――年表(2)――
313 コンスタンチヌス帝の「ミラノ勅令」により、キリスト教がローマで公認される。
325~ ニケアの総会議「ニケア信条」
380 デオドシウス帝の勅令(テオドシウス法典)によって、ローマの国教と承認されるが、教会に逆らうことは違法とされる。
388 宗教問題公開討論禁止令
392 古来の多神崇拝が犯罪行為として禁止される。
393 ヒッポ公会議
397 カルタゴ公会議
410 ホノリウス帝の命令「ひそかに邪教信仰に走り、この上なく不確かな神のお告げを信じれば、流刑と拷問の刑に処される」→異教の神殿は略奪され、破壊された。
431 エベソの総会議
435 帝国内の異教徒を死刑に処すという法律がつくられる。
451 カルケドン総会議
※「公会議」と「総会議」・・・・・・「公会議」はカトリックの呼び方で、「総会議」は主にプロテスタントや東方教会での呼び方。
イエス30歳になった頃から本格的に布教をはじめ、わずか2年余りの活動期間ながら、後の世界に大きな意影響を与えた。エルサレムにはわずか数日間の滞在ながら、エルサレムにはイエスにまつわる聖地が数多く伝わる。
・セナクル・・・・・・最後の晩餐が行われた。
・ゲッセマネの園・・・・・・最後の晩餐を終わったイエスが祈りを捧げた場所。イエスが捕まった。
・鶏鳴教会・・・・・・鶏が鳴くまでに、ペテロが3度イエスを知らないと答えた。
・鞭打ちの教会・・・・・・ローマ兵がイエスの頭にいばらの冠を載せた。
・エッケ・ホモ教会・・・・・・ローマ総督ピラト邸跡。ピラトがイエスを群衆の前に引き出して、〝この人を見よ(エッケ、ホモ)〟と言った場所。
・ゴルゴダの丘・・・・・・十字架に架けられた。
イエスの死後、その教えは弟子たちによって全世界に伝えられた。
処刑されたイエスが3日目に復活したという信仰や、イエスは神によって人類のメシアに任じられたという教えをきっかけに、ユダヤ教の一派から独立し、キリスト教へと発展していく。特に、ローマ属州キリキアの州都タルソス生まれのユダヤ人で、もともと熱心なパリサイ派だったパウロが、キリスト教の発展に大きく貢献した。
やがて、ローマとユダヤとの戦争で、ユダヤ教徒が敗北すると、それをきっかけにキリスト教はユダヤ教から完全に独立した道を歩むことになる。
- 使徒の宣教と、初代教会の形成
- 十二使徒
イエスは、イスラエルの十二部族にちなんで12人の弟子を選び、十二使徒と名付けて二つの権威を与えた。第一は「神の国の教え」をひろめる権威、第二は「悪霊を追放し病人を癒す」権威で、権威は直接イエスから分かち与えられるプネウマ(人間の目には隠されているが、森羅万象を動かす不思議な力)と結合していた。
エルサレム教会の第一人者となった主の兄弟ヤコブは、12人のグループの一人ではあるが、使徒とは呼ばれなかった。
・ペテロ
父ヨナ、弟アンデレと共にガリラヤ湖で漁師をしていた。イエスによって大漁の奇跡を見せられた後、「人間をとる漁師にしよう」との言葉に応じて弟子となった。イエスに重用され、弟子の代表的存在とされており、イエスによってペテロと名付けられた。
・アンデレ
ペテロの弟。兄同様、カリラヤ湖辺で漁師をしていた。弟子となる前から洗礼者ヨハネの言葉を受けており、イエスを知ったのも兄ペテロより先立った。ペテロにはイエスのことを「メシアに出会った」と伝えている。
・ヤコブ(ゼベダイの子)
ガリラヤ湖で漁をしながら暮らしていた。ペテロ兄弟が弟子となったすぐ後、イエスから召されて従う。アルファイの子・ヤコブと区別するため、〝大ヤコブ〟とか〝年長のヤコブ〟と呼ばれることが多い。
・ヨハネ
ゼベダイの子・ヤコブの弟で、もともと漁師。ペテロ、兄のヤコブと共にイエスに重んじられた一人で、イエスの姿が変わった場面(『マタイ』17・1-13)など重要なところで常に側で仕えていた。
・フィリポ
ガリラヤ湖北岸の町・ベトサイダ出身。ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが弟子となった翌日、「わたしに従いなさい」との言葉をかけられ弟子となった。バルトロマイをイエスに引き合わせた人物として記されている。
・バルトロマイ
ナザレの来たにあるカナ(ガリラヤの町)出身。イエスから「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われる。『ヨハネによる福音書』では、ナタナエル(〝神の賜物〟の意)という名前で登場する。
・トマス
ガリラヤ地方で、漁師をしていた。アラム語で〝双子〟を意味する名前で、ニックネームの可能性も考えられており、弟子になった経緯は不明。イエス復活を頑なに信じず、疑い深い性格の持ち主として知られる。
・マタイ(=レビ)
ガリラヤこの北西岸の町・カファルナウムで徴税人をしていた。別紙の隊商とされていた職業だったが、イエスに声を掛けられたことに感謝し、弟子となった。『マタイ』以外では、レビという名前で登場する。
・ヤコブ(アルファイの子)
十二使徒の一人として名を連ねているが、出身地の詳細な情報や、弟子になった経緯については不明。ゼベダイの子・ヤコブと区別するため、〝小ヤコブ〟や〝年少のヤコブ〟とも呼ばれる。
・タダイ(ヤコブの子ユダ)
詳細の情報は不明。福音書のうち、『マタイ』『マルコ』ではタダイ、『ルカ』ではヤコブの子ユダと記されている。イエスを裏切ったイスカリオテのユダとの混同を避けるため、ヤコブの子ユダと言われている。
・シモン
ローマ帝国の支配に対抗する活動をしていた政治結社〝熱心党(ゼロテ党)〟の党員だったが、弟子になった経緯はわからない。正義感の強い人物だったとされている。
・ユダ(イスカリオテのユダ)
イスカリオテは地名を表していると思われるが、出身地については諸説ある。ただし、他の11人がガリラヤ地方であるのに対し、ひとりだけ他地域だったことは無視されている。〝裏切り者〟として広く後世に伝わった。
――マティアの選出
自殺した裏切り者ユダの任務を継ぐ人を選ぶというペテロの提案によって、ヨセフ(別名バルサバ、ユスト)とマティアの二人を立てて祈り、くじを引き、当たったマティアが選ばれた。
- 使徒ペテロの布教
ペテロほど、イエスから愛され、信頼された弟子はいない。イエスの死後、残された信徒たちを導き、とりわけユダヤ教徒の改宗に全力を傾け、その名の通りに「岩(ペテロ)」としての働きをまっとうしたが、晩年、確定できないある時期に、ローマに渡り、捕らえられて殉教の死を遂げたと伝わる。
・「主よ、いずこへ」
ペテロがなぜ晩年になって、迫害の火の燃え盛るローマの都に渡ったのかは、謎のままだが、この運命の空白を、ポーランドの作家シェンキェヴィチ(1905年、ノーベル文学賞受賞)は、美しい空想で補った。 (『クォバァディス』(岩波文庫・河野与一訳)
ある日、迫害の火の燃え盛るローマを立ち去ろうとする年老いたペテロの目に、光の中から主イエスが現れる。ペテロは大地にひざまづくと、イエスに追いすがるように手を差し伸べる。ペテロは、涙に咽びながら言う。「主よ、いずこへ行かれるのですか」(クォバァディス ドミネ)
イエスが答える。「お前がもし民を見捨てるなら、私がローマに行って、もう一度十字架にかかりましょう」それを聞くとペテロは、何も言わず、再び巡礼の杖を取り直し、7つの丘の見えるローマの都に向かって歩き始めた。
- エルサレムの初代教会
イエスは、ユダヤ人を対象として宣教した(ガリラヤからエルサレムへ)。
イエスの死後、使徒と呼ばれた12人の弟子たちは、最初の本格的な伝道をエルサレムのユダヤ教の神殿広場で行った。ユダヤ教の大司祭や長老たちは弟子たちを尋問し、以後イエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと命令した。この頃、イエスを信仰する者たちは3000人余り。
十二使徒を中心にするユダヤ人から成っていた信奉者たちに、「ユダヤ教とは別の宗教」というはっきりした意識はなく、彼らもユダヤ教とは全く異なる宗教の信者だとは見なされていなかった。ユダヤ人からはナザレ人(なざれびと)と呼ばれたり、異邦人(非ユダヤ人)からはキリスト教徒と呼ばれたりした。中には、イエスは神の子であり救済への唯一の道であると言って、正統派のユダヤ教徒とは相容れない教義を唱えつつも、男性には割礼を受けさせ、ユダヤ教の儀式や食物規定に従うよう求める派もあった。
エルサレムに生まれた初代教会は、義人ヤコブやシメオンなどを中心として、ユダヤ教内のキリスト派の人々を中心とする宣教活動が母体となった。
初代教会は、〝四つの柱〟と呼ばれる生活綱領をもち、弟子たちは熱心に次のことを守った。
①使徒たちの教え(イエスの教えと行動、イエスの精神の中に生きるにはどうすればよいか)
②共同の生活。団結と財産の共有を特徴とする友愛的団体。
③パンを分かつこと。(イエスの最後の晩餐を思い起こすため)
④祈り
※ エルサレムに成立したイエスの弟子たちを中核とする初代教会は、70年のユダヤ戦争でその役割が終わる。
初代教会では、キリスト教会がキリストの精神に沿った行動をとるよう助言する人々を「預言者」と呼んだ。
しかし50年以降、キリスト教徒が異教徒に積極的に宣教するようになってからは、最初にユダヤ教に改宗することなく、異邦人から直接キリスト教徒が生まれるようになる。そのことを最も精力的に主張したのがパウロだった。
- エルサレムの使徒会議(AD48-49)
ほとんどの研究者が、イエスはユダヤ人だったとしているが、当時のユダヤ教は混乱をきわめ、宗派、党派、氏族、預言者、偽預言者、ラビ、教師、ギリシャやローマの影響を受けた者などが入り乱れていた。ユダヤ人社会は、エジプト、トルコ、ギリシャ、シリア、イラクなどあらゆる地域に存在し、それぞれに形を変えた独自の信仰を持ち、周辺文化の影響を受けていた。
このため、割礼を受けていず、ユダヤ人ではない人々をキリスト教徒にして同様の権利を認めることができるかどうか大問題となる。
救われるためには割礼を受けなければならないという主張に対して、パウロとバルナバは、エルサレムの使徒や長老たちと協議する。
議論の末、49年、ペテロの提案によって、割礼を受けた者も受けない者も、四つの禁令を受け入れるならば互いに交流できるようになった。
――四つの禁令
①偶像に供えたものを食べない
②律法に反する性関係をやめる
③血を抜いていない動物を食べない
④命である血を食べない
パウロの主張が受け入れられ、すべての人種に対して洗礼を授けてキリスト教徒にすることになり、世界宗教化(すべての人種を対象とする世界的規模の運動)していく。
50年以降、キリスト教徒が異教徒に積極的に宣教するようになってからは、最初にユダヤ教に改宗することなく、異邦人から直接キリスト教徒が生まれるようになる。その過程で、各地で成立した共同体が包括的に〝教会〟として意識され、さらに宣教を推進する理論的・実践的根拠にもなったが、原始キリスト教団から今日のキリスト教となる間に、さまざまに異端を生み出すことにもなった。
- パウロの布教
- パウロの回心
※ 回心とは、英語のコンヴァートConvertの訳語で、方向を変えるという意味。
パウロはパリサイ派の最も熱心な集団の信徒で、パリサイ派の巨頭ラビ・ガマリエルの高弟であることを誇る熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教徒の審問を行うなど精力的に活動していた。
しかし33年頃、ダマスコへ向かう途中で復活のキリストに出会い、回心。一転して熱心なキリスト教徒となった。このことがその後の2000年のキリスト教史において非常に重要な意味を持つことになる。
パウロは、自らを「キリスト・イエスの使徒」(第一コリント1―1)、「異邦人の使徒」(ローマ11―13、ガラテヤ2―9)と名乗っている。これは、彼はイエスによって十二使徒のような権威を与えられたのではなく、復活のイエスと出会ったという個人的経験以外にないためだが、そのために他の使徒から批判され攻撃されたとパウロは手紙の中で語っている。(ガラテヤ1―6、第2コリント11―13、12―12他)
パウロは、自分の福音理解に同調しないユダヤ教徒には寛容ではなかった。異邦人への宣教を中心とするようになってから、サウロ(イスラエル名)はローマ市民としての名前であるパウロを名乗るようになる。
- パウロの信仰
パウロの信仰は、ユダヤ教の伝統の中から現れた他の集団とは大きく異なった。パウロが求めた唯一のことは、ユダヤ人も、ユダヤ人以外のすべての異邦人も共に回心して、イエス・キリストへと顔を向けることだった。
パウロはユダヤ教の変革を行っただけではなく、原始キリスト教に対しても根本的な修正を迫り、パウロ版キリスト教とも呼ぶべきものへと大きく変質させていく。
①パウロ主義「イエス・キリストへの信仰の有る無し」
パウロは、人が義とされる(神の前で人間が正しい関係に入ること)のは、「律法のおこないによらずイエス・キリストへの信仰によるのであり、人間はそれによって神を知り得る」(「ローマ人への手紙」3―28)と主張。キリストを律法に代わるものとしたパウロの主張は、後に「パウロ主義」とか「信仰義認説」といわれる。
イエス自身は、「私は律法や預言を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためにではなく、成就するためにきた」(『マタイ』5―17)と語っている。これを覆すパウロの主張は、それまでのユダヤ人の考え方からすると革命的な主張だった。したがって、律法を通じてのみ神を知り得るとみなしていた正統派のユダヤ教徒からはもちろん、初代キリスト教会を構成していたユダヤ教キリスト派の人々からも受け入れられなかった。
しかし、ギリシャ人キリスト者が増えるにつれて、パウロ主義は徐々に支持者が増え、49年のエルサレム使徒会議でも、再確認される。50年以降に入るとイスラエル以外の異邦人の間で急速に支持を獲得していった。
「イエス・キリストへの信仰の有る無し」――パウロがこの「信仰義認」を打ち出したことによって、ユダヤ人や異邦人といった区別なしに、全人類の前に等しくイエス・キリストの福音が開かれた。そして、これによってキリスト教は、それまでのユダヤ教という一民族宗教内の一分派という狭い枠組みから、普遍的世界宗教へと脱皮していく。
しかし、この「パウロ主義」のキリスト教への導入を境として、ユダヤ教とキリスト教徒の分裂と対立もまた決定的となり、また「パウロ主義」に対して、「おこないによって信仰が全うされる」とするヤコブ主義との対立が教会内部にも生じた。
②改宗者が割礼を受けたり、ユダヤ法に従ったりする必要はない。
ユダヤ教では、「律法のおこないによって信仰はまっとうされるのであり、人間が神を知り得るのはトーラーにかかれた神の言葉を通してだけである」と考えていた。
初代教会の主導権を持っていたヤコブやペテロをはじめとするユダヤ教キリスト派の人々は、ユダヤ教からの分離を求めず、神殿を重んじ、律法を順守したため、当初は、食物禁忌や割礼などに代表されるような律法の遵守を、その他のユダヤ教徒と同様に不可欠とみなしていた。
30~50年のキリスト教徒はすべてユダヤ教徒で、異教徒がキリスト教徒になるためには、まずユダヤ教キリスト派となることが前提だった。
しかし、ヘブライ語とその方言であるアラム語を話すイスラエルのキリスト者と、ギリシャ語を話すイスラエルのキリスト者との間にやがて食い違いが生じてくる。大ヤコブがヘロデ・アグリッパ一世の迫害で殉教した後、イエスの兄弟義人ヤコブが初代教会の最初の監督になったとき、律法問題で論争、対立する。
③異邦人の改宗に努力
他の者はユダヤ人社会の中で改宗者を増やそうとしたが、パウロは異邦人を改宗することに努め、各地に旅し、地中海東部沿岸地方に教会を建てていった。
④相手に応じて説く
パウロは「ユダヤ人にはユダヤ人の如く、ギリシャ人にはギリシャ人の如く」に語ったといわれる。そのためパウロに対して、ヘブライズムをヘレニズムと妥協させた男という批判がユダヤ教徒からなされた。
⑤その他の相違点――原始キリスト教とパウロ主義
・ 原始キリスト教では、イエスは人間であって復活後にはじめて神性を認めていた。パウロは、キリストは誕生する以前から神であったとみなした。
・ 原始キリスト教では、イエスは神の子であると考えていた。パウロは、キリストは神と同格で同質であるとみなした。
・ イエスは、人間を愛することによって神を愛することを知ると説いた。パウロは、キリストと一体になることでキリストを愛することを知ると説いた。
・ 原始キリスト教徒は、イエスを「救済者」と考えていた。パウロは、キリストを「罪の贖い者」とみなした。
パウロの思想の中で最も重要なのが、原罪と贖い。人祖アダムの堕罪によって、その後の人間もすべて原罪によって汚されるようになり、その罪から救われるためには「贖罪者キリスト」による他はないと最初に、明確に主張した。キリストの死によって人類の罪が贖われるとする、後代のキリスト教会の正統的教義を最初に意識的に主張したのはイエスではなく、パウロ。
- 3回の伝道
3回にわたる長途の伝道旅行を通して、7度も獄舎につながれ、逃亡者となり、石打ちの刑を加えられ、権力者たちの前で大胆にその信仰を告白したのち、ネロ治世の、おそらくは60年代の後半にあたる不確定なある時期に、ローマの地で殉教した。最後の運命の数年は不明のまま。
47~56年、パウロは前後3回の伝道旅行を行った。
※ 第3回目の旅行から帰った直後、逮捕されてローマへ護送される。このときの旅を含めて4回とする説もある。
ユダヤ人のシナゴクは異なる意見や思想に対して非常に寛容だったため、小アジア諸国都市のシナゴクに集う異邦人を相手に活発な福音宣教を行う。
oアテネでの失望
アテネの哲学者たちは、イエスとその復活を偶像の視点でとらえ、真実を理解しなかった。
oコリント滞在
ユダヤ人を説得するが、彼らの憎しみにあう。
oテサロニケの信徒への手紙
異邦人には歓迎されたものの、ユダヤ人は彼を追い払い、新しくキリスト教徒になった人々を迫害した。パウロは街を去ったあと、若い教会に信仰を粘り強くもち続けるよう手紙を書いた。
oコリントの信徒への手紙
AD50~52年頃、教会が作られる。異邦人出身のキリスト教徒にとって、死者の復活を認め、古い習慣から抜け出すのは容易ではない。一方、ユダヤ人のキリスト教徒には、彼らが偶像にささげた肉を食べることが我慢ならない。パウロは、団結について、分争について、また貧しい人々を忘れるなと書く。また、フィリピ教会の心の広さを誉め、より消極的なコリント教会を鼓舞するため、テトスを送った。
oガラテヤ(小アジア)の信徒への手紙
ユダヤ人キリスト教徒は律法を守ることを宣伝し、新しい教会を動揺させた。ガラテア人のキリスト教徒は彼らの言葉に従い、救いは律法ではなくイエスへの信仰にあるとのパウロの教えを捨ててしまう。パウロは彼らに「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなた方を惑わし、キリストの福音を覆そうとしているのです」と手紙を書く。
oフィリピ(マケドニア)の信徒への手紙
権力者の迫害でこの街を去らなければならなかったが、フィリピ教会は信仰を守りつづけたので、パウロはその感謝を手紙に書いた。手紙の結びは、皇帝の周囲にまで信仰が浸透していることを示す。
oローマの信徒への手紙
58年春、マケドニア、小アジア、アカイアでの宣教は終わったと判断したパウロは、自分の来訪に備えるようローマの人々に手紙を書き、ローマ教会(AD40年頃創立)には多数のユダヤ人集団や異邦人が集まった。49年、クラウディアウス帝によってローマのユダヤ人追放が行われたが、その後命令が撤回され、ローマにもどったユダヤ人たちは、異邦人キリスト教徒たちの冷たい軽蔑的態度にあう。パウロは彼らをさとし、兄弟愛を訴えた。
oパウロとエルサレム教会の連帯
エルサレムの使徒会議ではこの街のキリスト教徒を助け、フィリピやコリントの教会に、エルサレムから離散している兄弟たちと連携するよう勧めた。
oコロサイ(小アジア)の信徒への手紙
救済が割礼や特殊な暦、食生活の禁忌を守ることによって与えられると主張する扇動者によって、教会は動揺していた。ローマで捕らえられていたパウロは、道を踏み外そうとしていること、福音はすべての誤った束縛からの自由であり、唯一の規則は隣人を愛することと説く。このあと、パウロはエフェッソの信徒にもコロサイ宛の手紙に書いたように、キリスト教徒の守るべき倫理を繰り返し述べた。
oパウロやその後のキリスト教会の布教が、西へと向かった理由
パウロは、バビロンから見ると文化的辺境地だった小アジア地域以西へ伝道し、同地に、離散していたユダヤ人のシナゴクを借りる形で、異邦人に伝道した。
①「永遠の都ローマへ通ずる道」があった。
②ユダヤ教の一派でしかなかったキリスト教が、ユダヤ教のアカデミー群(ユダヤ人教学)の中心地バビロニアなどの東方地域に進出して宣教することは容易ではなかった。
- ローマ皇帝による迫害
クリスチャンはギリシャ語の「クリスチアーノス」が語源で、キリスト教徒と非キリスト教徒とを区別する必要から、非キリスト教徒がつけた軽蔑的呼称。
外来宗教には寛容だった歴代のローマ皇帝も、皇帝崇拝を拒否するキリスト教徒には激しい迫害を加えた。
イスラエルはローマ帝政の政治にも積極的に参加しており、進んでローマの軍団と共に戦うなど、政治的軍事的責任を果たしていた。イスラエルは帝政内で一つの国家を形成し、宗教においても独自性を持つことが許されていたため、キリスト教徒は、ユダヤや小アジアの諸民族の間から始まり、ローマ帝国全領域に奴隷や下層民を中心として広まっていった。
やがてはローマ市民や軍隊、宮廷にも信者が生まれるが、一つの宗教にとどまって国家的性格を持つものではなかったこと、キリスト教徒は政治的責任や兵役の負担にも協力的ではなく、それらを回避することが多かったことなどから、ローマには彼らの存在自体が犯罪的だと映る。そして、キリスト教徒への激しい迫害の時代が長い間続いた。
ネロの迫害(54~68年)
主の兄弟ヤコブの殉教(62年)
ローマの大火とペテロ、パウロの殉教(64年。61年頃説あり)
ローマや小アジアでの迫害(95年)
ドミティアヌスの迫害(81~96年)
デキウスの最初の全帝国的キリスト教大迫害(250年頃)
ヴァレリヌスのキリスト教禁令(257~258年)
ディオクレティアヌスの大迫害(303~313年) 等々
迫害時代のキリスト教徒たちは、地下墓地(カタコンベ)に密かに集うなどの地下活動を通じて礼拝を行い、信仰を守りながら教えを広め、信者の団結を強化していった。
※ カタコンベ・・・・・・初期キリスト教徒が、信徒を埋葬した地下の墓所で、ローマでは、長さ6キロに及び、迷路のよう。ところどころに、キリストや復活のシンボルが、フレスコ画で描かれた。
※ 魚のマーク・・・・・・「イエス・キリスト 世の救い主」を表すギリシャ語の各単語の頭文字だけを組み合わせたギリシャ語「イクトゥス」は魚の意味で、潜伏活動するクリスチャンたちの合言葉やシンボルマークに「魚のマーク」が盛んに使われた。
こうして確立されていったキリスト教会の組織には、監督、長老、執事などの職制が生まれていき、この組織は、その後のキリスト教会の制度として定着していった。使徒を継承する監督(司教)の権威を強め、長老や執事、司祭を統一する権限を付与するなど、上意下達を迅速にする階層的構造(ヒエラルキー)がキリスト教会の制度となっていったのは、迫害時にはそのほうがより迅速に対応できたため。
○治療神アスクレピオスとの闘争
初期キリスト教においては、イエスと治癒神アスクレピオスとの競合もあったが、2~3Cに、両者の闘争は避けがたいものとなった。4Cに入って、闘争はローマ帝国のコンスタンティヌス帝がアクスレピオス神殿の徹底破壊を命じた後までも続く。
5C頃、シリア教会がアスクレピオス信仰の根絶を発令し、抗争が終わった。
- 五大教会の成立
49年のエルサレムの使徒会議で「律法から自由な福音宣教」が認められたこともあり、ダナスコ、アンティオケア、小アジア、マケドニア、ギリシャ、ローマなど、ヘレニストの住む異邦人地域を中心とする宣教が活発化していった。
180年頃までには、エルサレム、アレキサンドリア、アンティオキア、コンスタンチノーポリス、ローマの五つの都市に五大教会(五本山)が成立する。
185年頃には、ゲルマニア(現ドイツ)までもキリスト教が伝わった。
最初の2世紀の間に、キリスト教徒は教会ごとに小集団を作っていった。集団にはそれぞれ指導者がいて、聖典や教義も独自のものだった。キリスト教界全体を支配する権威者や階級制度は存在しなかったが、やがて聖職者の位階制が生まれ、急速に広まると、教義の統一が必要となっていく。司教たちは会議を開き、何が正しい教義かを決め、それ以外の解釈は異端として弾圧していった。
○司教、大司教、主教、大主教
司教、主教は、英語でビショップ。大司教、大主教は、英語でアートビショップ。
イエスは生前には、十二使徒を任命しただけで、教会の組織については何も定めなかった。初期の教会では、長老と呼ばれる人たちが指導にあたっていたが、各地に教会ができ、信者数が多くなるについれて、はっきりした組織を作る必要に迫られた。それで、地理的な区割りを定め、それぞれの区域にエピスコポス(ギリシャ語で監督者の意)を置いたのが、司教区と司教の始まり。司教区の広さは様々で、広いものは日本の平均的な県ぐらい、狭いものはその数分の一ぐらい。
最初のうち、信者の指導者として、その司教区で最も徳望の高い者が司教に選ばれるのが常だった。キリスト教が迫害されていた時代に、司教になるのは命懸けで、迫害が始まると、司教は真っ先に狙われ、多くは壮烈な殉教の死を遂げた。
しかし、4世紀になってキリスト教が公認され、さらにローマ帝国の国教となるに至って、事情は一変する。司教の地位は高い栄誉と権力を意味するようになり、時代とともに莫大な収入を伴うようになった。
中世に入ると、宗教家としての経歴や徳望とはかかわりなしに、王侯貴族の次三男や庶子(側室の子)が、世俗の権力や財力にものを言わせて、司教の地位を獲得するという悪弊がはびこった。それが、次第に改められるようになったのは、宗教改革以後。
中世には、司教のさらに上に立つ者として大司教の制度が生まれた。しかし、大司教も広い意味では、司教の一種。大司教の数は一国につき、1人か2人ぐらいが普通で、多くても数人どまり。
司教や大司教が在任しているカテドラルと呼ばれ、並みの教会て比べものにならないほどの高い格式を誇り、建築も豪壮で、宗教美術という観点からも見所が多いのが通例。カテドラルのことを、日本では司教座大聖堂あるいは、単に大聖堂と訳している。
- ユダヤ戦争
ローマ帝国による支配が続いていたユダヤでは、二度にわたる独立戦争が戦われた。
o第一次ユダヤ戦争(66~73年)
ローマ帝国の支配に対する不満が募る中、ユダヤ総督フロールスがエルサレムの神殿から宝物を持ち去ったことを怒った市民が、暴動を起こすが、フロールスがこれを鎮圧。多くのユダヤ人が処刑されたことをきっかけに、ユダヤ人は大規模な武装蜂起を始めた。
当初、ユダヤ人はローマを圧倒し、エルサレムを自らの手に取り戻したが、ユダヤ人たちの間で内紛が起こり、衰退していく。ゴラン高原の要塞ガムラでは、5000人が崖から身を投げる悲劇が起こった。
70年、ローマ軍は総攻撃を敢行。73年、マサダの砦では、2人の女性と5人の子供以外の1000人弱が全員自決するという悲惨な最期を迎えた。
o第二次ユダヤ戦争(132~135年)
ユダヤ人たちの独立への思いは消えることがなく、132年、再び武装蜂起し、第二次ユダヤ戦争が始まる。
反乱を指揮したバル・コクバは、エルサレムを手中にすると、あの手この手でローマ軍に対抗した。しかし同時に、自らを救世主と称し、それに反発するキリスト教を弾圧したため、反乱軍内部でユダヤ教徒とキリスト教とが反目し、内紛状態に陥った。これが皇帝ハドリアヌスを有利に導き、エルサレムは陥落する。
この戦い後、ハドリアヌスは、ユダヤの不安定要因はユダヤ教とその文化にあると考え、その根絶を図った。ユダヤの地は「パレスチナ」と言われるようになり、エルサレムも「アエリア・カピトリーナ」となる。市内の再建は、ローマ風の都市計画に基づいて行われた。さらに、ユダヤ教徒はエルサレムへの立ち入りを禁じられ、世界中に離散されてしまう。
- ローマ帝国の国教に
- ミラノ勅令(313年)
最初、キリスト教徒はローマ帝国の全人口の20%にも満たない少数派だったが、その後、民衆の中に広範に浸透し、ついにはローマ帝国内で最大の宗教集団へと成長していった。
コンスタンティヌスの即位(306年)後の308年、東に3名、西に3名の皇帝が同時に統治していたローマ帝国では、異常なほどの内紛が起こっていた。
西ローマ帝国の覇権を巡って西の王の一人と戦争に突入したコンスタンティヌスは、燃えるように赤い十字架の幻覚の中で「この征服にありて」という言葉を授かって戦争に勝ち、西の単独皇帝となった。この幻覚ゆえ、コンスタンティヌスはキリスト教に改宗するが、自身は異教徒的な理想は捨てず、326年まで洗礼を受けなかった。
大帝コンスタンティヌスⅠ世は、キリスト教が帝国内で最大の宗教集団であることを踏まえ、キリスト教を敵視するやり方を改める。ローマ帝国の公認宗教として選ぶことによって、キリスト教の神の力を帝国安寧に利用しようとしたが、実際にその保護奨励政策がキリスト教の発展、権力、富を確かなものにしていく。そして、有力な司教たちは聖書の権威であるだけでなく、司法と行政の権威ともなっていった。
258年のキリスト教寛容政策(~40年間)を経て、313年、大帝コンスタンティヌスⅠ世は、ローマ帝国がキリスト教徒に対しても、その他のあらゆる宗教の信者に対しても、〝完全な信仰の自由〟を認めることが〝有益かつ適切である〟と宣言する。この「ミラノ勅令」(寛容令)により、キリスト教とその信者への迫害はひとまず終わりを告げ、キリスト教史上、大きな転機となった。
※ この勅令は同帝の寄進状が偽文書であり、大綱の決定がなされただけで、「勅令」自体は存在しなかったとも言われる。
313年、キリスト教がローマ帝国の公認宗教になると、エルサレムはキリスト教世界全体の中心地となり、城壁や教会堂などがつくられていた。
国教化とともに、「アエリア・カピトリーナ」の名は廃止され、もとの「エルサレム」にもどされた。
- ニケア公会議(325年)
コンスタンティヌスは違法行為を戒め、宗教の自由を許していたが、張り詰める一方の異なるキリスト教宗派間の緊張が、帝国の絶対的統一を脅かすことを悟る。そして、長年内輪もめが続いていたローマ帝国を一つにまとめるため、325年、二ケアにて、史上初のキリスト教公会議(二ヵ月間)を開いた。
公会議でコンスタンティヌスは、ひとえに調和を願い、教会の統一を促した。しかし、真理や正しい信仰や道徳観を問う会議ではなく、政治と権力の問題だった。
「ニケア信条」が採択され、この教理に違反する見解はすべて禁じられ、異端とされるようになった。これ以後、初期キリスト教会の一枚岩的性格が確立されていく。
oニケア綱領
我々は、全能にして可視・不可視を問わずすべての創造主たるひとつの父なる神を信ず。そして、父なる神より生じ、実体を分け与えられた唯一の神の子を信ず。そは神から生じた神、光から生じた光、真なる神から生じた真なる神にして、創られたにあらずして、天界・俗界双方の事象すべての源からなる父なる神と同体にして、我ら人間とその救済のためにこの世に降り立ち、人の姿に成り代わり、人となり、災いを受け、三日後に蘇り、天界に昇って生者と死者を裁かんとす。そして聖霊を信ず。
綱領の中で、司教たちは、下記の内容を確認した。そして、綱領には、カトリックおよび使徒教会が、アリウス的所感に同意する人々を例外なく告発するという但し書きが加えられた。
・キリストが父なる神に創造されたのではなく、〝彼〟と同じ実体であり(実体を分け与えられた)
・父なる神とキリストはともに神であり(神から生じた神、光から生じた光、真なる神から生じた真なる神)
・キリストは神性にして〝父〟とともにある(父なる神と同体にして)
しかし、これで三位一体問題が最終帰結を見たわけではなく、さらなる論争が何年間か続き、ニケア綱領は、381年の第一次コンスタンティノープル公会議において修正が施された。
oカノン(法規正典)20条
共通の判断基準と慣例を遵守する教会の普遍性確立を狙ったもの。
これに則り、ローマ、アレクサンドリア、アンチオケ(アンティオキア、アンタキア)、エルサレムの地理的な支配権と司法権が、その他の細々した問題とともに確立した。
o当時の二つの大きな命題
①異端アリウス派によって引き起こされた分裂と不調和問題。
アリウス主義は、アレクサンドリア出身の一信者・アリウスが唱えた。
キリストは人間だったとするアリウス派に対して、事態を収拾したいコンスタンティヌス帝は、ニケア公会議を召集。自ら議長をつとめ、さらには最終的な声明の草稿を手に入れた。
ニケア公会議では、アリウス派は異端とされた。そして、キリスト教教義の中でも重要な教義の一つ「父なる神、その子なる神、聖霊なる神」の三位一体が、公文化された。
すなわち、キリストは神(の子)であり、したがって結婚していたことはありえないと法的に決められた。
現在、新約聖書として知られている文献の多くは、このニケア公会議で選択されたもの。
※ 異端への攻撃はそれまでにもあったが、以後も、サベリウス派(父と子は別の人格ではなく、同一の存在の異なる姿であるとする)から、異端尋問や魔女裁判まで、耐えることなく続いた。
oキリスト単性論とキリスト両性論(アリウス派対アタナシウス派論争)
2末~3C半ば頃から、ロゴス・キリスト論を展開していたオリゲネス学派らが、アリウス派とアタナシウス派とに分裂する。
受肉したキリストの人格は、単一の性を持つものか、キリストの人格に神性が備わっているものかという論争。
・アタナシウス派
アレクサンドリアの司教アタナシウスは、エイレナイオスが打ち立てた原始正統派キリスト教を信奉した。この教義は325年、ニケア公会議「ニケア信条」で正統的教義として確認される。328年、司教に任ぜられたアタナシウスだが、335年、コンスタンティヌス帝によって現ドイツ西部のトリアーに流刑に処された。2年後にエジプトに戻ったアタナシウスは、アリウス派批判の先頭に立つようになる。アタナシウスは、ニケア公会議の決定を踏みにじるものとの戦いに生涯を捧げたアタナシウスは、3度捕らわれて流刑となり、葛藤と激動の30年を過ごした。
367年に書かれた第三九復活祭書簡の中で、アタナシウスは、受け入れられる文書とそうでない文書を定め、「これらは救済の泉であり、そこに記された生きた言葉によって、渇いた者は癒される」「神を説く教義を宣言するのはこれらの書のみである」と書いた。
教義は、ニケア総会議(325~)のその後、カルケドン総会議(451)でも再度確認される。それ以来、正統派カトリックのキリスト論の中心的教義となり、信仰宣言文(クレドー)の中核部ともなった。
アタナシウス派は、キリスト教の神は、父と子と聖霊という三つの位格でありながら、なおひとつの実体において同一本質の関係にあり、子は父の本性より永遠に誕生すると主張した。これが後に、キリスト教正統派の三位一体説となっていく。
・アリウス派
アレクサンドリア出身のアリウスが唱えた教義で、イエスは神の子であるが、神そのものではないとする。この教義は、カトリック教会内で激しい議論を巻き起こし、多くの支持者を獲得した。東ローマ帝国で即位したばかりのコンスタンティヌスⅡ世も支持した。
イエスの誕生は神と切り放して考えるべきだ、なぜなら、神はイエスに先立つ全能の存在だからだ――が、アリウス派の基本的な信念。アリウス派は、神の子イエスを神と同格と認めず、神のみが神であって、子は神ではないとした。神の子イエスはその本質において父なる神とは異質的であり、子が存在せず神のみが存在していたときがあり、子は無より存するようになった(子の被創造性)と主張した。キリストは「最初にして至高の神の創造物」であるとして、三位一体論を否定する。
キリストが神性を欠くということは、罪を犯し変節する可能性があることを意味する。
アリウス派はローマ帝国内から追放された後、ブルグンド、東ゴート、西ゴート、ヴァンダル族などの民族大移動前のゲルマン諸部族に浸透し、496年にフランク族が正統派のアタナシウム派に改宗するまで、ゲルマン世界で勢力を張った。
その後も「キリスト単性論」として繰り返し出現。宗教改革後の16~17Cのイタリア、スイス、ドイツ、ポーランドなどに起こった神の位格(ペルソナ)をひとつとみる「ソッツイーニ主義」や、宗教改革後のトランシルバニアやイギリスで広まった「ユニテリアン主義」などにも影響を与えた。
◇ギリシャ正教、ローマ・カトリック、プロテスタント
「イエスは、最初は人間の子として生まれ(人性を取り)、十字架につけられて死に、よみがえって天に昇った(神性を取った)」
◇コプト派(エジプト)、エチオピア派、シリア派、アルメニア派
「イエス・キリストは、終始一貫して純粋に単一の神性を持っていた」(キリスト単性論)と考え、「イエス・キリストがはじめに人性を取り、後には神性を取ったとするのは誤り」とする。
②復活の日(復活祭)の統一
- その他の論争
oキリスト単意論とキリスト両意論(7C)
カルケドン総会議(451)で、キリスト両性論が正統派教義として確立したのち、キリストの人格には、ただひとつの意志があるのか否かという新論争が生じる。
7Cに生じたキリスト単意論は、受肉したキリストの人格にはただひとつの意志があるだけとする。両意論は、キリストの人格には神性と人性の両性に相応じる二つの意志「人間的意志」と「神的意志」があり、両者は不統一に分裂しているのではなく、前者が後者に従属しているとする。
両意論の教義は、コンスタンチノーブル総会議(680)で正統派教義として確認(東方正教会)された。西方教会は、単意論に反対し、641年にキリスト単意論は異端であると宣告した。
oキリスト養子論(8C末)
2C頃から起こったキリスト論の一つ。
イエスは、はじめは単なる人間だったが、聖霊によって神の子キリストとされたとする説。2Cのエビオン派に始まり、ローマや小アジア半島のアンティオケア、8Cのスペインなどでも同様な論が生じた。
- 国教化(392年)
その後、一時、ユリアヌス帝によってキリスト教徒が迫害(361~363)された。
そして、テオドシウスⅠ世治世の380年、「デオドシウス帝の勅令(テオドシウス法典)」が出され、全帝国人民に対してキリスト教への帰依が命令された。
「父と子と聖霊を、同等の権威をもつ三位一体と考え、唯一の神として信奉すべし。一、この命令に従う者にはカトリック教徒の名を授ける。だが、これに従わない者は理性を失った狂人とみなされる」
この後、古来の多神崇拝が犯罪行為として禁止される。異教の神殿は破壊され、帝国内の異教徒を死刑に処す法律まで作られた。
そして、392年には正統派キリスト教をローマの国教とし、他の神々への礼拝が禁止された。
こうして、2世紀半にわたるキリスト教徒への迫害に終止符が打たれ、世界的帝国ローマの保護と国教化により、キリスト教が世界的宗教へと発展する世俗的関係が出来上がる。
- ビザンツ帝国時代
コンスタンティヌス帝の母へレナは、イエスの十字架と墓を発見し、336年、聖墳墓協会を建設した。
4世紀~7世紀にかけて、エルサレムは、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの勢力が拮抗する地域となった。
シリア諸都市を占領したペルシアは、エルサレムを陥落させると、住民数万人を虐殺すると同時に、イエスが磔されたと伝えられる聖十字架を持ち去る。ゾロアスター教を信仰するペルシア王は、この遺物を楯にビザンツ皇帝ヘラクレイオスに改宗を迫ったため、戦争が勃発する。ヘラクレイオスはニネベでペルシアを撃破する。ペルシアは戦意を失い、ビザンツ帝国は失った領土を回復。聖十字架もエルサレムに返還された。
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