十二月二十五日

 浄霊で病気がよく治るという事を、初めて浄霊を受けて治った場合によく聞かれます。そこで〝なるほど〟と思うように説明してやらなければならい(ならない?)のですが、それをできるだけ分りやすく書いてみましたが、まだ少し物足りないところがありますが、大体こういう訳です。

 御論文 〔浄霊は科学療法なり〕     【註 栄光二四三号】

浄霊は科学療法なり(1)

(栄光二四三号)

 これは以前からよく信者が新しい患者を扱う場合、浄霊の原理を訊かれるので、簡単に分りやすく説明をしたいという希望を聞くので、私はここにかいてみたのである。というのは散々医療を受けても治らない病気が、浄霊を受けるやアッ気ない程速かに治るので、驚くと共にその理由を知りたいと思うのは無理もない話である。もっとも浄霊をする方にしても、一度はそういう経験が必ずあるであろうが、今までのところ時期尚早の関係もあって、私は余り徹底的には説かなかったから、ここに詳しくかくのである。ところで昔から病気は医者と薬で治すものと相場が決っているばかりか、今日の人間は何事も科学ならでは信じられないという科学至上主義になり切っている以上、解するに苦しみ、訊きたいのも当然であろう。それについて最も肝腎な事は医学と科学との関係であって、これをまず知る事である。なるほど他のあらゆるものは科学で解決出来るのは言うまでもないが、独り医学に限ってそうはゆかないどころかむしろ見当違いもはなはだしいのである。というのは人間と人間以外の一切とは根本的に相違している事である。それを詳しくかいてみよう。

 そもそも人間なるものは万物中最高級なる生物であって、実に神秘霊妙到底人智では計り得ないものがある。ところが科学はそのような深い点は全然未知なるがため、人間を以って単なる一個の動物とみなし、物質である肉体のみを対象として来たのであるから、病気をもって肉体の毀損と解し、薬剤や機械等の物質をもって修理しようとするはなはだ単純な考え方であった。しかし事実はそんな簡単なものではない。人間は肉体以外生命力というむしろ肉体以上重要な霊的個体なるものが存在しており、それが体との密接不離な関係にあって、人間は生きて活動出来るのである。しかし霊は無に等しいものであるため、唯物科学では発見されなかったのである。という訳で科学は肉体のみの研究に(ふけ)っていたのは、彼の死体の解剖などを見てもよく分る。従って何程進歩したといっても、両者の一方だけであるから跛行的進歩でしかない以上、いかに努力したとて結局徒労以外の何物でもないと言えよう。

 以上のごとく人間は霊と体との両面から成立っており、霊が主で体が従となっているのであって、これが万有の法則である。そうして病気なるものは体にある保有毒素が霊に移写して曇りとなる、それへ自然浄化作用が発生して曇りが解消すると共に、それがまた体に写って毒素は溶解し排除されるので、その苦痛を言うのであって、つまり前者は霊体一致の緯の作用であり、後者は霊主体従の経の作用であるのであって、この理を充分知る事が肝腎である。では一体曇りの本質は何かというと、これこそ無色透明である霊に不透明な部分が発生するそれをいうのであって、これが真の病原であるから、これを払拭すれば病気は治るに決っている。この方法が浄霊であるから、浄霊とは読んで字のごとく霊の曇りを浄める手段で、これが真の医術である。従ってこれ以外の療法はことごとく非医術である事を知るべきである。以上が病原と治療との根本原理であって、一言にしていえば病気とは外部に現われた症状であり、病原は内部にある曇りである以上、この解消こそ真の治病法である。ところがその理を知らないがため医学は現われた症状さえ除けばいいとしているので、たとえ効果があってもそれは一時的で、必ず再発するのは医師も常に経験しているはずである。

 では一層突進んで浄霊の根本原理を科学的に説明してみよう。それには便宜上科学の方程式に則り、理論科学と実験科学との両面から検討してみるが、今のところこれが最も正しい方法であるからである。そこで霊の曇りとは何であるかというと、これこそ薬剤の毒化したものであって、その本質は不純水素である。不純水素とは水素中に毒粒子が混入されたもので、この毒粒子を潰滅すれば純水素となり、病原は根絶される訳だが、これには非常な高熱を要する。それによってこの毒粒子を焼尽出来るからである。しかしこの高熱は地球上未だ嘗て存在しなかったところのXであるが、幸いなるかなこの説明に最も好都合な一事が発見された。それが彼の原子爆弾であって、人も知るごとく原爆の高熱も今まで全然なかったもので、二十世紀の今日初めて発見されたもので、この点よく共通しており、偶然の一致というよりももちろん神意の表現である。ただ異うところは原爆の熱は体の熱で、浄霊のそれは霊の熱であるから、その強力さは比較にならない程のものである。すなわち体熱の方は限度があるが、霊熱の方は限度がない程の高度であって、もちろん科学では発見出来なかったのである。もっとも発見出来ても人為的には作り得ないから、この点から言っても原爆とは比べものにならない程の性能である。しかし科学が現在より数層倍進歩した暁、あるいは発見出来るかも知れないが、それは今のところ未知である。ではこの本質は何かというと、これこそ太陽の精であって光と熱の霊である。私はこれを名付けて火素といっているが、この火素が不純水素に向って放射されるや、水素中の毒粒子のみ一瞬にして焼尽される。つまり病原を焼いてしまうのである。というのは体的不純物と異い、霊的の方は霊熱でなくては焼けないからである。その方法としてこれも私は一紙片に「光」の文字を書き、それを希望者に(わか)ち与える。するとこれを御守として懐中へ入れるや、太陽から不断に放射されている火素が、私を通じて御守に伝流され、その人の掌から放射される。ちょうど太陽が放送局とすれば私は中継所であり、術者は受信機と見ればいい。それによって毒粒子は全滅し純水素となって漿液中に吸収され、かくして病気は全治するのである。これを一層分りやすくいえば、例えば痛む個所に向って手を翳すやたちまち痛みは去る。それは患部の曇りが間髪を容れず解消し、体に映るからであって、しかも毒粒子は結核菌でも伝染病菌でもあらゆる菌の発生原であるから、それが全滅するとしたら、これこそ万病治癒の理想的医術である。以上で大体判ったであろうが、これを大雑把に言えば、医療は溶けかかった毒素を固める方法であり、浄霊はより溶解し排除させる方法であるから、前者は病気保存法であり、後者は病気解消法である。としたら公平に見ても、治る方が科学であり治らない方が非科学であるから、私は医学は非科学であるというのである。その例として医学の説明をみればよく分る。なるほど徴に入り細に亘ってはいるが、ことごとく枝葉末節的で、根本には触れていない以上、実際に合わないのは医師も認めているはずであろう。ちょうど枯死せんとする樹木は、原因が根にあるのを知らず、枝や葉を研究するようなものである。

 これで病理と医学の大体は理解されたと思うが、要するに現代医学は根本が不明であるため合理性がない低科学である。これに反し浄霊医術は合理的高度の科学であり、未来の科学である。その証拠として低科学の頭脳をもって浄霊の驚異的効果を見る時、奇蹟として驚歎するが、実は奇蹟でも何でもない。治るべき理由があって治るのであるから当然である。これについて何人も知りたいであろう事は、一体太陽の精などという素晴しい力が、なぜ私という人間を通じて万人の病を治すのかという事で、全く世紀の謎である。しかしこれを説くに当っては深奥なる神秘を露呈しなければならないから、次に譲る事とする。

 つまりこの不純水素の毒粒子を焼いてしまうのです。その焼く熱度というものが大変なものなのです。ですから此処(掌)から出る光の熱は、それこそ寒暖計では計れないほどの熱ですが、ただ熱の霊なのです。普通の熱いというのは熱の体なのです。熱の霊というのは、体ではないから、その熱さは感じないのです。その代り熱としての力は非常なもので、むしろ無限と言ってもよいくらいなものです。こう説くのが科学的説明なのです。科学的と言っても機械的ではないのです。いわば霊的科学です。それで霊的科学というのは今まで人間には経験がないからちょっと分り難いのですが、理窟はチャンと合っているのです。というのは今の医学などの科学というのはごく幼稚なものだから説明ができないのです。つまり病気の原因は何だと言っても、医学では説明できないのです。それを無理にこじつけて説明してます。よく新聞や雑誌に出てますが、その苦しいのはよく分ります。こじつけだからして始終説が違って来るのです。最初この薬は非常に効くという奴が、だんだん時がたって来ると逆作用が起こるとか言うのです。結核によく効くという抗性(抗生?)物質というのが、最初はよく効いたが、だんだんやっている内に、体の方に又それに対抗する物が出来るというので、かえって逆に結核菌の力が強くなる、という事をこの頃言い出してます。そういうようで、根本が分らないから上面(うわつら)だけで、半年も効くと鬼の首でも取ったように大騒ぎをするのですが、二年たち三年たつとみんな駄目になってしまうのです。今までの結核の特効薬というのはみんなそうです。ですから私は今まで薬が出る度に、今に駄目になると言って笑うのですが、これは何んでもない事で、当然なのです。今までは物質的説明はできるが、科学的説明はできないのです。だから科学ではないと言うのです。ところがこっちの方を非科学と言い、自分の方を科学と言うのですから、おおよそ逆です。今の文化というのはそういうものです。それを今の文化的の人が威張って言っているのですから、笑うべきものです。物事がうまくゆくはずがないのです。始終みんなアップアップやって失敗ばかりしてます。つまり救世教というのは一つの高等教育です。つまりまだまだ大いに未開人的分子が残っているのを大いに分らせるというわけで、教育です。それには実物を見せなければ信じないから、浄霊やいろいろな奇蹟を見せて信じさせるというようにしてますが、実際を見ても信じない人が沢山あるのですから、如何に迷信に(とら)われているかという事が分ります。迷信者の方が迷信でないものを見れば、やっぱり迷信と見るのです。尤も、そういった迷信が無くてチャンと分っていれば救世教の必要がないわけですから、救世教を世界的の立派なものにするにはそういう迷信者が大いに必要……と言うよりか、それが根本です。それについて、信仰に関係なく無神論をやっつけるようなふうに書いてみました。

 御論文〔無神論について〕     【註 栄光二四二号】

無神論に就いて

(栄光二四二号)

 普通無神論を書く場合、宗教的に論理を進めていくのが当り前のようになっているが、私は全然宗教には触れないで、自分自身無神論者の立場に置き書いてみようと思うのである。それには先ず人間オギャーと生まれるや、早速育つに必要な乳という結構な液体が、しかも産んだ親の身体から滾々こんこんと湧き出てくる。それによって子は順調に育ってゆき、歯が生える頃になるとんで食う食物も親は運んでくれる。というようにして段々育って、遂に一人前の人間となるのは今更いまさら言うまでもないが、中でも最も肝腎な食物にいて言えば、食物にはそれぞれの味が含まれ、舌には味覚みかく神経しんけいがあり、人間楽しみながら食う事によって充分カロリーはれるのである。しかし何といっても人間の楽しみの中での王者は先ず食事であろう。そんな訳で肉体は漸次ぜんじ発育すると共に、学校教育等によって頭脳は発達し、かくして一人前の人間としての働きが出来できるようになる。そうなると色々な欲望が出てくる。知恵、優越感ゆうえつかん、競争欲、進歩性等から、享楽きょうらく、恋愛等の体的面までも頭を持上げてくる。というように理性と感情が交錯こうさくし、苦楽くらく交々こもごも至るという一個の高級生物としての条件がそなわり、社会を泳ぐ事になる。以上人間が生まれてから成人までの経路をザット書いてみたのであるが、次は大自然を眺めてみよう。

 言うまでもなく天と地の間には、日月星晨じつげつせいしん、気候の寒暖、雨風あめかぜ等々有形ゆうけい無形むけいの天然現象から、直接人間に関係ある動物、植物、鉱物等々、あらゆるものは大自然の力によって生成化育されている。これがあるがままの世界の姿であって、これら一切いっさいを白紙になって冷静に客観するとしたら、無神経者でない限り只々ただただ不思議の感に打たれ、言うべき言葉を知らないのである。実に何から何まで深遠しんえん絶妙ぜつみょうの一語に尽きる。としたら、こんな素晴しいこの世界なるものは一体誰が、何が為、何の意図によって造られたものであろうかという事で、何人もこれを考えざるを得ないであろう。そうして天をあおげば、悠久ゆうきゅう無限むげんにして、その広さは何処どこまで続いているか判らない。又大地の中心はどうなっているのであろうか。太陽熱の最高は、月球の冷度は、星の数は、地球の重さは、海水の量は等々、数え上げれば限りがない。考えれば考える程神秘しんぴ霊妙れいみょう言語に絶する。然も規則正しい天体の運行、昼夜の区別、四季の変化、一年三百六十五日の数字、万有の進化、止どまるところを知らない文明の進歩、発展等々は勿論、全体この世界は何時いつ出来たのか、何時迄続くのか、永遠えいえん無窮むきゅうかそうでないのか、世界の人口増加の限度、地球の未来等々、何もも不可解で見当はつかない。

 以上のごとくにして一切は黙々として一定の規準きじゅんの下に一ミリ毫差ごうさなく、一瞬の遅滞ちたいもなく流転している。しかしそれはそれとして、一体自分という者は何が為に生まれ何を為すべきであろうか。何時いつまで生きられるのか、死んだら無になるのか、それとも霊界なる未知な世界が有って其処そこへ安住するのか等々、これらも考えれば考える程分らなくなり、どれ一つとして分るものはない。仏者の言う実にして空、空にして実であり、天地てんち茫漠ぼうばくげんきゅうの存在であって、これより外に形容の言葉を見出せないのである。これをアバこうとして人間は何千年も前から、あらゆる手段、特に学問を作り探究たんきゅうに専念しているが、今日迄こんにちまでにホンの一部しか分らない程で、依然たる謎である。としたら、大自然に対する人間の知恵などは九牛きゅうぎゅう一毛いちもうにも当るまい。これも仏者の所謂いわゆる空々くうくう寂々じゃくじゃくである。ところが人間というやつ自惚うぬぼれもはなはだしく、自然を征服するなどとホザイているが、全く身の程知らずのたわけ者以外の何物でもあるまい。ゆえに人間は何よりも人間自体を知り、大自然に追随ついずいし、その恩恵に浴する事こそ最も賢明けんめいな考え方である。

 ところで以上の如き分らないずくめの世の中に対し、たった一つはっきりしている事がある。それは何であるかというと、これ程素晴しい世界は一体誰が造り自由自在思うがまま駆使くししているのかという事である。そこでこの誰かを想像そうぞうしてみると、先ず一家庭なら主人、一国家なら帝王、大統領といったように、この大世界にも主人公がなくてはならないはずであり、この主人公こそ右の誰である神の名で呼ばれているXでなくて何であろう。と言うより外に結論が出ないではないか。

 以上の意味に於て、し神が無いとしたら万有も無い事になり、無神論者自身も無い訳である。恐らくこれ程分り切った話はあるまい。これが分らないとしたら、その人間は動物でしかない事になろう。何となれば動物には意志、想念も知性もないからであって、人間の形をした動物と言うより言葉はあるまい。それには立派な証拠がある。即ち無神思想から生まれる犯罪者であって、彼等の心理行為のほとんどは動物的であるにみてよく分るであろう。従ってこの動物的人間からその動物性を抜き、真の人間に進化させるのが私の使命であり、その基本条件が無神思想の打破であるから、一言にして言えば人間改造事業である。

 かなりやっつけてありますが、無神論者を分らせるには、宗教的だとどうしても最初から毛嫌(けぎら)いしますから、かえって分り難いので、信仰を抜きにして書いてみたのです。つまり人間の上等と下等と言うか、そういうような事に心が向くという事は、人間としては頭脳が上等なのです。ただそういう事に全然感心を持たないで、毎日を、儲かるとか儲からないとか、思うようにゆくとかゆかないとか言って気をもんで、要するに高等な思想という事に向かないという事は、それだけ魂が低いわけです。だからそういう事を考える人――哲学者とか思想家というのは、人間で言えば上等な部類に属するのです。というのは魂の位置、霊の位置なのです。なにしろ霊の地位というのは百八十段もあるのですが、上に行くほど、つまり働きが上等なのです。そこに、真中の線――地平線――上下を区別している線があり、その線を抜いて上に行けばよいのです。それで、その線の上がつまり神様の分野で、線から下が獣の分野です。動物界です。そうなってますから、そこで今の偉い人でも、無神論者は線よりか以下なのです。それで線の所まで行くが、それを抜く事ができないのです。神様を知る――神様は確かにある、というのは線を抜いたわけです。僅かなところで全然世界が違ってしまうのです。ところが線の以下ではどんな偉い人でも、智慧(ちえ)があっても、それは悪智慧になるのです。悪い事をするために働く智慧になってしまうのです。線を抜いて上に行けば、その人の考える事、やる事が凡て本当の人間となり、つまり善だからして、まず間違いないわけです。それと共に罪を作らないからどうしても不仕合せが来ない、幸福をかち得るわけになります。その点です。ですから信仰というものは、その線を抜く事を教えるだけでなく、〝なるほど、それに違いない〟と信じさせる事です。それが信仰の根本です。

 線を抜いてからも、やっぱり幾つにも段があるのです。ところが大抵な世間の信仰は低いのです。稲荷様とか権現様を信仰するのは、線をちょっと抜いた所です。それから何々教とか何々宗というのになると大分上になって来るのです。ところが上になったとは言っても、まだ本当の上ではないのです。線をちょっと抜いた所だから直ぐに下に落ちてしまうのです。この間の霊友会というのはそうです。不断は上になっているのですが、どうかすると下に落ちてしまうから間違いをしでかすのです。そういうふうに考えると、分り難い事はないので、実に分りよいです。それで線から上の段で一番高いのが救世教です。そうなると力が違って来るのです。では今までそういった上の段に行かれる宗教は何故無かったかというと、今までの宗教は全部月の神様なのです。つまり夜の世界だったから月の神様が支配していたから、光が足りなかったのです。今度は太陽が現われたのです。ですから私のこの病気を治す力も太陽の力です。今読んだ水素の毒粒子を焼き尽くすという火素は太陽の力だからそういう事が出来るのです。ところが今までは宗教でも何んでも全部月の系統です。太陽の光からみると六十分の一ですから、六十分の一の力しかなかったわけです。ところが今度は今までよりも六十倍の力ですから、そこで信者の人でも素晴しい力を発揮するわけです。キリストでも月の神様の最高のものだから、月だけの力しかなかったわけです。私の弟子は、月の力よりも太陽の光は、僅かでも、やっぱりそれだけの働きが違うわけです。ですから奇蹟が現われるという事はそういうわけです。今までない事があるという事は、今までは月の力であったからで、今度は日の力になるという事に大きな違いさがあるわけです。そう考えると、救世教の奇蹟が多い事も、浄霊で病気が治るという事も分るわけです。別に難かしい事はないわけです。ただ、今まで太陽の方の神様が出なかった、出られなかったというところが根本なのです。それで、今度はその太陽が現われたのです。昼間の世界というのはそういうわけです。

 宇宙というものはそういう事になっているのです。凡て夜昼の区別があるように、大体一年、十年、百年、千年、万年というように、定期的に決まっているのです。今度昼間の世界になったのは三千年目になるのです。実に宇宙というものは無限の神秘であって、到底言葉では言われないくらいなものです。それで悠久(ゆうきゅう)のものですけれども、悠久の中にも大中小、大中小となって変化する事になっているのです。今度は三千年目で昼間になったのですが、三千年で一回転するのです。それで三千年というと永久と言ってもよいです。三千年ではつまらないと言っても、自分の命よりはずっと長いのです。三千年の間には幾度も生き代り死に代りしているのです。そのくらいの変化ですから、今度の変化というのは大変化でもあるし、祖先以来ないものです。ですからこれに生まれ合わせ、この仕事に(たずさわ)った人はどんなに仕合せか、祖先以来ないのですから大変なものです。そういうような大変化だからして、分らせようと思ってもなかなか分り難いのです。しかし分り難いけれども、聞いてみれば成程そういう事も有り得るわけだという事も分るわけです。こういう話は、哲学でもなければ宗教でもない、新しいものですが、()いて言えば宗教の哲学みたいなものです。それで、これを知る事が覚りを開くという事なのですが、しかし覚りを開くというが、今までの覚りは其処までは分っているのですが……それを朧げながら分ったのはキリスト、釈迦という人達です。釈迦が〝仏滅の夜が来る〟という事を言ったのは、或る程度分ったから言えるのです。それからキリストの〝天国は近づけり〟という事も或る程度まで分ったわけです。けれども、私が分るだけは分らなかったわけです。若し分れば、その時にもっと素晴しい奇蹟=大きな力を現わさなければならないです。救世教というものは今までの観念でゆくと非常に難かしいようですが、分ってみればかえって今までよりもずっとよく分るのです。それは根本が分るからして、非常に難かしいようでいて非常にやさしいのです。丁度病気を治すようなもので、医者の方で首をひねってどうにもならない者が、こっちの方でこうやって治ってしまうのですから、理窟は同じです。ただあんまり違い過ぎるので、その点に骨が折れるのです。

 それから一昨日の寄書の中にちょっと面白い話がありました。事務所の人と建築の方の椎野さんとの談話で――今度の栄光に出します。これは私も喫(吃?)驚したのですが――会館の天井の高さですが、この間建築の方の博士が来て見たのか図面でか、兎に角すっかり見てもらったのです。そうすると、下から上までの寸法というものがピッタリ合っていて少しも違ってないというのです。これを合わせるには学者が二カ月かかるそうですが、それを私は五分ぐらいなものでした。その高さを模型でやってみて、それから丁度この辺だと思って、何十何尺と決めたわけです。それは別に考えて頭を使ったわけではないのです。ただ見た感じで丁度このぐらいがよいと決めたわけですが、学者の方ではそんなに大変なものです。それから柱の太さも、やっぱり最初見本を見た時に、直径二尺八寸が丁度よいからそれにしろと言ったのですが、それも今度、太さが建築にピッタリ合っているのだそうです。重量とか、そういった計算でしょうが……。それで非常に驚いたという事が出てました。丁度これは、医者がいくらかかっても治らない者が浄霊で、ちょっとこうやって治るというのと理窟は同じだと思います。ですからこれからだんだん出来て来ますが、名前は「熱海地上天国」としますから、そのつもりで……。箱根地上天国、熱海地上天国、京都地上天国というように、だんだん各地に地上天国が出来るわけです。それで展望台の上のガラスの家は「水晶殿」と名前をつけました。その高さから屋根の形から全部私がやったのですが、これは建築屋の方では非常に難かしいものなのです。六尺の物を(つな)ぎ合わしてゆくのです。それで普通のガラスでは太陽が当ったりするとキラキラして見難いので、プラスチックにする事にしました。これならそういう事はないし、非常に丈夫です。〝風が強く当ったらどうか〟と言うから、私は〝そういう心配はない〟と言ったのです。というのは、風が当っても、丸くてスベルから、風をよけると言ったのです。それで予定よりもウンと大きくしました。というのは見物人がウンと来るだろうと思いますから、百人ぐらいが一度に入れるくらいな大きさにしました。これが出来たら、日本中の大変な評判になるでしょう。

 

 

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