。そうして医学に()ける誤謬(ごびゅう)の根本は、何といっても病気苦痛の解釈である。即ち医学は苦痛そのものを以て人体を毀損(きそん)し、健康を破り、生命を脅すものとしており、苦痛さえ()れば病は治るものと解している。(この)考え方こそ大変な誤謬(ごびゅう)であって、今それを詳しくかいてみよう。

 抑々(そもそも)病の真の原因とは、体内にあってはならない毒素が溜り固結し、それが或程度を越ゆるや、生理的に自然排除作用が起る。(これ)を吾々の方では浄化作用というが、浄化作用には苦痛が伴うので、(この)苦痛を称して病気というのである。故に病気とは体内清浄作用の過程であるから、之によって人体は浄血され、健康は維持されるのであるから、病こそ実は唯一の健康作用で、大いに歓迎すべきもので、(これ)が真理である以上、(この)著を読めば必ず納得される(はず)である。(ところ)が何時の頃どう間違えたものか、(これ)を逆に解釈して出来たのが医学であるから、(この)逆理医学が如何に進歩したとて有害無益以外の何物でもないのである。

 右の如く医学は病気即苦痛と思う結果、苦痛解消には浄化停止より外にないので、(この)考え方によって進歩発達したのが現在の医療である。そうして浄化作用なるものは、人間が健康であればある程起るのが原則であるから、(これ)を停止するには健康を弱める事である。そこで弱らす手段として考え出したのが毒を()ませる事で、それが薬であるから、薬とは勿論(もちろん)(ことごと)く毒である。即ち毒を以て浄化を停止し溶けかかった毒素を元通り固めるので、固まっただけは苦痛が減るからそれを治ると錯覚したのであるから、世に(これ)程の無智はあるまい。従って医療とは単なる苦痛緩和法であって、決して治すものではなく(むし)ろ治さない方法である。故に医師も治るとは言わない、固めるというにみても明らかである。

 右の理によって病を本当に治すとしたら、溶けかかった毒素をより溶けるようにし、排除を(すみや)かならしめ、無毒にする事であって、(これ)が真の医術である。(これ)なら再発の(うれ)いも()(びょう)の心配もなくなり、真の健康体となるのである。(ところ)が一層厄介な事は、右の如く毒素排除を止める為の薬が毒素化し、(これ)が病原となるので、つまり病を追加する訳である。(この)証拠として医療を受け(なが)ら、余病といって病が増えるのが何よりの証拠である。本来なら治療をすればする程病気の数は減る(はず)ではないか。それがアベコベとしたら、(これ)程理屈に合わない話はあるまい。知らぬ事とは言い(なが)ら、医学は如何に(めい)(もう)であるかが分るであろう。

 以上の如き逆理によって、毒の強い程薬は効く訳で、()むと中毒する(ぐらい)の薬なら一層効くから、近来の如く注射流行となったのである。又近来続出の新薬も同様、中毒を起さない程度に毒を強めたもので、彼の有名な漢方医(蘭方医?)の泰斗(たいと)杉田(すぎた)玄白(げんぱく)先生は「病に薬を用いるのは、毒を以て毒を制するのだ」と()ったのは(けだ)し至言である。従って熱、咳嗽(せき)()(たん)、鼻汁、汗、下痢、熱尿、各種の出血等、(ことごと)くは排毒作用であり腫物(はれもの)、湿疹、(きず)火傷(やけど)後の化膿等も同様であるから実に結構なものである。故に何病でも何等手当もせず、放っておくだけで順調に浄化作用が行われ、速かに(しか)も確実に治るのである。

 これらのことは信者の人は大抵分っている事ですが、根本は一般の人に読ませるのですから、こういうふうにすっかり書かなくては分らないので、こういうように書いたわけです。

 それから注意しなければならない事ですが、名前は言いませんが、中教会が地方にあって、東京に出張所がある所で、その出張所で熱心に働いている信者の一人が、最近信者としてはちょっとあり得べからざる事をしようとしたのです。それは神様から止められて事無きを得たのですが、そういう事はあり得べき事ではないのです。そこで呼んでよく調べてみたところが、其処は出張所になっていて支部長がいないのです。つまり支部であって支部長が居ないという事が大変な間違いなのです。支部はよいのですが、しかし支部長はちゃんと居なければいけないのです。というのは支部長が居ないと、其処に属している信者に何かあった場合には、出張する先生を待たなければならない。ところがそれが地方なのですから、そうすると支部はガラン堂と同じです。ガラン堂では支部としての機能を発揮する事はできませんから、それは嘘なのです。そこで私は、〝その支部を止せ、それで支部長になるべき人ができたら又開けばよい〟と言ってやりました。そういう嘘をやっていたから、そこであり得べからざる間違いが起こりかけたのです。そういうようなわけで、これもやっぱり理窟に合わない事です。だからやはり、支部なら支部とすれば、その機能を発揮する事ができるような組織ができていなければならないのです。それを全然そういうような出鱈目でいるという事は許されないのです。よく医者などでは出張所という事がありますが、それと同じように思ったのでしょうが、神様の方はそれと同じようでは全然いけないのです。そういうようで、何か問題があるとか何かある場合に、それを調べてみると必ず間違ったところがあるのです。それを神様が教え注意されるのです。この間もあった事ですが、私の写真を支部長と信者と両方でいただいて帰ったのですが、いただいた写真が同じものだと思って、両方で間違えて持って帰ったのです。そうすると信者の方の写真に(しわ)みたいな物ができてしまって、とても掛けておけないような見苦しさでそれがはっきり分るのです。それでどういう訳かという質問があったので、とに角こっちに持って来て見せろと言って調べたのです。それは同じ写真だからよいと思って交換したのでしょうが、それはいけないのです。それで神様がそれを知らせるためにそういう皺ができてしまったわけです。そうしてそれでお知らせになったわけです。そういうようで、いただいたものを、同じものだからと言って替えるとい事は大変間違った事です。それをいただいたという事は、その瞬間にその人の護り神なのですから、人が違えば全然意味が無くなり、結局無駄になるわけです。それも、チャンといただいた以上は自分の将来を御守護して下さると思えば、そういう事はできないわけです。つまりそこに心に隙があるか、或いは軽く見ているわけです。それでウッカリそういう事をしてしまうのです。ですからこの間も言ったとおり、チャンと理窟があるのですから、ちょっとでも理窟に外れた事はいけないのです。ですから信者さんのいろいろな事を見ていると、つまらない、どうでもよい事に非常に重きをおいて、ちょっとした事が御無礼になったのではないかと心配して質問して来る事があります。それで非常に重要な事を割合に軽く見ているのです。その区別を割合に知らないのです。ですから重要な事とそうでない事との差別をよく知らせなければならないのです。今の私の写真というのは一番重要なのです。「光明如来」と御掛軸を書きますが、あれは私が書くのですから、光明如来様よりか私が上なのです。ところが人によると光明如来様の方を上にして、写真の方を下にするのがありますが、これは大変な間違いです。ですからそういうように理窟を考えると直ぐ分るのです。ところが昔からのいろいろな宗教はそれがなかったからなのです。しかし昔でも、仏体とかそういう場合には管長なり教祖が魂を入れるという事になってますが、やはりそういったのは、形とか彫物とか絵というものは坊さんにはできないので、魂だけは開祖なら開祖が入れる事になってますが、やはりそれと同じようで、私が書くという事は、それが最高のものとして見なければいけないのです。ですからそういうような理窟に合わなければいけないという事をよく心得ておかなければいけません。

 それから今日の十一時半から放送があるのですが、これは放送局が最初言った事と大変違うのです。こういう事なら私は録音はとらなくてもよかったと思うのです。最初の話では、私と、立正交成(佼成?)会の会長の庭野日敬、PL教団の三木徳近という事を言うので、私も喋ったのですが、今日発表したところによると、庭野という人だけで、あとは全然名も知れないような人です。修養団捧誠会総裁出居清太郎、日之教教主管者佐久間俊一というのですから、全然知らない人です。ですからどうも甚だ感心しませんが、今となってはどうにもならないから、やむを得ません。そういうようですが、十一時半になりますから、ちょっと聞いてみようと思います。ラジオをかけさせます。

 (NHK第一放送ダジオ・アンケート)

 やっぱり救世教を主にするつもりだったわけです。ですから他のは、つき合わせです。時間を見たら、やっぱり私のを倍以上長くしてました。先方の考えでは救世教だけにするつもりだったが、そうすると宗教宣伝になるので、それではいけないため、他のを混ぜれば新宗敎としてとか、今のように「世直し」というような意味になりますから、今のようにやったわけです。他のは決まりきった事を言ってます。私はもっと言いたかったが、これは喋り難い事なのです。というのは、どうしても自分の宗教が一番だ、他のは駄目だと。思いきって話せば話せますが、それではどうも工合が悪いのでそういうように言わないで、人に悪い感じを与えないようにするためにああいうようにヨドミヨドミ話したのです。それで自分が病気を治す力を神様から与えられたという事もあんまり言わないようにするので実に話し難いのです。それから他の話もしましたが、美術館の事や農業の事はスラスラ話したので聞き易いのですが、一番苦手と言うか、言い難い事を話すので困りました。そうかと言って或る程度は医学の間違っている事や、こっちでは病気の治る事も言いたいが、それもあんまり言う事ができないわけで、随分厄介な問題でした。それも世の中が変って来て、救世教が社会から認識されれば、それは思いきって言えるが、今のところは実にどうも変な工合です。ですから又ああいった変な話し方になったわけです。でも幾らかは病気に対する世の中の見方と違うところが出てましたから、幾らか役に立つでしょう。

 それから病気に対して少しお話ししますが、今はどんな人でも、とに角一番の病気の原因は頭で、それから頸から肩の凝りです。ですからどんな人でも頭が痛いとか、或いは食欲がないとか、体がだるいとか、いろんな事は殆んど微熱です。いわゆる神経衰弱というのがそれです。それは今言ったとおり、頸の廻りとか肩とかの凝りです。それについて書いてみました。

 御論文〔医学封建〕     【註 栄光二二七号】

医学封建

『医学革命の書』より

 医学封建といったら全然耳新しい言葉なのでちょっと見当はつくまいが、これを読んだらなるほどと思わない人はあるまい。それというのも今日知らるるごとく、実に病気の種類は固より病人の数も多い事である。そうして病気の場合十中八、九は持病または重難症であって、根治する者のほとんどないのは、医師もよく知っているであろう。そうして常に患者に対してはより速かによりよく治そうとし、最新の療法をもって出来る限りの努力を払うにかかわらず、思うように治らない。最初診察の際何週間、何カ月なら治ると予定し、患者にもそれを聞かせるが恐らく見込通りに治った例しはほとんどあるまい。それというのもこの薬なら、この方法なら学理上では治るようになっているので、その通り実行するが中々治らないのは、患者も医師も常に経験しているはずである。

 そのような訳で一時的には確かに学理通りに治ったように見えるが、それが長くは続かない。時日の長短こそあれ必ず再発するかさもなくば他の病気に転化する。これも医師なら数知れず経験しているので分っているであろう。従ってこの事実に対しては医師も常に疑惑を抱き、不思議に思っているのは想像に難からない。それこそ全く医師が信じている程に医学は進歩していないからであって、進歩していると思うのは、錯覚以外の何物でもないのである。そのため絶えず学理と実際との矛盾の板挟みになっており、それを知らない世の中からは尊敬され、確固たる社会的地位を占めているのであるが、胸中の煩悶苦悩は並大抵ではあるまい。しかしいつかは医学の進歩によって、解決の日も来ると思う一種の自慰観念によって、淡い希望を繋いでいるに過ぎないと私は思っている。従ってこの説を読み、今までの疑惑のべールが剥ぎ除られるとしたら、ここに白日のごとき真理の光に誤謬が浮かび出され、愕然として目覚むるのはもちろんである。ところがこの迷盲こそ文明の進歩に対する一大障礙(しょうげ)となっているため、これ程科学が進歩しても人類の幸福は増進しないにかかわらず気がつかないのである。これがためこの私の説に対しても全然検討もせず、宗教家の説なるがゆえに非科学的であり、日進月歩の今日進歩した科学の理論を裏切るものと決め、採り上げようとはしないのである。つまり科学迷信の黒眼鏡をかけているから、正確には見えないはずである。

 ではその黒眼鏡とは何かというと、医学者の根本的考え方が最初から人間の生命を、他の物と同一レベルにおいており、病気も科学によって解決出来るものと信じている事である。ところが私は神示によって知った事は、なるほど人間以外の他のことごとくはそれに違いないが、独り人間のみは根本的に異っていて、これだけは科学の分野ではないからである。例えば人間の趣味嗜好、喜怒哀楽、恋愛等は固より、智性、芸術、神秘性、人類愛等高度の思想など、他の動物には全然ない事で、これだけにみても他の動物との異いさが分るであろう。というように科学は人間の特殊性を無視し、動物並に扱っている事が大いなる欠陥である。しかもそれが医学の根本理念となっている以上、科学の枠の中に立籠り、他の世界が見えなかったのである。これを別の面から見ても、仮に人間のレベルが地平線とすれば、それ以下が物象であり、以上が人間であって、これが宇宙の法則である。この理によって地平線以下のことごとくは人間の自由になるが、以上はその反対である。ゆえに人間が造った科学をもって人間生命を自由にする事の不可能なのは当然であって、何よりも無病である事も長命も意のごとくならないに見て明らかである。とすれば人間が人間の病気を治そうとするのは下剋上で逆であり、神位の侵犯である。この理によって人間の生命のみは世界中の学者がいかに努力しても、徒労以外の何物でもないのである。それに気付かず、見当違いの横道をひた走りに走っているのが現在の医学であるから、その無智なる実に哀れむべきである。私は思う、今日の医学者こそ科学の亡者であり、邪教迷信者と同様の心理である。また彼の封建時代武士道をもって最高道徳とし、主君のためなら殺人行為も敢えて差支えないばかりか、団体的大量殺人者程賞讃され、栄誉を得たのであるから、今日から見れば野蛮というより外はない。つまり公然罪悪が奨励されたのである。この事を医学に当嵌めればなおよく分る。

 以上によって科学をもって最高の治病方法としていた事は、狭い封建の殻から脱け切れない盲目であった。ところが実は未知の素晴しい世界があり、そこに真の医術があって完全に病を治し得る事を私は知ったので、この一大福音を普く世界万民に知らせるべくその前提としてこの説を全世界の医学者に向かって発表するのである。

 

 

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