三月十五日

 今朝の新聞にデカデカと出てましたが、二重橋事件で目が見えなくなった山田けい子という十一になる子供に関し、写真なども出して、大変な医学の功名のように報じてますが、あれは何でもないのです。どうも医学だと屁みたいな事でも大変な事のように有難がるし、こっちの方のどんな素晴しい事でもテンで見向きもしないという馬鹿々々しい世の中です。あれは、頭を打ったので内出血して、出血が目の裏に固まったものです。ですからウッチャラかしておくと、一、二年たつと膿になり目ヤニになって出てしまうのです。浄霊なら訳はないです。医学ではそれが出来ないから、脳に穴をあけて血の固まりを取り出したというのだから、別に大した理由はないので、簡単なものです。清水健太郎という博士で、その方の権威としてあるのですが、これは最初やったのはポルトガルのモニーという教授です。それが最初脳に穴をあけて、そういう手術をしたのですが、それを日本で真似をしたわけです。つまり今の文明……(大体科学ですが)というものは、ごく幼稚なものなのです。科学と言っても、丁度台所道具を作るようなものです。それでこっちの浄霊というのはお座敷の方のを作っているわけです。台所道具に慣れた目にはお座敷の立派な物が分らないというわけです。それについて書いてみました。

 御論文 〔私は宗教科学者だ〕   【註 栄光二五五号】 

私は宗教科学者だ

(栄光二五五号)

 宗教家の私が科学者といったら妙に思うであろうが、これを終りまで読んだら、いかなる人でもなるほどと思わざるを得ないであろう。というのはいつもいう通り、現代科学はまだまだ低く、科学という程には到っていないからである。それを今詳しくかいてみるが、まず今日科学の重点となっているのは、何といっても粒子の発見とその究明であり、これも顕微鏡の進歩によるのはもちろんだが、その結果微粒子把握の進歩は驚くべきもので、何千、何万、何百万分の一というように、止どまるところを知らない進歩であって、極微の極致までも捕える事が出来、まさに無限界にまで突入せんとしている現在である。最近唱え出した精という言葉はこの無限界を指したものであろう。もちろんこの無限界を知り得たのは、科学的操作のためではなく、科学理論を究明の結果、推理による仮定説であって、そうしなければ突当ってどうにもならないからである。ところがこれこそ私の唱える霊の世界であるから、科学も漸くここにまで来た訳で、正直にいって長い間霊を否定し続けて来た科学も、ついに敗北した訳である。

 それはそれとして、右のごとくこの精なるものこそ霊であり、()であってみれば、これを確実に把握出来たとしたら、ここに科学は一躍高度の地位に上ると共に、真理探究の学問の理想に一歩前進した訳である。しかしそうなると科学は霊を対象とする以上、今までのごとき物を対象とした考え方は前期的科学となり、霊のそれは後期科学として世界の舞台に登場する事になるから、ここに科学は百八十度の転換となり、宗教と一致せざるを得ないことになる。これを一層分りやすくいえば、科学の世界の中央に一線を引き、物の科学は線の下位となり、霊の科学が上位となるので、これは経の見方であるが、緯の見方からいえば前者は外容であり、後者は内容である。つまり有の科学から無の科学に向上したので、実に喜ばしい限りである。ところがここに難問題がある。というのは霊の世界を把握しただけでは何にもならない。どうしてもその本質を把握し、人類に役立たせなければならないが、困ることには物の科学では方法があり得ない。どうしても霊には霊を以ってするより外はないのである。

 ところが私からいえばその難関も造作なく打破り得る。否すでに打破っている。今現に私は実行し、驚くべき成果を上げている事実である。すなわち霊を以って霊の問題を解決している。言うまでもなく病気治療がそれであって、今ザット説明してみると、一切の病原は患者の霊に溜積した不純物であるから、それを解消すれば治るに決っている。それは霊主体従の法則によるからである。その方法として霊的原子爆弾ともいうべき特殊の霊を放射し、不純物を焼尽する。この方法が浄霊という高度の科学操作であって、しかもこれは医学のみではない、あらゆる科学でも宗教でも、不可能とされていたものも解決出来るのであるから、これこそ超科学でなくて何であろう。これについて別の面からも解説してみよう。それは誰も知るごとく医学の定説となっているのは、病原の総ては黴菌としている事である。この黴菌発見がエポックとなって、現代医学は画期的進歩を遂げたのであるが、これは物の科学の進歩であって、これだけでは半面の進歩でしかない。というのは菌を殺すだけでは根本には触れていない。私からみれば笊へ水汲むようなものである。それは菌なるものは結果であって、菌といえども幼虫から育ったものであり、その幼虫こそ彼のウイルスである。近来学者間においてウイルスは無機物か有機物かの論議があるそうだが、実に滑稽である。それは無機物から有機物に変化せんとする中間粒子であるからで、どちらとも決められないのである。従って肝腎なのは無機物発生の原地であって、これが霊界である。故にこれが分れば最早顕微鏡の必要はなくなる訳である。

 以上のごとくであるから、現在までの物の科学は低科学であって、そのような低科学を以って、高度の人間生命を解決するなどは下剋上である以上不可能であるのは当然である。その証拠として浄霊によれば医学で不治とされた難病も、容易に治るにみて明らかである。つまり霊の科学とは物の科学の奥の院といっていいのである。ここで私は霊界なるものを徹底的に掘下げてみよう。そもそも霊界の本質は日、月、土の三精から成立っており、科学でいう酸素、水素、窒素であり、吾々の方でいう火素、水素、土素の結合体である。そうしてこの三原素中の土が物質の本体で、日が霊の本質、月が空気の本質となっており、この日月二者がコントロールしたのが大気であって、これが地上の空間を充填しているのである。しかし火素が最も強力だが、稀薄なるため物の科学では把握出来なかったので、今日までは熱と光は分るが、精としての本質が不明であったのである。そのため科学は水素と土素のみを研究の対象としていたので、現在は水と土の文化であり、これが文明の一大欠陥であったのである。ところでここに驚くべき世界の一大異変をかかねばならないが、それは前記のごとく日、月、土の三原素から成立っており、日と月の交替によって昼夜の別があるが、これは物の面から見た現象であって、これとは別に霊の面にも昼夜のあることである。もちろん物の科学では分りようがないが、霊の科学ならよく分る。では右の異変とは何かというと、これこそ未だ嘗て人類の夢想だもしなかったところの驚くべき世界の大転換であって、それが今や開始されんとしているのである。それは昼夜を押拡げた歴史的異変であって、これを分るには時間的考察より外はない。すなわち霊界においては十年、百年、千年、万年にも昼夜の交替があることである。すなわち地球の実体は火水土の三原素から成立っているごとく、宇宙間一切は三の数字が基本となっており、これが宇宙の鉄則であって、昼夜といえども三年、三十年、三百年、三千年というようになっている。もちろんその物の性質と大中小によって、霊から物に移写するには若干の遅速はあるが、根本は正確に流転している。その三千年の転換期が驚くべし現在であって、今はその黎明期に当るのである。このことは以前もかいたことがあるが、その日時までハッキリしている。それは一九三一年六月十五日であって、この時を期として世界は昼になったのである。といってもある時期までは霊界の変化であるが、漸次現界に移写し、いずれは現実的に分るのである。しかし私はこれ以上深く解説したいが、それでは宗教的になるからここでは省くが、とにかく右は絶対であることを信ずればいいのである。

 そうして霊界が昼になるということは、火素が増量することであって、徐々ではあるが物の世界にも移写しつつある。それは水主火従であったこれまでの世界が、逆に火主水従となることである。しかし物の科学で分らないが、霊覚者なら充分分るのである。これによって今まで未解決であったあらゆる問題も、明確に解決されるのである。以上によって、私は現在の低科学を飛躍させ、高科学に引き上げ、真の文明を創造するのである。

 今のは学校の勉強時間のような話ですが、これが本当に分れば何でもないのです。逆の方の教育を受けたために非常に分り難くなっているわけです。つまり救世教というものは高度の科学を教えるわけです。だから宗教ではないと言うのはそういう訳です。宗教というものは全体から言うと大きなものではないので、限られているものです。だから或る範囲内のものです。というのは、精神的教えによって精神的に分る……分るというものは因果律です。善因善果、悪因悪果と因果律を教えて、魂を善に向かわせるというわけです。精神的のものですから、高さはありますが広さはないのです。そこで広さにおいては科学にはとても(かな)わないのです。その代り科学には高さはないのです。やっぱり台所道具ですから、床の間の置物などは出来ないのです。そこで広さの科学をもっと上の方に上げて、高さの科学という科学を作らなければならないという、それが救世教なのです。だから今まで台所道具の目に()れた人間にはチョッと分り難いのですが、これは美術にも当嵌まるのです。今大騒ぎをやっている油絵というのは、何時かも書いたとおり、家具の方です。それを日本人は一生懸命真似てますが、それは実に滑稽(こっけい)なのです。これは実用品なのです。ところが日本の芸術というのは非常に高いのです。そのために私は美術館を造ったのです。かえって外国の人の方が分っているのです。日本の芸術というものはとに角大変なものだと、外国人も分りつつあるわけです。本当にはまだ分ってないのですが……。一番分ってないのは日本人です。手前の側にあっていて一番見えないのです。

 今日の午後アメリカの人が、グリリという人の案内で来るのですが、その人は日本画の研究家です。日本の明治以来の絵を研究しているのです。明治以来の絵では栖鳳(せいほう)が一番良いというのです。ですから栖鳳の研究家です。日本人で栖鳳の研究家というのは無いのですが、外人に栖鳳の研究家というのができたのです。それで栖鳳の良い物を見せてもらいたいというので用意しました。ですから、とに角日本人がボンヤリしている間に向うの人がドンドン日本の絵やそういうものを研究し始めているわけです。それで、明治以来の優れた画家としては、確かに栖鳳が第一人者です。ですから私は栖鳳が好きで、今まで新画としては一番(あつ)めました。掛物だけで三十何幅かあります。その中の傑出(けっしゅつ)した物は五、六点です。

 兎に角日本人というものは美的には実に優れたものです。私はよく仏像を見る場合に、支那の仏と日本の仏とは、こうも違うかと思うくらいです。これは支那の六朝時代が一番盛んだったのですから、千五百年ぐらい前です。それで支那でもその時代が一番良かったのです。その後の唐、明の時代になると落ちます。六朝は唐の少し前ですが、六朝の物が唐の時代になってから日本に入って来たのですが、それが推古です。推古仏と言って、日本人の手にかかると俄然(がぜん)として素晴しい物になったのです。推古から飛鳥、天平にかけて出来た日本の仏は素晴しいものです。それは支那が師匠ですが、弟子の方がテンデ上になったのです。それから絵画は宋元で、北宋、南宋、元ですが、やっぱり南宋時代に一番良い物が出来たのです。これが日本に入って来て、足利義満と義政が非常に好んで取寄せて、俄然として日本の絵画が出来たのです。その第一人者としては、雪舟(せっしゅう)などが一番偉かったです。そうして近代に来たが、結局宋元時代の絵をモデルとして出来たのです。それを破ったのが(そう)(たつ)光琳(こうりん)です。そういうようなわけで、とに角支那では宋元、日本では琳派、それから今では大体琳派を近代化したというのが美術院です。これで日本の絵画というものは明治以来に一番飛躍したのです。そこに今は油絵が入り込んで来たのですが、これは邪道、横道に入ったわけです。これももう長い事はないので、もう一息と思います。というのは、今日本で有難がっているのはピカソ、マチスですが、ところがフランスではピカソ、マチスは非常に(すた)って来ています。朝日新聞かに出てましたが、今度三十代ぐらいの絵書(えかき)が俄然として出て、フランスの絵画界を風靡(ふうび)したのです。その絵書の絵は、画くと直ぐ売れてしまうのです。ですからフランス絵画界というのはその方に集中されて来たのです。その画き方は「ピカソ、マチスとできるだけ離れろ、できるだけ違ったものを画け」というのが方針だそうです。だから写生の新しいものの方になって来たのです。非常に良い傾向です。マチスはそうでもないが、ピカソは大変な間違ったものですから早く撲滅(ぼくめつ)しなければならないです。ところが今のフランスの若い画家が叩き始めて成功したわけです。そこで日本人もここで目が覚めて、その方に真似を始めるだろうと思ってますが、この方の真似は、良い方の真似だから結構です。そういうわけで、日本人の美術に対する偉さというのは、今の美術家というのは全然忘れ去っているのです。お座敷の道具を作るのが台所道具を作るのを一生懸命に真似しているわけです。床の間に手桶や何かを上げるようなものですから、これは早く叩かなければならないと思っているのです。

 私は最近御舟(ぎょしゅう)の絵を注目し始めたのです。私はこれはそれほどとは思っていなかったのですが、最近松坂屋で御舟の展覧会があって、それで分ったのです。というのは、今まであった御舟は偽物だったのです。ですから、ちょっとは変った所があるが、それほどでもないと思っていたのですが、二、三カ月前に道具屋が持って来たのを見て、〝これは大変だ〟というわけです。これは宋元画に負けないです。今度松坂屋の展覧会に行って見て、御舟の偉大さがよく分ったのです。そうして、御舟の絵をよく見ると、今までの世界の絵画では一番です。大体最初宋時代の黄筌(おうせん)という……一昨年の美術館に花鳥の巻物を出しましたが、今年も出します……これが御舟の最初です。それから光琳とか油絵とかを取入れてあったが、とに角大天才です。今度箱根の美術館にも三点出しますが、これは素晴しいものです。この中で特に桜の絵がありますが、これはよく見ると、実に人間業とは思えないくらい良く画いてます。この画き方というのは、徽宗(きそう)皇帝と銭舜挙(せんしゅんきょ)をもう一層うまくしたものです。それにつけても、日本人のそういった美術の才能というのは実に大したものです。今度の箱根美術館の明治以来の名人の近代名品展というのがありますが、今の御舟の絵なら宋元物より勝れてますから、世界一です。それからこの間芸術院の会員になった板谷波山(いたやはざん)という陶芸家が居ますが、この人が又名人です。この人の青磁の花瓶を今度出しますが、支那の青磁よりも良く出来てます。青磁というのは支那が一番のもので、一番出来たのが唐時代です。私は青磁は支那のより以上のものは出来ないと思っていたのです。ところが波山のは支那のより良く出来ているのです。今度出しますが、実に驚いているのです。日本人のそういった美術の才能というのは実に大したものです。それを日本人に知らせるのが一番大事だと思います。それを美術家が知らないのです。だから西洋の真似をするのです。つまり台所の真似をするのだから始末が悪いです。いろんな名人の物も出ますが、とに角明治以来の日本にこんな良い物が出来たかと驚くだろうと思ってます。

 今あんまり固いものを読んだので、今度は柔らかいものを読ませます。

 御論文 〔感じの良い人〕   【註 栄光二五七号】 

感じの良い人

(栄光二五七号)

 凡そ感じが良いという言葉程、感じの良い響きを与えるものはあるまい。処がよく考えてみると、処世上これが案外重要である事である。それは個人の運命は固より、社会上至大な関係があるのである。例えば、誰しも感じのいい人に接すると、その人も感じが良くなり、次から次へと拡がってゆくとしたら、心地よい社会が出来るのは勿論である。故に、忌わしい問題、特に争いは減ると共に、犯罪も減るから、精神的天国が生まれる訳である。然もこの事たるや、金は一文も要らず、手数もかからず、その場からでも出来るのであるから、こんな結構な話はあるまい。と言うと、至極簡単に思えるが、事実はそんな旨いわけにはゆかないのは、誰も知るであろう。

 というのは、これは外形的御体裁では駄目だからで、どうしても心からの誠が()み出るので、その人の心の持ち方次第である。つまり利他愛の精神が根本である。これに就いて私の事を少し書いてみるが、私は若い頃から、自分で言うのも可笑しいが、どこへ行っても人から憎まれたり、恨まれたりする事は余りない。親しまれ、慕われる事の方が多いのである。そこで、その理由を考えてみると、これだと思う一事がある。それは何かと言うと、私は何事でも自分の利益や、自分の満足は後廻しにして、人が満足し喜ぶ事にのみ心を措いている。と言っても、別段道徳とか、信仰上からではなく、自然にそうなる。つまり私の性格であろう。換言すれば、一種の道楽でもある。そんな訳で、得な性分だとよく人から言われたものだが、全くそうかも知れない。然も、宗教家になってから一層増したのは勿論である。そこで、人が病気で苦しんでいるのを見ると、()ても立っても()れない気がして、どうしても治してやりたいと思い、浄霊をしてやると、治って喜ぶ。それをみると、それが私に写って嬉しくなる。それが為以前は随分問題を起し苦しんだものである。と言うのは、もう駄目だと思ったら早く手を引けばよかったものを、本人や家族の者に縋られるので、つい利害を忘れて夢中になり、遠い所を何回も行って、暇をつぶし、金を使い、その揚句不結果になって失望させ、恨まれたり、愚痴られたりした事もよくあったもので、その度毎に、俺はもっと薄情にならなければいけないと、自分で自分を責めたものである。

 この私の性格が、地上天国や美術館を造る(たす)けともなったのであるから、こういう性格を神が与えたものであろう。例えば、結構な美術品や絶佳な風景を見ると、自分一人楽しむのは張合もないし、気も咎めるので、一人でも多くの人に見せ、楽しませたいと思う心が湧いて来る。という工合で、私は自分だけでなく、人に楽しませ、喜ぶのを、自分も楽しみ、喜ぶという事が一番満足なのである。

 それから来月の一日から三越で古久谷焼の展覧会があり、私の方でも幾らか出します。それが十一日まであって、九日からこっちの浮世絵展が始まる事になってます。東京は三越で、大阪、福岡と次々に開く予定になってます。肉筆浮世絵展と言うのですから、肉筆ばかりなのです。これは今までやった事はありません。今までの浮世絵展というと版画です。それで浮世絵展というと版画のようになっているわけです。ところが今度は肉筆ですから、その点は非常に新しい企画です。というのは、肉筆は今までみんな相当有力な人達―-金持とか華族――そういう所に(しま)われていたために、あんまり世間に出なかったのです。それで第一外人がそういう物を見る機会がないし、従って版画を日本から買っていって、それが評判になって、むしろ日本人はそれによって知らされて、版画の浮世絵を近頃大騒ぎをやるようになったのです。そういうようで、肉筆というものはみんな知らなかったのです。そこで私が目をつけたというわけです。何んとしても、版画というものはつまり印刷で、何枚も出来るのですから、作者の魂が抜けているわけです。肉筆こそ本当に作者の魂が(こも)ってますから、まるっきり違います。そこで今度の肉筆を見ると、今まで見た事もないような物が沢山ありますから、喫(吃?)驚するだろうと思います。〝なるほど、浮世絵はやっぱり肉筆が良い〟という事になるに違いないです。そこで大いに効果があると思います。

 とに角最近になって余程変って来たのは、今まではデパートの展覧会というと仏教に関係したお寺展覧会です。お寺が順々に出品するのですが、もうそれには()きたです。又お寺の美術品では面白くないです。お寺美術に感心したりいろいろするのは少ないです。私も随分仏像を研究しましたが、時代とその作者、それに非常に「いわれ」があるのですが、それを見分けるには相当研究しなければならないです。だからあれを一般の人に見せるというのは無理なのです。それから又一度見れば二度と見たくないし、何処の寺でも大した違いはないです。〝何寺〟〝何寺〟と言いますが、結局彫刻の対照(対象?)と言えば、阿弥陀様、観音様、お釈迦様、あとは地蔵とか不動とか、そういうものです。ですからいずれ廃ると思っていたら、近頃廃ったとみえて、近頃は美術館の展覧会です。この間松屋で大原美術館の展覧会がありました。油絵ですが随分入ったそうです。そこで今度の松坂屋の御舟展覧会は、御舟の妻君の兄貴が、御舟の物をウンと持っているのです。吉田某と言う人ですが、その人の持つ品が大部分なので、あと他の人のは少しです。ですからこれは個人一手でやったわけです。これからは以前みたいに各金持とか、そういうものはできないわけです。そうするとやっぱり税金などの関係で、出すのを嫌がるのです。それからもう一つ厄介なのは、特別の良い物は近頃非常に人から尊ばれて来たのです。それで一級品というと個人ではなかなか出さないのです。それから又今まで随分良い物を持っていた人はみんな手放しました。一番は財産税のためです。これが払えないために昔から持っていた物を随分手放したのです。それが私の方に手に入った銅器です。そういうために、そういった展覧会をやろうと思っても、むずかしいのです。それから又デパートはそういう展覧会をやると、ばかに客が増えるのだそうです。二、三カ月前に白木屋で春信(はるのぶ)の展覧会をやりました。僅か二、三十枚の錦絵(にしきえ)の版画ですが、そういうようで、その味が忘れられないで、今度又やるそうです。(うた)麿(まろ)とか豊国(とよくに)とか、五、六人の版画ですが、私の方でも頼まれたのでやります……歌麿を博物館に頼んだが出せないで、私の方に補充してくれと言って来たのでやります……それが今年一ぱいとかで、非常に長くやるそうです。いろんなものを次々変えてゆくのでしょう。デパートがそういった美術品の展覧会をやるというのが一つの流行のようになって来たようです。そうなると箱根美術館が一番です。私の方は種類が多いですし、しかも品物はみな一級品ですから、私の方は、まず十回や十何回かの展覧会をやれるだけの種類があります。そのために箱根美術館の宣伝には大いになるわけです。だから将来は美術品と言えば救世教というようになるだろうと思います。アメリカの新聞記者は「箱根美術館」「熱海美術館」というようにしないで「救世教美術館」としたらよいだろうと言うのですが、しかしアメリカなら宗教を軽蔑しないからそれでよいでしょうが、日本では新宗教というと軽蔑するから、まずいからと断っているのです。そういうわけで、日本の新宗教というのは厄介な見方をされているわけです。救世教はそれを大いに消しているわけです。

 

 

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