昨日のラジオを聞いたでしょうが、あれは何時かの鹿児島の問題で、こっちからウンとかけ合ったところが、放送は取り消す事はできないので、詫びる意味で何んとかしましょうという事になっていて、それが昨日の放送になったのです。本当は救世教だけでよいのですが、これは又妙なもので、救世教だけとすると一つの宗教宣伝になるわけです。一つだけの宗教の宣伝になるとそれがいけないので、他の宗教を入れれば一般的の意味になりますから、新宗教とか或いは昨日の題のように〝世直し〟というような意味で理窟はつくわけなので、ああしたわけです。だからこっちの方は丁度九分で、他のは三つで五分半くらいでした。しまいのは時間がなくなったので、話をしている中途で、気の毒ですが中止するようなわけだったのです。とに角こっちに対しては非常にプラスになったわけです。これは、甚だ下等な言い方ですが、やっと胸がすいたと言うか、とに角よかったです。本教に対しとに角世間は余程見方が変って来たという事は確かです。ですからこの頃は、新聞や雑誌に時々出ますが、以前のような愚弄したような事や、悪い感じを抱くような事は殆んどなくなって来ました。どっちかと言うと幾らか言い方や見方がよくなって来たという事は確かです。今度「婦人生活」の十月号に、七頁というのですから相当長く出るのでしょうが、これも割合によく書くらしいです。それもこれも、美術館などが非常にいい影響を与えていると思うのです。私の考えとしては、一般新宗教と同じに見られないように早くなりたいと思います。救世教というのは新宗教なみに見る事はできない、むしろ既成宗教でもとても敵わないというように見られるようになると、こっちがやりよくなるばかりでなく、私の予定のとおりになるわけです。それには結局ハワイとアメリカの発展が一番効果があると思います。これだけは他の宗教では全然手が出ないのです。それも神様がいい塩梅にする事は間違いありませんが、話をしてみればそういうようです。昨日のラジオでも医学に対する事を一番言ってありましたから、相当の成果はあったと思います。しかし医学に関する事、他の宗教に関する事は、実に話し難いのです。あんまりコキ下すような事を言っては、やっぱり悪感情を持ちますし、又世の中の一般の人でも医学というものを絶対に信じてますから、そういう点も考えてやらないと逆効果になるといけませんから、非常に話し難いのです。ですから外の美術館とか農業の事の話はスラスラとゆきましたが、医学や既成宗教の事の話をしてくれと言うのですが、その点は、非常に話し難いので、録音をとる時も非常に渋滞しました。それもやむを得ません。それで何んとしても医学について分らせなければしようがないと思って、いずれ「医学革命の書」の本が出ますが、これが相当問題になるだろうと思ってます。医学に対してできるだけ各面から見て批判しようと思って今書いてますが、これはその中の一つですが読ませます。
御論文〔医学封建〕 【註 栄光二二七号】
医学封建
『医学革命の書』より
医学封建といったら全然耳新しい言葉なのでちょっと見当はつくまいが、これを読んだらなるほどと思わない人はあるまい。それというのも今日知らるるごとく、実に病気の種類は固より病人の数も多い事である。そうして病気の場合十中八、九は持病または重難症であって、根治する者のほとんどないのは、医師もよく知っているであろう。そうして常に患者に対してはより速かによりよく治そうとし、最新の療法をもって出来る限りの努力を払うにかかわらず、思うように治らない。最初診察の際何週間、何カ月なら治ると予定し、患者にもそれを聞かせるが恐らく見込通りに治った例しはほとんどあるまい。それというのもこの薬なら、この方法なら学理上では治るようになっているので、その通り実行するが中々治らないのは、患者も医師も常に経験しているはずである。
そのような訳で一時的には確かに学理通りに治ったように見えるが、それが長くは続かない。時日の長短こそあれ必ず再発するかさもなくば他の病気に転化する。これも医師なら数知れず経験しているので分っているであろう。従ってこの事実に対しては医師も常に疑惑を抱き、不思議に思っているのは想像に難からない。それこそ全く医師が信じている程に医学は進歩していないからであって、進歩していると思うのは、錯覚以外の何物でもないのである。そのため絶えず学理と実際との矛盾の板挟みになっており、それを知らない世の中からは尊敬され、確固たる社会的地位を占めているのであるが、胸中の煩悶苦悩は並大抵ではあるまい。しかしいつかは医学の進歩によって、解決の日も来ると思う一種の自慰観念によって、淡い希望を繋いでいるに過ぎないと私は思っている。従ってこの説を読み、今までの疑惑のべールが剥ぎ除られるとしたら、ここに白日のごとき真理の光に誤謬が浮かび出され、愕然として目覚むるのはもちろんである。ところがこの迷盲こそ文明の進歩に対する一大障礙となっているため、これ程科学が進歩しても人類の幸福は増進しないにかかわらず気がつかないのである。これがためこの私の説に対しても全然検討もせず、宗教家の説なるがゆえに非科学的であり、日進月歩の今日進歩した科学の理論を裏切るものと決め、採り上げようとはしないのである。つまり科学迷信の黒眼鏡をかけているから、正確には見えないはずである。
ではその黒眼鏡とは何かというと、医学者の根本的考え方が最初から人間の生命を、他の物と同一レベルにおいており、病気も科学によって解決出来るものと信じている事である。ところが私は神示によって知った事は、なるほど人間以外の他のことごとくはそれに違いないが、独り人間のみは根本的に異っていて、これだけは科学の分野ではないからである。例えば人間の趣味嗜好、喜怒哀楽、恋愛等は固より、智性、芸術、神秘性、人類愛等高度の思想など、他の動物には全然ない事で、これだけにみても他の動物との異いさが分るであろう。というように科学は人間の特殊性を無視し、動物並に扱っている事が大いなる欠陥である。しかもそれが医学の根本理念となっている以上、科学の枠の中に立籠り、他の世界が見えなかったのである。これを別の面から見ても、仮に人間のレベルが地平線とすれば、それ以下が物象であり、以上が人間であって、これが宇宙の法則である。この理によって地平線以下のことごとくは人間の自由になるが、以上はその反対である。ゆえに人間が造った科学をもって人間生命を自由にする事の不可能なのは当然であって、何よりも無病である事も長命も意のごとくならないに見て明らかである。とすれば人間が人間の病気を治そうとするのは下剋上で逆であり、神位の侵犯である。この理によって人間の生命のみは世界中の学者がいかに努力しても、徒労以外の何物でもないのである。それに気付かず、見当違いの横道をひた走りに走っているのが現在の医学であるから、その無智なる実に哀れむべきである。私は思う、今日の医学者こそ科学の亡者であり、邪教迷信者と同様の心理である。また彼の封建時代武士道をもって最高道徳とし、主君のためなら殺人行為も敢えて差支えないばかりか、団体的大量殺人者程賞讃され、栄誉を得たのであるから、今日から見れば野蛮というより外はない。つまり公然罪悪が奨励されたのである。この事を医学に当嵌めればなおよく分る。
以上によって科学をもって最高の治病方法としていた事は、狭い封建の殻から脱け切れない盲目であった。ところが実は未知の素晴しい世界があり、そこに真の医術があって完全に病を治し得る事を私は知ったので、この一大福音を普く世界万民に知らせるべくその前提としてこの説を全世界の医学者に向かって発表するのである。
これほど進歩した医学が封建というのは随分おかしな話です。それで封建時代には人を殺すのは何んとも思わないで、そのために主君のためとか何んとか言って殺された人間はどのくらいあるか分りません。これは内容は医学とは違いますが、しかし結果から言うと医学の方はもっと大量の殺人をしているのですから、これは大変な恐ろしい問題です。戦争が人を殺すと言っても、医学から比べたら鼻クソみたいなものです。そういうように世界の人類の大量殺人をドンドンやっているのです。それでこれを進歩したと言い、これを進歩させなければならないと言って一生懸命にやっているのですから、無智と言ってよいか野蛮と言うか分りません。尤も野蛮人のやり方とは違うのですから野蛮とは言えないでしょう。しかしそれは文化的にはなってますが、野蛮よりもっと酷いもので、何んと言ってよいか分りません。野蛮というのは虐殺ですが、これは非常に柔らかく、理智的に、形よく、結果において殺してしまうのです。ここまで知らせなければならないが、いきなりこういう事を言っては喫驚(吃驚?)して、どういう態度に出るか分らないですから、ここだけの話ですが、だんだん分らしてゆくつもりです。それで結局アメリカあたりでアメリカ人の信者が沢山できて、そうして救世教の勢力というものが認められてゆくようになれば、それからだんだんとこっちは本音を説いてゆこうと思います。それこそ原子爆弾どころの騒ぎでなく、世界中の問題になるのです。それは無論神様の方はよい工合にやりますからよいのです。私はあの人は幾つで死んだという事を聞くと直ぐに、又医者に殺されたなと思うのです。ところがそれがもっと困る事には、普通はいろんな人殺しをするのは、殺そうという意識でやるのですから、かえって罪は軽いのです。ところがこの方は助けようとしてやるのですから厄介です。要するに善意の殺人です。殺人に善意というのはないのですから、善意の殺人というのは変ですが、はっきり言えばそうです。しかしそうもはっきり言えないので、この頃は善意の罪悪と言いますが、そういうわけですから、実にこれほど大きな問題はありません。
それから昨夜ちょっと感じたので書いてみた事があります。
御論文〔本教発展の主因〕 【註 栄光二二八号】
本教発展の主因
(栄光二二八号)
我救世教が宗教法人として、表面的活動に発足したのが、昭和二十二年八月であった。何しろそれまでは官憲の圧迫が甚だしい為、知っての通り日本浄化療法の名によって、民間療法を営業としてやっていたのである。といっても信仰が伴なわないと病気の治りも悪いので人によっては私の描いた観音様を拝ませていた。これなら昔からある信仰だから差障りがないという訳で、それ程当局は新宗教を嫌ったものである。処が幸いなる哉世は民主主義となり、信教の自由も許されたので、玆に天下晴れて宗教団体として活動が出来るようになったのである。そのような訳で、当時としては信者といってもいい位な人は、先ず二、三百人位であったであろう。
それが知っての通り、今年の八月で満六年になるが、驚く勿れ現在信者は数十万に及び、教師の数三、二四二人、大教会四、中教会八八、支部五二四というように発展し、しかも日に月に教勢益々拡大しつつあり、その上今年春から布哇、夏からアメリカというように拡がると共に、布哇の信者数僅か半カ年にして千人を突破するという盛況で、最近相当立派な本部としての土地家屋(五万弗)を買入れると共に、土着の人々の中で熱心な人が支部長となり支部の数も数カ所に及んで、尚続々各地に出来つつあるという現状である。又アメリカの方も八月羅府に支部が出来るや、日に日に教修者の数も増えつつあるという報告も先日来た位で、将来は予想もつかない程の発展の兆も見えるとの事が書き添えてあった。
次に箱根の地上天国も完成し、昨年出来上った美術館は益々充実すると共に、漸く天下に知れ渡り、今夏の如きは昨年の数倍の観覧者があった程である。特に外人間にも知れ渡り、毎日数人はかかさず見えるので、この分でゆけば何れは日本の名物となる日も余り遠くはないと思えるのである。又強羅の中央箱根第一の位置を占めている土地約一万坪を数年前手に入れてあったが、此処へ将来総本部を造るべく計画中である。
次に目下造営中の熱海の地上天国並びに救世会館、景観亭、美術館等の建設も着着進捗しつつあり、京都嵯峨の地上天国も土地だけは手に入ったので、何れは建造の運びとなる予定である。右の如き数々の素晴しい発展振りをみても、到底人間業とは思えない。私自身でさえ予想以上の大規模に進展しつつあり、その速度に於ても只々驚くの外はないので、恐らく世界の宗教史上にも例はないであろう。ではこの原因は何処にあるかというと、これこそ本教独特の浄霊医術と、そうして奇蹟の多い事である。重難病で医師から見放され、死を覚悟した者が忽ち快癒に向い、健康となり生命までも恵まれたのであるから、その感謝感激は並大抵ではない。どうしてもそれに酬いざるを得ないので、先ず金銭を献げる事になる。しかも本教の方針として搾取は禁じてある以上、自発的献金である。それらの人が非常に多数に上る事とて、その額も相当になり、以上の如き諸般の建造物が次々出来るのである。
これによってみても本教の御利益が如何に驚くべきものであるかが想像出来るであろう。然も悉く奇蹟であるから、本教位奇蹟の多い宗教は、未だ嘗てないとさえ曰われている。つまり大きな御利益、奇蹟、発展というように進展するのである。処が右は日本だけの事であるが、何れは米国始め他の国々へも教線は拡がる事になろうから、その発展の勢は到底想像もつかないであろう。玆に到って予期の如く世界的大宗教となり、全人類救われる日も左程遠くはないと思うので、それらを考える時血湧き肉躍るの感なくんば非ずである。
昨日もアルゼンチンから手紙が来ましたが、これは今年の六月にあっちからの手紙で、是非救われたいと言うので、御守を送ったり御神書を送ったりしましたが、昨日の手紙では、その人も大分熱心に働き出したのですが、遠からずアルゼンチンにも始まるだろうと思います。これは手紙でやるのが一番よいのです。一々遠くに行くのは大変ですから、手紙だけであっちに信者ができると、いずれは誰かが行く事になりますが、そういった準備をしておけば、あとが楽です。神様のやる事はなかなか気がきいていると思います。とに角神様というのは気がきいているものです。しかし古い昔の神様は気がききません。人間を苦しめたりいろいろしますが、救世教の神様はとに角力があるわけですから、何んでも自由自在です。この間も歌でよみましたが「泣くが如く訴ふが如き祈りこそ小乗宗教のしるしなりける」というのです。キリスト教なども〝泣くが如く訴ふが如き祈り〟というのは沢山あります。路傍で牧師などが説教しているのも、実に哀れむべき声を出してやってますが、あれは神様に力がないから、自力が加わるため、自力を主にするからです。そういうようにして救われるというのは、やっぱり一つの地獄的のものです。ニコニコして笑って救われてゆくのでなければ本当の天国的宗教ではありません。私は前にキリスト教の婚礼に招れた事がありますが、婚礼とお通夜と同じです。最もお弔いの時には、この頃はあんまりないが、昔はお菓子をくれます。キリスト教の婚礼式にはお菓子をくれます。それからこれはキリスト教の一派ですが、笑いは罪悪としてあります。ですから前に私が冠句をやっている時にクリスチャンの人が来て、キリスト教では笑いを罪悪としているのに、此処は笑いを奨励している、全然違うと言ってました。そういうわけで、よくも違っているのです。ですからそういった宗教が世界的に大いにやっている時は、やっぱり世界は地獄的になるのも、丁度合っているわけです。尤もそれでも悪い奴に苦しんだりしているよりも、宗教的に苦しんでいる方がずっとよいです。しかし神様の方から御覧になれば、やっぱり人間が喜んで歓喜に溢れている世の中にしなければならないのです。ですから救世教のようなのは今までに全然ないのですから、いろいろ誤解されたり、間違った眼で見られたりするわけです。昨日のラジオでも、他の宗教は戒律を守らなければならないとか、道徳上から言うと、こうとか、いろいろ言ってましたが、今まではみんなそういう説き方だったからそれでよいのですが、戒律というものはやっぱり一つの自力です。丁度分り易く言うと、誰も人の見てない所に金が落ちている、そうするとこれは拾いたい、欲しいと思うが、これを拾っては罪をつくる。だから我慢して押さえるのですが、それは戒律です。ところが本当言うと、落ちていても、これは自分のものではないから拾わないに決まっているのだから、それを何んとも思わないで拾わないで行くというのが本当です。戒律があるから、したい事もしないという事は本当ではないのです。だから我慢しなくてもよいのです。自然にやらない事に決まっているのですから、何んとも思わないで通り過ぎて行くというのが救世教のやり方です。ですから戒律がないのではなくて、戒律は要らないのです。ところがつまり、酒が飲みたい、飲みたいけれども、これは神様に悪いと言って一生懸命に我慢するが、それでは本当ではありません。だから酒は飲みたくない、飲もうとも思わないというのが本当です。私は酒を飲むなという事は言った事はありません。酒が好きな人には飲みなさいと言うのです。それでも飲みたくなくなるのですから、それが本当です。ですから自分から自然に悪い事をしない、ずるい事をしない、酒が飲めなくなる、というようにできる宗教が今までになかったのです。そこで、なかったという事は神様に力がないからして、そういう人間にする事ができなかったわけです。そこで一生懸命に外部的に押さえつけるというように、総て外部的のそういったやり方だったのです。これも今までの文明は全部そうです。だから医学でもそうです。苦しみが出るからその苦しみを押さえつける、熱が出るから氷で冷すというのと同じです。宗教もそうなっていたのです。外部的に押さえ、そうしてよい行いをさせるようにするというのです。ですから本当のものではないのです。大体ずるい事をするのでも悪い事をするのでも、あれは一つの趣味です。とても面白くてしようがないのだそうです。巾着切でも、ああしてちょっと人のものをかすめて盗るという事が、実に何んとも言えない面白さがあるのです。ですから真面目に稼げば一万円稼げるものを、ああやればもっと少ないのです。何時か泥坊が、平均してみると普通の労賃よりも少ないというのですから合いません。それでその間に懲役に行ったり、いろいろの事を計算に考えると、一日幾らにもつかないというのです。それでは止めたらよいだろうというが、止められないというのは趣味があるのです。趣味というのはつまり副守護神です。副守護神の方が支配して勝っているからです。ところが趣味が無くなるという事は、副守護神がいじけてしまって、人間を支配するのではなくて支配されてしまう方になる。そこで趣味がなくなるのです。又よく嘘をつきますが、嘘をつくというのは偽るのですから、一つのずるさですが、これも趣味です。それでどうも嘘が止められないという人が沢山あります。それで何時か聞いた事がありますが、君は嘘をつくが一体何が面白いかと言うと嘘を言うと相手が驚いたり、耳を傾けたりするのが面白いというのです。嘘と言ってもいろいろありますが、一番始末が悪いのは人を喜ばせる嘘です。「今度こういう信者ができて、この人が信者になったら、一度の信者ができる。こういう勢力があって、こんなに金がある。こんなに仲間を集める」というのです。それで私を喜ばせようというのです。その時分には私も、それは大したものだなと言って喜ぶのです。そうすると何時かしら煙になってしまうのです。そういう事が幾度もありました。それは喜ばせる嘘です。これは喜ばせる代りに、嘘という事が分ると、こっちは余計ガッカリします。更に又喫(吃?)驚させる嘘があります。「今度はこういう方面で救世教をやっつけようとしている、こういう計画をしているというから、余程気をつけなければならない。然し私にはこういう手があるから、この方から手を廻せば押さえられない事はないが、とに角お気をつけになった方がよいです」というような事を言うのです。ですからこっちは言葉どおりにウッカリ信ずる事があるのです。それで私がそれに耳を傾けると、それに興味を持っているのです。それも一つの大きな罪悪です。それらは何かと言うと、つまり副守護神が面白いのです。新聞などにいろんな事が出てますが、みんなそれです。ですから詐欺師とか、いろんなインチキでウンと金を集めたりして面白おかしく遊ぶ奴がよく出てますが、みんなそれです。ところがそれは副守護神がのさばっているからなのです。それをキューッとやってしまえば、そういう事がつまらなくなり馬鹿々々しくなります。そうすると頭がはっきりして来るから、そういう事をしていてはつまらないという事になって、それよりか人の信用を得てよい地位になった方がよいという、算盤という事がはっきりして来ます。ですからそういう人間に限って算盤をとらないのです。ですから私は何時か〝算盤をとれ〟という論文を書きましたが、算盤を正確にとれる人は、やっぱり曇りが少ないわけです。
それからこの間あった事ですが、地方にある或る中教会が東京に出張所を作っていたのです。その出張所によく働く熱心な信者があったのです。それが事情は言えませんが、ちょっと信者として考えられないほどの事があったのです。あったと言うよりか、ありそうだったのですが、それは御守護でうまく何事もなく済んだのです。これはおかしいと思って中教会長とその人間を呼んで聞いてみたのですが、其処は支部であって支部長が居ないのです。ただの出張所になっていたのです。それがいけなかったのです。右につき心得ておかなければならない事は、かりにも支部と名のついたものは、必ず支部長がなければならないのです。出張所だけというのはいけません。お医者さんなどには出張所という事があって、何時から何時までは院長が出張するという事になってますが、宗教ではそういう事はいけません。どんな時に病気が起こるか分りませんから、支部長が居れば直ぐに呼ぶ事ができますが、居ないとその支部としての機能を発揮してゆく事ができないから、それを神様が教えるためにそういう事があったのです。ですからちょっと気がつかないような事でも、案外大きな事があるからして、何時かも言ったとおり、理窟に合わなければいけないという事で、つまりその理窟を考えるのです。考えれば分るのです。若し分らないとすれば智慧正覚が鈍っているからです。鈍っているという事は霊に曇りがあるのです。だからできるだけ曇りを取らなければいけないのです。それにはできるだけ御神書を読むのです。そうするとそれだけ曇りが取れて智慧正覚が発達しますから、よく気がついたり、理窟が分りよくなります。それで理窟どおりにゆけば総てが順調にゆくのです。時々いろいろな事の質問がありますが、何かある時には調べてみると必ず何処かに理窟に外れている事があります。だからこの理窟を知る事です。理屈を知る事は、要するに気のつく事です。だからお釈迦さんは〝悟りを開け〟〝覚者になれ〟と言ったのです。〝覚者になれ〟という事は、今言った智慧正覚がある程度まで発達する事です。ですから仏教の方ではよく〝智慧〟という事を言ってます。お釈迦さんの説いた眼目は殆んど〝智慧〟でしょう。そういうようで、〝智慧〟という事は、今言った智慧正覚、つまり〝覚り〟です。覚りという事は、あきらめという事ばかりでなく、〝自覚〟〝覚者〟という事ですから、それは大きい小さいにかかわらず何んでも理窟に合わせなければならないのです。そうするとその人のする事が、そう骨折らないで総てがうまくゆくのです。
それについて一昨々日、前の日活の社長をしていた人で、なかなかやり手ですが、その人が私の意見を聞きに、他の人に連れられて来たのです。その連れて来た人も相当な人です。それで最初言うには〝銀座辺りにモナコのようなビルディングをこしらえて経営しようと思う、それに賛成してくれ〟と言うので、私は〝賛成できない〟と言うと、〝どういう訳か〟と聞きますから、〝そういう仕事は罪をつくるからいけない〟と言ったところが、その一言でハッと思ったらしいのです。尤もその人はお寺の生まれで、仏教の事も相当知っているので、罪を作るという一言で目が覚めるように分ったのです。いろんな話をしましたが、私が一々急所々々を言ってやったところが、非常に恐縮して、自分も大いに覚りを得たと言って喜んでいました。そういうような工合で、急所を見付けるという事がやはり智慧正覚ですから、そういうような人間になれば何事でも急所の発見が早いです。だから無駄がないわけです。それからその時にも言ったのですが、私はこれだけ大きな仕事をしていても、別にそうワサワサと忙がしそうにしていない。始終割に悠々として、美術を楽しんだり庭を楽しんだりいろいろしている。それでいて仕事は十人前くらいやりますが、それは何故かと言うと急所をやるので無駄をしないからです。それで急所をやるという事は、急所を発見するからです。この間の論文にも書きましたが、今の人はつまらない事や簡単に分る事を、大勢で毎日会議をして結論が出ないというのは、それはつまり急所の発見ができないからです。できないという事は曇りきっているからです。この間も読んだとおり今の人は毒塊人間だからして、霊の方もやっぱり曇りの固まりみたいなものですから、そこで今言う急所の発見が少しもできないわけです。しかしだんだんそういう人間が増えているのです。つまりだんだん薬毒が多くなって来るからして血が濁る、そこで霊が曇る、という事になるからして、例えてみれば政治家にしても昔の政治家の偉い人は、一人で随分目覚ましい仕事をしたものですが、今の政治家というのは年中ゴテゴテと始終相談したりしてますが、さっぱり成績が上らないのです。ですからどんな相談でも纏まりというのがつかないらしいのです。鳩山自由党と吉田の方とが、昨日は合同する事になるだろうというような事だったが、私もそうなるべきだと思っていたが、さっきのラジオで聞いてみると、今日は駄目だというのです。そういう事が最初から分っていれば相談もしないのですが、それが分らないのです。それで年中、くっつきそうで離れるのです。これは改進党と自由党も同じです。それから社会党の右派と左派もそうで年中くっつきそうで離れているのです。これを見ても如何に智慧正覚がないかという事が分ります。見込があればやり、見込がなければ最初からやらないというのがよいのです。尤も、そういう事があって料理屋に行って酒を飲む、その方があてかも知れません。中には恐妻病か何かで、旨く口実をつけなければ怖いから、毎日相談とか会議という事を言って、料理屋に行くのもあるかもしれません。
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