一月二十七日

 この間例のアメリカの新聞記者でエリス・グリリという人が、日本の主な新聞記者を呼んで私の宣伝をしてくれたわけです。その時に〝救世教の岡田茂吉というのを知っているか〟〝よく知っている〟〝あの人の事を新聞に大いに書かなければならないが、どうして書かないのだ。われわれが見て、日本で岡田というあの人ぐらい偉い人はないではないか〟と言ったのです。そうすると〝偉いかどうか分らないが、いろいろ欠点がある〟というわけで、多分静岡裁判や何かの事を話したらしいと思います。そうすると〝それくらいの事が何んだ。あの人がやっている仕事は、その百倍ぐらい大きいではないか。そんな事は問題にならないではないか〟と言ったので引込んでしまって、目を白黒していたそうです。〝僕は日本に四年前に来て、日本人のいろいろな偉い人に会ったけれども、岡田茂吉ぐらい偉い人は日本には居ないではないか。だから君達は大いに書かなければ駄目ではないか。なにしろ病貧争絶無の世界という、地上天国を拵えるというのだからして、世界平和の建設事業だ。これほど大きな抱負でやっている人は、おそらく世界にないだろう。しかも着々と実行に移している。そうしてあの大仕掛ないろいろな地上天国を造っているという事だけでも素晴しいものではないか〟と言っていろいろ話したそうですが、実に痛快だったという話です。その通訳をした人は信者で、浮世絵専門にやっている人で、英語はかなり出来るのです。そういう事がありましたが、アメリカのそういう人から比べると、日本のジャーナリストはあまり小さすぎるのです。或いはしかし、日本では今までそれでよかったのかもしれません。つまり私の方が大きすぎるために、日本の新聞記者では理解ができないのだろうと、私はそういうふうに思ってます。それについて書いてみました。

 御論文〔再びジャーナリストの考慮を望む〕

再びジャーナリストの考慮を望む

(栄光二四九号)

 これは一般宗教には当嵌らないかも知れないが、少なくとも本教としては言わざるを得ないのである。それは何かと言うと、学者やジャーナリストの宗教に対する見方であって、必ずと言いたい程科学の眼を以て批判する事である。処がよく考えてみると、これ程不合理な話はあるまい。何となれば、科学は唯物観念を以て物を見るに反し、宗教は唯心観念を以て見なければならないからである。つまり、科学は形而下的分野に属し、宗教は形而上的分野に属しているからである。即ち、前者は地面に立って屋根瓦の表面を見るに対し、宗教は屋根の上から地面を見下(みくだ)すようなもので、この主客転倒に今日まで気附かなかったのである。

 この意味に於て、滑稽なのは、宗教学者達が学問上から宗教を論ずる事である。考えてもみるがいい、仮に若しそれが妥当としたら、その宗教の開祖よりも学者の方が上になる事になるから、そういう学者こそ一派を立てて生神様になれば、成功疑いなしであろう。又新興宗教にしても、その殆んどは既成宗教を基本としている以上、同様の事が言えると思う。併し、それはそれとして、今日学者やジャーナリストが新宗教を批判する場合、洵に皮相(ひそう)浅薄(せんぱく)な見方である。例えば現当利益、特に病気治しなどは低級だとか、金儲けが目的だとか言って、肝腎な宗教理論には一指(いっし)も触れない事であるのは、可笑しな話ではあるまいか。これに就いて私の言分を書いてみるが、他の宗教は知らないが、少なくとも我がメシヤ教に至っては、現代の学問で分るようなそんな低い程度のものではない。全く想像もつかない高度の文化的超宗教であって、偉大なる救いの業である事は、声を大にして言いたいのである。言う迄もなく、既成宗教的に如何に巧妙な理論や説教を以てしても、それだけで人間を救う事の出来ないのは事実が示している。一例をあげてみれば、今仮に目の前に苦しんでいる病人に向って、枕元で百万陀(ひゃくまんだ)()有難い御説教や教典を聞かせたとて、成程心の慰めにはなるが、病気そのものを治す事は出来ないのは分りきった話である。故に確実に病気を治し、健康を快復させ、貧乏も救われ、一家幸福になるとすれば、恒産あれば恒心ありで、自然不正や不道徳も減るに違いないから、よりよき社会となるのは当然である。私はこれが宗教としての真のあり方であって、これ以外に何があるかである。故に、この意味から言うも、彼の釈迦、キリストが、遺憾乍ら万人の病気を救い得なかった為、二千有余年を経た今日と雖も、相変らず人類は病貧争に苦しみつつあるのであるとしたら、人間は何時になったらこの桎梏(しっこく)から免れる事が出来るであろうか、恐らく見当はつくまい。としたら、実に情ない話である。これによってみても、今日まで世に現われた幾多聖者や賢哲にして、真に救う力をもった者は一人もなかったのである。それが為止むなく、その諦めを説くのが宗教の建前となってしまったのも、(むべ)なる哉である。処が喜ぶべし、私はこの夢の如き真の平和幸福世界を実現する力を神から与えられたのである。これは自惚でも何でもない。現に不幸に悩める人々を救いつつあり、これが本教の救世事業である。

 以上によって、私という人間が如何なる存在であるかが分ったであろう。そうして、今日の世の中を大局から眺めてみると、現代文明は実に大いなる誤謬に陥っている。今その二、三の例をあげてみるが、現在日本に於ける最大悩みである食糧問題にしても、又世界的悩みである病気の問題にしても、それを現わしている。然もそのどちらも、進歩は行詰り状態にあって、解決処か、益々溝は深くなるばかりである。これ等に対し、私は根本的解決の方法を神示によって知り得た以上、今や日本は固より、世界全体に渉って知らしめつつあるので、勿論主眼とする処は、全世界指導者階級の目を醒まし、新文明の何たるかを知らしめる事である。つまり、小学生の学力をして大学程度にまで引上げる事である。

 以上の意味に於て、私の説く処余りに超越しており、学者もジャーナリストも容易に理解出来ないので、反って一種の恐れさえ抱くらしいのである。それというのも、本来ならば大いに謳歌礼讃すべきが本当であるのに、反って無批判的に非難する人や、触れるのを避ける人などある事実である。その現われとして、私が最近発行した「結核信仰療法」及び「救世教奇蹟集」の両著にしても、日本の三大新聞は一致してその広告を引受けない事である。その理由を(ただ)せば(げん)左右(さゆう)に託して、真相を言い得ない苦しさであって、これは本教係の者から聞いた話である。

 これでは、現在の日本は言論の自由がない訳で、然もこの自由の抑圧者が大新聞としたら、殆んど信じられない程で、恐らく世界の文明国中例がないであろう。併しそれも無理はないかも知れない。何しろ私の説たるや、余りに現代科学を超越しており、丁度人力車時代に飛行機を見せるようなものであるからである。又、昔から何時の時代でも、既成学問を覆えす程の劃期的発明、発見、新説等を発表するや、例外なくその時代の識者から誤解と迫害を受けるのは、歴史が示している。茲に先駆者の悩みがあるのである。特に日本の知識人程それが甚だしいのは、例えば今日、世界的偉人として万人から仰がれている、キリストや釈迦の如き大聖者より以上の人間は、永久に現われないと決めている事である。今一つは日本には外国人より勝れた人物は出ないとしている迷妄である。これが国民感情に沁み込んでいる以上、私とそうして私の仕事が認められないのも当然であろう。

 それが為、私の言説も事業も、頭から否定してしまい、調査検討など思いもよらないらしいのである。特にこの傾向はジャーナリストに多い事は、本来なれば外国にも例を見ない程の劃期的偉大なる私の聖業であるから、直に正邪善悪を検討しそうなものだが、そういう事は全然ない。私は思う。もし研究の結果聊かでも疑問の点があり、社会上マイナスと認めたら、断乎排撃し葬り去ると共に、反対に、正しい説で、社会人類にプラスであるとしたら、大いに援助すべきではなかろうか。それをいつまでも有耶無耶にしている態度は、前記の如き恐怖感の為か、触らぬ神に祟りなし的事勿れ主義の為か、解し難いのである。

 以上私の思うままを書いたのであるが、要するに私は、ジャーナリストとしての当然な責務を希望するに止まり、それ以上他意はないのである。ここに再度の考慮を求むる所以である。

 幸運の秘訣というのを書いてみました。これは前に書いた事がありますが、今度はもっと徹底して書いたのです。未信者などに話をする場合にもっと分りやすく書きました。こういうような言い方だと、幸福と信仰の関係が良く分ると思います。

 御論文〔幸運の秘訣〕     【註 栄光二四六号】

幸運の秘訣

(栄光二四八号)

 この事について私は以前もかいた事があるが、今日の世の中を見れば見る程不幸な人が余りに多いので、一層徹底的にかいてみるのである。言うまでもなく昔から人間の運不運程厄介な問題はあるまい。誰しも人心がついてから死ぬまでの間、この考えから離れられないのが人間としての必然性であろう。というのは最も分りたいと思う事程、最も分り難いのが世の中の常であるからで、少しでも分るとしたらこれ程結構な事はあるまい。ところが、幸いなるかな私はこの根本がハッキリ分ったのである。そればかりか実地経験によっても少しの間違いはないので、ここに確信を以って説くのである。

 それについては誰も知る通り、一口に運といってもこれ程茫漠たる掴まえどころないものはあるまい。しかも自分ではどうにもならないので、あなた委せより致し方がないのはもちろんで、これが運というものであろう。誰かが言った“人生は大賭博なり”とは宣なるかなである。従ってどんなに偉いといわれる人でも、一応は諦めてはいるが、中々悟りきれないもので、これが人間の宿命とでもいうのであろう。そこで何とかして幸運を掴みたい一念から活動も出来る訳である。それがためありもしない智慧を絞り、欲しい成りたいの苦労のしつづけで終るのが人生というものであろう。そうして運くらい皮肉なものはない。掴もうとすればする程逃げてしまう。西洋の(ことわざ)に“幸運のチャンスは前髪のようなもので、通る瞬間掴まないとお終いだ”というが全くその通りである。

 私の長い経験によっても、運という奴に始終からかわれているような気がする。訳なく掴めそうで中々掴めない。目の前にブラ下っているから手を出すとスルリと抜けてしまう。追いかけようとすればする程逃足の速い事、全く始末の悪い代物だ。ところが私はこの運という奴を確実に掴えたのである。だがそれを説明するに当って困る事には、信仰者ならイザ知らず、一般人には中々分り難い点がある。というのは物を見る場合上面(うわっつら)だけを見て中身を見ない事で、否見えないのである。ところが運に限って因は中身の方にあるのだから、これが分らなければ運は決して掴めない。という訳は人間が肉体を動かす場合、肉体自身が動くのではなく、中身にある心が動かすのであるから、幸運もそれと同様中身が肝腎である。その訳を詳しくかいてみよう。

 まず右の理を押し広げるとこういう事になる。すなわち上面とは現実界であり、中身とは心霊界という目に見えない空間の世界である。これがこの大世界の組織であって、造物主はそう造られたのである。故に心が肉体を動かすごとく、霊界が現界を動かすのである。しかも一切は霊界が主で現界が従であるから、運といえども霊界にある霊の運が開ければいいので、そのまま体に映り幸運者となるのはもちろんである。では霊界というものを一層詳しくかいてみるが、霊界は現界よりも厳正公平な階級制度になっている。それが上中下百八十の段階になっていて、六十段ずつ三段階に分れている。もちろん上が天国、下が地獄、中間が中有界といい現界に相応している。

 こんな事をいうと、今日の人間は直に信じられまいが、私は神から詳しく知らされ、その上長い間霊界と現界との関係を実地経験によって、底の底まで知り得たのであるから、寸毫の誤りはないのである。何よりもこの理を信じて実行に移し、幸運を掴んだ人は今までに数え切れない程あるばかりか、私自身としてもその一人である。それは私を客観的に見れば直ぐ分る。私がいかに幸福な境遇であるかである。そこで今一歩進めて右の段階を説明してみるが、前記のごとく人間の体は現界に、霊は霊界にあるとしたら、百八十段中のどこかにいるはずであって、つまり籍のようなものである。しかもこの籍は一定しておらず、絶えず上下に移動しており、運命もそれに伴う以上、人間は出来るだけ上段に昇るよう心掛くべきである。言うまでもなく下は地獄界で、病気、貧乏、争いはもちろん、魑魅魍魎、百鬼夜行、暗黒無明の世界であって、あらゆる苦悩が渦巻いている。これに反し上段へ行く程反対に良くなり、天国浄土的平和光明、健富和の理想境であり、中段は中位である。

 以上のごとく霊界の籍通りが体に移り、運命となるとしたら、霊の地位向上こそ幸運の根本である事が余りにも明らかである。何よりも事実を見ても分る通り、世間よく出世をして人から羨まれるようになり、自分もいい気持になって、いつまでも続くと思っていると、豈計らんやいつしか失敗転落、元の木阿弥となる例もよくある。というのはこの理を知らず、人力にのみ頼りすぎるからで、しかも人を苦しめ、無理をする結果、形だけは成功しても、霊は地獄に堕ちているので、霊主体従の法則によりその通りの運命となるのである。そうして霊にも物質と同様重量があり、重ければ地獄に堕ち、軽ければ天国に上る。昔から罪の重荷というが、その通りで、悪の行為は霊が曇り重くなるに反し、善の行為は軽くなり上へ昇るのである。故に人間は悪を慎み、罪を作らないようにする事で、出来るだけ善を行い、霊を軽くする事こそ幸運の秘訣である。これが真理である以上、これ以外方法のない事は断言するのである。といってもなるほど理屈は分るが、さて実行となると中々難かしいものである。ところが容易に出来る方法がある。これこそ信仰であるから、幸運を得たい人は何をおいても、まず信仰に入る事である。

 今読んだようで、霊界は層になってますから、そのとおりが写るので、つまり層というものが人間の魂の居所なのです。ところがこの魂という奴が人間全体を支配しているのですから、魂の居所という事が資格です。だから魂の資格さえ上になっていれば全然苦しみはないわけです。しかしそうかと言って人間今までにいろいろな罪穢れや薬毒やいろいろなもので汚しているから、その掃除をされなければならないのです。そこで、信仰に入ると魂だけは先に上の方に行ってしまいます。そうすると魂だけが光を持つと、肉体にある汚れがどうしても魂と相応しないから、魂の地位だけにきれいになれなければならない。浄まらなければならない。それが浄化作用です。だから信仰に入ってからの浄化作用と未信者の時の浄化作用とは意味が違うわけです。その区別を知っておかなければならないのです。未信者の時の浄化作用というのは、その人の健康を維持するために自然に浄化作用が起こるのです。その浄化作用が起こらなければその人は死ななければならないのです。だから人間できるだけ生きて働けるように自然浄化が起こるのです。自然浄化とは悩み苦しみによって掃除されるわけです。そこで、よく修業などをして、断食をしたり、山に(こも)ったり、いろいろな難行苦行をするという事は、その掃除をするために自分から苦しみをするわけです。普通の人には他動的に苦しみがぶつかって来るのですが、難行苦行という奴は自分から進んで難行苦行の世界にぶつかってゆくわけで、自動的です。その点が違うわけです。ところが苦しみによって浄められる事を知らないからして、苦しみを逃れるために又いろんな嘘の事をやるのです。ごまかしとか、金が足りなくて苦しめば人を瞞して金を得るとかして、次の罪を作るから、苦しみを取りながら次の苦しみを作っている。結局二致も三致も(二進も三進も?)ゆかなくなって地獄のドン底に落ちるというので、これは世間に沢山あります。ですから病気もやっぱりそうです。病気を免れるために薬で一時的に固めようとして、第二第三の病気を作るというのと、今言った事は同じ理窟です。そういう事が今まで分らなかったのは、勿論信仰のないためですが、今までの信仰では徹底して説いてなかったです。他の抽象的(ちゅうしょうてき)に苦しみは罪のためだというように単純に考えていたのです。それで、今霊層界の事を書いたのは、つまり徹底して書いたわけです。ですから罪というものや、そういう事の関係がはっきり分っていなかったのです。よくお蔭話にありますが〝自分のような罪穢れの多い者には資格がない〟とか、〝それにもかかわらずこういうお蔭をいただいた〟という事がありますが、なるほど自分の思いのある罪穢れもあるに違いないですが、思いのない罪穢れもあるのですから、漫然(まんぜん)と罪穢れと言っているのです。ですから罪穢れと人間の幸不幸が今までははっきり説かれてなかったのです。私は何時もお蔭話を見る時に、罪穢れ罪穢れとよくありますが、一番はっきりしているのは薬を使った事です。しかし薬を使うという事が、実は自分で悪事をしようと思ったのではないので、かえって早く丈夫になって働こうと思ったために薬を使ったので、要するに薬というものは病気を良くするものだという事に瞞されていた被害者です。これは詐欺どころではないので、一番大きな欺瞞です。そういうふうに考えてくると、薬をのむという、一つの瞞しを受けて居たわけです。そして又、お医者でも何んでも悪意はないので、結局において人を助けようという考えには違いないから、普通の罪、善意の一つの詐欺です。妙な話ですが、そう言うのがピッタリしているわけです。というのは、世の中の組織がそうなっているのです。それは夜の世界であったためにはっきり物が分らなかったからです。殆んどがそういう間違った事が行われていたのです。それが長い間そうなっていて、それを発見する人がなかったというためであったので、これは人間の一つの運命です。それを発見できないで苦しみながら、そういうものとして続けて来たのです。それがいよいよ神様は私を使って発見したという事は、教えたわけです。これはみんなよく知っているでしょうが、そういうようなわけで、運が良くなるという事は、どうしても霊的地位が上に行くという事なのです。だからして〝どうも思うようにゆかない、困る事が多い〟という事は、結局自分の霊界の地位が低いからです。例えてみれば〝自分は信仰に入って有難い、よく分るが、どうも親父の奴は分らない〟又〝娘も伜もこれに反対してしようがない、どうしたらよいだろう〟というように考えている人は随分あります。それは自分の霊層界の地位が低いからです。若し自分が高ければ、自分の家族の者は霊線が繋がってますから、自分の霊が高上すれば、その繋がっている枝でも幹でも、自分の地位の方に引張り上げられるわけです。私が何時も言う〝分らなかったらウッチャラかしておけ、(あせ)って早く信仰に入れようという考えはいけない〟という事はそういう事です。ですからそういう事は全然考えないで神様に御任せして、自分だけが一人でも多くの人を助けて、神様のお役に立つというようにすれば、自分の霊が上って行きますから、そうすると他の者も自然につり上げられるから、黙っていても分るというわけです。結局において、根本の根本というものは自分の魂の居所にあるのです。ただし魂だけが上に行っても、自分の霊や或いは肉体が伴わないという事は、そこにまだ汚れがあるからで、それの浄化が起こるわけです。しかしそういう場合には浄化が早く済むわけです。そういう事が分ると、別に迷う事や苦しむ事はないわけです。しかしそこまで覚れるという事がなかなか大変なのです。この覚りは本当の真理です。今までいろいろな宗教などで説いた事よりずっと上ですから、その点などがよく分ると、いろいろな、宗教、思想、哲学というものまで分ります。この話はそのくらいにしておきます。

 ちょっと面白い話を書いてみました。前に幾らか書いた事がありますが、これも変った事も書き足してありますから、参考になると思います。

 御論文〔神様と私との関係〕     【註 地上天国五十七号】

神様と私との関係

(地上天国五十七号)

 これは昔からよくある事だが、宗教の教祖や自称生神様などは、よく神様に伺いを立てるとか、神様の御託宣を仰ぐとかいって神憑りになり、自問自答をしたり、自動書記や心に浮かぶ等の行り方であって、言わば間接的方法である。処が昔から神との交通はこの方法より外にないのは衆知の通りである。処が私という者は全然異っていて、未だ(かつ)て世界に例のない存在であるから、一通りかく必要があると思うのである。

 私も以前は神との交霊的方法によって御蔭を得た時代もあったが、これは重大な事柄に限ったのである。その場合色々面白い事があった。例えば心配事がある時など伺いを立てると、神様は何事も言われず、只呵呵(かか)大笑されるのみで、私はハハア心配するなとの事と解したのである。処が日の経つに従い果してその通りであったので、今度は私の方も呵々大笑したので、こんな事も度々あった。そうして私が大本教信者であった頃は、国常立尊という神様が時折お憑りになったが、その神様は崇高な威厳と厳しい霊感のあった事は今でも覚えている。併し一番憑られたのは何といっても観音様で、絶え間なしという位であった。勿論その時の気持は、何ともいえない(なごや)かさで、大慈大悲の御心が溢れていたのである。

 ここで一つの面白い事は、確か以前も少しかいた事があるが、伊都能売金龍と申す神様が憑られた事があった。その龍神は数千年間琵琶湖に住まわれ、時を待たれていたのが、愈々時節到来因縁によって私に憑依されたのである。この神様は八大龍王の頭領である九頭龍といって、俗間で九頭龍権現のお名前で祀られているのがこの神様である。何しろ長い間龍神であられたが為最初憑られた時は眼光爛々と輝き、口は耳まで裂け、額の両側から大きな角が隆起し、背の上部、肩と肩との真中辺が角型に隆起し、物凄い唸り声を発するので、私は愕然としたのである。その頃の私は霊的知識がまだ余りないので、何が何だかサッパリ分らなかったが、その後間もなく龍神という事が判ると共に、暫くして話をされるようになった。その時に話された事は“吾は長い間龍神になっていた為、人間の言葉が使えなかった処、おかげで漸く使えるようになった”と喜ばれ、それから色々な話をされたが、その中で随分神秘重大な事を教えられ私は驚きと共に嬉しさが込み上げた事も度々あったのである。

 まだ色々あるので何れはかくが、ここで言いたい事は現在の私である。それは静岡事件の際留置所の中で、頗る神秘な神業が行われた事はいつか話した事があるが、その時私の体内に入られたのが最高最貴のミクラタナの神様*であって、出所早々散花結実の書を千枚かいて主なる信者に(わか)ち与えたのも、その時の経綸によったのである。処がその時から後の私は、以前のように神様に伺う事は必要がない事になったのである。というのは神霊は私の体内に在す以上、以前のように神と人との隔てが撤去され、神人合一の境地になったからである。つまり神即人である以上、私の行う事は神直接であるから、私の思うままを行ればいい事になったのである。

 このような訳を知ってから分った事は、神様に伺うというのは、最初にかいた通りこれまでの行り方であって、間接的である。処が今度のようになった私としては、未だ嘗て世界に例のない事は勿論で、釈迦、キリスト、マホメットの三大聖者は判らないが、恐らく私程の神との直接的ではなかったと思うのである。何故なれば今日残されている幾多の功績を見ても分るのである。

御倉板挙之神(みくらたなのかみ):伊耶那岐尊が天照大御神に高天原の統治を任せる時に、授けた首飾りの玉の神。如意宝珠=太陽神の身魂=太陽の黒点にあたる。その分け御魂が〝御守り〟

 そういうようなわけで、非常に力も増したし、非常に良いのです。その代り時によると困る事や厄介(やっかい)な事があります。自分のやる事が、いろいろな順序が違ったりすると、神様から気をつけさせられると言いますか、自分の神様が気をつけると言いますか、ちょっと工合の悪い事があります。一昨日お茶の先生が来て――私はお茶を習ってはいないが、お茶を(た)てた時飲むだけなのですが――茶席で支度ができたからと案内に来たのです。そうすると、茶道具屋が来ていたのです。家の奥さんが道具屋も一緒にお茶を飲ませようと思って、その部屋に居たわけです。丁度私と並んで、私が先に飲み、その次に道具屋が飲みますが、そうすると私が急に気持が悪くなって、居ても立ってもおられなくなったのです。その時は気がつかなかったのですが、直ぐに立ってその部屋から出たのですが、〝そうだ、道具屋と並んで同じお茶を飲んだからだ〟という事が分ったわけです。それは霊的にはこんな(ヽヽヽ)(ヽ)違っているのですから……。その時には私の霊が下に下げられるわけです。それで苦しくなるわけです。そういう事が時々あるのです。ウッカリしていると思いもつかない苦しみやいろいろあるのです。家の人もだんだん慣れて来るが、今の事も、奥さんも初めて知って、これから気をつけようという事になったわけです。それから面白い事には、この静岡事件から後は、私は以前のように……以前は事によっては分らない事は神様に伺ってやるのですが、そうすると逆な事を教えられるわけです。それで後でそれが分って神様に伺うと〝もう必要がない、そのやり方は間違っている〟つまり今までの間接が直接になったわけで、それが分ったので、それからは止めました。そういう事は今までなかったからして、よく神様からお知らせがあったとか、神様にお伺いするという事がいろいろありましたが、それはつまり神様が間接だからです。つまり神人合一という事は、そこに分けられていないわけです。同じになっているわけです。非常に良い点もあるし、慣れるまでは今行ったような事があるのですが、だんだん慣れてゆきます。ですからフッと浮かぶ事でもそれでよいことになるわけです。地上天国でもその他いろいろ造る場合でも、庭なら庭をどういう形にするとよいという事も直ぐに浮かんで、その情景が見えるのです。見えると言っても、形に見えるのでなくて、霊的に見えるのです。だから非常に簡単なわけです。どっちかというと張合(はりあい)がないわけです。前のように考えた方が張合があります。そういうわけですから、今は熱海の地上天国、美術館などもチャンと出来ているのです。部屋の拵え方からみんなできているので、張合がないような気がして、次の事を考えているのですが、それでは早すぎるし、妙なわけです。そういう感じの人は今までおそらく無かったでしょう。

 

 

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