< 宗教改革と近代社会 ――キリスト教の分裂と再建 >

西ローマ帝国の滅亡(476年)後、フランク王国の後押しを受けたローマ・カトリック教会は、9~11世紀にかけてヨーロッパ全域に勢力を拡張、一大封建領主として君臨するようになる。そのことが教会の腐敗を進めることにもなり、ヨーロッパの各地で抗議運動が起こる。これがプロテスタント。その後の宗教改革によって、カトリックとプロテスタントに分裂した。

(by「世界の宗教101の謎」21世紀思想研究会編集、河出書房新社)

(1)マルチン・ルターの宗教改革

マルチン・ルター(1483~1546)、カルヴィン(1509~1564)

プロテスタントの呼称は、ルター派の布教が禁止されたことに対し、ドイツの封建諸侯たちが一斉に抗議したことから生じたと言われる。

宗教改革は、西欧キリスト教社会の経済社会的視点と、キリスト教内部の神学的・教義的論争の二つの要素が、相互作用的に絡みあって生じた。西欧キリスト教社会は、中世的、封建制的経済社会から抜け出し、近世および近代的な資本制的経済構造へと、大きく流動しつつあった。上部構造だったキリスト教会や宗教思想に対しても、経済的発展に応じる形でより新たな意味を担うことを民衆が要求し始め、その新時代の思潮をいち早く先取りして起こる。

  1. 宗教改革の政治および経済的背景

十字軍遠征後の東方交易の隆盛と新しい有産階級や新興市民階級の台頭は、教会の世俗化を進め、ルネサンス、民主主義思想の萌芽、商工業都市の発生、地域経済から遠隔地交易圏への発達、経済競争の発達、貴族階級の贅沢と農民への重い課税による社会階層の両極分解の進行、生産力の上昇に伴う農民の自覚の高まりなどの現象が見られた。そういった中で、旧封建勢力の中で安逸を貪ってきた階層は没落。中央集権化の強化に伴って国民的自覚(ナショナリズム)も高まり、国民文化も徐々に形成されてきた。こうした新興市民階級を含む新興勢力が、それまでの全ヨーロッパ的規模の教皇支配に対する政治的反発力として蓄積されつつあった。また新興市民階級は、政治的力を着実に蓄積しつつあったが、それまでの中世社会の安定感は失われ、安定した経済力や政治力を持たない都市の中産・加増階級や農民大衆の孤独感も深まっていく。

ルターやカルヴィンなどの教説は、そうした孤独と不安に置かれていた都市の中産・下層階級や農民大衆の心に深く訴えるものとして歓迎された。ルターやカルヴィンは教会の権威によらず、個人内面における徹底した自己省察と自己放棄を通じて神の救いが約束されると説いた。

以上の経済的事情のほかにも、カトリック教会の世俗化、ルネッサンスとそれに伴う国民文化の台頭、民主主義思想の流布、貴族階級の贅沢な生活とそれに反比例する形での農民への過酷な課税。商工業都市の発達とスラムの発生、飢饉や疫病の流行などの社会不安などといった、政治的社会的背景もある。

  1. 宗教改革の神学的背景

教皇権の隆盛と政治権力との癒着が強まるにつれ、カトリック教会や聖職者の世俗化と堕落が14C頃から顕著となった。

これに対して、教会を擁護する立場からは教改革運動が、教会を批判する立場からは正統的教義に対する異端運動という動きが盛んになっていた。オックスフォード大学の神学者でもあったウィクリフ(1320?~1384)による教会対する世俗権力の強調や、聖書を唯一の権威として重要視する聖書主義は、カトリック教会の権威否定の先鞭となった。南ボスニアの貧農出身でプラハ大学の神学教授であったフス(1369?~1415)もウィクリフの改革思想に共鳴し、聖職者、教会の土地所有、世俗化を厳しく批判し、カトリック教会の免罪符販売も攻撃した。フスは火刑に処されている。

フィレンツェのドミニコ会士で、三・マルコ修道院長だったサヴォナロラ(1452~1498)は、腐敗した教皇庁と結びついたメディチ家を追放し、政治的自由を唱えた。キリスト教的憲法を採用し、市政刷新を図ったが、教皇庁の堕落を厳しく批判したかどで火刑に処された。こうした一連の人々の思想の先駆的役割が、その後に続いたルターの教説が民衆により幅広く受け入れられていくための地盤整備的な役割を担う。

さらに、ルターの聖書研究に先立つ形で、イスラエルのタルムード学の成果がキリスト教世界に深く浸透するに伴い、古典研究は著しく発達。イスラエルの人々を通じ、ヨーロッパ社会にアラビア語、ギリシャ語などの語学研究が導入され、普及していた。原始キリスト教に関する古典文献に直接もとづく研究が進められた結果、聖書学の研究成果と、従来のカトリック教会の伝統的解釈との間の「ずれ」が徐々に明らかにされていく。カトリック教会による古典研究や聖書研究などの分野で「常道独占」が崩れ始めたことが教会の権威を脅かすことになった。

  1. ルターの主張

1514年の教皇レオ10世による聖ペテロ寺院建設の資金集めの免罪符発売をきっかけに、カトリック教会のアウグスティヌス派修道院の神学博士だったルターは、1517年に「九十五箇条の質問状」をウィッテンベルグ大学の門扉に掲げて教会の堕落を指摘し、世人の注意を喚起。ルターの言動が宗教改革の発端となった。

ルターの宗教的回心「塔の体験」・・・・・・ウィッテンベルグ大学学生寮にある塔の中で、新しい福音理解を掲示されるという神秘体験を経験したといわれる。

*免罪符・・・・・・カトリック教会には、免罪や免罪符という言葉は最初から存在しない。カトリックの教義によると、「罪の許し」は教会の定める七つの秘蹟のひとつである「告解」を通じてのみ与えられるとみなされている。もっとも、カトリック教会では、諸聖人の功徳によってその償いが助けられるとされている「罪の償い」を信徒が行うことも奨励されてきた。その償いを免除する「免償」が付与するための代償行為として、祈りや聖体訪問などの「業」が求められたが、時代とともに形骸化。ルターの時代には聖堂建設、社会事業、十字軍への参加、砦の建設、植民事業財源の献金までが「免償」の行為として解釈されていた。ルターが批判したのはこの「免償(符)」の乱発に対してで、教義上存在しない「免罪符」に対して抗議したのではなかった。

教皇施設カエタヌスとの教皇権をめぐる信仰義認の論争、ドイツのカトリック神学者エック・ヨハンとの「ライプチッヒ論争」(1519年)を経て、ルターは教皇権の否定に踏み切る。1521年、教皇庁がルターに破門大勅書を布告するが、ルターは改革説撤回を拒否したため。「ヴォルムスの勅令」により。改めて異端宣告が出され、彼の説の禁止と人身保護の停止および国外追放が決定した。

ザクセン候の城に匿われたルターは、破門大勅書を教皇に送り返し、1522年、「ドイツ語新約聖書」を出版。それに対して、プロテスタントに対するカトリック側の反駁文を決議。これに対してプロテスタント側も「アウグスブルグ信仰告白」を出す。ルター死後の1555年に「アウグスブルグの宗教和議」が成立し、カトリックとプロテスタントの同権、領邦制度、ルター派の公認がようやく確認された。

① 信仰は教会の教義の知的承認ではなく、キリストにおいて啓示された恩恵への信頼、キリストに対する「信仰によってのみ(ソーラ・フィーデ)」罪が許されるのであり、教会が定めてきた秘蹟の権威は否定されるべき。

② 聖書は自己の良心によって解釈されるべきであり、聖書とは別に、教会が伝承してきたとする言い伝えは認めない「聖書中心主義」。(ソーラ・スクリプトゥラ)

③ 神と人の媒介としてキリスト以外には教皇や聖職者を含むいかなる仲介者も不必要で、すべての信徒が復員を伝える責任を持つとする「万人祭司主義」。

カトリック教会の救済論が、人間の救済は神からの一方的な恩寵だけでなく、人間の側からの自由意志や行いも必要であるとするのとは対照的に、ルターの救済論は、個人の側からの行為を拒絶し、徹底した自己放棄を通じて神と救いを確信できるとする逆説的「性悪説」にもとづくものだった。ルターの救済論は一面では来るべき新時代の風潮を先取りするものだったが、同時に世俗権威への絶対的服従をよしとする保守的な体制容認に通じる側面も含まれていた。その後のルターの教説も、カトリック教会と同様、激しい反ユダヤ主義を展開、後年、ルターはドイツ農民戦争に対しても封建領主側に組して、農民一揆を弾圧する立場を取るようになった。

  • 教会の権威に反旗を翻した2人――「マルティン・ルター」と「カルヴァン」

(by「世界の宗教101の謎」21世紀思想研究会編集、河出書房新社)

16世紀初頭、ローマ・カトリック教会は、サン・ピエトロ大聖堂の建設資金集めのため、金を払えば免罪符が発行されて、罪を免除するという「免罪符」を発行した。

これに対して、ドイツの修道士、ルターは、免罪符などでは罪は贖えないとして、1517年、教会の扉に「95か条の提題」を貼り付け、教会を批判した。「信仰のみが神から正しいものと認められ、人は救われる」「聖書のみが至上の権威であり、信仰の根拠である」「聖職者も平の信徒も、神の前では平等である」というルターの主張は、初期キリスト教精神への回帰であると同時に、カトリック教会の権威と伝統主義への徹底否定でもあった。

ルターの主張は急速に広まり、民衆や教会に不満を持つ領主たちから支持され、「宗教改革」の始まりとなった。ルターは教会から破門され、国外に追放されたが、枯れを支持する領主に庇護され、ドイツ語訳の聖書を完成させた。グーテンベルク発明の印刷技術が普及していたこともあって、人々は各国語訳の聖書を聖職者に頼らずに読める時代になっていたため、ルターの改革派、たちまちヨーロッパ各地に飛び火する。彼らは一大勢力となって神聖ローマ帝国に抗議したため、「プロテスタント(抗議する者)」と呼ばれるようになり、動きはやがてフランスのジャン・カルヴァンに受け継がれていく。

カルヴァンも教会に抗議して、改革を主張。1936年にフランスを追放されるが、スイスのジュネーブで多くの信徒を獲得し、それ以降の風呂手スタント各派の成立に大きな影響を及ぼした。

――資本主義の勃興に影響

以後、プロテスタントとカトリックの抗争は激化し、1618年にはドイツで、プロテスタントを支持する諸侯とカトリック支持の諸侯の間に「30年戦争」が起こる。戦争は結局、プロテスタント側が勝利。1648年、よー六班キリスト教諸国が参加した「ウエストファリア条約」で、ルター派、カルヴァン派のプロテスタントが正式に認められた。ウエストファリア条約以後、キリスト教は、カトリック、プロテスタント、東方正教会の三大政局に分かれる。

宗教改革は、それまでなかった新しい思想を生み出す転機にもなった。当時のヨーロッパは新しい産業の勃興期にあたった。その担い手となった中産階級の精神的支柱となったが、「職業は神から与えられた天職(職業召命説)であり、仕事で得たお金は神聖なものである」とするプロテスタントの考え。近代、プロテスタントの職業倫理が強力なバックボーンとして、ヨーロッパ諸国で工業が反映し、強国となっていく。

  1. カトリック教会の反宗教改革

プロテスタントの改革の動きに対し、カトリック教会側は反撃と防衛を開始し、8回の「トリエント総会議」(1545~1563)を開催。教理的分裂を取り除くこと、カトリック教会やカトリック教徒の実際的弊害を改革すること、オスマントルコに征服されたキリスト教徒たちの解放を目的とした。プロテスタントに対抗するだけではなく、押しらー無への大綱も考慮するなど、カトリック教会差遣への意欲の背後には、かなりの危機感があったことが解かる。総会議は、カトリック教会を近代化に向かわせる基礎を与えた会議となった。

第4回のトリエント総会議以降も、旧約聖書の外典に正典としての資格を与え、第5回トリエント総会議でも、「人間の救いは神の恵みと人間の行為とによって生ずるもの」を再確認。さらに、カトリック教会の定める七つ秘蹟(サクラメント)はキリストによって設定されたものとし、聖餐に関して「化体説」の教義を確認、聖体行列などの慣行も承認された。異端審判書による宗教裁判の設置、禁書目録と異端取締りの強化と協議の引き締めと立て直し、教会の粛清の決定、「カトリック公教要理」の出版なども決定された。

  • カトリックとプロテスタント

・カトリックの語源はギリシャ語のカトリコスで、普遍的という意味。「すべての時代を通じ、あらゆる地域の、あらゆる人々に該当する教え」ということ。ギリシャ正教も、こちらこそカトリコスであると強く主張しているが、普通には、カトリックといえばローマ法王を首長とする宗派のこと。

・プロテスタントの起こり――かつてのヨーロッパの宗教界は、カトリックの絶対的な支配下にあった。イエスは天国に入るカギをペトロに授けたとされているのを根拠に、「ペトロの法統を受け継いでいるローマ法王を通じないことには、天国へは入れない」というのが、カトリックの信仰の確信をなすドグマ(教義)であり、ほかにも聖書には全く記されていない数多くのドグマが定められている。このようなドグマを排し、聖書に記されているイエスの教えに返ろうとする福音主義が、13C頃からヨーロッパ各地で起こったが、初めは異端としてカトリックから厳しく弾圧された。16Cになって法王庁が免罪符(金を出して法王の免罪符を買えば、罪が許されて天国へいける)を大々的に売り出したことに端を発して宗教革命が起こり、法王の権威を否定して福音主義に基づくプロテスタントの諸派が生まれた。宗教改革の主唱者として名高いルターは、「人はただ信仰によってのみ義とされる」と説いた。その他、当時の法王や高位聖職者たちが贅沢三昧にふけり、およそ宗教家としての実がなかったこと、教会での礼拝がただ外面的な華麗さを競うだけになっていたことなども宗教改革の誘因となった。プロテスタントは「抗議する者」という意味。1529年にシュバイヤーで開かれた神聖ローマ(ドイツ)帝国議会において、宗教改革派の諸侯が連帯して抗議したことに由来する。

・今日のキリスト教では、基本的に聖書がすべての基準だが、カトリックは存在しつづけてきたものは尚よいと、伝承や伝統もそれに加え、聖書よりも教会の方が先にあったと、聖書よりも教会の伝統を上位に置く。

プロテスタントは聖書のみをその信仰のただ一つの基準にするが、実際にはそれは建前で、事実上長く続いたということは、それは神が許され認められたということだから、それだけでも正しい価値をもつとして、聖書よりも伝承や伝統が基準になっている。プロテスタントは司教、大司教の制度を廃止したため、司教座大聖堂(カテドラル)はなく、修道院も廃止。また、聖書に根拠がなく、福音主義に反する聖母マリア崇拝、聖人崇拝、聖遺物崇拝を廃止。マリアを尊敬し、聖人たちを信仰の大先達として尊敬することに変わりはないが、聖堂の内外にたくさんあった聖母マリア、天使、旧約聖書に出てくる人物、聖人、魔性の者、奇妙な動物などの像をほとんど取り除いた。また、いたずらに儀式の荘重さだけを追う観がある聖餐式(ミサ)を廃止。ミサとは、最後の晩餐で、イエスがパンとブドウ酒を取って言われた「わたしの体である」「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」を記念して行われる礼拝のこと。毎週の日曜日や何か特別の場合に行われる。

――違い

(by「世界の宗教101の謎」21世紀思想研究会編集、河出書房新社)

  o秘蹟(サクラメント)についての考え方

秘蹟を重視するカトリックでは、洗礼式や聖体拝領・告解などの7つの秘蹟がある。プロテスタントでは、洗礼と聖餐(聖体拝領と同じ)のみを秘蹟として認めている。

  o組織構成

カトリックの特徴は、ローマ教皇→司教→神父(司祭)→信者と、聖職者の役割を重視するピラミッド型の組織構成。最高権力者の教皇は、イエス・キリストの代理人、神父は神と信者の仲立ちの役割を担う聖職者とされる。また、聖書のほか、儀式・伝統などを重視するのも特徴。

プロテスタントには、カトリックのような巨大な組織はなく、数多くの教派が、互いに教義の違いを尊重し、独自に活動している。神の下では万人は平等であると考えるので、聖職者も置かず、牧師と信徒が共に肩を並べて神に祈りを捧げる。聖書の教えに忠実に従うことを進行の中心に掲げ、敬虔・質素・倹約・清浄などをモットーにした教派が多数を占める。

  o洗礼名

洗礼とはキリスト教に入信する時の儀式。赤ちゃんの場合は生後半年頃までに、成人などは入信時に洗礼を受ける。その方法は教派によって異なり、プロテスタントの中には洗礼を認めない集団もある。

カトリックでは、洗礼を受けると洗礼名(クリスチャンネーム)が与えられるが、プロテスタントでは与えないのが普通。

  oミサと礼拝

キリスト教徒は、日曜日(他の曜日でも可)に教会に集まって、神への祈りを捧げる。これをカトリックでは「ミサ」と呼び、プロテスタントでは「礼拝」と呼ぶ。カトリックのミサでは、キリストの復活と贖罪に祈りと感謝を捧げる聖体拝領などの儀式を厳密に行うが、プロテスタントの礼拝は、儀式よりも聖書の朗読や教師の説教が重視される。

礼拝の時に謳うのは、カトリックでは「聖歌」、プロテスタントでは「賛美歌」で、曲そのものも違う。

  o懺悔(告解)

神父の前で、自分の犯した罪を告白し、神に許しを願う「懺悔」はカトリックだけにある儀式で、正式には「告解」と言う。

プロテスタントの教会の牧師は、あくまで信徒の代表であり、信者から告解を受ける立場にはないので、行わない。

  o聖職者の結婚

教会を指導するのは、カトリックでは神父(司祭とも言う)、プロテスタントでは牧師。神父はカトリック教会内の階級の一つで、聖職者だが、牧師はあくまで信徒の中から選ばれた教会のまとめ役という立場。

聖職者である神父には結婚が許されていないが、牧師は妻帯できる。女性が新婦になることはできないが、牧師にはなれる。

  o聖母マリアに対して

カトリックではマリア崇拝を認めているが、プロテスタントはNO。聖書でも、イエスは弟子たちに、母マリアの特別扱いを戒めている。プロテスタントの信者に、「アヴェ・マリア」を歌ってなどと言うのは大変失礼なこと。

  o司教、大司教、主教、大主教

司教、主教は、英語で言うと、どちらもBishop。それを日本では、カトリックの場合は司教、ギリシャ正教やイギリス国教教会の場合は、主教という習慣ができてしまった。

大司教、大主教についても同様で、英語ではどちらも、Archbishop。

(2)カルヴィニズムと近代資本主義社会

  • カルヴィン(1509~1564)の登場

    ルターと並んで20年後に登場したジャン・カルヴィンは、宗教改革の完成者といわれる。1536年、ジュネーブ市の宗教改革に参加したが、その厳格さのために38年には市から追放される。その後、再度ジュネーブ市会からの招聘を受け、1541年からの4年間、宗教改革に従事した。神政政治に近い厳格な宗教改革を行った。このときカルヴィンが基礎としたのが「教会規定」(1542年)であり、その後のカルヴィン派の教会の指導的書物となった。この「教会規定」により牧師、長老、執事などの教会関係者の選任方法や、教会の活動及び運営方法が明確に規定されるようになった。その影響は広く海外にまでおよび、ヨーロッパ各地に影響を及ぼした。

    <カルヴィンの思想(カルヴィニズム)の特色>

    ① 徹底した福音主義

    ② 神の主権と畏敬の念の強調

    ③ 一切を神の意志とみなす絶対的聖寵の「予定説」

    予定説・・・・・・人間の運命についての決定権は、人間自身の手からは完全に奪われており、しかもその決定を変化させるために人間がなし得ることは一つもなく、人間は神の手の内にある無力な道具にしかすぎない存在である。救済か永劫の罰かは、人間がこの世で善行を積んだか、悪口を犯したかの結果ではなく、人間が生まれる以前から神によって予定されているとするもの。カリヴィニストは、世俗的世界の仕事や道徳面で熱狂的な努力を注いだ。永劫的罰に定められている人間も存在していると同時に、一方では救われる人間が存在する。彼らは自分たちこそが選ばれた人間であるという確信をもち、努力することができることそれ自体が、救われた人間に属する証拠とみなした。カルヴィンの教説から、近代資本主義の職業倫理が生み出されたといわれる理由がここにある。カルヴィンの教義は子各県力に対する民衆の側からの強力な抵抗を主張する根拠ともなり、民主主義を推し進める思想的母胎ともなったが、同時に、人性の目的はより高い権力や指導者や民族共同体のために犠牲となることにあると強調したことは、ドイツにおいて、国家への無条件的な奉仕を美徳とする超国家主義的(ウルトラナショナリズム)倫理を美徳とするファシズムの思潮を補完する役割も果たした。

    ④ 禁欲と労働の強調

    ⑤ 儀式を省略あるいは破棄した聖餐論、およびカトリック教会の制度を否定した教会論

    ⑥ 原始キリスト教の精神にもとづく政教一致の神裁的共和政治と、それにもとづく国家に対する教会の自由と独立の強調

    (3)英国国教会と清教徒の移住

    ――イギリス国教教会(アングリン)

    1534年、ヘンリー8世が行った宗教改革により生まれたイギリス独自の宗派。アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどにも広まった。日本では聖公会と呼ばれ、立教大学や聖路加病院などが創立された。

    百年戦争(1338~1453)後にフランスの領土を失ったことで、英国はまとまった国民意識を生み出していく。ばら戦争(1455~1485)の影響で、国内諸侯が衰退するに乗じて英国国王の中央集権化(絶対主義国家)が進む。それに伴い、強まってきたローマ教皇の干渉に対する批判を利用し、絶対王政をまかなうために、教会や修道院の収入や財産に注目した王権側は教会を国王の権力の下に組み込もうとした。

    ヘンリー8世は、フランスに対抗するため結束を高めたい父ヘンリー7世の意向で結婚した、兄アーサーの妃だったスペイン王女キャサリンと離婚するために画策する。当時は教会法により離婚は絶対認められなかった。聖書に「兄弟の妻だった女と結婚してはならない」とあると、結婚は無効だったとするが、教皇クレメンス7世は認めない。ヘンリー8世はクランマーをカンタベリー教会の大司教に任命し、その認可で離婚を成立させる。宮女アンを王妃とした。1834年、国王至上法を公布。国王こそが全イギリスの教会の首長であると定め、カトリックから分離独立した。ヘンリー8世は修道院を総て解散させ、修道院が持っていた膨大な施設を没収した。

    教会がことごとにローマ法王に監督され、イギリスの富が教会を通じてローマに吸収されていたことに不満をもっていたイギリス国民は、ヘンリー8世の政策を支持。さらに、海外に向かっていたイギリス人にとって、スペインは当面の的だった。

    1. 清教徒の登場

    エドワード6世のとき、新教徒に対して寛容政策がとられたが、カトリック教徒のメアリー女王のとき、カトリック的反動政策を強行。教皇権を再確認するとともに異端者を厳しく弾圧した。メアリーの後を継いだエリザベス1世は1534年、首長法を再度公布し直し、「統一令」を発布。英国国教会の礼拝儀式と一般祈祷書を統一整備し、全国民に強制的に採用させるなど、国教主義に基づく宗教的統一政策を進めた。

    英国で宗教改革が起こったのは、信仰上の問題より政治的経済的動機が主。「統一令」を出してカトリックとは袂を分かつなど、英国独自の宗教改革を行ったが、国王が上から政策的に行ったものなので、国王の統治権を認め、儀式的にもカトリック的傾向がまだ残されるなど、教義や制度の改革は不徹底に留まった。カトリックの聖職位階制度に似た大司教や主教制も残されたため、英国国内のルター派やカルヴィン派の新教徒たちは、宗教改革の不徹底さに不満を抱き、非聖書的な英国国教会の在り方をさらに徹底的に改革しようとした。

    エリザベス1世統治下の1567年、信徒の一部が英国国教会から分離し、清教徒(ピューリタン)と呼ばれるようになる。ピューリタンは、「統一令」に従わない人々に対して、英国国教会側がつけた蔑称。英国国教会における宗教改革運動は、カトリック教会とジュネーブのカリヴィニズム(ルター派と区別するため改革派とも呼ぶ)の中間に位置するところから出発したため、「中道の道」とも呼ばれた。大半はカルヴィン主義者だったが、必ずしも同一ではない。ピューリタン革命に際して、ピューリタンの内部分裂が進み、多種多様の小分派に分かれていく。

    17Cに入り、ジェームス1世、チャールズ1世の治世に、英国国教会への党位置策が強化され、非国教徒、とりわけユダヤ教徒や清教徒の弾圧が強化された。それに対抗し、あくまで信仰を守った巡礼始祖(ピルグルム・ファーザーズ)と呼ばれる清教徒の一部は、長老派教会の信徒たちと一緒になってメイフラワー号に乗り、1620年、信仰の自由を求め新大陸アメリカへとわたり、プリマス植民地を開いていった。その他、相前後して信仰の自由を求めアメリカ大陸へと渡ったキリスト教徒たちの中には、クェーカー教徒、カトリック教徒、ユダヤ教とたちもいた。

    一方、英国内に留まった清教徒たちはクロムウェル(1599~1658)に代表されるように、商工業者を中心とする新興の中産階級として成長し、政治的経済力を蓄え、清教徒革命(1642)を起こす。

    oカトリックとプロテスタントの中間的存在

    (by「世界の宗教101の謎」21世紀思想研究会編集、河出書房新社)

    1534年、イギリス国王自らが最高首長となってイギリス国教会を設立するが、これは国民を無視した王室の専横でしかないと、国民の支持は得られなかった。

    その後、カトリック教会への復帰、1558年にはエリザベスⅠ世の就任で再離脱というドタバタを繰り返し、結局、「教義的にはプロテスタント、教会運営と礼拝はカトリック」という、イギリス独自のイギリス国教会が確立された。

    しかし、これに満足しないカルヴァン主義者が徹底した改革を叫び、「ピューリタン(清教徒)革命」に勝利。最終的には1688年の「名誉革命」で、非国教徒が自由を獲得。ピューリタンの一団は「信教の自由」を求めて、新大陸アメリカへの移住を展開することになった。

    • 原理主義(ファウダメンタリズム)」の誕生

    (by「世界の宗教101の謎」21世紀思想研究会編集、河出書房新社)

    ・地動説を否定した教会

    「宗教=聖」の世界が、科学や政治といった世俗の世界をも統合し、支配する形が、中世から近世にかけて続いた。たとえば治中が太陽の周りを回っていると主張したイタリアの学者、ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)は、当時のカトリック教会から異端審問に付され、幽閉状態に置かれた。古代社会では、政治的指導者(国王など)が、宗教的指導者(シャーマンなど)を兼ねていた。中世になると、西欧では、世俗の権力(国王など)が宗教的権力(カトリック教会)からは独立して存在したが、教会の権威は強く、国王の結婚や離婚、社会・政治思想などは、ローマ法王庁の監視下に置かれていた。

    ・「聖」と「俗」の分離

    やっと近代(18世紀の啓蒙思想と市民革命以降)になって、両者が分離され、「聖」と「俗」との分離とは、世俗は世俗の論理で動くことができるようになった。その結果、科学技術は目覚しい進歩を遂げ、産業は発展し、資本主義や社会主義といった新しい政治体制が生まれてくる。神の支配力(宗教の力)は、政治・経済・学術・産業などの世界からは追放され、個人的な心情の中で生きることを余儀なくされた。

    ・宗教の世俗化から、「原理主義」誕生へ

    その個人的な心情でさえ、日常の大部分を世俗の論理(政治的信条や仕事の論理など)に支配されており、宗教が、結婚や葬儀といった儀式・祭礼のときにだけ意識される「伝統的文化」という地位に貶められたのが、「宗教の世俗化」と呼ばれる現象。「葬式仏教」などといわれる日本の仏教も、まさにその状態。

    これではいけないという声が宗教側から起こり、それが世俗への反発や世俗からの分離という形であらわれた。世俗の価値観と対立し、宗教の原点に立ち返れ、と叫ぶ運動全般が「原理主義」と呼ばれるもの。

    ・世俗の価値観との対立

    「原理主義」は、アメリカのキリスト教徒(プロテスタント)から最初に生まれた。原理主義者たちには、「聖」と「俗」の分離が許せない。彼らは、世俗の倫理や価値観を汚れたものとして敵対視し、自分たちの信仰の純粋さを貫こうとする。

    汚れた世俗の代表として敵対視の対象となったのが、ダーウィンの進化論、フロイトの精神分析、共産主義、妊娠中絶。最近ではフェミニズム、同性愛。イスラムやカトリックも異教として悪魔扱いされ、時には政治そのものが汚れたものとして嫌われたりした。

    ・ピューリタンが描いた理想

    アメリカ国民の半数近くが、こうした原理主義的で保守的な人たちで占められている。

    アメリカは「理想の神の国」の建設を目指したイギリスのピューリタン(清教徒)たち、移民によって作られた国。ピューリタンは、当時のイギリス国教会(カトリックから分離)を堕落した存在と見て立ち上がったプロテスタントの一派。「聖書に返れ」をより純粋に突き詰めようとした。

    しかし、実際にアメリカ独立にあたって、憲法を起草したジェファーソンや初代大統領ワシントンなどは、リベラルな思想をもつ啓蒙主義者。以後のアメリカは、政教分離の原則の元に、民主主義の政治を推し進めた。政教一致を目指したピューリタンたちの理想は、原理主義の萌芽を宿したまま、自夕の国アメリカの底流でくすぶり続けることになる。

    • アメリカ原理主義の政治姿勢

    (by「世界の宗教101の謎」21世紀思想研究会編集、河出書房新社)

    原理主義の立場からみれば、汚れたと映る世俗の世界に対してとる宗教的態度は2通り。

    一つは、そんな汚れた世界には近づかないで、純粋な信仰の世界を守ろうとする態度。世俗の代表である政治などには関与せず、極端な場合には、電気や自動車といった近代文明さえ拒否して暮らす、それが神の道に沿うことだとする考え方まで登場する。

    もう一つは、逆に、汚れた世界の浄化しようと、積極的に教化に乗り出す態度。その場合、排撃しようとする世俗主義を猛烈に、ときには「サタン=悪魔」呼ばわりして攻撃する。

    マルチン・ルターは「聖書の世界への回帰」を唱えると共に、「罪深い現世の政治は支配する教会とは相容れないものだから、両者は分離されるべき」と説いた。

    ジャン・カルヴィンは、「キリスト教徒は政治に積極的に関与することで、現世において神の国を実現すべき」と説いた。

    そして、世の中が大きく変貌する節目(1900年代、大量のカトリック系移民がアメリカ社会に入ってきた/WⅠ戦後の混乱、60年代以降の新しい文化。ヒッピー、ロック、性の開放、フェミニズムなど)の時代になると、原理主義はその攻撃的な正確を強めてきた。レーガン政権やブッシュ政権は、そうして原理主義的性格を強めたキリスト教保守派層を支持基盤とする。

    1. プロテスタントの諸派

    ――長派教会

    スイスのカルヴィンの宗教改革運動から発生し、東はチェコから、西は英国のスコットランド地方にまで広まった。イギリスや北米に進出した改革派教会は、教会組織に長老制度を取り入れ、長老派(別名改革派教会)と呼ばれた。

    16~17Cにかけて、ピューリタン運動の主力となった。教育活動に熱心で、日本でも、明治学院、フェリス女学院などを設立している。

    ――改革派教会

    カルヴァンの流れを汲む諸教会の総称。徹底した聖書主義を主張し、加味によって救済される人間はあらかじめ決められているとする「予定説」を説き、禁欲生活の実践を重視。牧師と教会を代表する長老とから組織される長老会制度を作ることには成功しなかったため、一部は新大陸のアメリカに渡り、強制を伸ばした。

    ――会衆派

    各個別教会の相互の協力は認めるが、独立自治を強調する。1689年の「寛容令」により、英国国内で初めて信教の自由が承認された。

    ――バブテスト(バブティスト)教会

    17世紀、イギリスのジョン・スミスが創始。幼児洗礼を否定、自覚的な信仰告白にもとづく洗礼(バブティズム)のみ認めるのが特徴。1612年、英国最初のバプテスト教会が設立され、アメリカに渡ったロジャー・ウィリアムスが1630年、アメリカ最初のバプテスト教会を建設、以後アメリカ国内最大の教派に成長した。キング牧師が著名。

    ――メジスト教会(クェーカー派)

    18世紀半ば、イギリスのジョン・ウェスレイが創始。聖書研究や慈善活動をまじめに行ったため、メソジスト(几帳面屋)と呼ばれた。宗教的改心を重視、「キリスト者の完全」を目指す。真理は霊魂に語りかける内なる光にあるとして、人間的な制度や典礼によらないで神に接することができると主張し、原始教会の単純な姿の再現を目的とする友の会派を作った。

    1671年にはアメリカにわたり伝道。クェーカーは戦争否定、奴隷解放、監獄改良、精神病者の人道的取扱いなど、社会改造運動に熱心に取り組んだ。日本の新渡戸稲造もクェーカー派。

    ――セブンスディ・アドベンチスト教会

    1860年、アメリカのキリスト再臨を信じるグループが創始。安息日を7日目の土曜日とすべきと主張。発足当時から健康食品の製造と病院経営に力を入れている。

    (4)宗教戦争と反ユダヤ主義

    1. イエズス会の刷新運動

    プロテスタントの台頭はカトリック教会に深刻な影響を与え、カトリック教会の刷新が図られた。これを反宗教改革、または対抗改革の運動という。この運動はキリスト教の本質にも関わる質的変化も引き起こした。反宗教改革を通じて、プロテスタント、カトリックを問わず、キリスト教全体が近代宗教へと脱皮していく。

    プロテスタント内部の分裂も影響して、17C以降のカトリック教会は、イタリアやスペインポルトガルなど、西欧ラテン諸国の絶対王政と癒着する形で発展していく。

    カトリック教会の中で刷新運動を協力に推進したのはイエズス会。スペインのイグナティウス・デ・ロヨラ(1491?~1556)によって設立されたイエズス会は、教皇を主張に仰ぎ、純潔、清貧、服従をモットーにきょう粉軍隊的組織で統一されたカトリック修道会だった。多数の熱心な宣教師を生み出し、カトリック教会の刷新と民衆強化のための教育施設の普及に努めた。ユダヤ教やプロテスタントに対しては徹底的に弾圧を与え、プロテスタントの地盤近くまで勢力を伸ばした。

    そのころ、重商主義による政策を進めつつあった接待主義国家のスペインの海外植民事業と結びついて、南アメリカ、インド、中国など海外の植民地をはじめ各国に宣教師を派遣するなど、海外布教も強力に推進。中国の宣教で活躍したマテオ・リッチ(1552~1610)、日本への宣教に尽力したフランシスコ・ザビエル(1506~1552)など、アジア地域を中心としたカトリック教会の再建、強化に大きく貢献した。当時のカトリック教会の粛清改革運動に大きな影響と方向性を与えたといわれる「トリエント総会議」(1545~1563)を主導したのもイエズス会だった。

    イエズス会は中国で布教する便宜のために布教地の伝統を重視し、天や孔子を祭る儒教の儀礼を習俗として認めていたが、遅れて中国に入ったフランシスコ会はその布教方針に懐疑的で、問題であるとして教皇に訴え出る。1704年、教皇は中国のカトリック教徒が儒教的な儀式(典礼)へ参加することを禁じる方針をとったため、それに対抗して、清朝側は禁教令を強化し、1747年、天文・暦学に従事する者のほかは、カトリック宣教師を国外退去処分にした。

    • イエズス会の布教活動

    (by「世界の宗教101の謎」21世紀思想研究会編集、河出書房新社)

    プロテスタントの拡大に対抗して、カトリック内部に起こった「対抗改革」によって、魔女狩り、非キリスト教地域への布教活動の動きが起こる。

    非キリスト教地域への布教活動の中心を担ったのが、カトリック修道会「イエズス会」。

    ※ 修道会・・・・・・・3世紀中頃、エジプト・シリアの地域で、清貧・貞潔を信条として修道院を組織していた修道士たちが、ヨーロッパに移住、10世紀末に修道院の集合体として修道会を結成する。修道士たちの知的水準は高く、十字軍の遠征でも活躍し、傷病丙を治療した看護修道会は、今日の医療の起源とされる。現在でも修道会は健在で、私有財産の放棄、セックスの禁止、生涯の独身、目上の者には絶対服従の生活を貫いている。

    イエズス会は、より大いなる神の栄光のためにを創立精神として設立され、教皇に絶対的忠誠を誓う戦闘的な修道会。スペイン・ポルトガルの援助を得て中南米・アフリカ・東南アジア・中国・日本などに布教活動を展開する。ジャンヌ・ダルク(15世紀のフランスの愛国者)のような魔女が東方に飛び、異端者を送り込んでくるとして、東方に渡って魔女を撲滅すべきとする声が高まったのも、布教活動の動機の一つとなった。

    しかし、権力の横暴と世俗化が民衆の反感を買い、各地で反対運動が起こったため、1773年、イエズス会は教皇により解散させられた。これによりカトリック教会の衰退は顕著になり、フランス革命が起きると、教皇領はフランスにより没収され、教皇自身も幽閉された。

    1. フランス、ユグノー戦争(1562~1598)

    1570年頃から、カトリック側の反宗教改革も活発となっていた状況下で、ユグノー戦争が起こる。ユグノーとは、フランスのカルヴィン派の新教徒。貴族の間にもユグノーの勢力が広まるにつれ、貴族のギーズ家(カトリック)とブルボン家(ユグノー)との政治闘争とも絡まる形で対立が深まっていた。この状況を王権の伸長に利用としたフランス国王シャルル9世の母カトリーヌの画策から、ユグノー戦争となる。前後3回のユグノー戦争の結果、1570年、サン・ジェルマン条約により、ユグノー教徒はパリの外では自由に礼拝できるようになった。

    ユグノーの勢力拡大を喜ばないギーズ公は、カトリーヌと共謀し、聖バーソロミューの祭日に、新教徒のアンリ4世とフランス王の妹との結婚式に集まったユグノーを襲撃。5万人の犠牲者を出した「聖バーソロミューの大虐殺」(1572)事件により、第4回目のユグノー戦争となった。戦いは内戦の様相を呈し、膠着状態となる。

    1598年にフランス国王に即位したアンリ4世は、当初プロテスタントであったが、政治的配慮からカトリックへと改宗。さらに1598年、「ナントの勅令」を出して宗教的寛容政策を打ち出し、フランスのプロテスタント(ユグノー)にも信仰の自由と政治上の市民権を与えたが、17Cに入って「ナントの勅令」が廃止され、ユグノーの再追放と内乱が繰り返された。1787年のルイ16世の寛容令後、フランスはカトリックの地盤としてようやく落ち着く。

    1. ドイツ、三十年戦争(1618~1648)

    宗教改革後、ドイツ国内ではルター派とカルヴィン派の対立する隙をつく形で、イエズス会などのカトリックが勢力を伸ばし、新旧両派の諸侯が入り乱れる形で対立が深まっていく。それは1618年、ボヘミアのプロテスタントのプラハ蜂起をきっかけに、三十年戦争として勃発する。

    三十年戦争はヨーロッパで最後かつ最大の宗教戦争。1648年に終わり、締結されたウェストファーリア条約により、帝国内のカトリック、ルター派、カルヴィン派の完全な同権と、諸侯が自分の宗旨を領民に強制する権利が確認された。これ以後、ドイツ国内の宗教上の争いは基本的には解消され、ヨーロッパの国際間・国内の争いでの宗教的理由の占める比重は低下していく。これに代わって、各国の剥き出しの領土的や新が戦争の理由として全国的に押し出されていく。

    プロテスタントとカトリックの対立は宗教戦争の様相を呈しているようだが、実質は、中央集権化を進めようとする絶対君主と、各国の封建諸侯や貴族との間の政治経済的な利害関係の衝突。三十年戦争も、宗教戦争というより、近代国民戦争の色濃い戦争だった。

    1. ユダヤ教徒への迫害

    ヨーロッパの宗教戦争は、三十年戦争という形で終止符が打たれたが、異教徒であるユダヤ教徒に対する迫害は、一段と激しさを増す。イスラエルへの迫害は、ユダヤ教の教義自体にも大きな影響を与えた。

    1665~76年にかけて、多くのユダヤ教徒からシャバタイ・ツヴィ(1626~1676)をメシアとするメシア待望運動がロンドン、アムステルダム、ワルシャワなどヨーロッパ各地で熱狂的に沸きあがる。1665年、聖地の君主であったサルタンの王位を廃止させようとしたツヴィは、トルコ政府に逮捕され、拷問による死かイスラームへの改宗を迫られ、ツヴィはイスラーム教徒へと改宗した。1648年、ポーランド、リトアニア、ウクライナ地域のユダヤ人がコサックの首領とポーランドの貧しい農民たちにより大量虐殺され、以後8年間で、10万人が虐殺された。

    キリスト教会側の反ユダヤ主義的感情はカトリック教会だけではなく、プロテスタント側でも広範に行われた。ルターは、「ユダヤ民族はあらゆる悪魔を宿している。われわれキリスト教徒は今この卑しむべき呪われたユダヤ人をどうすべきか? 第一に、彼らの学校やシナゴーグを焼き払うこと、第二に、彼らの家を打ち壊すこと、第三に、すべての祈祷書やタルムードを没収すること、第四に、ラビたちが教えることを禁じ、これを犯したら死刑にすること。安全通行権と道路の使用権とを奪うこと。高利貸業を禁じ金銀の硬貨および貴金属を没収すること」など、反ユダヤ主義的状況を隠そうともしなかった。ヨーロッパのキリスト教会は全体として、ユダヤ人問題を深刻化させていった。

    ユダヤ教における異端的教説やメシア待望論の運動は、ユダヤ教の歴史を通じて周期的に登場している。

    ・ イベリア半島・・・・・・西ヨーロッパのユダヤ教徒にとって安住の地は、8C以来、イスラームが支配するイベリア半島だけで、そこでは迫害を受けることなくイスラームと共生して暮らしていた。イスラームによって放棄された都市の再開発に際して、イスラエルの人々は有益な働きをしたため、14Cのスペインにはユダヤ人コミュニティが多数存在した。しかし、カトリック教国イスパニアのイザベラ女王は、異教徒の追放政策を進め、1492年にはスペイン国内のユダヤ教徒の国外追放令が出される。カトリックの異端審問所からは「7月31日以降、避難民に宿や食糧を提供した者は厳罰に処す」という通告も出された結果、約10万人のユダヤ教徒がオスマン帝国、モロッコ、アルジェリア、ネーデルランドなどへ移住。また、各港から東方に向かってユダヤ人を満載した多くの舟が出航した。国外移住に踏み切れなかった約15万人以上は、カトリック教徒へ改宗することを強制され、「隠れユダヤ教徒」として生き延びた。スペインから脱出したユダヤ教徒がとりあえず非難したポルトガルでも改宗が迫られ、隠れユダヤ教徒に対しても大虐殺が行われ、スペイン同様、異端尋問が吹き荒れた。

    ・ イタリア・・・・・・それまでユダヤ教徒に対して寛大だったイタリアでも、1516年、ベネチアで「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人街区がつくられ、押し込められる。1540年には、ジェノバやベネチアに住むユダヤ教徒も追放され、1555年には反宗教改革運動に狂信的に取り組んだ教皇パウロ4世がユダヤ人をゲットーに隔離することを命じ、「差別バッジ」制度を復活させた。1569、1593年には、教皇領からユダヤ人が追放された。1597年、ミラノからもユダヤ人が追放される。

    ・ イギリス・・・・・・1290年、エドワード1世は、イギリス国土からユダヤ人は期限までに国外へ立ち去ること、期限以降に発見された者はすべて絞首刑にするとの告示を出す。以後、1290~1655年までの400年間、国内にユダヤ人が存在することは公式には許されなかった。

    (5)革命と啓蒙時代のキリスト教

    1. フランス革命とその後の混乱の時代

    ヤンセン主義・・・・・・絶対王政を政治的支援者とするカトリック教会、中でもイエズス会修道会を中心に、道徳的退廃と宗教的不信がはびこっていた。これに対して17世紀中ごろ、国内のカトリック信徒の中から批判の動きが始まる。彼らはイエズス会の恩恵論と妥協的道徳を激しく批判したが、1642年、教皇により異端とされる。

    1780年からのフランス革命により、カトリック教会の財産は没収され、国有化される。一方、プロテスタントは、1789年の寛容令によって身分が回復される。革命暦の発布とキリスト紀年法の廃止(1793)、「宗教自由令の発布」(1795)など矢継ぎ早の改革がなされ、カトリック教会は急速に衰退していったのに対して、プロテスタント教会側は息を吹き返した。

    しかし、ナポレオンは革命で失墜したカトリック教会との関係を再調整する方向を選ぶ。カトリックを「大多数のフランス市民の宗教」として公認。没収された旧財産の一部返還、聖職者給与を国家負担とするなど、国家の承認と援助を与えた。その反面、教会に対する国家の介入権も教会に認めさせる。カトリック以外のキリスト教に対しても、カトリックと同列とみなし、公認宗教として国家からの援助が約束されることになる。

    こうした蜜月関係は、1905年の「政教分離令」により、教会と国家が分離されるまで続く。これにより、国家は「良心の自由と礼拝の自由の保証を確認」するとともに、国家による「特定宗教への一切の保護の停止」が打ち出される。このときより、カトリックは国教としての地位を失った。

    1. フランス革命後のユダヤ教徒

    フランス革命とその後の「人権宣言」に続いて、ユダヤ教徒に対しても市民として同権を認めるという画期的な決議を、国民会議が可決する。

    ナポレオンの時代、ヨーロッパの多くの都市で、ゲットー(イスラエル居住区)の壁が崩れ始める。ドイツのベルリンには、最初の公的シナゴーグができ(1712)、イタリアでユダヤ人会議が開催され(1723)、アメリカ各地でも公的シナゴーグやユダヤ人集会が誕生する(1730年代~1940年代)など、イスラエルがゲットーの外に出て、自己の宗教的信条を語り始める。ユダヤ教徒たちの生活や思想もこうした影響を受けて、それまでの閉鎖的で形式的な戒律尊重といった伝統的枠組みからの解放が一挙に始まる。それは宗教だけに留まらず、芸術や科学など他の宗教分野でもイスラエルの民衆の優れた文化活動を生み出す要因にもなった。

    こうした啓蒙主義の風潮は、ユダヤ教神学やユダヤ思想に対し、新たな哲学的勃興と、その知的高揚をもたらしたが、同時にイスラエルの解放問題も一気に噴出した。この時期には、ユダヤ教徒に自由な選択の道が大きく開かれ、「改革派ユダヤ教」「保守派ユダヤ教」「ハシディズム運動」「シオニズム思想」など、現代まで影響を与えているさまざまなユダヤ教思想や政治思想が発生した。

    モーゼス・メンデルスゾーンに代表されるように、イスラエルのヨーロッパへの同化が主張され、他方では、1777年の白ロシア地域へのメヘナムメンデルの一団によるパレスチナのガリラヤ地域への定住の動きも強まるなど、「シオニズム思想」が生じた時期でもあった。

    シオニズム思想・・・・・・18世紀から西欧社会に台頭してきた反ユダヤ主義および国民国家形成の動きと密接に関連して生じてきた政治運動。

    (6)世界大戦・ファシズムとキリスト教

    1. 聖母マリア無原罪の教義

    1861年、イタリア王国建国。普墺戦争(1868)で、ベネチアを併合し、普仏戦争(1870~72)最中の1870年、ローマ教皇領も併合したイタリアは、ローマに都を移す。こうしたイタリア統一の過程で教皇権を失ったローマ教皇庁は、自ら「バチカンの囚人」と称して、イタリア政府と絶好状態に入る。両者の対立は20世紀まで続き、ムッソリーニ政権成立後の1929年、教皇庁はイタリア政府と政教条約(コンコルダート)を結ぶ。その条約により、政治と宗教の対立に妥協関係が成立した。

    教皇庁による宗教面での優位を各国の政府機関に認めさせる代わりに、政治面での優位性を各国政府に委ねるとするのがコンコルダートの趣旨。イタリアを最初に、西欧諸国の教会も政教条約を各国政府と相次いで締結していった。

    このことは、その後のヨーロッパ各地で台頭してきたファシズム政権に対し、信仰と良心に従って反ファシズム闘争を展開することは政治問題であるとして、各国の教会の保身を優先させる口実を与えることとなった。

    1869年から開催された第1回バチカン公会議(1869~70)では、神の認識と神の啓示、信仰に関するカトリックの教えを強調し、キリスト教会に対するローマ教皇庁の最高司牧権および教導権が再確認された。

    第1回バチカン公会議で、「聖母マリア無原罪懐胎」(マリア・インマクラータ)の教義が決定される。こうした考えは7世紀以降、ヨーロッパ各地の民衆の間で広く流布し続けていたが、マリアを自然人とみる限り、マリアの無自罪は認めても無原罪までは認められないとする見解も根強かった。このインマクラータの採用宣言に対し、「教皇の無謬性」(エクス・カテドラ)の教義も同時に採択された。

    エクス・カテドラ・・・・・・ローマ教皇が最高司教として聖ペテロの司教高座(カテドラ)から全世界のカトリック教会に向かって教義が発せられた場合だけに限って、その教義宣言をした教皇の決定には誤りがないとする教義。

    このインマクラータの公認により、マリアの無原罪を認めない東方教会と対立。マリアへの特別の地位を付与することさえ拒否していたプロテスタント教会とも、さらに対立を強めることになる。

    1. ユダヤ人のヨーロッパからの脱出

    19~20世紀の初頭、ヨーロッパの大国の間に、帝国主義・軍国主義の傾向が強まっていった。国民国家による急激な海外膨張政策の伸展は、各国の官民の間で新しい人種的偏見を高めていった。

    1920代後半~30年代、西欧キリスト教社会の各地で、ユダヤ人に対する襲撃が再び頻発し始める。こうした事態に対して、ヨーロッパ在住のユダヤ人は、いくつかの道を模索し始める。

    ①アメリカ大陸への移住          ② 各国の社会主義運動への参加

    ③シオニズムの思想とパレスチナ建国運動  ④ 各国民への同化

    1894年、フランスで無実のユダヤ人が、ユダヤ人であることを理由に冤罪に書される事件(ドレフェス事件)が起こる。

    1917年、バルフファオ宣言・・・・・・WⅠ戦勃発後の1897年、ユダヤ系資金の導入を図る代償として、イスラエルの民衆がパレスチナに入植することを英国側に暗黙のうちに了解させたもの。これ以後、20世紀初頭から、東欧や旧雄マントル固定国内のユダヤ系住民を中心として、西欧のイスラエル人たちも加わる形で、パレスチナ地域への植民活動が本格的に推し進められた。

    <パレスチナ問題>

    1930年代のナチス政権の成立に伴い、ドイツを中心として反セミティズムが本格化。1940年以降は、「ユダヤ人問題の最終解決」と称して、イスラエルの人々を東方への移送するため集中収容所へと集める。このとき、400万~600万のユダヤ人が殺されたとも言われるが、アウシュビッツ=ビルケナウの新しい記念碑の犠牲者の数字は、1994年現在、400万~100万人余りへと訂正された。

    この事件は、WⅡ戦後になって広く知られ、全世界に衝撃を与えた。想像を絶するイスラエル人絶滅(ホロコースト。焼き尽くすというヘブライ語)の悲劇に同情した国連をはじめとする国際世論は、1947年、パレスチナの地にユダヤ人国家とアラブ人を中心とするパレスチナ国家を別々に建設することを決定した。翌1948年、パレスチナの土地に「イスラエル国家」が建設され、国連をはじめ世界各国から承認された。

    しかし、このときの国連の決定は、パレスチナの地に長らく生活してきたパレスチナ人をはじめとするアラブ諸国民の現状を全く考慮に入れない一方的な決定だった。西欧キリスト教社会の一方的な正義と人道の視点だけで貫かれた「イスラエル国家」を、欧米キリスト教社会が承認。「土地亡き民へ土地を」という現実を無視した宣伝と神話により、数千年によってアラブ人が暮らしてきたパレスチナの土地へ、ヨーロッパ各国からイスラエルの人々が送り込まれた。

    イスラエルが神によって選ばれた民だとする「選民思想」、パレスチナを神から与えられた土地だとする「約束の土地神話」が西欧キリスト教社会にも根強く浸透しており、建国を背後から支えた。

    一連の中東戦争でアラブ側が敗北した結果、多数のパレスチナ難民が生み出される悲劇となる。パレスチナ問題は、単なるイスラエルとアラブの間の争いではなく、その背後には、キリスト教社会や欧米社会の反ユダヤ主義を土壌とする「ユダヤ人問題」が根深くある。

    (7)第二次世界大戦後のキリスト教

    1. キリスト教世界の反省

    WⅡ戦後、世界のキリスト教会が直面した深刻な問いかけ。

    「ナチズムの残虐行為を西欧キリスト教が阻止できなかったのは何故か? 反ユダヤ主義感情を煽ってきたのはナチズムだけでなく西欧キリスト教世界、なかでもカトリック教会の二千年におよぶ反ユダヤ主義の教説の垂れ流しが、その背景にあったkらではなかったのか? 教皇庁とガス室とはまったく無関係だったと言い切れるのか?」

    ユダヤ教徒からキリスト教徒だけではなく、ヨーロッパのキリスト教内部からも提起された。元ナチ戦犯だったアイヒマンに南米逃亡の便器を与えた人物の一人に、カトリックの聖職者であるフーダル神父がいる。また、バチカンは元ナチ戦犯をWⅡ戦後も匿ってきたとされる。

    1. 第2回バチカン公会議(1962~65)

    ・ 第1回会期(1962)は、典礼とマスメディア問題。

    ・ 第2回会期(1963)では、16世紀以降における教会分裂について、カトリック側にも責任のあったことを初めて認める。

    ・ 第3回会期(1964)では、カトリックの優位性を巡ってさまざまな意見がみられ、白熱した議論もみられたが、最終的には他のキリスト教各派と対等な立場にたって、キリスト教諸教会間の対話を通じて参加する運動として調整され、受け止められた。この討議は「エキュメニズム(教会一位)に関する教令」として集約されたが、教会一致運動の最優先課題は、東方教会との再一致であった。会議に先立つ1964年1月、中東紛争への教皇庁としての独自の立場を貫きながら、平和に向けてのアピールを世界に示すことを狙って、教皇パウロ6世が前代未聞の聖地エルサレム訪問を行った。

    ・ 第4回会期(1965)では、全面戦争の危機を警告し、戦争絶対反対と国際協力を訴える。1965年12月、東方諸教会およびプロテスタントを異端をみなさないことが決定され、ローマ・カトリックと東方教会のコンスタンチノーポリス総主教座との間で、相互破門の解消が宣言された。これにより、西方教会と東方教会の間の1054年以来、一千年近くにも及ぶ敵対関係が解消される。

    さらに、キリスト教とユダヤ教徒の共通の財産を正しく認め、ユダヤ教徒に対する「キリスト殺し」の汚名と責任を問わないことが決定された。西欧キリスト教社会の反ユダヤ主義の根本原因がカトリック教会をはじめとするキリスト教会側にあったことを認められ、ユダヤ教徒を「キリスト殺しゆえの呪われた民」とみなしてきたことは人種的迫害であり、反福音的であるとして退けると、初めて公に宣言した。この具体策として、1974年、教皇庁内に「カトリック・ユダヤ関係委員会」が設置された。

    1. イスラエル建国をめぐって

    <教皇庁がイスラエル国家を成立当初から容認してこなかった理由>

    ・ 教義上、「キリスト殺し」の民による祭政一致の国家を承認できない。

    ・ イスラエル建国に付随して発生したパレスチナ問題は、人道的見地からも容認できない。(→ 予想される、イスラエル国家との対立の恐れと不利益)

    ユダヤ教徒に対する教皇庁の方向転換は、カトリック教会としては画期的な大転換であるとして、キリスト教界からは概して高く評価されたが、ユダヤ教徒からは、「キリスト者による流血のユダヤ人迫害についての自責の念がみられず」「イスラエル国家あるいは聖地としての関係に言及していない」ことを不満とし、「カトリックがイスラエル国家を承認しない限り和解しない」とする批判的指摘がなされた。

    <聖地となったエルサレム>

    1970年代の一連のアラブ諸国側の高揚ムード配慮した教皇庁は、「聖地エルサレムをキリスト教、イスラーム、ユダヤ教、三宗教の共通聖地とする国際都市化案」を改めて提案する。

    ・ 1973年、第4次中東戦争勃発と、アラブ産油諸国の石油戦略の発動。

    ・ 1974年、パレスチナ民族解放機構(PLO)の国連総会へのオブザーバー参加承認と、PLOアラファト議長の国連総会演説。

    ・ 1975年、「シオニズム人種差別決議」の国連決議採択。

    ・ 1979年、イラン革命

    1982年、ヨハネ・パウロ教皇と、アラファト議長との会談し、中東和平のかなめにはパレスチナ人の領土確保が必要であり、教皇庁もそれを指示すると表明した。これは諸宗教との対話促進を掲げた第2回バチカン湖会議の精神にもとづくものではなく、国際政治力学を考慮した日和見的外交戦略でしかなかったため、その後に起こった湾岸戦争(1991)直後に、教皇庁はイスラエル国家の承認に踏み切る。

    1993年、教皇庁とイスラエルは正式に外交を樹立し、エルサレムで基本合意文書(十五条)を調印。その後も、ヨハネ・パウロ二世は、1070年代後半から80年代初めにみせたアラブ寄りの外交市政を軌道修正した外交を展開した。これには、旧ソ連国家の崩壊と、湾岸戦争勃発によるアラブ諸国の分裂という国際情勢の変化があった。

    一方、1994年、PLOおよびヨルダンとも教皇庁は公式関係を樹立し、中立的であるかのようにみえる。国際情勢の変化に追随した教皇庁特有の「後追い」外交戦略は、イスラーム原理主義組織ハマスによる教皇庁非難(1993年)をはじめ、アラブ諸国から不信の目でみられている。

    (8)キリスト教の現状

    主要な系列は7つ。最も大きな教会的伝統は、ローマ・カトリック教会(ラテン典礼派)、東方正教会(オーソドックス教会。スラブ典礼派)、プロテスタント合同教会、ペンテコステ派教会の4系烈。これは、さらに150以上もの多くのグループに分類される。

     

     

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