いよいよ今年ももうおしまいですが、丁度去年の暮の二十四日に裁判が片付いて、それから明かるくなったわけで、今年に入ってからハワイ、アメリカにクワを入れたわけです。それに箱根の地上天国も完成したし、熱海のメシヤ開館も兎に角形だけは出来ましたし、今年は発展の基が大分出来たような形になってます。割合に収穫のあった年とでも言えるわけです。丁度、散花結実とすれば、実が少し大きくなったわけです。来年はこれが又育ちますから……。しかも秋には会館と展望台の上の水晶殿が出来上がりますから、又大いに世間の注目を引くと共に、教団も発展するわけです。何時も言うとおり、箱根は霊で熱海は体ですから、熱海が出来上がるという事は体的に大きくなるというわけです。御神業というものは凡て型でやってゆくのですから本元が出来、又形が大きくなるという事は、全体的にそうなるわけです。熱海は体的ですから、開館が出来るという事は、丁度やはり建築のような工合に御神業の方もしっかりした様相になって、大きさも目立つように大きくなるわけです。こういう訳になるのです。支部などでも、建物を少し拡張すると、それだけ教線が拡がるものです。だから形も、支部の建築などを相談される事がよくありますが、つまり家相は、四角なら四角の物でも、ちょっとでも凹むものがあるといけないのです。凹む形がいけないのです。その反対に少しでも出る形があると拡がるわけです。家相や土地というものも運命に非常に影響するのです。だからして、やっぱり理窟に合うという事もそういう訳で、凡てが順序とか形とか理窟に合うという事が、小さいような問題でいて案外結果は大きいのです。
メシヤ会館を今建築している椎野という人に事務所の酒見という人が聞いた事で面白い事があるので読ませます。
寄書〔メシヤ会館現場責任者椎野氏を訪ねて〕【註 栄光二四二号】
これについて思い出すのは法隆寺の五重の塔ですが、この寸法やこういう物がよく出来ているので専門家の方の驚異になっているのです。私は去年の春に京都に行った時に五重の塔を一番よく見ましたが、全くよく出来ているのです。その高さと言い形と言い、何処から何処まで申分ないのです。これは聖徳太子が造ったのですが、聖徳太子は私と同じように、ちょっと目で見計らって〝こうしろ、ああしと〟と指図したに違いないのです。その時には専門的の機械やそういう物がないのですから目分量でやったに違いないです。だから私のやるやり方と大体同じわけです。というのは、聖徳太子というのは私が生まれたわけなのです。それで、千二百年前に生まれて仏教を弘めるという事について、まず一番肝腎なのは、御説教やそういう事では手緩いので、大衆を教化するという事にはまだるっこいのですから、それにはああいった建物とかいろいろな設備で、まず注目を引いて、其処に見物に行くとかお参りに行くという事で知らず識らず仏教なら仏教に心が向くようにする、それが一番効果があるわけです。お釈迦さんもそのやり口をしたわけです。七堂伽藍などを造ったのはそういう訳です。ところがお釈迦さんも聖徳太子も、出が皇太子ですから、凡てにいろいろな便宜があるわけです。勿論金もそうですし、それだけの格がありますから……。ところが私は素寒貧の一平民ですから、その点においては誇ってもよいと思ってます。そこで聖徳太子も大体お釈迦さんからヒントを得てああいう物をやったに違いないです。ですから法隆寺というものは七堂伽藍の形なのです。そうして、夢殿に救世観音というのがありますが、これは一年に一度開くという事になってますが、あそこの位置が聖徳太子の住まわれた居間に当るのだそうです。それを記念に建てたわけです。それで「救世観音」というのは「救世観音」と書くのですから、やっぱり「メシヤ観音」というわけです。だからして私が今やりつつある事は、聖徳太子が世界的になったようなものです。救世教を開くについてまず地上天国を造るが、今のところは日本です。この間も言ったとおり、西が京都・奈良であって、これは根本は仏教的のもので、仏教で言えば極楽浄土の形を造ったわけです。今度は私は、東の箱根・熱海というごく良い位置を選定して造ったのですから、西の極楽浄土に対して東の地上天国という事になったわけです。仏教の根本は阿弥陀さんですから、阿弥陀さんは西の方で、西方浄土です。東の方は「東方観世音菩薩」と言って観音様になるわけです。そこで最初は観音教団で出発したのです。そうして東に極楽浄土を造らなければならないが、もう仏教の時代は過ぎて、今度は世界的にメシヤの時代になったから、凡てのそういった様式も世界的に造ったわけです。そういうふうに見て来ると、出来るべき時に出来たので、別に私がそういうつもりでやったわけでもなく、自然に神様からやらされたわけです。だから何んでもかんでも、何万年何十万年も前から準備したという事がよく分ります。
今美術館が出来る方の土地をいろいろ指図しましたが、これは簡単でして、私が二度行って、一回三十分か一時間ですっかり指図しました。道についても、もう少しするとすっかり出来上るから分りますが、これはなかなか難かしい所でした。ところが行って見ると自然にそういう形になっているのです。これは神様は前からそういうふうに準備してあるのです。ですからみんなが、此処にこんな立派な道がどうして出来るだろうと喫驚(吃驚?)してますが、それはそういうふうに地形がそうなっているのです。だから簡単なものです。それから今読んだように、天井の高さにしても、見て丁度このくらいの高さがよいというように直ぐに浮かぶのです。それは何んという事はないので、決まっているようなものです。高からず低からずです。それから柱も太からず細からずで、チャンと出るのですから、何んでもないのです。それから又階段の所の手摺ですが、ああいう形というのは他にないです。これなども、どういうふうにしましょうかと言って来たが、私も最初は全然分らないし、考えてもいなかったので、そこで行って見ると、ああいうふうにチャンと出来てしまうのです。それでああしたのです。ところが神様の方の仕事というのは、みんな非常に楽で手間がかからないのです。あの手摺なども実に簡単なものです。あれなら一番安く出来るでしょう。ところが形が非常に面白いと非常に褒められます。そういう工合で、不思議というより外ありません。そうかと言って、その時にならなければ出ないのです。前からその設計をと言っても駄目なのです。私はどうしようかと思っても出ないと止めてしまうのです。その代り時期が来るとスラスラと分ってしまうのです。こういう事も「神は順序なり」で、こういう事にも非常に順序があるのです。丁度土地なども、隣の土地が是非欲しいと思っていても、どうしても駄目なのです。というのはその時は必要がないのです。ところが必要な時になって来ると、先方で買ってくれと申し込んで来るようなものです。それは面白いものです。ですから大体の事は前もって見当がつきますが、少し具体的に細かい事などは、その時にならなければ出て来ないのです。そういうような工合で、この秋に会館と展望台が出来ただけでも世の中が随分喫(吃?)驚するだろうと思います。展望台の方も最初の予定よりも相当大きくしました。いよいよ知れると随分来るだろうと思います。
水晶殿の中に優に百人ぐらいが腰掛けて景色を見られるというくらいに広くしました。これも世界にないでしょう。直径十二間の円を半分に切った半円で、廻りは六尺巾の曲線ガラスで接ぎ合わせてゆくのですが、ガラスではギラギラして、日が当ると景色などは非常に見難いのです。プラスチックですとそういう事がないので、プラスチックでやるつもりです。建築雑誌に出ていた最近出来た丸い家がありましたが、三尺巾の縁を太い木でやってますから、重苦しくてみられません。私の方はさっき言ったとおりで、大体プラスチックで接ぐつもりですが、若し工合が悪ければジェラルミンの細いのを使おうと思ってます。それから下の高さ、縁の高さとか、屋根とか、私が細かく設計しました。屋根は一尺の深さで、円形で平ですが、雨が流れるように上の方は少し勾配をつけました。樋は外に出さないで、少し縁をつけて、凡て外から分らないようにしました。出来るとなるほどと思うでしょう。以前も言ったとおり、まず関東に行ったら日光を見ると共に、どうしても熱海の地上天国を見なければならないという事になるに違いないです。今年の日光見物に行った人は二百四十万と出てましたが、その半分としても百二十万です。だから一カ年に百万は大丈夫だと思ってます。そういうわけで、外国にも随分知れると思ってます。日本に来た外人は必ず来て見るに違いないです。美術館が出来てからではありますが、若し予定通り一カ年百万来るとすると、一人百円の入場料としても大変な金高になります。
そうして箱根・熱海の十国峠の道路が悪く、と言っても金がかかりますから容易に出来ないのですが、駿豆鉄道も中途までケーブルをやろうというので、私の方の瑞泉卿の土地を譲ってくれと言って来ましたが、私はそんなケチな事をしないで、バスの道路を作るのなら大いに賛成して援助もするが、そんなケチなケーブルでは嫌だと何処までも突張ねました。箱根・熱海間というのは、どうしても大道路を作らなければならないのです。十国峠となると少なくとも十米以上、十二米ぐらいの道路を作らなければならないです。なにしろバスが頻繁で、今でも花見時には、箱根に行こうと思ったところが、両方にバスが止まっていて三十分以上待たされました。そういうわけですから、どうしても道路を作らなければならないです。若しそういうように収入があったら、その金で道路を作ろうと思ってます。こっちは奉仕隊の人も沢山居ますから、箱根・熱海の道路というのは訳ないです。私が設計するつもりですが、トンネルを二つぐらい作ったらよいでしょう。なにしろ廻りに人家がないから割合に簡単にゆきます。そうしたら将来素晴しいものです。箱根・熱海をそういうように繋いで、両方の地上天国をみんなに大いに楽しませるという事だったら、それだけで世界的の名所になるつもりです。
浄霊について、病気が良くなるのはどういう訳だろうという事を聞かれる時に、こういう訳だという簡単な説明を納得がゆくような言い方をする、その一つの参考として書いてみました。
御論文 〔浄霊は科学療法なり〕 【註 栄光二四三号】
浄霊は科学療法なり(1)
(栄光二四三号)
これは以前からよく信者が新しい患者を扱う場合、浄霊の原理を訊かれるので、簡単に分りやすく説明をしたいという希望を聞くので、私はここにかいてみたのである。というのは散々医療を受けても治らない病気が、浄霊を受けるやアッ気ない程速かに治るので、驚くと共にその理由を知りたいと思うのは無理もない話である。もっとも浄霊をする方にしても、一度はそういう経験が必ずあるであろうが、今までのところ時期尚早の関係もあって、私は余り徹底的には説かなかったから、ここに詳しくかくのである。ところで昔から病気は医者と薬で治すものと相場が決っているばかりか、今日の人間は何事も科学ならでは信じられないという科学至上主義になり切っている以上、解するに苦しみ、訊きたいのも当然であろう。それについて最も肝腎な事は医学と科学との関係であって、これをまず知る事である。なるほど他のあらゆるものは科学で解決出来るのは言うまでもないが、独り医学に限ってそうはゆかないどころかむしろ見当違いもはなはだしいのである。というのは人間と人間以外の一切とは根本的に相違している事である。それを詳しくかいてみよう。
そもそも人間なるものは万物中最高級なる生物であって、実に神秘霊妙到底人智では計り得ないものがある。ところが科学はそのような深い点は全然未知なるがため、人間を以って単なる一個の動物とみなし、物質である肉体のみを対象として来たのであるから、病気をもって肉体の毀損と解し、薬剤や機械等の物質をもって修理しようとするはなはだ単純な考え方であった。しかし事実はそんな簡単なものではない。人間は肉体以外生命力というむしろ肉体以上重要な霊的個体なるものが存在しており、それが体との密接不離な関係にあって、人間は生きて活動出来るのである。しかし霊は無に等しいものであるため、唯物科学では発見されなかったのである。という訳で科学は肉体のみの研究に耽っていたのは、彼の死体の解剖などを見てもよく分る。従って何程進歩したといっても、両者の一方だけであるから跛行的進歩でしかない以上、いかに努力したとて結局徒労以外の何物でもないと言えよう。
以上のごとく人間は霊と体との両面から成立っており、霊が主で体が従となっているのであって、これが万有の法則である。そうして病気なるものは体にある保有毒素が霊に移写して曇りとなる、それへ自然浄化作用が発生して曇りが解消すると共に、それがまた体に写って毒素は溶解し排除されるので、その苦痛を言うのであって、つまり前者は霊体一致の緯の作用であり、後者は霊主体従の経の作用であるのであって、この理を充分知る事が肝腎である。では一体曇りの本質は何かというと、これこそ無色透明である霊に不透明な部分が発生するそれをいうのであって、これが真の病原であるから、これを払拭すれば病気は治るに決っている。この方法が浄霊であるから、浄霊とは読んで字のごとく霊の曇りを浄める手段で、これが真の医術である。従ってこれ以外の療法はことごとく非医術である事を知るべきである。以上が病原と治療との根本原理であって、一言にしていえば病気とは外部に現われた症状であり、病原は内部にある曇りである以上、この解消こそ真の治病法である。ところがその理を知らないがため医学は現われた症状さえ除けばいいとしているので、たとえ効果があってもそれは一時的で、必ず再発するのは医師も常に経験しているはずである。
では一層突進んで浄霊の根本原理を科学的に説明してみよう。それには便宜上科学の方程式に則り、理論科学と実験科学との両面から検討してみるが、今のところこれが最も正しい方法であるからである。そこで霊の曇りとは何であるかというと、これこそ薬剤の毒化したものであって、その本質は不純水素である。不純水素とは水素中に毒粒子が混入されたもので、この毒粒子を潰滅すれば純水素となり、病原は根絶される訳だが、これには非常な高熱を要する。それによってこの毒粒子を焼尽出来るからである。しかしこの高熱は地球上未だ嘗て存在しなかったところのXであるが、幸いなるかなこの説明に最も好都合な一事が発見された。それが彼の原子爆弾であって、人も知るごとく原爆の高熱も今まで全然なかったもので、二十世紀の今日初めて発見されたもので、この点よく共通しており、偶然の一致というよりももちろん神意の表現である。ただ異うところは原爆の熱は体の熱で、浄霊のそれは霊の熱であるから、その強力さは比較にならない程のものである。すなわち体熱の方は限度があるが、霊熱の方は限度がない程の高度であって、もちろん科学では発見出来なかったのである。もっとも発見出来ても人為的には作り得ないから、この点から言っても原爆とは比べものにならない程の性能である。しかし科学が現在より数層倍進歩した暁、あるいは発見出来るかも知れないが、それは今のところ未知である。ではこの本質は何かというと、これこそ太陽の精であって光と熱の霊である。私はこれを名付けて火素といっているが、この火素が不純水素に向って放射されるや、水素中の毒粒子のみ一瞬にして焼尽される。つまり病原を焼いてしまうのである。というのは体的不純物と異い、霊的の方は霊熱でなくては焼けないからである。その方法としてこれも私は一紙片に「光」の文字を書き、それを希望者に頒ち与える。するとこれを御守として懐中へ入れるや、太陽から不断に放射されている火素が、私を通じて御守に伝流され、その人の掌から放射される。ちょうど太陽が放送局とすれば私は中継所であり、術者は受信機と見ればいい。それによって毒粒子は全滅し純水素となって漿液中に吸収され、かくして病気は全治するのである。これを一層分りやすくいえば、例えば痛む個所に向って手を翳すやたちまち痛みは去る。それは患部の曇りが間髪を容れず解消し、体に映るからであって、しかも毒粒子は結核菌でも伝染病菌でもあらゆる菌の発生原であるから、それが全滅するとしたら、これこそ万病治癒の理想的医術である。以上で大体判ったであろうが、これを大雑把に言えば、医療は溶けかかった毒素を固める方法であり、浄霊はより溶解し排除させる方法であるから、前者は病気保存法であり、後者は病気解消法である。としたら公平に見ても、治る方が科学であり治らない方が非科学であるから、私は医学は非科学であるというのである。その例として医学の説明をみればよく分る。なるほど徴に入り細に亘ってはいるが、ことごとく枝葉末節的で、根本には触れていない以上、実際に合わないのは医師も認めているはずであろう。ちょうど枯死せんとする樹木は、原因が根にあるのを知らず、枝や葉を研究するようなものである。
これで病理と医学の大体は理解されたと思うが、要するに現代医学は根本が不明であるため合理性がない低科学である。これに反し浄霊医術は合理的高度の科学であり、未来の科学である。その証拠として低科学の頭脳をもって浄霊の驚異的効果を見る時、奇蹟として驚歎するが、実は奇蹟でも何でもない。治るべき理由があって治るのであるから当然である。これについて何人も知りたいであろう事は、一体太陽の精などという素晴しい力が、なぜ私という人間を通じて万人の病を治すのかという事で、全く世紀の謎である。しかしこれを説くに当っては深奥なる神秘を露呈しなければならないから、次に譲る事とする。
今読んだだけではちょっと分り難いようですが、いずれ栄光に出しますから、これを幾度も繰返して読んでいる内にはっきり分ります。はっきり分るという事は、つまり理窟に合っていればはっきり分るのです。医学書なら医学書をいくら読んでもはっきり分るわけがないので、というのは嘘だからです。間違っているからです。医学書よりかこの方が難かしいようでも、本当の理窟に合っているから必ず分るのです。そうすれば、未信者とか又浄霊で治った人で説明を聞きたい人にこれをよく説明してやれば、なるほどと分ります。そうすれば迷いが無くなります。そうでないと、浄霊で治って有難がっていても、やっぱり徹底しないから、再浄化や、この次他の病気が起こった時に医者に行くという事になるからして、どうしても徹底して本当に分らせなければならないのです。まだ書き方がちょっと完全ではないのですが、なにしろ非常に難かしいです。ずっと細かく、科学書のように書くとよいのですが、それでは手数がかかったりするので、なるべく切詰めて、ごく簡単に急所を説明して分らせるというのが一番よいです。
浄霊の原理は、相当の信者の人でも分り難い点があるだろうと思います。その一番分り難い点は火素の力です。急所というのは曇りです。曇りというのは水素の中にある不純物で、毒粒子ですが、この毒粒子は細かくて到底顕微鏡では見られません。それを此処(掌)から出す火で焼くのです。水の中にあるものを焼いてしまうのです。ところがこの場合の水素というのは、ごく微粒子で、稀薄なものです。それでこっちから行く火素の熱度というものは大変なものです。原子爆弾よりももっと高いのです。だからこの火素の力に遭えば、原子爆弾でも大丈夫なのです。又、それは物質ではないので、物質なら限度があるから弱いのです。原子爆弾でもその力というのは弱いのです。それで最も強い力というのは最も物質的でないものです。要するに目に見えず感じもしないという、ごく稀薄であればあるほど力は強いのです。ですから一番強いのは風の力です。風というのは大きな家でも倒したり吹飛ばしますが、これは一番目に見えないもので、おそらく、どんな大風でも目に見えません。見えるとすれば、それはホコリとか他の物質が見えるのです。風そのものは絶対に見えないのです。その見えないものがそれほどの力があるのです。ですから稀薄なものほど強いのです。人間でも、人間の考えが大したものです。大戦争をする英雄の頭の〝ああしよう、こうしよう〟という考えが大したものです。スターリンがあれだけ考えている事は、目には見えないから強いのです。それが言葉に出ると物質化して来るから、いくらか見えて来るのです。ですから考えている、それが一番力が強いのです。その考えたものを物質に現わす場合の働きが言葉ですから、言葉の方ではそれ以下という事になります。そういうようで、目に見えないものほど力が強いのです。それで一番目に見えるものの力は馬力という馬の力ですが、これは一番よく見えます。これが今の浄霊の原理の急所というわけです。
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