三月六日

 今度、今まで私の書いたものの中から(えら)んで「救世教の聖書」みたいなものを編集するについて、序文を書いてもらいたいというので書いてみましたから読ませます。

 御論文 〔救世教とは何ぞや 序文〕   【註 栄光二五三号】

救世教とは何ぞや 序文

(栄光二五三号)

 この文を書くに当って、前以て断っておきたい事は、我が救世メシヤ教は純然たる宗教ではないのである。と言っても、一部には宗教も含まれてはいるが、全部ではない事も勿論である。では、何故救世メシヤ教の名を附けたかというと、何しろ有史以来夢想だもしなかった処の劃期的かっきてき救いの業である以上、止むを得ずそう附けたまでであって、特殊の名前を附けるよりも、この方が分り易く親しみ易いからで、これを率直に言って宗教以上の宗教、即ち超宗教であり、空前の救いの業と思えばいいのである。

 そこで先ず大体の輪郭りんかくを書いてみるが、抑々そもそもこの世界は人類が原始時代から現在に到るまでの長い間、幾多の卓越せる有能者が現われ、力の限り遠大なる理想の下に苦心努力した事によって、今日見るが如き絢爛けんらんたる文明が出来上がったのである。人間はその恩恵に対し、大いに感謝感激が湧くべきにかかわらず、事実はそうでないとしたら、実に不思議と言ってよかろう。しかしよく考えてみると、何よりも肝腎な幸福がそれにともなはないからである。その原因は言うまでもなく現在文明のどこかに一大欠陥があるからであって、私はその欠陥を神から知らされたのである。それは何かというと現代文明は全面的進歩ではなく、半面である唯物分野のみの進歩であり、他の半面である唯心分野は全然かえりみられなかった事である。しかしこれにも理由がないわけではない。即ち神の経綸上、物質文化を発達させる為には、或期間唯心文化の発達を阻止しなければならないからである。それによって物質文化は予定の線にまで発達した今日、ここに神は唯心文化を一挙に飛躍させ、両々相俟あいまって真の文明世界を創造されんとするのである。そうしてその使命の下に生まれたのが我が救世メシヤ教であるから、既成宗教とはすべてにわたって比べものにならない程の相違があるのである。

 以上の如くであるから、根本としては長い間眠っていた有神思想を呼び覚ますことであって、これが容易ではない。何しろ文化民族の大半は科学に魂を奪われ、神を無視して来た今日、この魂を揺り動かすとしたら、実に驚異的超人力によらねばならないからで、これによって神の実在は確認されるのである。その方法としては奇蹟より外はないので、本教の奇蹟の多いのもその為である。勿論この力こそしんから伝達される絶対力であるから、如何なる無神主義者といえども、有神思想に転向するのは勿論であって、ここに精神文化興隆時代に入るのである。その結果、こうてき文化は是正され、真の文明世界実現と共に、人類の最大苦悩である病気、貧乏、争いの三大災厄は根本的に解決されるのであって、その為選ばれたのが私であって、このことは今改めて言うのではない、昔から幾多の聖者賢哲けんてつが予言された処であり、ただその時期が到来したまでである。彼のキリストの天国は近づけり、釈迦のろくしょう、天理教教祖のかんだいの世、大本教教祖の松の世、日蓮の義農の世、猶太ユダヤ教の救世主メシヤ降誕等々もそれであって、これに就いての注目すべき一事がある。それは右は全部予言であって、実現性はない事である。然るに私はこの地上天国を現実に樹立するのであるから、その実行者であり、各聖者の予言の裏附者である。というと、その言の余りに誇大なるに驚歎するであろうが、この言を発する私としては、いかに確信に満ちているかがうかがわれるであろう。それというのも、主神は私に対して目的達成に必要な凡ゆる智慧と能力を附与せられ、然も超人的神力をも授け給うたのである。そうしてこの神力なるものは人類の経験上未だ嘗てなかったものであるから、到底想像は不可能である。現在私はこの力を自由自在に行使し、無数の奇蹟を現わしている。故に一度本教信者となるや、如何なる人でも直ちにこの福音に浴する事が出来るのである。

 即ち病める者はいやされ、貧なる者はゆたかに、争いは霧消し、不幸は幸福に転化する等々、神の恩恵の如何に深遠なるかに感激するのである。そうして個人の集合体が、社会であり、国家であり、世界であるとしたら、本教発展に従いここに平和幸福なる地上天国は実現するのであって、かくして神の御目的は達成せられるのである。その境目が現在であるから、先ずこの事を知り、幸福をつかむ事こそ光栄の至りである。

 故にこの著は、宗教始めあらゆる事象の神髄を、神智を通じての解説書であって、今まで書いた多くの中から、私の指示のまま弟子に選ばせ、編纂へんさんしたものであるから、実に空前絶後の真理の開明であり、寸毫すんごうの誤りはないのである。それと共に、今後も続々出るので、溜った都度発行する予定である。即ちこれこそ救世メシヤ教の聖書であり、将来世界の宝典として子々孫々に伝えられるべきものであろう。

 よく〝救世教にはまだ教義がない〟とか言われるのですが、これは、つまり世間一般の宗教として見るから、その教義というものを考えるのです。本当言うと宗教ではないのだから、教義などは要らないわけです。大体「教義」という言葉がピッタリしてないのです。教えではないのですから……。教義というものは昔から、殆んどの宗教にはありますから、随分立派な、よく出来た教義が沢山あります。つまり教義というのは、教えの理窟ですから、教えでは人間は救えないです。

 今度の静岡民報に私の事が続き物になって出始めましたが、あの中にちょっとうまい事があります。〝自分は若い時分にキリスト教の聖書研究会で奇蹟について言い争い、どうしても奇蹟が信じられないというので、バイブルから奇蹟の所を全部消した。そうして読んでみると、これは宗教書ではなく道徳書の方になった。それが分ってみると、さっぱり興味がなくなって止めてしまった〟という事がありましたが、それはうまい事だと思います。つまり宗教というものは教えだけでは、やはり一つの道徳になるのです。そういった道徳以外に、つまり理窟のつかない不思議なものがあるので、それが宗教の根本ですから、その不思議、奇蹟が多いほど宗教としての価値があるわけです。そうなると、宗教としての価値と言うよりか、むしろ宗教ではなくなってしまうわけです。ですから教えは要らないわけです。

 ここのところがなかなか難しいですが、丁度犯罪者が出ないように法律を作るという事です。法律を作るという事は、〝こういう悪い事をすれば、こういう罪になる、こういう刑罰を与えられる〟という事で僅かに秩序(ちつじょ)維持(いじ)してゆくというわけです。それから宗教の教えというものは〝人間はこうすべきものではない〟〝こうしなければならない〟と、箇条書になっているのが随分あります。大体その元祖はモーゼの十戒です。〝何すべし〟とか〝何すべからず〟とか、という事では、やっぱり、法律のような肉体的刑罰はないが、つまり霊的刑罰、そういうものがあるわけです。聖書にある〝他の女を、どうしようかと思うという事は、既に姦淫(かんいん)の罪を犯している〟というような、一つの霊的刑罰です。人間は刑罰によって良い事をする、悪い事をしないというのでは本当のものではないのです。丁度酒を飲むと毒だから飲まないようにしなければいけないと、一生懸命我慢するというのと同じです。ですから、宗教とすればまだ低い所です。高い所ではないのです。そこで高い宗教というものは、〝そうすべからず〟とか、そういった刑罰がなく、ただそういう事が(いや)なのです。酒なら酒を飲みたくなくなるのです。それで、そういう変な事はする趣味がなくなってしまうのです。悪い事やずるい事をするのは、やっぱり趣味なのです。汚職事件などをする人は、ああいう事が好きなのです。気持の良い、並の手段で金を儲けるというのよりか、暗い所でやるそれが面白いのです。という事は、つまりその人の魂が本当でない、低いからです。魂が低くなければそういう事はしないのです。つまり動物的根性が多分にあるから、どうも明かるい、人間的感情がごく少ないわけです。やっぱり刑罰という檻がなくては危ないのです。檻があっても、それを破っているのですから……。ですから霊的に言うとずっと低いのです。本当に言うと、世の中で言う政治家とか、肩で風を切っている偉い人は、霊的に言うと実に低いのです。下等なわけです。そういうようなわけで、法律も戒律も何もなくても悪い事をしない、悪い事に興味が起こらない、それで良い事をするのが面白いという魂になると、それが本当の魂です。ですからウッチャラかしておいても悪い事をしないというので、人が見ているから悪い事をしないというのではいけないわけです。そういう人間を作るのが救世教の本筋なのです。しかし無論いきなりそういう立派な人間になれるわけがないから、教義というものも必要です。しかし根本はもっと上の方にあるのだからして、そこで宗教ではないと言うわけです。今までこういう上等なものは出なかったのです。ところがそういった上等なものが出たのです。だからそういった上等な事を分らせるには、なかなか簡単にはゆかないです。〝そういう馬鹿な事があるものか〟というわけです。つまり浄霊をすると疑ぐっても治るというわけです。ところが先は理窟で来ますが、理窟の方が下で、こっちは理窟より上です。それで、研究すればよいのですが、今までの理窟で分らなければ〝駄目だ〟と、今のインテリなどは見るのです。実に難しいのですが、しかし本当に分れば、これは又理窟よりかもっと良いものだから、これは離せないという事になります。

 次に薬を徹底的に分析(ぶんせき)してみたのです。これは気がつきそうで気のつかない点を書いたのですが、これを読めばどんな人でも〝なるほど〟と思わないわけにはゆかないと思います。

 御論文 〔薬剤は科学?〕   【註 栄光二五四号】

薬剤は科学?

(栄光二五四号)

 世間よくこの薬は効くとか、アノ薬は効かないなどと言われるが、これを吾々からみるとまことに滑稽である。それはどういう訳かというと、驚いてはいけない、薬が効くのと病気の治るのとは似て否なるもので、根本的に(ちが)っている事である。という訳は薬が効くというのは苦痛が一時治まるだけの事であって、病気そのものが治るのではない。この点最も肝腎であるから心得て貰いたいのである。というのはそもそも医学の考え方は病気と苦痛とは離るべからざる一体のものと解しているからで、苦痛が治れば共に病気も治ると思っており、病気と苦痛との判別がつかなかったのである。従って医学がいかに進歩したとて、病気の治らないのは当然である。ところが私はこの理を発見したのであるから、忌憚なく言って世界史上空前の大発見といっても過言ではあるまい。

 ここで病理についてザットかいてみるが、病気とは薬毒の固りに対し、自然浄化作用が起って排除される苦痛であるから、言わば発病が主でそれに苦痛が伴なうのである。それを医学は間違えて、苦痛が主で病気が伴なうように思ったので言わば主客転倒である。この逆理によって薬を以って苦痛を抑える。この考え方で生まれたのが医療である。しかも一層厄介な事は、薬が毒化し病原となる事も知らなかったので、二重のマイナスである。これが医学の進歩と思っているのであるから、その愚、()すべからずである。それを知らないがため臨床家などが、学理通りに治らないので、常に疑問を抱いている話もよく聞くが、さこそと思われる。その証拠として新聞広告などに出ている売薬の広告を見ても分る通り、決して治るとはかいてない。何々病には効く、苦痛が減る、好転する、元気になる、強力な効果がある、血や肉を増す、予防にいい等々、それをよく物語っている。

 しかも薬で苦痛が緩和する理も科学的説明は出来ないのは、何々の薬を服めば効くとするだけの事である。ちょうど未開人が禁厭(まじない)等で治すのと同様でしかない。何よりも新薬を作ろうとする場合、本来なら最初理論科学が生まれ、次いで実験科学に移るべきだが、そんな事はないらしい。というのはそのほとんどが偶然の発見か、推理による実験であって、それ以外は聞いた事がない。その例として前者は英国のある学者が、医学に関係のない実験の際、偶然発見された青苔の一種が彼のペニシリンであったり、後者である独逸のエールリッヒ、日本の(はた)両博士の合同発見による彼のサルバルサンにしても、六百六回の実験の結果、ようやく完成したのであるから、これは根気戦術によるマグレ当りでしかない事が分る。というように両方共科学とは何ら繋がりがない事である。

 またあらゆる病菌にしても、何十年前から研究を続けて来たにかかわらず、今以って決定的殺菌剤は生まれない事実である。また近来発見の御自慢の抗生物質にしても、最初は素晴しい評判だったが、近頃になって逆効果を認め再研究に取掛ったという話も最近聞いたのである。これらにみても何病に限らず、決定的効果ある薬はまだ一つもないのであって、それだからこそ次から次へと新薬が生まれる訳である。故にそのような不確実な薬剤を以って病を治そうとするなどは(むし)ろ冒険というべきであろう。また医学では動物実験を唯一の方法としているが、これなども科学的根拠は全然なく、単なる推理臆測によって、多分この薬なら効くだろうというマグレ当りを狙ったものであるのは、効かない場合次から次へと何回でも試してみるによっても分る。それがため一種類の動物を数千匹殺してもなお成功しないという話もよく聞くのである。

 私は科学者ではないが、真の科学とはそんなアヤフヤなものではなく、確実な合理的根拠によって研究し、真理を把握したものであって、効果も決定的で永久性であるべきはずである。それがどうだ、ある期間がすぎると無効果となり、次から次へと新薬が生まれるとしたら、どこに科学的理論があるであろうか。ちょうど流行品と同様薬にも流行り(すた)りがある訳で、一種の商品である。いやしくも人間生命に関する重要なるものとしたら許さるべきではあるまい。しかも多くは短期間の実験によって売出すのであるから、もし効果のない場合、詐欺行為ともなるであろう。よく新薬発表当時救世主のごとく仰がれたものが、いつの間にか消えてしまうのも、軽率の譏りは免れまい。そのため犠牲になる大衆こそ一種の被害者であり、売薬業者の米びつにされる訳である。あえて当事者に警告を与えるゆえんである。

 そういうような工合で、薬と病とは関係ないわけです。薬で病に対し、科学的にどういう理論で治るかという事は全然分らないのです。それは、病気というものが分らないのだから、分らないはずです。ただ飲んでみてちょっと工合が良いから、これは効くのだ、この薬に限るというように思ってしまっているのです。だから大変科学のように見えますが、よく考えてみると、薬というものには全然科学性はないのです。浄霊はどんなに考えても科学であり、又実際に効果があるのです。薬というものは、一時痛みが無くなるとか、一時気持が良くなるとかであって、病とは関係ないです。それを科学的に病が治ると思っている事は、全く迷信なので、言わば今の学者というのは実に頭が悪いのです。それが本当に分ると、どうしても今の科学文明というものは根本から立て直さなければならないわけです。それを私がやっているのです。だから本当に薬が科学的に効果があるものなら、何かの病気に一つの薬があればそれで決まってしまうものです。新しい薬がでるわけがないです。

 それから、丁度薬のついでですから言いますが、薬が不幸を生むという事も知らなければならないのです。薬を飲むと血が濁るという事はみんな知ってますが、そうすると霊が曇る。霊が曇ると霊界の地位が低い所になりますから、どうしても地獄になるわけです。だから今の世の中が悪い世の中で、幸福な人は殆んどないです。それからそれへと不幸ですが、不幸だという事は霊的に霊界における階級が低くなるから、そこで嫌な苦しみや災難が来るわけです。その因というのは薬ですから、要するに薬が人類の不幸を作っているわけです。薬によって病気を作るどころではなく、病気以外一切の苦悩を(も?)薬が作るわけですから、薬というものは実に恐ろしいのです。そこで人類から薬というものをどうしても無くしなければ良い世界というのは出来るわけがないのです。仮に汚職事件にしても、ああいうずるい人が出るという事は、(もと)(もと)は薬です。そういう人間から薬毒を抜けばよいのですが、抜くことはなかなかできないのです。

 大体そういう事をさせるのは動物霊ですが、動物霊は薬のない霊に憑いても働けないから、そういうのには憑かないのです。憑くとなると動物霊も改心しなければならないのです。だから結局薬毒が犯罪を作っているわけです。ところがそれを逆に解して、新聞等でよく、屁のような薬の効き目をデカデカと書いてます。それは例えてみれば、薬の効果が十のものなら、七、八は被い隠して、二か三の効果だけを大いに拡げて出すのです。そこで人間はみんな、なるほど薬はよいと思ってドンドン飲む、飲むから売れるというので、今新聞を見ても売薬の広告が一番多いです。ますます多くなってます。又事業としては売薬が一番売れるのです。如何に売れるかという事は、去年の売上が一番多いのは武田長兵衛で、三十五億で、これが一番です。これは薬屋から聞いたのだから間違いないです。その次は三共もかなりで、二十七億です。ですから非常に儲かるのです。そのために今薬屋が一番恐ろしいのは救世教なのです。又そういうものに恐ろしがられるほどこっちの力が強いというわけですから、これは大いに喜んでよいわけです。プラスでよいわけです。悪人が一番いけないのは善人なのです。ところが今までの善人は弱かったから大した事はなかったが、善人の強い奴が悪人には一番怖いのです。悪人から見れば、善人はみんな悪人なのです。しかしこれは小の虫を殺して大の虫を助けるのだから仕方がないのです。そういうようなわけで、薬の害というものを知らせるという事が一番です。それでラジオでこの頃続いて農業講座が出てますから、私は毎晩聞いてますが、肥料の事を言わないのです。一番肝腎な肥料の事を言わないで、他の技術面の事を言ってます。そうすると、日本のああいうジャーナリストは、国民の幸福という事よりも、己れの幸福という事を上にみているのです。実際これでは、日本もよい国になれるわけはないです。本当に国民のためになるという事は、つまり自分で自分を打消しているわけです。そこで、これは悪いと思いながらも、その方が儲かるし、自分の利益になる、という事をやっているのだからして実に厄介(やっかい)な世の中です。これに対してはアメリカ人などは、本当に世界人類のためになるという事は、自分の利益を犠牲にしてもそれをやるという、非常に高い、崇高な思想があります。これがアメリカがあれだけの勢力を得、世界をリードするほどの国になった根本理由です。

 結局問題は薬ですが、では神様はどういう訳で、そんな悪い物を作り人間に飲ませるのを許していたかというと、これは又理由があるのです。前に何かで書いた事がありますが、原始時代は人間が非常に健康で、全然病気はないのですが、そうすると文化の発達ができないのです。どうしても人間の体を弱くしなければならないのです。その必要から毒を薬として、薬のように思わして人間にウンと飲ましたのです。これは神様の経綸なのです。人間が健康で、幾ら歩いても草臥(くたび)れないというのでは、便利な交通機関というものも発達しないし、立派な家も造らないで、つまらない家で〝これで沢山だ〟という事になります。そこでそういったような意味において、文化を発達させるために人間を弱らせたのです。だからこれは必要だったわけです。神様の経綸というものは人間が考えても到底分らないものであって、実に深いものです。私が薬や医学の方をこういうように言うが、薬や医学のような間違ったものがあるために救世教というものが出て発展するのです。薬をやれば病人が治るし、医者がやればドンドン健康になるというのでは救世教というのは発展しないし、又現われる必要がないのです。そうすると救世教を発展させたものはやっぱり医者で薬なのだから、それを今悪い事を言うという事は非常に矛盾(むじゅん)してます。本当言うと大いに感謝して褒めなければならないのです。そういうように考えると、神様の経綸というものは実に深いもので、人間の理窟で簡単に片付けようと思っても駄目なのです。善が悪になり、悪が善になり、という事で、そうして世の中がだんだん進歩発達してゆくのです。しかしそれを本当に分るにはやっぱり見真実でなければ分らないのです。

 それで見真実というものは一番高い所ですから、其処で凡てを見下すからはっきり分るのです。結局この見真実を分らせるために私がいろいろ説いているのです。要するに信仰の目的は早く見真実になる事です。そうするといろんな事がよく分ります。けれども本当に見真実には、それは普通ではなかなかなれないのです。だからそれに近寄ればよいのです。ところで釈迦やキリストも見真実にはなったが、見真実にも上中下があって、中位の見真実だったのです。その先は分らなかったのです。又あの時代には分ってはいけなかったので、時期が早すぎたのです。しかし今はもう分らなければならないのです。本当に地上天国を造るのですから、それには人間の主だった人達に或る程度は見真実を分らせなければならないのです。という事は救世教の信者ですが、特に幹部の人です。こういうよう(ピラミッド)になっていて、その頂点が見真実の境地になって、段々になっているのです。この間の論文に説いた科学というのは下なのです。それで私が説く事はみんな科学ですが、科学にも上中下があって、現代科学はずっと低いのです。そういうようで、段々になっているのですが、深く高くなっているものほど上等です。私が説いている科学は上等な科学です。そこで下等な科学の事を批判しているわけです。

 

 

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