< 教義確定への模索――キリスト論を巡る論争 >

教義や聖書をめぐって、正統・異端論争が激烈となっていく。

神の救済は、イエス・キリストを通じて働いているとみるキリスト教では、キリスト論は救済論や神論とも密接に関係する。また、教会の宣教活動を通じてキリスト論が教会論と結びつけて論じられることもある。

教義や神学は、キリスト論――キリストの「①神性 ②人性 ③神人両性」の解釈――をめぐって展開。「イエス・キリストは本来的に神性を持ちながら歴史的人間としても存在し、神であって同時に人間である実在性を告白宣言する」ことが、正統派キリスト教のキリスト論として確認された。

  1. 初期の正統派キリスト論(2C

ローマのクレメンス(30~101頃)は、キリストを三位一体的に理解していた。アンティオケアのイグナティオス(35~107)は、キリストの神性、先在、神人性を強調した。

その後、ギリシャ教父たち、ラテン教父たちなど、教父哲学と呼ばれる人々によって、初期の正統派キリスト論がまとめられていく。

・ギリシャ教父・・・・・・アレキサンドリアのクレメンス(150?~215?)、オリゲネス(185?~254?)など。

・ラテン教父・・・・・・アンブロシウム(339?~397)、ヒエロニムス(340~419)、アウグスティヌス(354~430)など。

  1. キリストを神に祭り上げた「三位一体論」

三位一体とは、唯一至高神への信仰を曲げることなく、イエスを神格化する概念。古代の三位一体は、「男女が結ばれると相乗効果によって男女を足した以上のものが生まれる」という、異なることの素晴らしさを表現したものだったが、キリスト教の三位一体は「同じであること」を賞賛するものとなっていった。

聖書の正典で、イエス・キリストは「神の子」としてだけ出てくる。イエスの弟子は、ナザレのイエスという人間のうちに神を見たのであって、イエスを神と見た(信じた)のではなかった。

イエスについてはその他、「神を現わす神の姿」「神の言葉」「神と人を結ぶただ一つの道」などと記されており、「父がわたし(イエス)より大きい方」(『ヨハネ』14―28)のように、父と同質の神とは書いてない。

イエスを神とすると、ただひとりの神がひとりでなくなることになる。そのため、神は一つだが、その現れは「父と子と聖霊」という三つの姿をとるとする「三位一体の神観」が徐々に幅をきかすようになっていくが、これは聖書の正典(4C末確立)でも明確ではなく、正典すら改竄した痕跡が見える。この傾向は今日でも、原本文ではないが、翻訳の段階にみられる。

*翻訳については、後段「メシア」の項、参照

何人も何事もイエス・キリストの名でのみ救われる(『ヨハネ』14―13、「コロサイ人への手紙」3―17ほか多数)という信仰の絶対的な基本が、父と子と聖霊の名で救われるという形にいつのまにか変えられ、この神観念に合うか合わないかで、正典か偽典かが決められるようになった。この矛盾は「使徒行伝」(2―38、8―16、19―5他)をみれば明確。使徒たちはすべて〝イエスの名〟で洗礼を授けている。

「正典」ではないとされた「外典」「偽典」の多くは、異端となった派の文書。

 o教会組織を強固にさせた「三位一体」神観の2要因

聖書よりも、地元(異教)の伝統を重視したカトリックは、地元の偶像礼拝の侵入を黙認せざるを得なかった。

・各地の「大地母(だいじぼ)神信仰」をマリア礼拝につなげる理屈の必要性。

神の子キリストは、神と人との間にあって、人の祈りを父の神に取り次ぎ、神の思いを人に教え、恵みを伝える役目。その神の子が、父と同じ神になれば、仲介者がいなくなる。その執り成し手として、マリアや聖人、法王やカトリック教会という存在が必要となった。

これは宗教改革でも改革されず、プロテスタントにも伝えられ、マリアは排除されたが、それに代わるものが入った。

・カトリックの総本山であるヴァチカンの地元民から見た権威づけ。

ローマ市の南西にあるオスティア市の丘には、ユプテル、ユーノー、ミネルヴァの3神が一つの宮殿に祀られていた。ローマ帝国は、シーザーとその子の時代に、二度も三頭政治(三官一致)という政治制度を導入している。こうした背景が三位一体という神観を容認したと思われる。

  1. 異端とされた派

ローマ帝国が領土を広げていた当時、人々の信仰は主に、ギリシャやエジプトの神話と結びついた異教や自然崇拝だった。彼らは共存しており、国がどちらかに肩入れすることはなかった。

この宗教の坩堝の中に、キリスト教が起こる。多神教が主流だったのに対し、キリスト教とユダヤ教は一神教であり、人と神(人と神々ではなく)との関係や救済への道は、その他の宗教とは全く異なっていた。

しかし、やがてキリスト教も多様化していき、その地方の異教の伝統を取り入れたものや、核となる教義に新たな解釈を付け加えただけのものも生まれた。

  • 司教エイレナイオス(AD120~202年頃)

現在のフランス・リヨンにあたる地域の、初期キリスト教の教父。キリスト教受難の時代だった2世紀に、信仰の理論的な基礎を固め、多数存在した宗派の中で、当時興隆しはじめたカトリック教会の神学体系をつくりあげるのに貢献した。彼が基礎を築いたキリスト教教義は、なかなか正式には認められなかったが、325年、ニケア公会議で正式に採用される。司祭から司教になったエイレナイオスは死後、ローマ・カトリック教会と東方正教会から聖人に列せられた。

著書「異端反駁」は、福音書について述べている古代の文献で最も古いもの(BC180年頃、5巻)。

エイレナイオスは、さまざまなキリスト教「異端者=(誤った信仰を持つ人々の意味)」、とりわけグノーシス派に対して信仰体系が冒涜に満ちたものとして糾弾した。

  • エビオン派(70年のユダヤ戦争後)

ヨルダンを中心に発生した、イエスの人性を強調するキリスト論。『マタイによる福音書』だけを受け入れた。

エビオン派は、イエスを深く信じていたが、イエスを「ユダヤ教の預言を実現するために、ユダヤの神がユダヤの人々に送り出した、ユダヤ人のメシアである」と見なしていた。イエスは人間であったが、正しい人だったので、神が自分の子として迎え、人々の罪を償うために犠牲となることを許したと信じ、イエスは普通の人間だったが、聖霊を受けたことによってキリストになったとする。

キリストの人性を強調したことで、神性を否定するキリスト論として、正統派キリスト教会から異端とされた。

「ユダヤ教の殻からいまだに抜け出せないキリスト教徒」と言われたエビオン派は、自分たちの活動に加わるのはユダヤ人でなくてはならないと主張した。

  • 最大の異端とされたグノーシス主義的仮現論(2C中以降)

グノーシスはギリシャ語で「知識」「覚知」「霊知」の意味。

グノーシス主義は、キリスト教思想をギリシャ的、エジプト的、秘教的、さらには東洋的な要素と融合させたもの。彼らは高い教育を受けた人々で、ギリシャやユダヤ教のラビの伝統を受け継ぎ、知識を広め議論するための学校も作っていた。また、多彩な文書や聖典、福音書を創り出したが、グノーシス派の世界観は極めて難解で、謎めいたものが少なくない。

グノーシス思想では、展開や地上界の複雑な世界観が構築されており、聖書に出てくる人物や出来事も、一般的なキリスト教文書や旧約聖書の記述と矛盾することが多い。今日のキリスト教会では、グノーシス主義の教理は過激なものとみなされている。

グノーシス主義では、全く異なる宇宙観が説明され、古代の神話的な宇宙体系が複雑な階層で構築されていて、知識のない者が理解できるようになるまでには数年かかるとする。良き真実在の神は存在するが、この世とその事象は下級の邪悪な神が創造した。徹底した霊肉二元論で、物質や肉体は本質的に悪で、精神(心や霊)は善と考えるため、善である神は物質的世界を創造するはずがない。イエスの肉体は仮現に過ぎず、その人性を否定し、イエスは肉体を持たなかった霊的存在(一種の幽霊)であるとまで考えた者もいた。

また、グノーシス派によれば、救済とはイエスの死と復活を信じることではなく、秘密の知識によってかなえられる。イエスが側近たちにだけ伝えたその秘密の知識は、どうすれば人間が肉体という牢獄から解き放たれて、精神の王国へ戻ることができるかを明らかにする。人間イエスとして地上に送られたキリストの目的は、人類にグノーシスを与えることによって、彼らが不完全な俗世界から脱却し、プレロマ(完全なる神のコンセプト)に帰ることができるようにすることだとする。したがって、イエスが十字架の上で死んで3日後に復活したことは、とくに重要でも問題でもない。キリスト教徒やユダヤ教徒などの信仰だけを持つ「生魂的人間」や、一般の異教徒である「肉体的人間」よりも、グノーシスを受けた「霊的人間」がもっとも優れているとみなした。

そのため、主流となりつつあったパウロの流れを汲む正統派のキリスト教からは、「霊的キリスト」と「歴史的イエス」が本質的に一致していないこと、受肉や受難などの救済的意味も存在していないこと、創造神も旧約聖書も歴史的キリストも否定していることなど、キリストの人性を否定するキリスト論であるとして、異端とされ、退けられた。彼らは知識人だったといわれ、説得力があり普遍性があるので流行したが、これは哲学であって宗教ではない。

――「ナグ・ハマディ文書」

1945年、ナグ・ハマディ近郊でエジプト人農夫ムハンマド・アリーたちが、素焼きの壺に入った52の文書を発見した。すべてコプト語で書かれた、巻物ではない冊子本は、聖典や古い文書の原典を複写したもの。より古い時代に記されたギリシャ語の原典(新約聖書もギリシャ語で書かれていた)をコプト語に翻訳したものと考えられている。

※ 「トマス福音書」「真理の福音」「ヨハネのアポクリュフォン」「ピリポ福音書」「ヤコブ黙示録(Ⅰ)」「ピリポに送ったヘテロの手紙」他。

発見された13巻、49種もの文書群によって、グノーシス派の信条体系がほぼ明らかになったが、多くは、新旧聖書に出てくるような物語は含まれておらず、大半が対話から成立っている。これらの文書は、イエスの福音を伝える一方で、新約聖書に記されている内容とは著しく異なる記述も多い。

ナグ・ハマディ文書の発見により、グノーシス主義の研究と、グノーシス思想が古代や現代の宗教に与えた影響が根本から見直されることになった。

米国プリンストン大学の宗教学者エレーヌ・ペイゲレス「すべての古い問題――キリスト教が成立した当初に激しく議論された根本的な問題――が、再び浮上している。イエスの復活をどのように理解すべきか? 女性が聖職につけるのか? キリストとは誰で、彼は信者とどのように関わっているのか? キリスト教とそのほかの世界宗教と類似点は何なのか?」

20世紀までのグノーシス派のセクトや指導者たちに関する情報のほとんどは、糾弾したキリスト教の文筆家からもたらされたものに限られているため、信頼性には疑問が多い。

  oナグ・ハマディのいきさつ

エイレナイオスは、キリスト教社会の教師たちが〝みずから捏造した数々の怪しげな文書を広め、真の聖典を知らない愚かな人々の心を惑わしている〟として、引き合いに「ヨハネの福音書」「真理の福音」「ユダの福音書」などに言及した。

しかし、神を探し求める試みは、〝秘密文書〟を書いた人々だけでなく、より多くの人々の間にまで広まっていった。エイレナイオスの糾弾から200年ののちも、エジプトの修道士は、こうした文書を修道院の書庫に保存していた。ところが、367年、エイレナイオスの崇拝者であるアレクサンドリアの司教アタナシウスが、復活祭書簡を送り、自分が特に承認し、正典と認める文書(今日の新約聖書とほぼ等しい内容)以外はすべて破棄するように、エジプトの修道士たちに命じる。

それでも、おそらく聖バコミウス修道院の修道士と思われる者が、アタナシウスの命に反して、何十冊もの本を修道院の酢横から持ち出し、大きな壺の中に入れて近くのナグ・ハマディの丘に埋めたのではないかと考えられている。

   ・「トマスによる福音書」

「トマスによる福音書」には、自分の中にあるものを引き出せばその人は救われ、引き出さなければその人は破滅させられるとある。

   ・「マグダラのマリアによる福音書」

「マグダラのマリアによる福音書」には、あなた自身の中に人の子を見出しなさいと記されている。言い換えれば、自分自身の中に神を探しなさいということで、仏教の教えに似ている。

司祭に言わせれば、神へと近づく唯一の道は教会を通じて見つけるべきだが、これらの福音書は、人はひとりで、自分自身の中に神を発見することができるとほのめかす。瞑想するか啓示を受ければいいので、教会や司祭は要らないことになるため、司祭たちから見れば、異端だった。

   ・「ピリポによる福音書」

「ピリポによる福音書」は、2~3世紀にかけて司教・司祭・助祭という位階制を基盤に発展しつつあった教会と、教会を媒介とせずに個人の霊感と知識を重視したグノーシス主義との反目の隠喩だとも考えられる。

 ――「死海写本」

ナグ・ハマディの写本が見つかった1年半後、イスラエル・ユダヤ地方の荒野にあるクムランの洞窟で発見された。

 ――「ユダの福音書」

1970年代半ばから終わり、エジプト中部マガーガの町のナイル川対岸にある、カララの村からほど近い場所で、初期キリスト教の時代、死者を埋葬していた洞窟から、農民が石灰岩の箱を発見する。崩れかけた石の箱の中には、古代エジプトのパピルス紙でできた革張りの書物が入っていた。他の三つの文書と一緒に束ねられていた「ユダの福音書」は、ナグ・マハディ文書と同じく古代エジプトの言語コプト語で書かれている。

売買を繰り返されるたびに、写本の劣化は信仰し、文字や言葉、文章が失われた。現在、26ページに及びこのパピルス写本には、イエスがユダのためにある秘密の計画を仕組んだことがほのめかされている。著者は不明。

グノーシス派の文書である「ユダの福音書」は、イエスを裏切ったとされる、イスカリオテのユダの視点から見たイエスの物語。その見解は、正典として認められている新約聖書のものとは全く異なり、ユダは忠実な弟子であり、イエスを理解し、救済を受ける者であり、英雄とされる。ユダは、成就のためにイエスが選んだ道具であり、イエスの望みをかなえたとする。

・イエスはユダに言った。「目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」(「ユダの福音書」)

・イエスはユダに言った。「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」(「ユダの福音書」)

・イエスはユダに言った。「ほかの者から離れなさい。そうすれば、王国の知恵を授けよう。お前はそこに達することはできるが、大いに嘆くことになるだろう」(「ユダの福音書」)

そこでは、裏切り者は英雄であり、イエスが自らの処刑を計画したとされている。これは、1800年前にエイレナイオスが罵倒していた文書の中身と一致する。エイレナイオスたちにとって、「この福音書はイエスとユダの関係について書かれており、ユダが本当はイエスを裏切ってはいないと主張している。ユダはイエスが望んだ通りにしただけである。なぜならユダは真実を理解しており、イエスはユダにそれを伝えさせたかったのだ」というユダの見方は、極めて多くの問題をはらんでいた。

   oカイン派

エイレナイオスは、カイン派というグノーシス派の一派が、「ユダの福音書」を用いていたとする。

カイン派は、世界を創造したのは至高神ではなく、それよりずっと下等で無知な神(信じる必要もなければ疑う必要もない、旧約聖書の神)だと信じていた。至高神は、このユダヤ教の神の上位に君臨する。したがって、最初の兄弟殺しを犯したカインや、罪にまみれた町ソドムごゴモラの住民などはみな法を破り、ユダヤ教の神に逆らって、この真実を指示しているとする。カイン派には、その独特の神学のよりどころことなる福音書「イスカリオテのユダの福音書」があったと伝えられている。

カイン派によれば、ユダの行ったことは邪悪でもなんでもなく、ユダだけがイエスの神秘を理解し、イエスの意思に従って行動を取った、他の使徒たちは謝ったユダヤ教の神を崇めていたため、イエスの真実を理解できなかったとする。

  • マルキオン主義(2~5C中頃)

マルキオン(85頃~160頃)は、聖書は、ルカの著作とパウロの書簡だけでよく、他は不要とする。

旧約の神は「義の神」で「ユダヤの神」であり、新約の神は「善の神」で「キリスト教の神」であるとする二元的神観。

キリストの体は、天子の体と同じ仮象であり、イエスの時代に「救いの魂」として地上に降ったとする。肉外を罪悪的と見て、善神の啓示者であるキリストの肉体的存在を否定し、罪である肉体の復活もなく、善神は愛であるから最後の審判もないとした。

マルキオン派は、ユダヤ教の伝統をすべて捨てようとし、ユダヤ人の神は不完全な神であるとまで言い切った。

2C中頃から急速に普及し、正統派教会に大きな脅威を与えたが、異端とされる。

  • コプト教会

「キリストの神性を特に強調する」を奉じていたアレクサンドリア学派の一部が、カルケドン公会議(451)で異端とされたのち、エジプトの民族意識も加わって成立したコプト人(エジプト人)の国民教会。1世紀初頭、エジプトにキリスト教を伝えた聖マルコの教えが基礎となっている。

コプト派によると、聖マルコは皇帝ネロが君臨したAD50年代にアレクサンドリアに現れ、68年には、宗教活動を禁じられたユダヤ人がローマ人軍に対して起こした暴動の最中に殺害されたとする。

451年のカルセドニー公会議後、コプト派と他のキリスト教宗派の間で分裂が起こり、コプト教皇・ディオスコルスの下にコプト教会として分離する。みずからを正統と称し、今日も存続する。

コプト教会は過去に多大な迫害を受けてきた。1443年のフィレンツェ公会議で二教会の再統一が調印されたが、実行されず、1582年と1814年にも、再統一の試みがなされたが無為に終わっている。

コプト教会は聖人崇拝を禁じているが、祈りを通じて彼らの助けを請うのは奨励されている。コプト教会で最も高位に置かれている聖人は、処女マリア。

 oコプト語、コプト人

エジプトのキリスト教徒は、アレクサンドリアをはじめとするナイル川流域のすべての町に、圧倒的な勢いで普及していった。

7世紀にエジプトに侵攻したアラブ人は、できる限り大城の住民を彼らの新しい宗教、イスラム教に改宗させた。アラブ人はエジプトの地元民を、キプトと呼んだ。コプトは、このキプトが訛ってできた言葉で、エジプトを意味する。

コプト語は、かつてナイル川流域に暮らしていた人々が使っていた古代言語。文学の表記体系の一部にギリシャ文字を取り入れていた。コプト語は、この土地に暮らす数多くのキリスト教徒によって、先祖代々受け継がれてきた言葉。

古代エジプト人は、自分たちの言語にギリシャ語のアルファベットを取り入れたが、ある種の音を表す文字が不足していたため、そこに7つの文字を加え、最終的に32文字のアルファベットとして完成させた。やがて、自分たちの新たな宗教やエジプトの古い文化の物語を伝える際、駆られ派自国語と自らが暮らす土地の方言とを頻繁に用いるようになった。こうした地元の言語とギリシャ文字とが組み合わさってできた言語が、やがてコプト語と呼ばれるようになった。

コプト人は、自らを純粋なエジプト人だと公言している。コプト人の宗教は、641年のアラブ人による占領の後でさえ、その勢いが衰えることはなかった。現在、エジプト人のおよそ8人に1人が、コプトはキリスト教徒。

  • ネストリウス派キリスト(景教)(4C)

コンスタンチノーポリスの総主教ネストリウス(在位428~431)のキリスト論を、継承発展させたキリスト論。

3C初め頃から、東方教父たちを中心に、民衆の間で、聖母マリアを「神の母」の尊称で呼ぶことが流行した。

ネストリウス派は、キリストの人格に在る「神性」と「人性」の二つの性質の結合は、受肉の心理によってではなく、人間キリストの道徳的進化によって漸進的に起こり、昇天の段階で両者は完全な合致に達したと主張する。そして、「神の母」の称号は「キリストの完全な人性にふさわしくない」とみて、「キリストの母」と改めるよう主張する。

※ アレキサンドリアのキュリロス(376~444)などの反ネストリウス派は、ネストリウス派の主張は、「キリストの二性の分割分離と、二人分の分離分裂の主張であり、キリストの神性を薄める」ものとして強く反対した。聖母マリアに対しても、「神の母」の称号を用いることを支持した。

エベソの総会議(431)とカルケドン総会議(451)で、ネストリウス派の主張は退けられ、マリアに対し「神の母」の呼称を用いることも正統派教義として承認され、異端とされた。

その後、ネストリウス派のキリスト教は、メソポタミアのエデッサ、ペルシア、アラビア、トルキスタン、インドなど、主に東方に伝播する。その一部は、アラボン(阿羅本)を通じて635年に中国(唐)にも伝えられ、別名、波斯(ペルシア)経教(=大秦景教)と呼ばれた。

その後、イスラームが台頭するにつれて迫害、分裂を経て衰退するが、今日ペルシア、小アジア、イラン、イラクに5万人ほどのネストリウス派キリスト教徒が存在するといわれる。

  • その他、異端とされた主な派

 oエビオン派

初期のユダヤ教的キリスト教徒の集団。処女降誕を否定し、イエスは律法成就によってキリストとなったと説く。

 oドナトゥス派

4C初頭、カルタゴに生じたドナトゥスを創始者とする宗団。ローマ帝国の大迫害期の背教者の教会復帰をいっさい否定し、背教者の秘蹟は無効であると主張するなど、厳格主義をとった。

 oナザレ派

シリアに起こったユダヤ教的キリスト教徒の集団。律法の遵守を主張する。

 oボゴミル派

10C前半、ブルガリア西部マケドニア地方の司祭ボゴミルが興したとされる。世俗の権威や社会制度を悪魔が作ったもとして否定したため反体制的運動となり、特に支配層から激しく弾圧された。トラキアのパウロ派などを通じてマニ教の影響を受けたといわれ、カタリ派はこの分枝となった。

 oカタリ派

カタリ派(アルビジョア派)は12~13世紀のフランス、ラングドック地方や北イタリアで信者を増やした。カタリ派の中心教義が二元論であったことはわかっているが、筆記記録のほとんどが消失しているため、その歴史、発展、信条についての詳細は乏しい。信条はイエスとマグダラのマリアは結婚したために地に堕ちたというものだが、残された情報は異端審問や報告、証言に頼るしかないため、その内容は公平とはいえない。

彼らは教皇の権威を認めることを拒否。十字架を拷問と死の悪しき象徴と信じ、当時のローマ教会に大きな富をもたらしていた聖なるレリック(聖人や殉教者の遺骨、着衣、ゆかりの品)の売買を忌み嫌った。

1179年の第三次ラテラノ公会議において、教皇は公にカタリは教会を非難する。

カタリ派は、同派に向けられた十字軍まであったほどの、中世ヨーロッパ最大のキリスト教異端結社だった。1209年、アルビ十字軍によって始まった情け容赦のない弾圧は、1255年まで続く。一部はしぶとく生き延びたが、1320年、主だったカタリ派の指導者全員が火あぶりにされて以後、カタリ派が復活することはなかった。

カタリ派は、ヒトラーが消えた財宝「聖杯」を探し求めていたと言われる。

 oヤコブ派

シリアの単性論派キリスト教徒の称で、今日も存続する。同じかたちのものはコプト教会のほか、アルメニア教会、エチオピア教会がある。

  • 伝説

異端、弾圧は迫害下に、闇に隠れて秘密結社化することもあり、数々の伝説を生んだ。

4.正典・外典・偽典

「正典」という言葉は、「基準」を意味するギリシャ語に由来する。

「正典」と「外典」「偽典」の区別は、成立しつつある初期カトリシズム(キリスト教正統派)によってつけられていった。

キリスト教聖典としての新約聖書は徐々に形成されていき、完成するまでに何世紀もかかった。1545年に開かれたトレント公会議で、カトリック教会は聖書および正典の一覧を定め、以後は追加や削除への道は閉ざされた。

  • 「正典」の基準

    ①使徒あるいは使徒の弟子によって著されたものか。

    この基準は、2C末~3Cにかけてのローマを中心とする正統教会において、現実に通用していた規範を一般化したもの。

    しかし、パウロの、信憑性を認められている8通の手紙(「ローマ人への手紙」「コリント人への第一および第二の手紙」「ガラテヤ人への手紙」「ピリピ人への手紙」「テサロニケ人への第一および第二の手紙」「ピレモンへの手紙」)を例外とすれば、使徒あるいはその直弟子によって書かれたという真偽は極めて疑わしい。

      ②その教えが使徒によるものか。

      エイレナイオス(130~200頃)の「真理の基準」、あるいは2C末に成立した「古ローマ信条」(現行「使徒信条」の原型)に一致すること。

      「古ローマ信条」の信条の中心は「三位一体神観」。これに合わない宗派は古来、異端とされてきた。

      ※ これについてカルヴァンは賛成、エラスムスやセルバートは反対。

      実際には、「聖書」正典と「古ローマ信条」とは一致しない内容がある。

      • 「外典」

      「外典」という言葉は、ギリシャ語の「アポクリファ」(隠されたもの)に由来する。

      新約聖書「外典」とは、「新約聖書」正典が結集されていく過程で、除外された諸文書(典外書)だが、初期キリスト教諸文書には、一時的あるいは局地的に、正典と同等の取扱いを受けていたものもある。

      正典成立史上、重要な役割を果たしたアナシタウス(295~372)は、現行「新約聖書」の27文書を「正典」と呼び、これを「霊感による書」「まことの書」とした。そして、その他の諸文書を「アポクリファ」と名づけ、「異端の虚構」「汚れなき者を欺くもの」として「正典」から排除した。

      それ以前の時代では、「外典」はむしろ多くの場合、「偽書」その他の名称で呼ばれていた。「偽典」は、ユダヤ人本来の伝統宗教が変質していく中で、本来敵として排除すべき偶像的要素が入っているものと考えられる。

      「新約聖書」外典は、内容的には「正典」と同一の価値をもつとして、伝承様式・文学形式上、「正典」に類似するか、これを補足する傾向を有する。このような要求を自ら掲げることをしない諸文書などは、現在「外典」から区別されて、「使徒教父文書」として別に扱われる。

       ①正典的位置にあったが、後代に「外典」に格下げされたもの

      「使徒教父文書」――「ディダケー(十二使徒を通して諸国民に与えられた主の教訓)」(170頃)、「バルナバの手紙」(2C初)、「クレメンスの第一の手紙」(170頃)、「クレメンスの第二の手紙」、「ヘルマスの牧者」(150頃)など。

      「ペテロ黙示録」(2C初)、「パウロ行伝」(2C後半)など。

       ②比較的早い時期から「異端の書」として排斥されたもの

      グノーシス派によって用いられた諸文書、「トマス福音書」「ヨハネ行伝」「アンデレ行伝」など。

      • 「旧約」の外典

      「トビト書」 ∗「ユディト書」 ∗「第一マカベア書」 ∗「第二マカベア書」 ∗「第一エズラ書」 「ダニエル書」への付加 「エステル記」への付加 「エレミヤの手紙」 「マナセの祈り」 「バルク書」 ∗「ベン・シラの知恵」 ∗「ソロモンの知恵」

      (∗を、カトリックでは「第二正典」としているため、正典巻数がプロテスタントよりも増える)

      • 「旧約」の偽典

      「第三マカベア書」 「第四マカベア書」 「アリステアスの手紙」 「スラブ語のエノク書」 「エチオピア語のエノク書」 「ヨベル書」 「モーセの遺訓」 「アダムとエバの生涯」 「ヨブの遺訓」 「十二族長の遺訓」 「ソロモンの詩編」 「エレミヤ余禄」

      • 「新約」の外典

      「アグラファ」 「オクシリンコス・パピルス」 「ナザレ人福音書」 「ヘブル人福音書」 「エビオン人福音書」 「エジプト人福音書」 「トマス福音書」 「ピリポ父君所」 「心理の福音」 「ケリントス」 「バシリデス」 「マルキオン」 「アベレス」 「バルダイサン」 「マニ」 「ヤコブ原福音書」 「トマスによるイエスの幼児物語」 「アブガルとイエスの往復書簡」 「ペテロ福音書」 「ニコデモ福音書」 「フリア・ロギオン」 「使徒たちの手紙」 「ストラスブール・パピルス」 「ペテロ行伝」 「パウロ行伝」 「ヨハネ行伝」 「トマス行伝」 「アンデレ行伝」 「パウロとコリント人との往復書」 「ラオデキア人への手紙」 「セネカとパウロの往復書簡」 「似テトスの手紙」 「パウロの黙示録」 「ペテロの黙示録」 「預言者イザヤの殉教と昇天」 「エルケサイの書」 「シビュラの託宣」 「ソロモンの頌歌」 「使徒パウロの祈り」 「復活に関する教え」

       

       

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