今度、今まで私の書いたいろいろなものを選り分けて「救世教の聖書」といったようなものを作るという事になって、その序文を書いてくれと言われたので書いてみました。これはつまり〝救世教というものはどういうものだ〟という事の急所だけを書いたものですが、これはみんな分っていますが、しかし幾らか又、組合わせ方が、こういうふうだというような事も参考になるわけです。
御論文 〔救世教とは何ぞや 序文〕 【註 栄光二五三号】
救世教とは何ぞや 序文
(栄光二五三号)
この文を書くに当って、前以て断っておきたい事は、我が救世教は純然たる宗教ではないのである。と言っても、一部には宗教も含まれてはいるが、全部ではない事も勿論である。では、何故救世教の名を附けたかというと、何しろ有史以来夢想だもしなかった処の劃期的救いの業である以上、止むを得ずそう附けたまでであって、特殊の名前を附けるよりも、この方が分り易く親しみ易いからで、これを率直に言って宗教以上の宗教、即ち超宗教であり、空前の救いの業と思えばいいのである。
そこで先ず大体の輪郭を書いてみるが、抑々この世界は人類が原始時代から現在に到るまでの長い間、幾多の卓越せる有能者が現われ、力の限り遠大なる理想の下に苦心努力した事によって、今日見るが如き絢爛たる文明が出来上がったのである。人間はその恩恵に対し、大いに感謝感激が湧くべきに拘らず、事実はそうでないとしたら、実に不思議と言ってよかろう。併しよく考えてみると、何よりも肝腎な幸福がそれに伴なはないからである。その原因は言うまでもなく現在文明のどこかに一大欠陥があるからであって、私はその欠陥を神から知らされたのである。それは何かというと現代文明は全面的進歩ではなく、半面である唯物分野のみの進歩であり、他の半面である唯心分野は全然顧みられなかった事である。併しこれにも理由がないわけではない。即ち神の経綸上、物質文化を発達させる為には、或期間唯心文化の発達を阻止しなければならないからである。それによって物質文化は予定の線にまで発達した今日、ここに神は唯心文化を一挙に飛躍させ、両々相俟って真の文明世界を創造されんとするのである。そうしてその使命の下に生まれたのが我が救世教であるから、既成宗教とは凡てに渉って比べものにならない程の相違があるのである。
以上の如くであるから、根本としては長い間眠っていた有神思想を呼び覚ますことであって、これが容易ではない。何しろ文化民族の大半は科学に魂を奪われ、神を無視して来た今日、この魂を揺り動かすとしたら、実に驚異的超人力によらねばならないからで、これによって神の実在は確認されるのである。その方法としては奇蹟より外はないので、本教の奇蹟の多いのもその為である。勿論この力こそ主神から伝達される絶対力であるから、如何なる無神主義者と雖も、有神思想に転向するのは勿論であって、ここに精神文化興隆時代に入るのである。その結果、跛行的文化は是正され、真の文明世界実現と共に、人類の最大苦悩である病気、貧乏、争いの三大災厄は根本的に解決されるのであって、その為選ばれたのが私であって、このことは今改めて言うのではない、昔から幾多の聖者賢哲が予言された処であり、只その時期が到来したまでである。彼のキリストの天国は近づけり、釈迦の弥勒下生、天理教教祖の甘露台の世、大本教教祖の松の世、日蓮の義農の世、猶太教の救世主降誕等々もそれであって、これに就いての注目すべき一事がある。それは右は全部予言であって、実現性はない事である。然るに私はこの地上天国を現実に樹立するのであるから、その実行者であり、各聖者の予言の裏附者である。というと、その言の余りに誇大なるに驚歎するであろうが、この言を発する私としては、いかに確信に満ちているかが窺われるであろう。それというのも、主神は私に対して目的達成に必要な凡ゆる智慧と能力を附与せられ、然も超人的神力をも授け給うたのである。そうしてこの神力なるものは人類の経験上未だ嘗てなかったものであるから、到底想像は不可能である。現在私はこの力を自由自在に行使し、無数の奇蹟を現わしている。故に一度本教信者となるや、如何なる人でも直ちにこの福音に浴する事が出来るのである。
即ち病める者は医され、貧なる者は裕かに、争いは霧消し、不幸は幸福に転化する等々、神の恩恵の如何に深遠なるかに感激するのである。そうして個人の集合体が、社会であり、国家であり、世界であるとしたら、本教発展に従いここに平和幸福なる地上天国は実現するのであって、かくして神の御目的は達成せられるのである。その境目が現在であるから、先ずこの事を知り、幸福を摑む事こそ光栄の至りである。
故にこの著は、宗教始め凡ゆる事象の神髄を、神智を通じての解説書であって、今まで書いた多くの中から、私の指示のまま弟子に選ばせ、編纂したものであるから、実に空前絶後の真理の開明であり、寸毫の誤りはないのである。それと共に、今後も続々出るので、溜った都度発行する予定である。即ちこれこそ救世教の聖書であり、将来世界の宝典として子々孫々に伝えられるべきものであろう。
それから薬を解剖してみたのですが、解剖してみると、薬というものは全然科学ではないのです。一口に言えば迷信です。〝そんな馬鹿な事はあるものか〟と、第三者としたら思うわけですが、そういう事を言えないように書いたつもりです。
御論文 〔薬剤は科学?〕 【註 栄光二五四号】
薬剤は科学?
(栄光二五四号)
世間よくこの薬は効くとか、アノ薬は効かないなどと言われるが、これを吾々からみるとまことに滑稽である。それはどういう訳かというと、驚いてはいけない、薬が効くのと病気の治るのとは似て否なるもので、根本的に異っている事である。という訳は薬が効くというのは苦痛が一時治まるだけの事であって、病気そのものが治るのではない。この点最も肝腎であるから心得て貰いたいのである。というのはそもそも医学の考え方は病気と苦痛とは離るべからざる一体のものと解しているからで、苦痛が治れば共に病気も治ると思っており、病気と苦痛との判別がつかなかったのである。従って医学がいかに進歩したとて、病気の治らないのは当然である。ところが私はこの理を発見したのであるから、忌憚なく言って世界史上空前の大発見といっても過言ではあるまい。
ここで病理についてザットかいてみるが、病気とは薬毒の固りに対し、自然浄化作用が起って排除される苦痛であるから、言わば発病が主でそれに苦痛が伴なうのである。それを医学は間違えて、苦痛が主で病気が伴なうように思ったので言わば主客転倒である。この逆理によって薬を以って苦痛を抑える。この考え方で生まれたのが医療である。しかも一層厄介な事は、薬が毒化し病原となる事も知らなかったので、二重のマイナスである。これが医学の進歩と思っているのであるから、その愚、度すべからずである。それを知らないがため臨床家などが、学理通りに治らないので、常に疑問を抱いている話もよく聞くが、さこそと思われる。その証拠として新聞広告などに出ている売薬の広告を見ても分る通り、決して治るとはかいてない。何々病には効く、苦痛が減る、好転する、元気になる、強力な効果がある、血や肉を増す、予防にいい等々、それをよく物語っている。
しかも薬で苦痛が緩和する理も科学的説明は出来ないのは、何々の薬を服めば効くとするだけの事である。ちょうど未開人が禁厭等で治すのと同様でしかない。何よりも新薬を作ろうとする場合、本来なら最初理論科学が生まれ、次いで実験科学に移るべきだが、そんな事はないらしい。というのはそのほとんどが偶然の発見か、推理による実験であって、それ以外は聞いた事がない。その例として前者は英国のある学者が、医学に関係のない実験の際、偶然発見された青苔の一種が彼のペニシリンであったり、後者である独逸のエールリッヒ、日本の秦両博士の合同発見による彼のサルバルサンにしても、六百六回の実験の結果、ようやく完成したのであるから、これは根気戦術によるマグレ当りでしかない事が分る。というように両方共科学とは何ら繋がりがない事である。
またあらゆる病菌にしても、何十年前から研究を続けて来たにかかわらず、今以って決定的殺菌剤は生まれない事実である。また近来発見の御自慢の抗生物質にしても、最初は素晴しい評判だったが、近頃になって逆効果を認め再研究に取掛ったという話も最近聞いたのである。これらにみても何病に限らず、決定的効果ある薬はまだ一つもないのであって、それだからこそ次から次へと新薬が生まれる訳である。故にそのような不確実な薬剤を以って病を治そうとするなどは寧ろ冒険というべきであろう。また医学では動物実験を唯一の方法としているが、これなども科学的根拠は全然なく、単なる推理臆測によって、多分この薬なら効くだろうというマグレ当りを狙ったものであるのは、効かない場合次から次へと何回でも試してみるによっても分る。それがため一種類の動物を数千匹殺してもなお成功しないという話もよく聞くのである。
私は科学者ではないが、真の科学とはそんなアヤフヤなものではなく、確実な合理的根拠によって研究し、真理を把握したものであって、効果も決定的で永久性であるべきはずである。それがどうだ、ある期間がすぎると無効果となり、次から次へと新薬が生まれるとしたら、どこに科学的理論があるであろうか。ちょうど流行品と同様薬にも流行り頽りがある訳で、一種の商品である。いやしくも人間生命に関する重要なるものとしたら許さるべきではあるまい。しかも多くは短期間の実験によって売出すのであるから、もし効果のない場合、詐欺行為ともなるであろう。よく新薬発表当時救世主のごとく仰がれたものが、いつの間にか消えてしまうのも、軽率の譏りは免れまい。そのため犠牲になる大衆こそ一種の被害者であり、売薬業者の米びつにされる訳である。あえて当事者に警告を与えるゆえんである。
今読んだような工合で、薬というものは全然科学性がないわけです。ただ〝効くだろう〟というわけで、最初動物実験で、飲ましてみたり注射してみると、どうも成績が良い。〝では一つ人間にやってみよう〟というわけで、人間が第二の実験材料にされるのです。そうして〝良い〟というわけです。ところが〝良い〟というのが短かいのです。一カ月か半年ぐらい効くと〝これは良い〟と、売出したり学会に発表するのです。ところが、一年も二年も先になって逆効果があるのです。そうなると廃ってしまうという事になるのです。ところが薬は浄化停止ですから、必ず逆効果になり、効かなくなるという事に決まってます。だから一つ薬が長く続いたという事はないです。それにまだ気がつかないのですから、やっぱり〝超愚〟の方です。そういうような工合で、薬というものは全然科学性はないわけです。つまりまぐれ当りを狙っているわけです。それを、さもさも科学で発見したかのようにハヤシ立ててます。やっている御本人自身は実●(に?)馬鹿げているのですが、又それを有難がって信じる大衆も随分〝超愚〟です。そのためによく新聞に出ている〝心臓が治った〟とか〝肝臓が治った〟とか、よく発表してますが、あれらはちょっとした実験の結果良いので有頂天になってしまうのです。しかし暫らくたつと煙になってしまうので、そういう事を年中繰返しているのですから、実に可哀想なものだと思います。つまり、医学では全然治らないものを治ったように信じて、ちょっと良いと〝これだ〟というように思っているわけです。だからその犠牲になる人間こそ実に可哀想なものです。けれどもしかし、それはもう長い事はないです。丁度自然栽培みたいなもので、或る時期が来ると、分り始めると早いです。
こういう事を知ってなければならないのです。そういう、人間に害を与えるようなものを、一体神様はナンデ作ったか、何故今まで人間にそれを分らせなかったかという訳ですが、これは大変な深い意味があるのです。というのは、物質文明を発達させるには人間を弱らせなければならないのです。原始時代の、病気もない非常に丈夫ですと、人間はそれに満足してしまうのです。とに角神様の目的は、物質文明を発達させて、そうして真善美の世界を造るのですから、それにはどうしても人間を弱らなければならないのです。交通機関の発達も、人間が弱るから発達するのです。どんなに遠い所へでも、山野を跋渉しても、足が丈夫なら交通機関を発明しようという心も起こらないのです。文明の発達という事は、前に外国の学者が言ったように〝文明の発達というものは、人間が無精になるから発達するのだ。何かやるにも億劫だ、面倒くさいというそのために発明や発見が現われるのだ〟という事を言っているのを読んだ事がありますが、なるほどと思います。それには体を弱らせなければならないのです。だから、体を弱らせるほどいろんな便利な物や、それから美しいものを感じるという感覚、一つの、神経が鋭くなるとか、或いはものに感じやすいということになるので、それには、体を弱らせなければ仕方がないのです。それで弱らせるには毒を飲ませるのです。しかしそれを毒と言ったら人間は飲まないから、それを薬に思わせようという神様のトリックです。薬というものは良いものと思った人間は、神様に瞞されたわけです。神様はひどいと思うかもしれないが、仕方がないのです。神様の経綸というものは、人間の、二、二が四とか、二、四が八ではないので、二、二が八にも、二、三が九にもなるのですから、霊妙不可思議なものです。ところがそのために文化が発達したのですが、今度はこれ以上文化を発達させるとマイナスになるというわけです。丁度、発明発見が進んでいって原子爆弾のようなものが出来たようなものです。……原子爆弾は神様が作ったという事を、娘が霊憑りになって言ってますが、面白いので、今度地上天国(註五十八号)に出します……。そういうような事で、今までの人間にはちょっと不思議に思うようないろいろな事柄も、そういったような深い意味があるのです。唯物文化を発達させるために人間を弱らせておいて、今度は薬は毒だという事を言って、反対に健康を取り戻すわけです。それが救世教の一番の根本の仕事なのです。そういう訳だから、薬という毒をどういう訳で人間が飲むようになったかという事の根本を話したのですが、そこで薬というものは神様が作ったものです。その一番の証拠は、薬師如来と言って、観音様が薬師如来に化けられるのです。そうして大いに薬を奨励したわけです。尤もその時分には科学はないから、草根木皮を大いに飲まして弱らせたわけです。その観音様が今度は〝あれは毒だ〟と言うのですから、観音様もなかなか……つまり瞞したり本当の事を言ったり、要するに千変万化、虚々実々というわけです。観音様は凡ゆる面に働きをされる、化けるというわけです。そして観音様は悪魔にもなるのです。馬頭観音というのは悪魔です。つまり動物の働きです。そういうような工合ですから、人間の智恵やそういったもので分るという事は難しいのです。
今度の神憑りの中にこういう事があります。共産主義者などに対して、悪の役をするのは随分骨が折れたので、御苦労だったという慰めの言葉もあります。確かマレンコフなども、そういった、神様が御苦労だったと言ってました。悪を通すとそういうようで……スターリンもそうですが、スターリンは今霊界の最底地獄、極寒地獄に居て、結局六千年苦しんで滅びるという事を言ってましたが、其処は私は〇〇年としておきました。そういうようで、悪い事の御用を仰せつかってやっている霊もあるのです。だから神様のやり方は実に深いのです。
それから、半文明半野蛮の世界という、これも今までにも大体書きましたが、これはごく分りやすく書いたつもりです。
御論文 〔半文明半野蛮の世界〕 【註 栄光二五六号】
半文明半野蛮の世界
(栄光二五六号)
現代は最も進歩した文明世界と誰しも思っているだろうが、その内容をよく検討してみると、余りに欠点が多いのは、日々の新聞をみても分る通りで、犯罪者や不幸な人間の記事で埋っている。公平に見て善い事よりも悪い事の方が、断然多い事実である。最近大問題となった汚職事件などを見ても、検察当局が一度手をつけ始めるや、それからそれへとどこまで拡がってゆくか分らない位であるから、今度の事など或いは氷山の一角で、本当に調べたら、政界も財界も、無傷の人間は果して幾人あるであろうか。残らずと言いたい程であろう。
それに就いて、よく考えてみると意外に思う事がある。それはこの事件の関係者の悉くは、教育の低い田夫野人なら兎に角、何れも高等教育を受けた文化人のみである事である。従ってこれでみると、高等教育を受ければ智識は発達し、文化的人間となる以上、犯罪など減るばかりと思うが、今回の事実を見る時、只唖然とするばかりである。としたら、実に不可解千万と言わねばならない。そこで標題の如く半文明半野蛮の時代と言ったのであるが、これを見ても否と言える人は恐らく一人もあるまい。では一体この情勢に対し如何にすればいいかと言うと、それは敢えて難かしい事はない。至極簡単である。即ち、私が常に唱えている唯物偏重教育に目覚め、唯心教育を勃興させる事である。分り易く言えば、形のみを信じ、形なきものは信じないという迷蒙を打破する事であって、その唯一の方法としては、宗教の力によって神の実在を認識させる事である。
そうしてこの事が指導者階級に分ると共に、国民全般に行渡るとしたら、犯罪を犯しても人の眼にさえ触れなければいいとする間違った根性が直る以上、犯罪は出来なくなり、明るい良い世の中になるのは分り切った話である。処が、こんな簡単明瞭な道理が分らないと見えて、いつになっても法という網や檻を厳重に作って取締るのみであるから、人間を動物扱いにしているわけで、これでは効果のないのは当然である。処が、事実はこの法の檻でも社会秩序が維持出来ないとしたら、その原因は何処にあるかという事に気が附きそうなものだが、一向に気がつかない。相変らず社会は半人半獣の人間の集団となっているのである。この意味に於て最早唯物教育では、人間の獣性を取除く事が出来ないのは余りに明らかである。故に、今までの教育では結果に於て、獣性を蔽い隠す技術の進歩でしかない。従ってこれではいつになったら、真の文明社会が出来るか見当がつかないのである。としたら、これを解決するには、どうしても人間の魂から獣性を抜く事であって、それ以外に根本的方法はあり得ない。
それが宗教であるが、不思議にも高等教育を受ければ受ける程宗教が嫌いになるのはどうしたものか。これが文明の一大欠陥であろう。この原因こそ、肚の中にある獣性が宗教を忌避するためであって、悪は善を好まないからである。としたら、現代教育は智能的悪を作るものと言ってよかろう。処が、最早それは赦されない時が来た。というのは、本教の出現である。何となれば本教は神の実在を目に見せ、手に摑ませる事が出来るからである。と言うと、そんな素晴しい事はありよう筈がないと言うであろうが、実は訳なく出来るのである。本教に接するや立所に神霊を把握出来るからであって、それが奇蹟である。本教が驚くべき奇蹟を無限に現わしつつあるのが何よりの証拠であって、これこそ愈々神は、半文明半野蛮の跛行的文明を是正し、唯物唯心の両脚揃って歩む処の真の文明世界を造るべく、神の大経綸は開始されたのである。
みんな始終見ているでしょうが、地上天国は大体予定どおりに出来つつあります。これも無論神様がやっているのですが、あそこに行く道路、つまり一番厄介なのは小田原・熱海間ですが、この道路もだんだん方針が具体化し、実行にかかる形勢になって来ました。最初は熱海・湯河原間を海岸の方を埋めて、其処にドライヴウエイみたいなものを作る事になって、ボツボツ始めているようですが、一番先に出来るわけです。その道路が分れて、丁度地上天国に行くような自動車道路が出来ることになりましょう。そうして次に湯河原・小田原間も順々に出来ることになってます。小田原・熱海間は今まで一時間ですが、半分の三十分で行くだろうと思います。そうすると東京から来るとして、東京の端の方からなら一時間半ですが、東京の真中辺からでも、優に二時間半で来られますから、日帰りで地上天国なり美術館を見に来られるわけです。
そうしたら余計大変な事になるだろうと思います。それで、この地上天国が出来ると、世間の人がいろいろ批判もするし考えもするでしょう。〝どうして僅かの間にあんな素晴しいものが出来たか〟という疑問もあるし、それを聞きたがるという事もあります。そうなったら、新聞記者だとかそういう者が随分聞きに来るだろうと思います。これをもっと分りやすくいうと、無論力ですが、大体一番は金力です。その次は胆力、度胸です。その次が智力です。この三つの力です。これは人間的の考えでゆけばそういうふうに見るのは当り前ですが、こっちの方はその他に神力が入っているのです。その三つの力を働かせるその力が神力です。なるほど金の力と言ったところで、それを元から持っているわけではないし、政府事業や何かではないので、つまり救世教に献げる人がなくてはならない。それを誰がやるかというと、神様がやるのです。それから胆力でも、確信のない胆力を出しては失敗してしまいますが、確信があるという事は、神様がそういう力を現わすのと、もう一つは、凡ての条件が楽に無理がなく、そういうように進んで行くように神様がし向けるという事と、熱海なら熱海という、ああいう風景を一目で見られるような、地形なり、石や木や、材料も、神様が前から用意してあるということです。それから智力と言うと人間が考えるようなものですが、そういう事はないです。客観的に見れば智力ですが、私自身としては智力などはないのです。何故と言って、考える事はないのですから……。ただ、あそこに行けばパッパッと、浮かぶ、と言いますか、浮かぶという事でもまだ廻りくどい言い方です。ヒョッと分るのです。だから本当は智力でもないので、神力です。そういうような工合だからして、説明できない、要するに不可思議力です。観音様が言う妙智力です。不可思議力、妙智力と言うが、確かに妙智力です。さもなければ短期間にあれだけのものが出来るわけはないのですから……。そう説明しても、誰でもなるほどと思うわけです。実際にあれを見れば、他に考えようはないです。まだまだ今でも想像もつかないようなものになります。それで美術品も、神様は、ちょっと売物に出ないような物を、チャンとこっちに入るような順序がついているのです。神様の計画というものは実に大したものです。それと、霊界において、昔の立派な芸術家や、いろんな大名だとか、将軍だとか、そういう人達の霊が非常に働いてます。立派な美術館にするために……。それでその霊の奥にある産土の神様とか、八百万の神様でも高級な方の神様がいろいろ指図したり力を貸してやってます。だからああいう美術館を作るのも――それは生きた人間を使わなければならないが――私は、そういった現界の仕事をするのでも、私の背後にはいろんな神様、いろんな霊が大活動をしているのです。だから思いもつかない事がフッと来るような事がありますが、〝これは働いたな〟と思います。その根本が分れば、当り前の事で別に不思議はないのですが、ただ出来たものを見ると、僅かな間にどうしてこんなものがと思うのです。第一、道具屋とかそういう事に心得のあるものは、どうして僅かの間に手に入ったのだろうと思いますが、霊界を知らないのですから無理はないです。
来月の九日から三越で浮世絵肉筆の展覧会がありますが、主催は箱根美術館で、後援が毎日新聞社、文化財保護委員会です。今まで浮世絵展覧会というと殆んど版画であって、肉筆というのは初めてです。これは大変な評判になるだろうと思います。どうして肉筆が僅かの間にこんなに集まったのだろうと不思議に思うに違いないですが、これは又版画より集め難いものです。版画というのは昔から庶民階級に沢山バラまかれてますが、肉筆というものは大名とか富豪でなければ持ってないのです。それが短期間にそれだけ集まったという事は実に奇蹟です。
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