九月十六日

 今理論物理学の研究のため、世界中から偉い科学者が集まっていますが、これは北海道から東京に来るとすると、丁度津軽海峡を渡ろうとして函館で話し合っているようなものです。この津軽海峡を渡ると、つまり霊界――宗教の方になるので、丁度科学は今宗教の手前まで来ているわけです。物性論というのはそういうものです。つまり物質から、そろそろ霊界の方に入りかけている所です。つまり霊界の方へ入らせてしまえばよいのですが、それは結局私がやるより外にしようがありません。つまり物質の世界と霊界とを結びつけるわけです。開会の時に湯川博士が〝丁度今は闇の中に居て、各々皆が明かるい所を目差しているが、どっちの方に行ってよいか分らない。そうかと言って、何処かに行かなければならないから、思い思いに闇の中を杖を突いて歩いている。科学界は今そういう状態だ〟というような事を話していましたが、うまい事を言ったので、全くそのとおりです。それで私が、こっちだと言って明りを見せているが、なにしろ色盲ではなくて、未だ盲ですから、その光が見えないのです。だから見せても駄目なのです。もっと見える時期が来なくては見えないのです。そうかと言って、いずれは見えるのだから明りだけはつけているのです。そういう状態です。それでその盲のために闇の中を迷って、そうして下らない事をしているのです。それがわれわれから見ると〝馬鹿〟と言いたいが、馬鹿どころではないのです。馬鹿よりももっと馬鹿という事は、昔からそういう事はなかったから、未だ言葉ができていないのです。それで今日になって馬鹿以上の馬鹿ができたので、新規に言葉をつくるよりありません。それで私は「超愚」としました。「超馬鹿」と言っては、あんまり恰好がよくないから、恰好がよいように「超愚」として書いてみました。

 御論文〔超愚〕     【註 栄光二二九号】

超愚

(栄光二二九号)

 この題を見たら随分変な題と思うだろうが、これより外に言いようがないから付けたのであって、言い換えれば超馬鹿である。従ってこれを読むに当っては、既成観念を全部捨ててしまい、本当の白紙になって読まれたいのである。しかも今日智識人程そうであるから始末が悪いと思う。例えばダイヤモンドと思って長い間珍重していた宝石が、実は石の欠片と同様なお粗末なものであったからで、これが分ったなら唖然として腰を抜かすであろう。前置はこのくらいにしておいて、さて本文に取掛るが、まず病気と薬との関係である。今日誰しも病気に罹るや、薬の御厄介になる。恐らくこの際何らかの薬を服まない人は一人もないであろう。もちろん薬を服めば治ると思うからで、この考え方は随分古い時代から、人間の常識とさえなっているのである。

 そこでこの事について今まで何人も思ってもみなかった意外な事を以下かいてみるが、それには充分心を潜めて読めば、至極簡単に分るはずで、難しい事は少しもないが、何しろ長い間の迷信が災して、分りそうで分らないのである。そこでいとも平凡な説き方をしてみるが、それはこうである。例えば普断至極健康で働いていられたのは、薬を出来るだけ服んでいたからで、それがたまたま(ふところ)都合が悪くなったりして薬を買う事が出来ず、一時服む事を休めざるを得なくなった。言わば薬が切れたのである。そこで今まで健康を維持していた薬が止まった以上、病気が起ったのであるから、早速無理算段しても、命には代えられないから、金を作り、薬を買い、からだへ入れたところ、たちまち快くなったので、ヤレヤレと胸を撫で下したというようなものである。これはちょうど一度か二度食事を抜いたため腹が減り弱ったので、早速食事をしたところ、たちまち元気快復して働けるようになったと同様な訳である。

 これだけ読んだら、誰でも分ったような分らないような、不思議な気持になるだろう。ところが今日世の中の全部の人がそんな変な事を行っていながら、当り前の事として気が付かないのである。そうかと思うとよく自分は健康だから薬を服まないと自慢している人もあるが、これも可笑しな話となる。薬を服まないで健康であるという事は、最初にかいた薬を服むから健康だという事とは全然矛盾する。またこういう事も沢山ある。それは年中薬を服みつつ病気ばかりしている人である。これも可笑しな話で、薬で病気が治るとしたら、薬を服む程健康になるから、いい加減で止めてしまうのは当然で、何を好んで高い金を出して不味いものを服む必要があろうか。

 今一つの分らない話は、世間には健康だから薬を服まない。薬を服まないから健康だという人と、その反対に弱いから薬を服む。薬を服むから弱い、という人との二通りあるのが事実で、むしろ後者の方がズッと多いであろう。としたら右の二様の解釈はつかないのはもちろんである。なぜなればこの説明が出来るくらいなら、病気は医学で()うに解決されているからである。この解釈こそ私の方では何でもない。それは医学で治らない病人がドシドシ治るのであるから、これが何よりの証拠である。それを説明してみれば実に簡単明瞭である。すなわち薬が病気を作り、薬をやめれば病気が治る。ただそれだけである。

 以上によってみても分るごとく、今の世の中は薬で病が治るとする迷信で、高い金を(つか)って病気を作り、悪化させ、苦しんだ揚句命までフイにしていながら、それに気がつかないどころか、反って満足しているのだから馬鹿どころではない。馬鹿を通り越して言葉では言い表わせない。それは昔からこれ程の馬鹿はないから、言葉が生まれていなかったのであろう。そこで止むなく超馬鹿では耳障りと思うから、超愚とかいた次第である。このような訳で私が医学の蒙を分らせるのには、普通のかき方では、迷信のコチコチ頭を打ち砕く事は難しいので、これでもかこれでもかと色々工夫して、新熟語を考え、目を廻すような鉄拳を(くら)わし救うので、この文がそれと思って貰えばいい。

 今日の新聞にもデカデカと出てましたが、今年の不作の原因は東北地方の冷害だというのです。尤も昔からよく東北地方の冷害というのはありますが、今年は余程酷かったのでしょう。それでこの冷害というものはどういう訳かと言いますと、無論霊界が寒いのですが、ただ普通の寒いとは影響が違うのです。さっき藤枝さんから聞いたのですが、信者の田は普通の人の田より二度高いそうです。又今年の強羅の温度は鹿児島より高い時があります。今日でも鹿児島は二十三度で、此処は二十三度五分です。平均したら、鹿児島や福岡には負けますが、東京よりは高いです。日本でも一番高い方でしょう。こういう事は今までにない事です。それで此処は避暑地ですが、そんなに温度が高いのに(しの)ぎやすいという事は湿度が低いからです。南洋などでも凌ぎやすいというのは湿度が低いからです。それで乾いているからです。美術館などでも、此処は湿気が多いからカビが出るだろうと言いますが、全然そうではないのです。私は此処で毎年試していますが、湿気を嫌うのは、一番は掛物類です。それが熱海ではカビが生えるのです。ところが箱根はそういう事はありません。ですから箱根の方が乾燥しているのです。大体高山というのは乾燥地帯です。それで霧があるから、見たところは湿り気があるようですが、霧は一時的のもので、晴れれば、あとは又乾燥してしまいます。だから強羅はそういった湿気は少しも心配ありません。それで今言った〝此処が高い〟という事は私が居るからです。つまり私の光は熱ですから、霊界が暑いから、そういうわけで影響するのです。ですから信者の田が二度高いという事は、やはり光明如来様から光が出ている事と、それから信者になると曇りが減るからして、それだけに霊に光が出るわけです。ですから其処の霊界が明かるくなると共に、温かくなるわけです。今年の信州辺りも非常な冷害でやられているそうですが、無論越後辺りもそうに違いありません。そうすると其処に居る人達に愛が欠乏しているという事になります。愛が少ないと、其処の気候が、気候と言っても物質的の寒暖計で計るのより、霊の方の暑い寒いの方が影響がずっと甚だしいのです。そこで霊界がつめたいために作物が冷害を受けるという理窟になります。ですから根本は霊界なのです。そこでそういう結果になるのです。これはそういった作物に限らず、人間の生活でもよく気をつけると、そういう事があるのが分ります。其処の家に入ると、なにかつめたいような、さびしいような家がありますが、それは其処の主人公に愛がないからです。つまり自分さえ良ければ人はどうでもよいというつめたい心、要するに冷血動物です。だから其処の家が冷たいのです。人間でもそうです。あの人に会うと、何処かしらつめたい、又温かい人だ、という事が分ります。それは霊で、その人の霊が受ける感じです。ですから受ける感じが温かければ愛が多いのです。万事それで分ります。支部でも、発展する支部と発展しない支部という事も、最も主要なる原因はそこにあるのです。愛が多く愛が強いという事は、光が多いという事です。そこで人は光に憧れて集まるという性質を持っているから、どうしてもそういう温かい所には足が向くという事になります。オレの喋り方が悪い、場所が悪い、家が狭い、という事も多少はありますが、根本的のものではありません。根本は其処の支部長の愛が強く、そうして人を引き付けるという事です。それでこれは言霊から言っても面白いのです。太陽は火ですから熱で、又熱の事を火と言います。その反対に月は、私の本に書いてあるとおりに、氷の固まりですからつめたいのです。それで「ツキ」という事は「ツク」という事です。ですから人が寄ろうとするのを寄らせないようにするのです。それから「ヒ」はヒク」です。これは天理教でも――そこまで詳しくは言っていませんが――そういう事を言ってます。「ヒ」は「ヒク」「ツキ」は「ツク」と言ってます。だからつめたい働きは「ツク」働きになり、温かい者は「ヒク」働きという事になります。それはチャンと言霊に出てます。人間の話になってしまいましたが、作物も同じです。ですから作物が良く出来るのも、愛が強く多いという事が大いに影響するのです。東北地方は気候も寒いのですが、その外に、つめたい人が多いからという事です。しかしそういった気候も関係するようです。大体共産主義というのはつめたいもので愛がありません。スターリンが居る時分に、片端(かたはし)から人を殺してしまいましたが、中共もかなり真似をしたようですが、スターリンほどではありません。スターリンはちょっと疑わしい者は、それこそノミでも(つぶ)すように簡単に殺してしまいましたが、それはつめたいからです。感情があり、愛があったら、とてもそういう事はできません。そういうのも気候から受ける影響もあるわけです。そういうわけで、今年などの米のとれないのは大変な問題です。それで最初の発表が六千百八十万石というのです。私はそういう馬鹿な事はないと言ったのですが、これは陸稲を入れたのです。そうして誤魔化そうとしたのです。だから私はあの時に、「農林省は陸稲を入れて誤魔化そうとした」と言ったのです。それには農林省内にも大分非難があったので、今度は五千九百八十万石となったのです。しかし五千九百八十万石としたら大変な不作です。去年か一昨年かには六千四百万石までゆきましたから、五百万石の不足です。人口はドンドン増えているし、米はだんだん不作なのだから、昔だったら百姓一揆(いっき)という事になります。今は輸入という事をやってますが、これが自給自足だったら餓死(がし)するのが大変です。その点から言っても、実に大変な危機です。

 それから土について前にも言いましたが、強く言ってないので、今度栄光にも出そうと思ってますが、土に対して連作という事が大変な意味があるのです。米なら米を毎年作っていると、土そのものに米がよく育つような性能ができて来るのです。だから麦との二毛作はいけないという事はそのためです。折角土が米を育てるような性能になったところに麦をやると、ガラッと変って来る。そうすると今度は麦を育てる分子になる。というわけで、二毛作はいけないのです。これは分り易く言うと、人間が仕事をするにも、一つ仕事をやっていると職工なら熟練工になるわけです。毎年同じ土で一つ物を作っていると、つまり熟練工になるわけです。時間がかからずに良い物が出来るというわけです。新しい土というのは素人というわけです。そこで毎年やっていると土が熟練して来て、その性能が増して来るのです。ところが折角熟練工になった土を、たまたま肥料をやったりしては元の木阿弥にしてしまうわけです。ところが厄介なのは、信者の人でも肥料迷信から抜け切れない人がなかなかあるのです。それで科学(化学?)肥料などはいけないが、今まで使っている厩肥とか魚カス、油カスとか、そういう物ならいいだろうと言って幾らかやるのですが、それが大変に影響するのです。だから自然栽培になっても、どうも他所(よそ)のように成績が上らないのはどういう訳でしょう、という疑問を起こしている人がよくあるそうですが、そういうのをよく調べてみると必ず何かしら使っているのです。そういうように肥料迷信から抜け切れないのです。丁度医学迷信と同じで、浄霊で治りながら、やっぱり〝長い間のんだ薬が効いて来たのだろう〟とか、〝時節が来たのだろう〟とか言っているのです。これはお蔭話によくあります。そういうようで、この迷信を打破するのは実に大変なものです。

 最近の中部日本新聞で発行している雑誌に「農業日本」というのがありますが、これは何んでも四万くらい出ているそうです。これに自然農法のことを大分トップに出てますが、それを読んでみると――救世教信者の良い方の面は成績もずっとよいけれども――最後の方に官吏の説が書いてありますが、それは〝農林省でも今まで無肥料で幾度も作っている。しかしどうも成績が悪い。だから駄目だ〟というわけです。これは前から聞く事ですが、つまり彼等のやるのは種に肥毒があって土に肥毒があるのです。そのためにうまく出来ないのです。これは最初の一年目には苗が黄色くなって針のように細くなって心配するというのがありますが、それなのです。やっぱり麻薬中毒と同じで、麻薬が切れると、一時馬鹿みたいになってしまうのと同じで、根本を知らないから一年か二年の成績が悪いと、それで悪いものと決めてしまうのです。つまり熱冷ましをのんで熱を冷ますと一時よい、それで熱冷ましを止めると、今度はもっと高い熱が出るが、それを通り越せばよいが、そこまで頭が働かないからそういう事になるのです。それからもう一つの言っている事は〝明治初年あたりには反当一石くらいだった、それが科学(化学?)肥料を使うようになってから俄然として成績が良くなった。だからそんな無肥料という事は絶対に駄目だ〟という事を言ってます。しかし明治初年には一石というのは少し大袈裟な言い方で肥料を使うようになってからとそんなには違わないが、しかし一時は違ったです。それはどういうわけかというと明治までが無肥料でやって来たのならそれは学者の言うとおりです。しかしそれまでに散々人糞をかけていたのです。だからそれが妨害していたわけです。それで科学(化学?)肥料をやるようになってからは人糞の害から免れたので良くなったのです。これはやっぱり病気と比べてみるとよく分ります。つまり日本人の体力というものは漢方薬によって非常に弱らせられていたのです。というのは漢方薬は量が多いのです。ところが西洋の薬になると量は実に少ないのです。漢方薬からみると、その百分の一か千分の一くらいなものです。ですから西洋の薬が相当に毒があっても、量が少ないために一時は良くなったのです。ですから最近言われている〝日本人の寿命が延びた〟という事はそれがためです。近頃になっては、みんな漢方薬をのまなくなって西洋の薬をのんでます。そこで薬毒が減ったから寿命が延びたわけです。更に西洋の薬も止めてしまえば、もっと寿命が延びるわけです。迷信というのは妙なもので、それに限ると思ってしまうと、理窟の多い方に理窟をつけるのです。そういったような迷信を分らせるのだから、とに角私の仕事というものはそれは大変なものです。

 もう一つ面白い話があります。これは今に書きますが、詐欺の時代という事です。というのは今の人間は殆んど詐欺の被害者です。それが詐欺という事が分れば良いが、それに気がつかないのです。一番の大きな詐欺は薬です。これは新聞広告にも沢山出てますが、〝この薬をのめば病気は良くなる〟と言ってます。〝治る〟とは書きませんが、それは本当は治らないからです。そこで〝良くなる〟とか〝好転する〟とか書いてます。それはそうでしょう。薬をのんだ時は一時気持が良くなるからそう書くのです。それで〝治る〟とは書かないが、〝治りそうだ〟という事を書いてます。〝この病気に対して、これほどよい薬はない〟と言ってますが、本当は治らないのですから、治らないのに治るという事を書いているとしたら、立派な詐欺です。ですからみんなは詐欺の被害者なのです。それから医者が〝この病気はとても重いから、入院して手術しなさい〟と言う。〝それでは先生、入院したら治りますか〟と言うと、〝それはやってみなければ分らない。しかし入院すれば、入院しないよりはいい〟というように言います。それがおかしいのです。自分に見込がなくてありそうに思わせるという事は立派な詐欺です。お蔭話にも始終ありますが、〝入院しろ〟と言うから入院したところが、かえって悪くなって、入院した時には未だ起きれたのが、とうとう寝た切りになったというのがあります。これは恐ろしい詐欺です。世の中にある普通の詐欺は金を損するくらいですが、これは命をやられるのですから詐欺取材でなく詐欺殺人です。それから〝あなたは一週間通いなさい、まあ治るでしょう〟とか、〝この注射を一カ月続ければまあ治りますよ〟と言うが、それを続けて治った事はないのです。これも立派な詐欺です。

 ところが又、宗教の詐欺が大きいし恐ろしいのです。〝信仰しなさい。あなたの病気は信仰しだいで治ります〟と言うが、この〝信仰しだい〟というのが臭いのです。それで〝先生どうも良くなりません〟と言うと、〝それはあなたの信仰が足りないのです〟と言うのです。この〝足りない〟という事が遁辞で、腹の中からそう思っているのではないのです。最初にああ言った手前ちょっとまずいから、そういった詭弁(きべん)を使わなければならないのです。救世教の方は信仰が足りても足りなくても治りますが、普通世間の宗教での一番の逃げが〝信仰が足りない〟です。このために被害を受けているのが大変なものです。ところが前にも話した事がありますが――ある大きな宗教での事です――其処の妻君から聞いたのですが、親父が病気で〝二百円を寄附すれば治る〟と言うので、一生懸命に金をこしらえて二百円寄附したのです。ところがそれから間もなく死んだのです。〝どうしたものでしょう、掛け合おうと思ってますが〟と言うから、〝掛け合いなさい、しかしおそらく返さないでしょう〟と言ったのです。それで〝信仰には懲り懲りした〟と言ってました。〝それでは神様が詐欺をするようなものです。しかし神様はそんな事はしないが、神様を看板にしてその教師が一つの詐欺をしたのだ。これは相手が信仰だから、まさか裁判に訴えるわけにゆかないし、そういう法律もないのだから、しようがないですね〟と言ったのですが、そういう事があるのです。そうすると宗教を看板にして詐欺をするわけです。この被害が又大きいのです。大体一番大きな被害というのは、それがために宗教の信用を傷つける事で、これは大きいのです。これもお蔭話によくありますが、救世教の信仰を奨められて、今までいろんな宗教で懲り懲りしたというような事を書いてあります。そういうようで、つまりこっちが大いに宣伝したり拡張する場合に、この宗教の妨害というものが大変です。宗教というものは駄目だ、おまけに新宗教というのはみんなインチキだ、と思わせるような事です。それは言論機関などもそう言います。それから又自分が信仰してみて、御利益があると言っていながら、ないという事もありますから、救世教をあんなに奨められたが、やっぱりそんなものだろうと思う、その妨害というのが大変なものです。一番変な新宗教による害の方が一番大きいくらいなものでしょう。そういったいろいろな妨害を排除して、そうしてだんだん発展してゆくという事は、神様の御力が強いからです。なかなか大変なものです。

 それについてちょっと書いてみました。

 御論文〔本教発展の主因〕     【註 栄光二二八号】

本教発展の主因

(栄光二二八号)

 我救世(メシヤ)教が宗教法人として、表面的活動に発足したのが、昭和二十二年八月であった。何しろそれまでは官憲の圧迫が甚だしい為、知っての通り日本浄化療法の名によって、民間療法を営業としてやっていたのである。といっても信仰が伴なわないと病気の治りも悪いので人によっては私の描いた観音様を拝ませていた。これなら昔からある信仰だから差障りがないという訳で、それ程当局は新宗教を嫌ったものである。処が幸いなる哉世は民主主義となり、信教の自由も許されたので、玆に天下晴れて宗教団体として活動が出来るようになったのである。そのような訳で、当時としては信者といってもいい位な人は、先ず二、三百人位であったであろう。

 それが知っての通り、今年の八月で満六年になるが、驚く勿れ現在信者は数十万に及び、教師の数三、二四二人、大教会四、中教会八八、支部五二四というように発展し、しかも日に月に教勢益々拡大しつつあり、その上今年春から布哇(ハワイ)、夏からアメリカというように拡がると共に、布哇(ハワイ)の信者数僅か半カ年にして千人を突破するという盛況で、最近相当立派な本部としての土地家屋(五万(ドル))を買入れると共に、土着の人々の中で熱心な人が支部長となり支部の数も数カ所に及んで、尚続々各地に出来つつあるという現状である。又アメリカの方も八月羅府(ロサンゼルス)に支部が出来るや、日に日に教修者の数も増えつつあるという報告も先日来た位で、将来は予想もつかない程の発展の兆も見えるとの事が書き添えてあった。

 次に箱根の地上天国も完成し、昨年出来上った美術館は益々充実すると共に、漸く天下に知れ渡り、今夏の如きは昨年の数倍の観覧者があった程である。特に外人間にも知れ渡り、毎日数人はかかさず見えるので、この分でゆけば何れは日本の名物となる日も余り遠くはないと思えるのである。又強羅の中央箱根第一の位置を占めている土地約一万坪を数年前手に入れてあったが、此処へ将来総本部を造るべく計画中である。

 次に目下造営中の熱海の地上天国並びに救世(メシヤ)会館、景観亭、美術館等の建設も着着進捗しつつあり、京都嵯峨の地上天国も土地だけは手に入ったので、何れは建造の運びとなる予定である。右の如き数々の素晴しい発展振りをみても、到底人間業とは思えない。私自身でさえ予想以上の大規模に進展しつつあり、その速度に於ても只々驚くの外はないので、恐らく世界の宗教史上にも例はないであろう。ではこの原因は何処にあるかというと、これこそ本教独特の浄霊医術と、そうして奇蹟の多い事である。重難病で医師から見放され、死を覚悟した者が忽ち快癒に向い、健康となり生命までも恵まれたのであるから、その感謝感激は並大抵ではない。どうしてもそれに酬いざるを得ないので、先ず金銭を献げる事になる。しかも本教の方針として搾取は禁じてある以上、自発的献金である。それらの人が非常に多数に上る事とて、その額も相当になり、以上の如き諸般の建造物が次々出来るのである。

 これによってみても本教の御利益が如何に驚くべきものであるかが想像出来るであろう。然も悉く奇蹟であるから、本教位奇蹟の多い宗教は、未だ嘗てないとさえ曰われている。つまり大きな御利益、奇蹟、発展というように進展するのである。処が右は日本だけの事であるが、何れは米国始め他の国々へも教線は拡がる事になろうから、その発展の勢は到底想像もつかないであろう。玆に到って予期の如く世界的大宗教となり、全人類救われる日も左程遠くはないと思うので、それらを考える時血湧き肉躍るの感なくんば非ずである。

 

 

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