この間話をしたシカゴ・トリビューンですが、もう新聞に出したそうです。近日中に送って来るだろうと思います。その前に、やっぱり同じ系統だろうと思いますが、日本の東京イヴニング・ニュースという外人が読む新聞に写真入りで出てました。今翻訳してますから、この次に読みますがなかなかよく書いてありました。ですから外人間にはだんだん知れるわけですから非常に面白いと思ってます。それで美術館の方も大分外人に知れ渡りつつあるようで、観覧者も怠らすに来てます。今年はもう駄目ですが、来年は未だ未だずっと増えるだろうと思ってます。何んにしてもアメリカに知れるという事が一番よいです。アメリカに評判になるとか、問題になるという事になると日本人は一番大騒ぎをやります。それも、追々そうなると思ってます。
それから樋口さんは第二回目のロスアンジェルスにこの間ハワイを立(発?)ちましたから、着いているはずです。今度は前よりかずっと収穫があると思います。なにしろ日本のインテリ階級に分らせる事が一番です。特にジャーナリストです。ところが霊友会などのああいう問題が出ると、これが新宗教に対する一つの信用を落す結果になりますから、われわれも大変なトバッチリをくうわけです。なにしろ世間は、われわれの方も霊友会や踊る宗教などの仲間に見られやすいのです。ですから救世教は全然違うという事を何処までも分るようにしなければならないと思っているのです。これも時の問題だと思ってます。
それについて今度書いてみましたが、これは「救世教奇蹟集」の新聞の広告ですが、朝日、毎日は出さないので、それについて書いてみました。
御論文〔ジャーナリストと本教〕 【註 栄光二三四号】
ジャーナリストと本教
(栄光二三四号)
今度私が救世教奇蹟集を出版するに当っては、先ず最初三大新聞に広告を出すべく依頼した。処が読売のみは早速掲載したが、朝日と毎日は三週間を経た今日、未だ出ない処を見ると、広告輻輳の為ではなく、他に理由がなくてはならないと思ったのである。尤もこれに就いては前以て予想はしていた。というのは、毎日はそうでもなかったが、朝日のみは、先頃の「アメリカを救う」と「結核信仰療法」の二書とも広告掲載を拒否したからである。その際理由を訊ねた処、係の話では、賛否両論あって決定がつきかねる為、掲載は不可能との返事であったので、今回も或いはそんな事かも知れないと思っていた処、今度は毎日も同様なので、驚いた次第である。
これを要するに、私の著書は、どれもこれも取上げ難い程破天荒のものばかりなので、オジ気がつき、触らぬ神に祟りなし的に引受けないのであろうが、気の小さい話である。併し、考えてみるとそれも無理はない。何しろ今迄に聞いた事も見た事もないような、前人未発の驚異的著書で、現在の学者やジャーナリストの頭脳では到底想像出来ないからである。併しそれであればある程、進歩せる説として価値が高いわけである。然も事実の裏附がある以上、空理空論でない事は勿論で、疑う余地は聊かもない筈である。言う迄もなく、現在の知識人に理解出来る程度のものとしたら、それは既成学問の枠内であり、ありふれたものに違いないからである。これを譬えてみれば、彼の西洋に於けるコペルニクスやガリレオの地動説にしても、当時の学者は勿論、支配的勢力を持っていた宗教人等にも理解困難の為、強い反対に遭い、投獄され、生命の危険にまで晒されたのであるから、先覚者の世に容れられない悩みは、何時の時代でも同様であろう。早い話が、日本に於ても幕末当時、西洋的のものは何でも彼んでも切支丹バテレンの名の下に、一刀両断禁止された事や、密かに蘭学を学ぼうとした杉田玄白、高野長英等もそうだが、吉田松陰の如き泰西文化に触れようとした為、アレ程の迫害を蒙ったにみても、思い半ばにすぎるであろう。
これに就いて面白い話がある。昔白人探検家がアフリカ内地旅行の際、偶々蛮人が何か地にあるものを見附けて驚き、悲鳴を上げ逃げたので、早速その場所に近附いてみると、何と一個の時計が落ちていたので、失笑を禁じ得なかったという一挿話を或る本で見た事がある。これを思い出した私は、少し誇張かも知れないが、その時計と救世教奇蹟集と相似ているとさえ思った事である。というように、私の説く処行う処は、悉く現代文化のレベルを遥かに抜いているので、反って始末が悪いのである。今一つの事は、今日世界何億の人民が神として崇めている、イエス・キリストが行ったと同様の奇蹟を行い得る私の弟子、已に数十万に及んでおり、尚益々増えつつありという一事など、これだけみても啞然とするであろう。
さらばと言って、これを異端邪説視する事も出来ない。確実な立証が伴なうからである。そうかと言って今直に偉大なる発見として取上げる事も勿論出来まい。それには大いに勇気を要するからである。何しろ何百何千年にも及ぶ、伝統、宗教、学説等の綜合知識で出来上がった頭脳である以上、急に切替えるのは無理であるからで、どうしても時を待つより致し方あるまい。そうかと言って、安閑としてはおれない理由がある。それは、驚くべき神示であって、人間は近き将来断崖から転落する如き危機が迫りつつある事である。これを救うべく神の大愛は、世界到る所に救いの綱を準備されており、早晩これを握らざるを得ない時が来るのは已に決定的である。処がこの重大事を知らず、又知らされても信じないジャーナリスト諸君は、何れ臍を噛むのは分っているが、それに盲目であるが為、広告を引受けないのであろうが、それだけならいいが、この結果として大多数の不幸な人が救われる機会を失うのであるから、洵に遺憾である。それというのも、本教の実態を知らず、他の新宗教と同列視しているに外ならないのであるから、本教が他の如何なる宗教とも全然違っている認識であって、それには本教を徹底的に調査検討されん事を切に望むのである。現に本教が行っている事業たるや、偉大なる新文明の創造であり、その企画の雄大なる何物も追随を許さないものであり、これによって世界人類が救われるとしたら、この際小乗的見方を捨て、寧ろ本教を支援すべきが本当ではなかろうか。併し凡ては時の問題である。何れは一般に分り出し、世界の輿論となるとしたら、その時となっては已に遅しで、全部の新聞は慌てて取上げざるを得ない事になろう。そうなったら、今日の如き大新聞としての権威を保つなどは、一つの笑い話となるであろうが、それにはこの際、眼を大局的視野に向けられん事である。釈迦に説法ではあろうが、新聞の使命は社会の指導的正しい輿論を作る事で、輿論の後を追うようでは、無定見の譏りは免れまい。
これに就いて羨ましいのは、彼のアメリカである。同国の有識者始め社会一般の進取的自由主義は、今迄のものより進歩であり、人類の福祉に聊かでも役立つものとしたら、躊躇なく取入れる態度である。発見者が学者であろうとなかろうと、商人でも職工でも宗教家でも、そんな事はどうでもいいという、大胆率直な見解の広さである。同国が二世紀に満たない今日、世界をリードする程の地盤を築き上げたのも故ある哉である。私は、日本もこれに鑑み、一日も早く島国根性を一擲し、非は大いに糾弾すると共に、是は大いに擁護するという大乗的見地に立って、新聞としての大使命を発揮される事である。そうして結局に於てこの救世の大業が完成する暁、日本が人類史上空前の模範国家として、世界から尊敬の的となるのは断言して憚らないのである。敢えてジャーナリスト諸君の猛省を促す所以である。
今書いていますが、その前に、気のつきそうな事でちょっと気のつかない事があるのです。それは、つまり運が良いとか悪いとか言いますが、総て順調に行く時には何んでも順調だし、これが、悪い時になると泣面に蜂で、悪い事ばかりが重なって来るものです。それは健康とピッタリと関係しているのです。これは私の経験でもそうです。私は薬毒がウンとあります。何処か体が悪い時には必ず悪い事が来るのです。疥癬を大分長くやりましたが――私の疥癬は今年で九年目になります――まだすっかりとはゆきません。耳が痒いので始終こうやって掻いてますが、これも疥癬が耳に来ているのです。それから腰の廻りから足が痒いとか、今でも蒲団に入って暖まったりすると幾分痒いです。それで、一番最初に玉川警察署に十一日間留置された事がありますが、その時には疥癬が一番酷かったのです。それから静岡事件の時には足に未だ残っていました。一昨々年―二十五年ですが、この時には疥癬がいやに悪かったのです。それで警察に行って、その事を知らした方がよいと思って、足を掻いたところ血が出たら、〝ああ君は未だ悪いね〟それで朝になったら、〝自分の足が痒いが、君のが染ったのではないか〟と言ってました。それから私は疥癬の外に歯が始終痛んだり、頭が痛んだり、始終いろいろありますが、そういう時には何かしら、つまり苦しむ事があるのです。これは誰でもそうなので、その理窟なのです。というのは、そういった悪いという事は、毒素に対する浄化が起こっているのですが、浄化というものが人間の体ばかりではないのです。浄化というものは、あらゆるものに相応して来るのです。だから体の何処かが悪いという事は、やっぱりその人の運命に苦しみがあるわけです。毒素があるとその部が曇っている。そうすると体全体が曇っていると、毒素は肉体的苦痛によって除ってゆき、それから運命はいろいろな災いで除ってゆく、という訳ですから、例えてみれば、人を苦しめずに何かやっていて発展する――われわれの方でも宗教が発展して信者ができますが、それでこのメグリが来るのです。それは何かと言うと、他の宗教が影響を受けるのです。仏教とか、そういうものの方で非常に信者が減るとか衰えるとか、又維持に苦しむとか金が足りなくなるという場合に、どうもこの頃新宗教が大分勃興して来たので、その影響を受けるのだ、特に救世教というのが一番活動して、あんな立派な美術館を造ったりしている、シャクに障る、羨しい、といった想念がやはり曇りになってこっちにぶつかって来るのです。ですから善い事をしておれば何もないかというと、決してそうではないのです。かえって善い事をすると悪の方で怨むのです。又例えてみれば、泥坊とか人殺しをして警察に引張られて酷い目に遭って調べられたりすると、自分がその因の種をまいていても、やっぱり警察官を怨むのです。昔首斬朝右衛門と言う、今の死刑係で首を切る役人ですが、首を切る事は朝右衛門は役でやるのですから何んでもない事ですが、やはり朝右衛門を怨むのです。その為に朝右衛門はいろんな災いがあるので、全く自分が首斬りをしたためだという事が分って、止めてしまって、子孫代々首斬りをしてはならないという遺言を残したそうですが、そういうようで、良い事をしても怨みがあるのです。しかし他でその良い事のために助かって喜んでゆく人がありますから、その人からは良い光を受けますから、さのみではないので、非常に少ないわけです。自然栽培が非常に拡がれば、今度は肥料屋が大変です。最初は、この肥料屋の怨みの方が農村の喜びよりも、多いかもしれません。そういうようで、それが曇りになると、その部の血が濁りますから、やはり体が悪くて肉体的苦痛もあるし、運命的苦痛もあります。それから人に瞞されるとか、泥坊に盗られるとか、相場や競輪で損をするとか――パチンコはしれたものですが――いろんな損をします。それから火事で焼けるとか、この間のような水害とかありますが、そういう事もやはり浄化作用なのです。それについてこういう考え方があるのです。即ち伜が二人あります。一人は立派な道楽者で、親の金を使ってしようがない。一人は律儀正道(真当?)で、親の心配をかけないというのです。これはどっちが親孝行かは分らないのです。その家は先祖代々のいろんな罪を背負ってますし、それからその親の財産というのは人をいじめたり苦しめたりして作った財産とすると、祖先はその罪を早く除ってしまわなければその子孫は繁栄しないので、そこで祖霊がついてそういう道楽者を作ってドンドン使わせるのですから早く使ってしまえば早く罪が除れるのです。ところが律儀正道(真当?)な方の息子は、減らないようにし、かえって増やそうとするのです。これは早く除った方がよいのですから、大乗的に見るとイクオール道楽者の伜の方が親孝行という事になります。そこで、そういう道楽者の伜を治そうとしていろいろ苦心惨憺しますが治らないのです。それはそういう事を知らないし、全然思いもしないからです。そこで学校を怨んだり、傭っている主人を怨んだりするようになるのです。そういう訳で、一切のそういう苦しみは浄化作用ですから、その苦しみというものも、それが分れば喜ぶというまでもゆかないが、そうクヨクヨする必要はないわけです。それで除かれるだけ除かれてしまえばあとは無いので良くなるばかりです。それと同じように、信仰に入ってから損をしたり、いろんな事があります。これは大変結構なのです。それから又熱心になればなるほど、そうなるのです。信仰がボヤボヤしている間はそうでもないが、これは熱心にやらなければならない、というようになってから損をしたりする事がありますが、これが大変に有難いのです。これは神様が、お前は熱心だから大いに褒美をやろうとする。ところが入れ物が汚ないから、これを掃除しようというわけで掃除をされるのです。それを待っておれば、それがきれいになった後は一度に良くなります。私が借金で苦しんだのが昭和十六年までの二十年間ですが、最初の内は金が欲しくてしようがない、何んとかしてと思っても、駄目で、この借金の催促が苦しいのです。それに下手に動くと差押えになるのです。それで金が欲しい欲しいと思っている時は駄目なのです。その訳が分って、これは神様にお任せしておこう。食ってさえいればよいと思って、気やすく思った。そして昭和十六年にやっと返し切ったのです。そうすると十七年からは予定していたのより多くの金がドンドン入って来るのです。ですから金なんかどっちでもよいと思うようになった時に入って来たのですから、そう嬉しくもなかったのです。だからかえって欲しい欲しいと思って、今幾ら金が入れば助かる、という時には決して入るものではないのです。これは何事もそうです。変な話ですが、女を思っていて、アノ女をどうにかならないかと思っている時には、決して女の方では振り向きもしないのです。それでアンナ女なんか勝手にしやがれと思うようになると、かえって女の方で来るのです。つまり逆になるわけです。それが真理なのだから、そこを本当に知ると非常に気楽になります。だから苦しい事が起こると、これは楽しい事の前提だ、これによって楽しい事になるのだと思うから、さのみ苦痛ではないという事になります。丁度病気が起こって、熱が出て痛んだり苦しいが、これによって良くなると思うから、心から苦しくはないのです。それで病気の事はよく分るが、外の事になると気がつかないのです。それで火事によって丸焼けになるが、これは非常に良いのです。これは祖先が、金銭的、物質的の罪穢れが溜まっているから、そうなるのです。ですからよく〝焼け太り〟と言うが、焼けたために後が良くなるのです。それで信仰に入ると浄化があるが、つまり神様の御恵みによって小さくて済むのです。大難を小難にというわけで、小さくて済むのです。熱海などは随分良くなりました。まるで東京の銀座に行ったような気がします。他の都会でこんなに新しいピカピカしたような町は今見られないくらいですが、熱海は大したものです。これは焼ける前の熱海と比べたら、それこそ乞食と大名ほど違います。というのは、焼けたためにそういった汚ないものが霊的に消えたわけですから、そこで後は良い事が来た訳なのです。これなどもよい見本です。ですから一切の人間の苦しみというものは、病気ばかりでなく他のものもある。それで病気の浄化の時には他の事の浄化も丁度同じに来るか、続いて来るか、どっちかなものだ、という事を知っていればよいのです。ですから人間から毒素が減り、曇りが除れるという事は、どうしても運が良くなるというわけですから、これを心得ていればよいわけです。それから神様は人間というものは働かせるように出来ているのですから、本当に神様の御意志通りの働きが出来れば、その人は神様の方では重要な人ですから、なるべく病気で苦しまないように、長生をするように、何時までも働けるようにと、神様の方でやるのです。ところが案外早く死んでしまったりするのは、神様の方に対して、世の中のために間違った事をしたり、間違った考えを持っているからして、どうしても神様の方では、その人を間引かなければならないのです。そういう事は一点の狂いもなくやられているのですが、ただ人間がそれを看破する事ができないだけの事です。
近頃新聞に売薬の広告が非常に増えているので、その事を書いてみました。
御論文〔新聞の売薬広告〕 【註 栄光二三六号】
新聞の売薬広告
(栄光二三六号)
私は日々新聞を見る毎に、心の暗くなる思いをどうする事も出来ない。知らるるごとく近頃の新聞の売薬広告は目立って多くなったようである。言うまでもなく薬物が大いに進歩したといわれ、ペニシリン、ストマイ、テラマイ、パス等々、ヤレ何々の薬がよく効くなどと、専門家は言論機関などを通じてハヤシ立てるので、一般人はそれを丸呑みにしてしまい、懐をハタいて買漁るのであろうから、大いに売れ、売薬業者はホクホクものだろうが、これを吾々からみると実に恐ろしい気がする。というのは大切な金を捨てて病の種を買うようなものだからで、知らぬ事とはいいながら余りに可哀想で見てはおれないのである。しかも始末の悪い事には売る方もそれを善いと思って行っている事が、金儲けにもなるのだから大威張で、はなはだ結構にみえるが、実をいうと危険千万としか思えない。もちろんこれらことごとくの薬は麻薬と同様一時抑えにすぎず、本当に治るのではないから、暫くすると必ず再発する。また薬で抑えるというように漸次悪化しついに慢性となるのは御蔭話中にも沢山出ている通りである。
従ってこの悲惨事を一人でも多くの人に分らせたいと思って、私は絶えず最善を尽くしてはいるが、何しろ根強い迷信であるから容易ではない。しかも政府はじめそれに携わっている人達は、これによって国民の健康を維持し得ると錯覚しているのである。
このような恐るべき薬の害毒を知らない結果、堂々たる大製薬会社を作り、医師も協力し、政府も援助するとしたら、現在のごとき病人氾濫時代を生んだのも当然で、その愚及ぶべからずである。そうしてこれが現在文明のあり方であってみれば、この迷蒙を打破するのが世界を救う根本であろう。これとよく似た日本の例をかいてみるが、知らるるごとく封建時代から大東亜戦争直前までは、忠君愛国をもって最高道徳とし、大多数の殺人者程英雄と崇められると共に、個人としての武士、軍人階級は一生を通じて殺人の技術を練磨し、一旦緩急あれば義勇公に報ずるという美名の下に、生命を捨てて顧みない。それを武士道精神の勇者として称えられ、一家一門の栄誉とさえ思われたのであるから、今日から見れば実に想像も出来ない程の馬鹿馬鹿しさである。それが敗戦によって一転、民主主義国家となった今日、当時を顧(かえり)みてその野蛮思想に愕然とするのである。
ところがいよいよ天の時来って右と同様な変革が文化面にも今や来らんとするので、その第一条件こそ二十世紀の今日まで薬という毒物をもって、病を治そうとして病を作り、そうして苦しむという恐るべき迷蒙である。従ってこの迷蒙に終止符を打つのが神から命ぜられた私の大任である。
ちょっと面白い論文です。これはずっと続けて書く考えです。みんな知りたい事と思って書きました。
御論文〔私は神か人か(一)〕
私は神か人か(一)
(『私物語』より)
私という人間程不思議な人間はあるまい。恐らく世界肇って以来類型のない事は確かである。私自身と雖も考えれば考える程、不思議の一語に尽きると思っている。そうして昔から知る限り、聖者、賢哲、偉人等の伝記を見ても、私に当嵌るような人間は一人もない。そんな訳で将来いつの日か誰かが私を研究し、批判する事も必ずや相当数出るであろうから、それを考え今出来るだけ私というものの有りのままの姿を記き残しておこうと思うのである。
先づ私をかくに当って、一番不思議に思っている事は、誰よりも私自身である。それというのは余りの神秘性に富んでいるからであって、此意味に於て主観と客観との両面から解剖してみようと思うが、之に就いては何年も何十年も私に接近している者でも、今以って本当には分らないらしい。否私の妻でさへ余り分っていないようである。勿論、私は宗教家ではあるが、釈迦、キリストのような一宗の創立者でもなければ、飛抜けた人物とも思えまい。それは余りにも間口が広すぎるからである。
そうして私は右のような事は若い頃から思ってもみた事がない。只普通人よりも何処か変ってる処があるようだと、只漠然と意識していたにすぎなかった。その最も変ってる点といえば、私は歴史上偉人として伝えられる如何なる人間でも、崇拝する気にはどうしてもなれない。それは私として追いつけない程の偉い人物とは思えないからである。之は理屈でもなく自惚でもない。自然に湧いてくる気持で、寧ろ寂しくさえ思える事が屢々あった。又今一つの特異性といえば非常に正義感が強く、悪を憎む事人一倍で、日々の新聞紙を見てもその憤激を抑えるに随分骨折ったものである。そこで何とかして此不正を減らしたいと考えた末、目を付けたのが新聞である。処が当時一新聞を発行するには百万以上の金がなくては駄目だというので、それを儲けるべく大いに活躍したが、事志と違ひ見事失敗した。然し之が宗教界に入る動機ともなったので、反ってプラスになった訳である。
それが大本教の入信であって、それまでの私は無神論のコチコチであったが、大本信仰により神の実在を肚の底から認識出来たのであった。それというのは何しろ驚くべき奇蹟が次から次へと出て来るので、玆に心機一転百八十度の転換となったのは勿論、日の経つに従い益々奇蹟続出、遂には私の過去、現在、未来に亘る運命に就いての霊的啓示をも受けると共に、自分は超人的力を与えれら、人類救済の大使命を荷う事が判然としたのである。そうしてその頃洵に不思議な現象と思ったのは、偉大なる何者かが私を自由自在に操り、一歩々々神の世界の実在を、奇蹟を以て会得させた事で、其際込上げて来る歓喜をどうする事も出来なかった程である。此気持たるや幽幻至妙言葉では現わせない心境であった。而も相変らず奇蹟続出で、興味津々たるものがあった。一日の内に何度心が躍ったかは分らない。その中での最も大きな奇蹟は、大正天皇崩御の年、即ち大正十五年十二月の事であった。
Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.

-1-scaled-2.jpg)