マリア信仰とその変遷
- 現在のマリア信仰の実態――カトリック教会肯定のマリア像
・ イエスの養父ヨセフの妻であり、イエスの実母、つまり神の母。父なる神と子神イエス以外に、神はありえない。マリアは女神ではなく、「福音書」に書かれているとおり人間だが、救済にあずかって昇天し、天国に入った唯一の人間で、天使よりも上とされる。
・ ヨセフと婚約中に、神の霊によって神のひとり子を身ごもり、産道が傷つくことなく出産。以後も男性を交わることなく、死後神に召されて天に昇った。
・ 原罪から解放された最初で唯一の女性であり、原罪を犯したイヴの対極をなす、すべての女性が鑑とすべき存在であり、キリストの民の共同体たる教会の母。
・ 多神教の女神たちがもつ職能――安産の神、家の守護神、愛の神、女性のさまざまな願い事をきいてくれる神――をもつ。
● 信仰上、すでにマリアは女神だが、唯一神信仰であるため、それを教義化するわけにはいかない。そこで、人間に与え得る最高の称号、地位をつくりだして付与し、限りなく神に近づけられた。
● やがて再臨する息子イエスが執り行う最後の審判で、助言あるいは執り成しをして、虐げられる者や罪深き者に救済をかなえてくれる憐れみ深い守護聖人であると信じられる。修道女は、審判者の母マリアのように純潔をとおし、清貧を旨として祈り暮らすなら、最後の審判で「我が母である」とみなされて、救済にあずからせてもらえると信じる。
- 新約聖書におけるマリア――〝処女ではないマリア〟
・ キリスト教の根本教義書である新約聖書は、マリア信仰に言及していない。福音書には、現在のマリア像と噛み合わない、マリアの処女性を傷つける記述さえある。
● 新約聖書のなかで、母マリアに言及するのは、四つの福音書と「使途行伝」だけ。すべての書簡類には母マリアへの言及はない。言及している福音書には、マリアは宣教する息子を気がふれたとみなして、イエスを取り押さえようとした(『マルコ』3―21~31)、イエスは連れ帰ろうと戸口に立つ母を尻目に、帰依した女性たちを指して「このなかにこそ私の母がいる」と口にする(『マルコ』3―24~35)とある。
● ペテロの通訳マルコの手によるとされる『マルコ』は、イエスを直接知るペテロから聞き取った情報をもとに執筆されたとみなされるが、神の子教義にとって重要な処女懐胎を『マルコ』『ヨハネ』は記していない。
● 『マタイ』『ルカ』は、イエスに4人の兄弟と、少なくとも2人の姉妹がいたと記す。イエスに兄弟姉妹がいたことは、マリアの処女性を著しく傷つける。カトリック教会は、当時のパレスチナ地方の標準語(アラム語)では兄弟と従兄弟の区別がなかったため、これは兄弟ではなく従兄弟であると説いてきたが、福音書の原典はギリシャ語で、ギリシャ語では兄弟と従兄弟を書き分ける。『マルコ』は、アラム語から訳したものではないと考えられている。
- 1C、マリア信仰なし(イエスが、神の種による純粋な神の子とみなされていない頃)
○ パウロの死ぬ60年代中葉までは、マリア信仰は成立していない。パウロは、イエスは復活して天の神の右にあげられて初めて神の子とされた(「ローマ人への手紙」1―4)、つまり養子にされたとする。とすると、イエスが御子となるのは死後で、生前は人間。マリアは人間イエスを生んだ母となる。パウロの死の前後に成立したとされる『マルコ』にも、マリア信仰を示唆する記述はまったくない。
○ 『マタイ』『ルカ』(70~80年成立)には、処女懐胎伝承が記されている。これがマリア信仰の成立に直結しているが、現在、両書の記す処女懐胎伝承は後世の教会人によって加筆改竄されたものとみなされている。
● 『マタイ』(1―18~25)――もともとは、天使が父ヨセフに「マリアなる乙女と結婚せよ、そして生まれた子をイエスと名付けよ」と命じるシーン。これに、「マリアが婚約時代に聖霊によって妊娠し、それを知ったヨセフは離縁しようと思い悩んだ。それを天使がたしなめた」「(ヨセフは)イエスが生まれるまでマリアと交わらなかった」と加筆された。
● 『ルカ』(1―26~38)――もともと、大天使ガブリエルがマリアに「おまえはキリストを生むことになる」と告知するシーン。これに、「どうしてそんなことがありえるのですか、私はまだ夫のない身ですのに」と加筆された。
● 『マルコ』『ルカ』が加筆されたとき、処女懐胎シーンは記されていなかったという想定は、系図が裏付ける。イエスが父ヨセフの種ではないという認識が一般的だったとするなら、ヨセフを実父とする男系の系図が作成されるはずはない。系図も今日においては否定されるべきものとなっている。
- 2C、イエスの「神の子」への昇格とともに始まったマリア信仰
○ 外典の「ヤコブ原福音書」(2C)には、マリアの処女懐胎伝承が詳細に記され、イエスが育ったナザレ村の教会の地下室跡に「マリア万歳」という炭による落書きがある。このことから、マリア信仰が芽生えていたと考えられる。
ただ、この段階では、のちのマリア信仰のような神性はうかがえない。神の子の生母として最後の審判のために再臨するイエスに執り成しをしてくれる、だからマリア様におすがりしようという信仰が芽生えていた。
● 70・80年~95年頃、一群の教会で神の純粋の子としての神の子教義が肯定される――イエスを神の純粋の子であると宣言する『ヨハネ』(90~100年)の前までには、神の子教義が成立したと考えられる。同時に、マリアは神を生んだ母に昇格され、執り成しをしてくれる特別な方であるという信仰が芽生え、広まっていった。しかし、すべての教会がこの教義を採用したわけではなく、多くの教会はこの教義を拒絶する。(~4Cまで)
● 〝姦婦マリア伝承〟・・・・・・ユダヤ教の「ミシュナー」(70~200年編纂)にあるラビ問答(95年頃成立)の一節に、「イエスは愚者と呼ばれていた。その母はミリアム(ギリシャ語でマリア)という。髪結い/美容師で姦淫の妻であり、愛人パンテラがいた」とあり、マリアは愛人と姦淫して汚れた私生児イエスを生んだとする。これは、神の子伝承が成立後、それに対応してつくられたものではないか。マリアは髪結いとされるが、これは福音書にあるマグダラのマリアと混同されている。
● イエスが本当に姦淫の子だったら、律法破りとして会堂に入れてもらえないし、姦淫の子のくせに律法を論じるなと罵されて、原理主義者のパリサイ派や律法学者から相手にされなかったはず。イエスを狂人だとか大食漢、大酒の見、悪霊憑き、神を冒涜する者といった中傷を包み隠さず記すほどの福音書にも、そのような扱いを受けたとは記されていない。姦淫の子イエス、言い換えればマリア姦淫伝承はこののち、キリストの敵とされたユダヤの反キリスト論の拠り所とされ、敷衍されて伝えられた。
● 伝統的なイエス像は、慈悲深く、清貧、厳格で我慢強く、寡黙な人物とみなされていたが、現在ではほぼ一致して、イエスはしばしば起こる怖い男だが、基本的には陽気な酒飲みで宴会好き、そして人好きのする好漢であったと考えられている。他方、マリアは福音書に言及が少ない。
- 3~4C、廃絶された女神たちを包含し、一気に神性を帯びるマリア
○ キリスト教は異教徒を改宗させるため、当時ローマ世界で全盛を誇っていたエジプトの女神イシス信仰を取り込む。マリアを女神イシスになぞらえて、母マリアと子神イエスを分りやすく説明し、キリスト教の爆発的な拡大に貢献した。
――天上界から地上の支配者として遣わされたオシリスは、悪の神々によって殺される。妻イシスは夫を復活させる際、目覚めようとする夫の体に覆い被さって(霊的に)神ホルスを受胎。ところが再びオシリスは殺され、再度イシスは夫を復活させるが、天上界の神々は二度と殺されることがないよう、霊界の審判者とした。子神ホルスは成長して、父の敵を倒して勝利をつかみ、人間界の王として君臨する。
イエスは人間界に福音をもたらしたが、悪神の民に殺され、オシリス同様に復活してのちに審判者となる。またイエスは、ホルスと同じように父のために悪と戦い、勝利して人間界の支配者となる。母マリアはイシスと同様、性交なしに子神を生み、息子の人間界統治を助ける。歴代のエジプト王ファラオは、ホルスの化身とされていたので、母神イシスはファラオの守護神、母の守護神とされた。
○ 神性を帯びるマリア――豊穣と不死も司る女神への信仰は、エジプトの民衆だけでなく、ローマ時代に入ると北はゲルマニア、ガリアから地中海全域、西アジア一体に広まる。幾柱かのギリシャの女神たちとも同一視され、習合。イシス信仰を取り込んだ布教は大成功。拡大に従って、マリアは子神の母というより、女神イシスをそのものだと信じられるに至る。
○ 保護されるイシス信仰――4C末、ローマ帝国国教への昇格により、決定的に変化する。神々の総ての神殿が閉鎖を命じられたが、エジプトのイシス神殿だけはマリアの神殿として除外。東ローマ時代に入ると、皇帝はその祭典を支援し、巡礼を公認したほど。こうして廃絶された数多くの女神たちの職能は、イシス改めマリアのもとに収束されることになり、マリアはすべての女神の職能を帯びた実質的な大女神に昇格する。
● イシス信仰の故郷であったエジプトでは隆盛をきわめ、イシス=マリア信仰の要素が強いため、キリスト教と区別して「コプト教」と呼ばれるほどだった。現実の信仰では、マリアは実質的な大女神となったが、諸教会の公式教義ではあくまで人間の女性。マリアを女神とすると、イエスの父なる神ヤハウェの唯一絶対性を侵すことになるため、コプト教はやがて禁圧される。
- 4C、聖人の公認と、神の母への昇格
○ 325年、ニケア公会議で公式に、イエスは父なる神の子神と教義づけられるとともに、全教会の公式教義に「マリアは神の母である」という教義を加えようという動きが促進され、反対するネストリウス派が蹴落とされて、431年のエフェソス公会議で肯定された。しかし、教義上ではマリアは女神とされることはなく、神を生んだ母なのに人間とされた。ただし、ただの人間の女性ではなく、神から選ばれて特命を受けたことから、原罪を始めて許された人間、救済された最初の人間であるという解釈が生み出され、それゆえ、原罪から人間が知った性交など経験することのない最初の女性であり、永遠の処女とされた。(カトリック教会教義としての公定は19C)
ヨーロッパに広まった黒マドンナ崇拝は、処女マリア自身を女神として認める意義をもっていたが、ローマ・カトリック教会のマリアは、従順で素直な母の肖像として扱われ、通常の女神から連想される属性(生殖能力)をほぼ否定している。
○ マリア信仰は東方で先行していたが、この結果、3~4Cには東方の教会で典礼に取り込まれていたマリア讃歌や、「救いたまえ、聖母よ」といった聖母祈祷が、6Cに入るころから西方の教会でも続々と作成され、典礼に加えられた。5C以降、西ローマ世界でもマリアの名を関した教会が建てられ、マリアの祝日が公定され、マリア像がつくられるようになった。
○ やがて、マリア昇天という新しい認識が興隆。神の母たるマリアは救済にあずかっているのだから、死んでその肉体が腐敗することはなく、イエスに続いて昇天したはずだという解釈から、マリアは天上界で天使の上に君臨する存在、つまり神に準ずる存在だとみなされるようになる。(カトリック教会教義としての公定は20C)
- 中世、ひとり歩きするマリア信仰――イエスの職能を侵す〝天の女王マリア〟の存在
○ かつて審判者たる父なる神に助言する、執り成すだけの職能から、やがて神の職能を奪ってイエス自身が審判者に昇格したのと同じように、聖母マリアにすがりさえすれば救済にあずかれるという信仰が生まれる。マリアは共救済者、救済協働者、女性仲介者、寛大なる同伴者と呼ばれるようになり、12C前後から十字架に架けられたイエス像に並んで、あるいは代替として、マリアの優位性をイメージさせる「幼児イエスを抱く聖母マリア」像が教会堂に置かれる。この像は、ホルスを抱く母神イシスの像などをモデルにしており、東方の諸教会で早くから作成されていた。
- 18C中葉~19C中葉、マリア不毛の時代から、息を吹き返すマリア
○ 宗教改革(1517年~)で、ルターは宇宙の帝王と化していたイエスを退位させ、マリアは神の恩寵によって神の母とされたのであって、ただの人間に過ぎないと徹底したマリア礼拝の根絶を唱えた。イエスからは宇宙の帝王位を奪ったくらいだったが、マリアからは一切の職能を廃した結果、プロテスタント諸国において、マリアに冠されていた「慈悲の女王」「我らが生命、喜び、希望」「天の女帝」といったすべての称号が剥奪され、受胎告知など3つの祝日典礼を残して、マリア関係の祝日すべてが廃された。
○ 18C、人間の理性を絶対視し、宗教を否定・軽視する啓蒙主義が広まるに及び、残りのマリア祝日も教会から廃される。
○ 19C、理性絶対主義の反動として勃興したロマン主義によって、マリア信仰は息を吹き返す。それまでの敬虔なマリア信仰とは実体が異なり、愛の守護神であり、宇宙を支配する愛の象徴となって、プロテスタント諸国に新たな形のマリア尊崇とも言うべき状況が出現する。
- マリア信仰の新たな展開――顕現するマリアと女性解放
○ 宗教改革に対抗すべく、カトリック教会がスペイン、ポルトガルなどの植民地に宣教師を送って原住民を改宗させていく中、新しいマリア信仰が勃興する。白人の神父たちはこの民衆信仰を押し留めることはできず、200年後、ヴァチカンの承認するところとなり、マリアはラテンアメリカの守護聖人と宣言される。
――1531年12月、メキシコのグァダループの地、トナンツィン女神の古い神域だったテペヤックの丘に、聖母マリアが出現。太陽に輝く衣を来た褐色の肌の女性が現れ、貧しいインディオの男に「私はいつの世においても処女マリアであり、真の神であり・・・、集う者らの王であり、天と地との王の母であることを知れ」、マリアの意思である、苦しむ者たち、虐げられる者たち、貧しい者たちの解放はお告げを受けた使徒を仲介として成就されると告げる。マリアからの福音はスペイン人へ告げられるべきであり、インディオが宣教師たるべきとして、マリアは植民地の民衆解放のシンボル視される。――アステカの女神とマリアが習合
○ このマリア信仰は、20Cに入って、ラテンアメリカで解放の神学を芽生えさせ、アメリカ合衆国では女性解放の神学を発生させる。――〝処女性から、母性へ〟
○ マリア信仰などを拠り所とした民衆の解放気運は、マリアを天使の上にまで高め、教会の頂点に鎮座させた。ヴァチカンはマリア信仰のもつ新たなエネルギーを取り込んで教勢の保持をはかるろうとした。
・1917年、マリアが顕現したというポルトガルのファーティマ村の奇蹟を公認。
・1950年、中世においてすら教義化されることのなかった「マリアの昇天」を正式な教義として公布。
・1964年、マリアを「教会の母」と宣言。1987、88年をマリアの年と定める。
―― マリア信仰 ――
①カトリック教会公定のマリア像
イエスの養父ヨセフの妻であり、イエスの実母、つまり神の母であるマリアは、神の霊のよって神のひとり子を身ごもり、産道が傷つくことなく出産した。以後も男性と交わることなく、死後神に召されて天に昇った。マリアは原罪から解放された最初で唯一の女性であり、原罪を犯したエバの対極をなす、すべての女性が鏡とすべき存在であり、キリストの民の共同体たる教会の母である。
また、マリアは、やがて再臨する息子イエスが執り行う最後の審判で助言あるいはとりなしをして、虐げられる者や罪深き者に救済をかなえてくれる哀れみ深い守護聖人である。修道女は、マリアのように純潔を通し、清貧を旨として祈り暮らすなら、最後の審判で「我が母である」とみなされて、救済にあずからせてもらえると信じている。カトリック教会によれば、マリアは人間だが、救済にあずかって昇天し天国に入った唯一の人間で、しかも天使より上に立てられているという。
一方、マリアは多神教の女神たちがもつ職能も帯びていて、安産の神であり、家の守護神であり、愛の神であり、女性のさまざまな願い事を聞いてくれる神としても崇拝されている。
②新約でのマリア
・公定マリア像とかみ合わない記述
キリスト教の根本教義書である新約聖書は、マリア信仰に言及していないばかりか、公定マリア像とかみ合わない記述がある。
新約の中で母マリアに言及するのは4つの福音書と使徒行伝だけで、書簡類にはない。言及している福音書にしても、マリアは宣教する息子のことを気がふれたとみなして、イエスを取り押さえようとし(『マルコ』3章21-31節)、イエスは連れ帰ろうと戸口に立つ母を尻目に、帰依した女性たちを指して「この中にこそ私の母がいる」と口にし、マリアを母ではないと拒絶している(『マルコ』3章24―35節)。
・処女懐胎の記述がない
神の子教義にとって重要であるべき処女懐胎を、『マルコ』と『ヨハネ』は記していない。『マタイ』と『ルカ』にしても、イエスに4人の兄弟と少なくとも2人の姉妹がいたことを記
している。イエスに兄弟姉妹がいたということは、マリアの処女性を著しく傷つける記述であるため、古来カトリック教会は、兄弟ではなく従兄弟のことであると説いてきた。当時のパレスチナ地方の標準語アラム語では、兄弟と従兄弟の区別がなかったからである。
福音書の原典はギリシャ語だが、ギリシャ語は兄弟と従兄弟を異なる単語で書き分ける。現行福音書のうちで最古のものとされる『マルコ』(60年代)は、ペテロの通訳マルコがイエスを直接知るペテロから聞き取った情報を執筆したものとされている。とするなら、マルコはイエスの家族構成を知っていて、兄弟姉妹の存在をギリシャ語で記したのではないか。アラム語から訳したものではない『マルコ』から、カトリック教会の説明は不適当ということになる。
『マルコ』よりも古く、新約の1⁄3を占めるパウロの書簡ではマリア信仰が全く言及されていないため、60年代にはマリア信仰はなかったと想定される。
イエスが神の子とされたのはパウロが活躍していた時代とされ、パウロは書簡の中で、イエスは復活して天の神の右にあげられて初めて神の子とされた(ローマ人への手紙1章4節)、つまり養子にされたと認識していた。パウロがこう考えていたとみなすなら、イエスが御子となるのは死後であり、生前は人間であり、マリアも人間イエスを生んだ母に過ぎず、尊崇される必然性はない。
死後神の子となったというパウロの考えはのちに教会によって否定されるが、パウロの死の前後頃に成立したとされる『マルコ』も、イエスを神の子と暗示しながら叙述している。
・教会人によって加筆改竄された処女懐胎伝承
70~80年の成立とされる『マタイ』『ルカ』には、処女懐胎伝承が記されている。神の霊によって妊娠したイエスは純粋に神の子であることを意味し、マリアは神を生んだ母となる。
このことから、70~80年までにマリア信仰が成立したのではと想定されていたが、現在では、両書の処女懐胎伝承は後世の教会人によって加筆改竄されたものとみなされている。『マタイ』(1章18~5節)の部分は、もともと天使が父ヨセフに「マリアなる乙女と結婚せよ、そして生まれた子をイエスと名付けよ」と命じているだけのシーンであったという。これに「マリアが婚約時代に聖霊によって妊娠し、それを知ったヨセフは離縁しようと思い悩んだ。それを天使がたしなめた」といった内容の文言と、「ヨセフはイエスが生まれるまでマリアと交わらなかった」という文言が加筆されることによって神の子受胎シーンに変じてしまったという。
また、イエスが父ヨセフの種でないという認識が一般的だったなら、ヨセフを実父とする男系の系図が作成されるはずがない。(『マタイ』はヨセフを養父とする)
③1世紀末に始まり、2世紀に広まるマリア信仰
・イエスが神の子とであるとされたことに伴ったマリア信仰
70~80年頃、一群の教会で、イエスはヨセフの種ではなく、神の養子でもなく、純粋に神の子であるという教義が公定されたと同時に、マリアは神の子を産んだ母に昇格し、再臨して審判を執り行う息子にとりなしをしてくれる特別な方であるという信仰が芽生え、広まっていったと考えられる。しかし、当時の教会軍は統一されてなかったので、多くの教会はこの教義を拒絶し、依然として養子としての神の子教義も盛んだった。
「ヤコブ原福音書」(2C)に、マリアの処女懐胎伝承が詳細に記されている。また、イエスが育ったナザレ村の教会の地下室跡から「マリア万歳」(推定2C)という炭による落書きが発見されている。この2点から、2世紀にはマリア信仰が芽生えていたこと、『マタイ』『ルカ』への加筆もこの頃ではないかと考えられる。この段階ではのちのマリア信仰のような神性はうかがえないが、神の子の聖母となったからには、マリア信仰の核である、最後の審判のために再臨する息子イエスに救済のとりなしをしてくれる、だからマリア様におすがりしようという信仰が芽生えていたと考えられる。
・ラビ問答〝姦婦マリア〟
「ミシュナー」(70~200年)のラビ問答(95年頃)に、〝姦婦マリア〟伝承がある。これによるとマリアは愛人と姦淫して私生児イエスを生んだことになるが、イエスが人間の種ではないと否定したことに対して作られたデマと考えられる。これが本当なら、律法破りの姦淫の子としてイエスは会堂に入れてもらえないし、姦淫の子のくせに律法を論ずるなと罵られて、原理主義者のパリサイ人や律法主義者が相手しなかったはずである。ところが、イエスを狂人、大食漢、大酒飲み、悪霊憑き、神を冒涜するものと中傷するどの福音書にもそういう記述はない。
姦淫の子イエス、マリア姦淫伝承は、キリストの敵とされたユダヤ人の反キリスト論のよりどころとされ、敷衍されて伝えられた。イスラム教の聖典「コーラン」も、イエスをマリアの子と呼称し、父ヨセフには言及していない。教祖ムハンマドの活躍したアラビア半島西岸地方には、ユダヤ教がかなり広まっていたとされるので、その影響によって形成されたイエス観と考えられる。
④廃絶された女神たちを包含したマリア
・女神イシスとの同一視
3~4世紀、マリアが一気に神性を帯びる。
豊穣と不死もつかさどる女神イシスへの信仰は、エジプトの民衆だけでなく、ローマ時代、北はゲルマニア、ガリアから地中海全域、西アジア一帯に広まっていた。キリスト教は異教徒を改宗させるために、父なる神の子イエス、母マリアの関係を、うまく符合する女神イシス、夫神オシリス、子ホルスの関係を使ってわかりやすく説明した。イシス信仰を取り込んだ布教で、キリスト教は爆発的に拡大。ことにイシス信仰の故郷・エジプトでは旺盛をきわめ、イシス=マリア信仰の要素が濃いことから、キリスト教と区別して「コプト教」と呼ばれるほどだった。
そして、拡大するにしたがって、マリアは子神の母というより、女神イシスそのものだと信じられ、神性を帯びるに至る。そして、幾柱のギリシャの女神たちとも同一視され、あるいは習合した。
決定的な変化をもたらしたのは、4世紀末のローマ帝国国教への昇格。神々のすべての神殿が閉鎖を命じられたが、エジプトのイシス神殿だけはマリアの神殿として除外された。東ローマ時代、皇帝はその祭典を支援し、巡礼を公認したほどだった。
こうして廃絶された数多くの女神たちの職能は、イシス改めマリアのもとに収束されることになり、マリアはすべての女神の職能を帯びた実質的な大女神に昇格するに至った。
・信仰では女神、教会の教義では人間
現実の信仰では、マリアは実質的な大女神となったが、諸教会の公式教義ではあくまで人間の女性だった。もしマリアを神とすると、イエスの父なる神ヤハウェの唯一絶対性を侵すことになるからである。そのため、マリアを女神扱いするコプト教は、やがて禁圧される。同じように、一群の教会では、イエスは神として崇拝されるに至っていた。
⑤天上界で神に順ずる存在に
教義上、4世紀に入るまで、養子としての神だとする教会勢力と、イエスを神とする教会勢力との相克が続いていた。325年、ニケーア公会議の結果、イエスは公式に父なる神の子神と教義づけられ、教義の統一を通じて、ほぼすべての教会が名目的には統一される。これによって、全教会の公式教義に、マリアは神の母であるという教義を加えようという動きが促進され、それに反対するネストリウス派が蹴落とされて、421年のエフェッソス公会議で公定された。
・〝聖人〟として崇拝の対象
それでもマリアは、教義上では女神とされることはなく、神学上、子なるロゴス(言葉⁄想念)を人間イエスに変換させるために神から特別に選ばれた人間とされ、そのことから、原罪を初めて許された人間、救済された最初の人間であるという解釈が生み出され、それゆえ、原罪から人間が知った性交など経験することのない最初の女性であり、永遠の処女とされた。(19世紀、カトリック教会の教義と公定)マリアは〝聖人〟として崇拝の対象と公認され、神の母なる称号に実態が与えられた、言い換えれば、名目上は人間だが、実質的に大女神の実体を得た。
この結果、すでに3~4世紀には帝国東方の教会で典礼に取り込まれていたマリア讃歌や、「救いたまえ、聖母よ」といった聖母祈祷が、6世紀に入る頃から西方の教会でも続々と作成され、典礼に加えられるに至った。5世紀以降、西ローマ世界でもマリアの名を冠した教会が建てられ、マリアの祝日が公定され、マリア像が作られるようになった。
・マリア昇天
同じようなプロセスで、マリア昇天という新しいマリア認識が興隆する。神の母たるマリアは救済にあずかっているのだから、死んで肉体が腐敗することはない、それゆえイエスに続いて昇天したはずだというものである。この解釈から、マリアは天上界で天子の上に君臨する存在、つまり神に順ずる存在だとみなされるに至る。(20世紀、カトリックの教義と公定)
このマリア観から、それまで女神イシスの延長として効果をそう期待するわけではなかった守護神的な信仰形態が、マリアに祈願すると、単なる神の使いに過ぎない天使以上に奇跡的な効力が期待できるという信仰を生む。
⑥イエスの機能を侵す〝天のマリア〟の存在
聖人としてではあるが、教義的に統一された諸協会によって崇拝の対象とされると、マリア信仰はひとり歩きする。1世紀末頃、再臨した息子イエスに救済ないし執り成しをしてくれるという信仰が芽生えていたが、中性に入と、聖母マリアにすがりさえすれば救済にあずかれるという救世主マリア教とすら言える信仰が生まれた。
これは、イエスがかつて審判者たる父なる神に助言する、取り成すだけの職能から、やがて神の職能を奪ってイエス自身が審判者に昇格してしまったのと同じように、マリアが息子の審判の職能を侵したことを意味する。ここに、マリアは共救済者、救済協働者、女性仲介者、寛大なる同伴者と呼ばれるようになった。こうして12世紀前後から、十字架に懸けられたイエス像に並んで、あるいは代替として、マリアの優位性をイメージさせる「幼児イエスを抱く聖母マリア」像が教会堂に置かれるに至る。この像は、ホルスを抱く母神イシスの象などをモデルにしており、東方の諸教会で早くから作成されていたという。
⑦宗教改革で天の女王を退位させられたマリアと、通俗的マリア尊崇の時代
・マリアにとって不毛の1世紀(18世紀中葉~19世紀中葉)
1517年に始まる宗教改革で、ルターは、宇宙の帝王と化していたイエスを退位させたが、その神的職能は否定しなかったが、マリアからはいっさいの職能を剥奪した。マリアは神の恩寵によって神の母とされたのであって、ただの人間に過ぎない。イエスを懐胎したことだけは賞賛に値するが、その他の如何なる冠も許されるべきものではないと、徹底したマリア礼拝の根絶を唱えた。イエスの職能を侵す救済の助言者、協働者といったマリア観は、キリスト教本来のものではないと考えたからである。その結果、プロテスタント諸国において、マリアに冠せられていた「慈悲の女王」「我らが生命、喜び、希望」「天の女帝」といったすべての称号が剥奪され、受胎告知など三つの祝日典礼を残して、マリア関係の祝日すべてが廃されることになる。
18世紀に入って、人間の理性を絶対視し、宗教を否定・軽視する啓蒙主義が広まるにおよび、残りのマリア祝日も教会から廃された。
・通俗的マリア尊崇
19世紀にはいると、理性絶対主義の反動として、ロマン派が勃興したことから、マリア信仰は息を吹き返すが、それまでのマリア信仰とは実体が異なった。ロマン派にとってマリアは、カトリック・キリスト教の中の神の母でも教会堂に鎮座する聖母でもなく、恋する若者が憧れる女性であり、封建的なくびきから男女の愛を解放してくれる守護神という形をとった。こうして通俗的で感傷的だが、プロテスタント諸国に新たな形のマリア尊崇ともいうべき状況が出現した。
・顕現するマリアと女性解放
宗教改革に対抗すべく、カトリック教会は、スペイン、ポルトガルなどの植民地に宣教師を送って原住民を改宗させていった(=原住民の隷属化)が、それを逆手に取るような全く新しいマリア信仰が勃興する。
1531年12月、アステカ王国の栄えていたメキシコのグァダループ(トナツィン女神の古い神域だったテペヤックの丘の頂)に、太陽に輝く衣を着た褐色の肌の女性が現れ、貧しいインディオの男に「私はいつの世においても処女マリアであり、真の神であり・・・、集う者らの王であり、天土地との主の母であることを知れ」と告げる。男はマリアの使徒とされ、マリアの意思である、苦しむ者たち、虐げられる者たち、貧しい者たちの解放は使徒を仲介として成就される、マリアからの福音はスペイン人へ告げられるべきであり、インディオが宣教師たるべきだという。
これは誇り高きアステカの末裔たちのプライドをくすぐり、マリアは植民地の民衆解放のシンボル視され、見事にアステカの女神とマリアが習合されたのである。白人の神父たちは、マリア信仰の名のもとに宣教されるこの民衆信仰を押し止めることはできず、200年後、カトリックの本山バチカンの承認するところとなり、マリアはラテン・アメリカの守護聖人と宣言された。現在でもグァダグループはマリア顕現の地として世界中から巡礼者を集めている。
マリア信仰は大地母神的なものを内抱することもあって、広くさまざまに受け入れられたと同時に、各地域で変貌する。ラテン・アメリカではインディオと同じ肌色をした〝褐色のマリア〟、日本では〝マリア観音〟と化した。
このマリア信仰は20世紀に入ってラテン・アメリカで解放の神学を芽生えさせ、さらにアメリカ合衆国で女性解放の神学を発生させる。それまでカトリック教会は、マリアの処女性(=男への従属の象徴)を前面に出して教義化していたが、マリアの母性(=父権性を相対化)が前面に押し出され、マリアの母性は神学上、女性解放理論の基盤となったのである。女性解放の神学は、聖母マリアに対する視点の転換によって可能になったのである。
・「マリアの昇天」「教会の母」を正式な教義に
マリア信仰などを拠り所とした民衆の解放気運は、バチカンを受身、守りに立たせる。バチカンは時代に逆行する形で1917年、マリアが顕現したというポルトガルのファーティマ村の奇蹟を公認し、中世においてすら教義化されなった「マリアの昇天」を1950年に正式な教義として公布。1964年にはマリアを「教会の母」と宣言し、1987、88年をマリアの年と定めた。
このような、マリアを天使の上にまで高め、教会の頂点に鎮座させる時代錯誤とも言える動きは、マリア信仰のもつ新たなエネルギーを取り込んで教勢の保持をはかろうという焦りを如実に表していると言える。
◇黒マドンナ・・・・・・黒い聖母崇拝
マドンナ(聖母マリア)と赤子のイエスを象った神聖像で、マドンナの肌は黒き描かれている。主にブラックウッドか黒檀、黒く塗った木材に彫刻を施した。石に彫ったり、鉛で鋳造したものもあり、絵画、フラスコ画、イコンにも黒マドンナを描いたものもある。
マドンナ信仰は、そのイメージが確立された中世ヨーロッパに花開いた。黒い聖母崇拝はマリアとイシスに関係している。黒い聖母の像がある教会の大半は、古代のイシスの神殿跡に建っている。
像はヨーロッパのいたるところで発見されており、特にフランスに多く、その数は300以上にのぼる。スペインは50以上、ドイツは19、イタリアには30.黒マドンナ像もしくはそれを祀った聖堂は、ロレート(イタリア中部)、サラゴサ(スペイン北部)、ロカマドゥール(フランス南西部)、モントセラト(スペイン北東部)、グアダルーペ(スペイン中西部)あるいはフランス中北部のシャルトル大聖堂の「大地に眠る我らが貴婦人」やポーランドの「チェンストホーヴァの貴婦人」などが有名。
o黒色について
白いはずの聖母マリアや赤子の肌が黒く描かれていることについては、黒マドンナの聖堂のほとんどが古代異教徒の土地にあることから、古代の女神崇拝が形を変えて続いているとするものがある。エジプトの女神、イシス、ローマの女神、ディアナ、アジアの神格、キュペレー(豊穣と多産を象徴する大地の女神)、イナンナ、イシス、キュベレ、アルテミスなど多くの女神は、黒い肌に描かれていた。
初期のキリスト教における聖母子像の原型となったのは、古代エジプトの女神イシス(オシリスの妹であり妻)がその聖なる子ホルス(光の神)を膝の上に置く姿。イシスとオシリスを祭る典礼の詩は、旧約聖書の雅歌とよく似ており、完全に一致する語句もある。地中海沿岸の古代文明に共通する二元論の世界観に基づき、月や大地の女神は、その女性的な性質が太陽(男性)と対置され、暗い色で表現された。
イシス信仰は地中海文明において広く支持され、キリスト伝説が古い異教徒たちを駆逐したときでさえ、聖母マリア像にイシスの肖像画や装飾的衣装の影響があった。両者はともに「海を照らす星」「天界の女王」と呼ばれ、三日月の上に立つ姿に描かれ、あるいは頭上には星がまたたき、あるいは母と子として描かれた。
イシスはまた、マグダラのマリア崇拝にも関連する。地中海州変異50ものマグダラのマリア信仰の中心地があり、そこには黒マドンナを祀った聖堂も含まれる。多くの黒マドンナ伝説は、その像が地下に安置されていることから、秘密や隠された側面を秘めている。特に豊穣と癒しの分野において非常に強力な霊力がると信じられ、偉大な知識の宝庫でもあり、魔術と密接に結びついているとも言われてきた。黒マドンナ像を擁する土地ではその信仰が爆発的に広まり、今日でさえ黒マドンナの聖像は崇敬と巡礼の旅が行き着くよりどころになっているにもかかわらず、ローマ教会は伝統的に黒マドンナとその崇拝を歓迎しない立場を貫いてきた。
黒マドンナは女神崇拝、マグダラのマリア、テンプル騎士団などに密接に関連する。
◇マグダラのマリア
新約聖書は、マグダラのマリアの名は12回登場する。旅をする一行に同行し、イエスの磔刑を見届けたごく少数の信者の一人であり、イエスの体が墓におさめられるのを見届け、3日後に復活したイエスに初めて会った。イエスは、自分の復活を弟子たちに知らせるようマリアに指示する。3つの福音書が一致して、キリストの復活を最初に目撃したとする。
マルコ、ルカ、ヨハネの福音書が、マグダラのマリアとペテロを比較するよう読者をいざなっているように思われる。
- ルカによる福音書では、明らかにペテロのほうが重要視されている。ルカによる福音書だけが、イエスによって7つの悪霊がマグラダのマリアから追い出されたと伝えるが、これが何を意味するのかはわからない。その出来事の後、マグダラのマリアはイエスの忠実な弟子の一人となり、イエスを経済的に援助した。婦人たちの伝えた復活の話は信じてもらえず、主はマグラダのマリアと、マルタの妹マリアを一人ずつ順に遣わした。それでも二人の話が受け入れられないため、主は一人の弟子の前に姿をあらわす。しかも、単独ではなく、二人のマリアを伴ってやってきて、二人が正しかったことを伝えた。
- 『ヨハネ』では、ペテロのほうが見劣りする。マグダラのマリアはイエスとごく親しい者の一人として描かれており、十字架の側にイエスの家族とともに立っていたとされる。
- 『マルコ』では、マグダラのマリアはペテロと同等の位置にいる。また、女性たちが磔刑を見守ったとする。
1945年、エジプトで「ナグ・ハマディ文書」が発見された。これによって初期のキリスト教は、今考えられているよりずっと多様なものであり、イエスに対する見方も様々だったことがわかった。マグダラのマリア、トマス、ピリポによる福音書などの資料からは、マグダラのマリアがイエスの単なる同行者ではなく、重要な弟子として見なされていたことが明らかとなっている。また、二人が極めて近しい間柄だった可能性も読み取れる。グノーシス派のピリポによる福音書は、マグラダのマリアが〝主の連れ〟と呼ばれ、イエスが〝しばしば唇に接吻した〟と記す。
- トマスによる福音書語録114・・・・・・イエスはマグダラのマリアに特別な指導を与えると約束する。マリアを弟子から外すよう要求したペテロに対し、イエスはこう答える。〝彼女を男にするために、わたしがみずから導こう。彼女もあなたたち男と似た魂を持つものとなるだろう。というのも、自らを男にする女は、すべて天の国に入れるからである〟
- ピリポによる福音書第63章34―35節・・・・・・マグダラのマリアはイエスの連れとされ、イエスの母マリアとその姉妹とともに、常にイエスと行動をともにする。
キリストはどの弟子よりも彼女を愛し、しばしば唇に接吻した。ほかの弟子たちはこれに苛立ち、非難の意をあらわにした。弟子たちは言った。「なぜわたしたちよりも彼女を愛するのですか」主は彼らにこたえてこう言った。「なぜわたしは、あなたがたを彼女のように愛さないのだろうか」(接吻には性的な意味はなく、接吻をする者は慈愛を交わすことで再生する)
「ナグ・ハマディ文書」の中に発見されたグノーシス派の福音書の一つ、ピリポによる福音書(コプト語)で、マリアを表すのに使われている言葉「コイノノス」は、配偶者やパートナーを意味するが、イエスとマリアとの婚姻関係については述べていない。数多くの編集や追加を経ている現在の新約聖書では、このことについて言及していない。しかし、マルティン・ルター、モルモン教の大管長ブリガム・ヤングは、イエスとマグラダのマリアとの結婚を信じていた。
oマリアとペテロとの関係
マグダラのマリアによる福音書は、『ヨハネによる福音書』が書かれた約50年後の西暦125年に成立したと考えられている。この中でマリアは、イエスから個人的に受けた教えを男の弟子たちに伝えている。この役割は、四福音書が揃ってペテロに与えている仲介者としての立場を奪うものであり、教会の権威がペテロに遡ることを考えれば大問題。
イエスの3つの重要な瞬間にイエスの側にいたことが、マリアを象徴的な意味での重要人物と位置付けたことは、ペテロがマリアを貶め続けた理由となるかもしれない。マグダラのマリアによる福音書では、激怒したペテロが、〝わたしたちの知らないところで、ほんとうに主は彼女と語り合っていらっしゃるのか〟と言ったと記す。ここでレヴィが、〝ペテロよ、あなたはいつも激しやすい。・・・・・・もし主が彼女を尊ぶべきとなさるなら、それを拒むあなたはいったい何者か。主はまちがいなく彼女を知り尽くしている。だからこそ、わたしたちよりも彼女を愛したのだ〟とマリアを擁護する。
新約聖書は、グノーシス派の福音書のような書を排除する目的で編纂された。初期キリスト教の指導者は、マグダラダマリアのマリアとは関係のないさまざまな理由からこの福音書を異端と見なした。
※ ジェイン・シェイバーグ(デトロイト・マーシー大学の宗教学と女性学の教授)・・・・・・「権力争いが行われたのだろう。今日われわれが手にしている聖典は、勝者が書いたものだ」「これはよく見られるパターンである。力ある女性が、娼婦やみだらな女だったと伝えられることでその力を奪われる」
o聖女か罪人か?
マグダラのマリアが悔悛した娼婦だと長年信じられていた考え方は誤り。
・6世紀(591年)、教皇グレゴリウス1世の宣言
〝ルカが罪深い女と呼び、ヨハネがベタニアのマリアと呼んだ女は、マルコの言うところの、イエスに七つの悪霊を追い出してもらったマリアであると考える。七つの悪霊とは、悪徳すべてを指す。・・・・・・禁じられた行為の際、この女が体に香りを漂わせるために、香油を用いていたことは明らかである〟
ルカによる福音書の〝罪深い女〟は、イエスの足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、その足に接吻して香油を塗った。〝この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる〟とイエスは語るが、他の福音書では、ベタニアのマリア(ラザロの姉妹)、あるいは名前の記されていない女がそれぞれのやり方でイエスに香油を注いでいる。
3人の女性をごっちゃにし、ルカ書第7章と第8章を読み違えたグレゴリウス1世は、これらの女性が同一人物であり、マグダラのマリアが罪深い女で、悔悛した娼婦だったという声明(第三十三講話)を出した。この見解は公式の教義となったが、のちにカトリックから分かれた東方正教会とプロテスタントは受け継がなかった。
(グレゴリウスは、ヨハネという名の人物についても同様の一本化をしている)
・1969年、撤回を表明
カトリック教会は、ミサ典礼書を全面改訂する一環として、ルカによる福音書の罪深い女と、ベタニアのマリア(ラザロの姉妹)と、マグダラのマリアを正式に別の人物とし、秘めやかに撤回を表明した。しかし、それが会衆に浸透するのには時間がかかっており、墓での彼女の役割を伝える福音書の個所は、いまも復活の主日である日曜日のミサでは朗読されない。
今も全キリスト教界で、悔悛した元娼婦というマグラダのマリア像が教えられている。
・キリスト教初期の女性の役割
学者の中には、マグダラのマリアの失墜を男性優位主義者の陰謀によるとする説が勢いづいている。当時、女性が男性の集団とともに旅をしていた、単に一緒に過ごしていただけでも異常だったので、邪推されたとも考えられる。
1994年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、女性司祭について議論をすることさえ禁止し、イエスが男性からのみ十二使徒を選んだのを引き合いに出している。教皇は、マグダラのマリアを〝使徒の使徒〟という古臭い称号で呼んだ。
西暦50年代に書かれたパウロの書簡の中に、教会の執事フェベや、プリスカ、ユニアス(ユニア)といったさまざまな女性が指導者として活動していたとある。パウロは、ローマ人への手紙第16節や12節でも何人かの女性――マリア、ペルシス、トリフォサ、トリファイナ――の名をあげて、献身ぶりを称えている。自宅を集会場や共同生活の場として提供した女性もいるし、初代教会では、執事や仔細にまでなった女性もいた。キリスト教初期の数多くの壁画やモザイク画には、司祭の恰好をした女性が描かれている。
福音書が書かれる以前には、女性は初期キリスト教社会でかなりの指導的立場にいたと思われるが、後世になってから、テモテへの手紙一に書かれた指示に従って、聖職者たちは女性が会衆に説教をする権利を否定した。
oマグダラのマリアの伝承
イエスの磔刑時にイエスの子を宿していたマグダラのマリアは、同行者とともにフランス(当時のガリア)へ、舵のない船に乗って渡ったという伝承が複数存在する。細かい点は異なるが、一行は、舵も櫂も帆もない水漏れする小舟で、パレスチナから逃げ出すほかなかったらしい。
※ 同行者・・・・・・黒人の侍女サラ、ヨハネの母マリア・サロメ、イエスの叔母とされるマリア・ヤコベ、アリマタヤのヨセフ(イエスが葬られた墓の持ち主だった金持ち)、イエスの直弟子だった72人の一人聖マクシミヌス(プロヴァンス最初の司教となる)など。しかし、水漏れする多彩な婦人たちは、一人の女性の別々な側面に過ぎないかもしれない。
舟は、故国で起きた派閥争いの結果、意図的に壊されたと言われている。舟の損傷具合はひどすぎて信じがたいが、マリアとシモン・ペテロが一触即発の情況にあったとするグノーシス派の福音書の記述から、マリアとその一行を海の底に沈めようとする陰謀者の一人は、ほぼ確実にシモン・ペテロと考えられる。
※ グノーシス派の聖典、ピスティス・ソフィアの中のマリアの言葉・・・・・・〝わたしはペテロが恐ろしいのです。彼はわたしを脅し、女性を嫌っています〟
伝承によると、一行は、ローム川が地中海に注ぎ込む大湿地帯カマルグにある、現在のサント=マリー=ド=ラ=メールの町に上陸した。三人のマリアは、沼沢地にそびえたつ大教会で崇拝の対象となっている。教会の地下聖堂には、マグダラのマリアの黒人侍女とされるエジプト人のサラを祀った祭壇がある。現在、サラは、ロマの人々の守護聖人として敬愛されており、その祝日の5月25日には、ロマ(当時はジプシーと呼ばれていた)が大挙してこの町にやってくる。サラの肌の色と、エジプト人が〝黒い〟土地として知られていたという事実には、深い関係があるのかもしれない。
マグダラのマリアその人が聖杯(イエスの血脈を育んだ杯)だとする考えは、1986年のベストセラー「レンヌ=ル=シャトーの謎――イエスの血脈と聖杯伝説」で最初に唱えられた。
oベタニアのマリアと、マグダラのマリアの関係
ベタニアのマリアは髪を束ねず、頭を覆わない姿で描かれる。このような身なりは性の自由を象徴するとされ、古代ユダヤの貞淑な女性たちには考えられないことだった。女性が髪を束ねずに人前に出るとその場で離縁されることさえあったという忌まわしい罪だったのに、ベタニアのマリアは、自分の行動が激しい抗議を呼ぶとは全く考えていなかったように見える。
さらに、イエスのほうも彼女がユダヤ法を無視したのを非難しないばかりか、彼女の行いを批判した者を逆に批判する。イエスの教えや伝道の意味を理解していないと再三叱責されている十二使徒にはこれが理解できない。したがって、ベタニアのマリアも、イエスもよそ者だったのではないか。
香油を注ぐ行為がユダヤ人の習慣でないならば、どこのしきたりなのか。当時、偉大なる女神の代理である王家の女性(または巫女)が、選ばれたる王たる花婿の頭と足(および性器)に香油を注ぐという崇高で神聖な〝聖婚(ヒエロス・ガモス)〟の儀式があった。塗油の儀式はこれではないのか。
聖婚は、イエスの時代の異教社会では珍しくない概念であり、イエスに香油を注いだ女性は特別な人で、なんらかの古代の異教の偉大な巫女だったのは間違いない。新約聖書には、マグダラのマリアの出身地は明記されておらず、ラビ文字からは、ガラリヤ湖畔のティベリア付近にあった可能性が明らかになっている。しかし、エジプトのマグドラムの出身だったとする強力な理由もある。そればかりか、イエスその人が同じ土地の出身だと示す説得力のある証拠まである。しかし、ガラリヤのユダヤ人だとする説があまりにも根強く定着しているため、これが揺るぎない事実と見なされている。
その頃、エジプトには繁華なユダヤ人社会があり、多様な人種、民族、宗教のるつぼである国際都市、アレクサンドリアの巨大な港町の中心に位置していた。ここには洗礼者ヨハネの拠点があり、おそらくイエス親子がヘロデ王の手の者による嬰児虐殺から逃れてきた土地だったと思われる。マグダラのマリアがエジプトの町マグドラムの出身だとすれば、軽視される理由が説明できる。
当時のガラリヤもさまざまな民族や宗教の入り混じった土地ではあったが、よそ者は警戒されていた。福音書からも、伝道をはじめたばかりのころのシモン・ペテロの偏狭ぶりは類を見ない。マグダラのマリアがエジプトの巫女だったとすれば、経済的に自立し、率直にものを言う女性で、異教の重要な位まで持っている彼女に対するユダヤ人男性の敵意は強かったと考えられる。また当時、エチオピアに長年マグダラと呼ばれていた地名があった。(現在はアンバ・マリアム)エチオピア人であれば、間違いなく異国風(黒人)で、シモン・ペテロなどの狭量な弟子たちの心をかき乱したのではないか。
o失われた花嫁(by マーガレット・スターバード)
生命誕生の基本形はただひとつ――〝聖なる結合〟。古代の文化では、親密な男女が助け合い、〝共生〟する関係を礼賛した。・・・・・・タンムズとイシュタル、バールとアシュタルテ、アドニスとヴィーナス、オシリスとイシス、等々。
旧約聖書の雅歌は、オシリスとイシスの〝聖婚(ヒエロス・ガモス)〟の儀式で使われた詩をもとに作られている。王が殺され、その妻が嘆き悲しんで夫を探し、最後には再び結ばれるという神話で、雅歌では、花嫁が身に付けているナルド(甘松。東方の香油や軟膏の原料)の香油が、宴の座で花婿のそばを漂う。福音書でも、マグダラのマリアがイエスに注ぐのはナルドの香油であり、その香りが〝家を満たす〟。(『ヨハネ』12章3節)福音書にあるイエスの塗亜B倉は、古代中東で栄えた豊穣神信仰における儀式を再現したもの。
聖書では、イエスに従う女性たちが列記されている8ヵ所のうち、7ヵ所までがマグダラのマリアを筆頭にあげているが、ファースト・レディの地位はのちに否定される。4世紀の教会指導者たちにとっては、イエスの母親を〝テオトコス(神の母)〟として公式に持ち上げ、妻もしくは恋人は無視するほうが好都合だった。その結果、生命誕生の基本形――愛し合うパートナー同士の〝聖なる結合〟――はゆがめられた。
コリント人への手紙一の第9章5節にあるパウロの言葉に、イエスの兄弟やほかの使徒たちは、〝シスター‐ワイフ〟を連れて歩いている、とある。これは普通、〝信者である妻〟と訳されているが、実際は〝シスター(姉妹)‐ワイフ(妻)〟と書かれている。聖書にはもう一ヵ所、花婿が愛する女性に〝わたしの妹、私の花嫁よ〟と呼びかけ、姉妹と妻が一緒にされている文章が雅歌に出てくる。この言葉は、周囲に決められた結婚の時よりもずっと親密な中であるのを表している。
パウロによれば、使徒たちは男女一組で伝道活動を行っており、男性の二人組みではなかった。これは自分の愛する人を連れて歩いていたイエスを手本をしていたのではないか。その親密さはピリポによる福音書に述べられている通り。
現在のキリスト教徒(特にカトリック)がどう考えようと、当時は生殖を自生するのは神への侮辱と考えられていた。正統派ユダヤ教では今日でもそう考えられている。そのため、聖地の神官やラビは当然結婚するものとされていた。実際、独身主義はユダヤ教長老会からの非難を受けていたし、おそらく、一般の信徒からも性欲の不自然な抑制については文句だ出ただろう。イエスがユダヤ人のラビなら、結婚していないのは極めて異常なことだったはず。
もしイエスに妻がいたのであれば、その名が列記されていなければおかしいが、そのように解釈できるような文言は全く見当たらない。そのような人物は実在しなかったからか、実在はしていても強く嫌悪されていたため福音記者が無視しようとしたのか。あるいは、二人が一般的な意味でのユダヤ人ではなかったために、ユダヤ教会で式を挙げられなかったからだとは考えられないか。
o古代豊穣崇拝の再現?(by マーガレット・スターバード)
初期のキリスト教徒にとって、福音書の女神とは、マグダラのマリアだった。彼女には、〝高貴な〟あるいは〝見張りの塔〟〝砦〟といった意味の添え名がつけられていた。
西ヨーロッパにおけるマグダラのマリアの比類なき地位は、12世紀を頂点にして、13世紀半ばから徐々に低下していった。これはカタリ派と〝愛の教会〟の信者たちを討伐したアルビジョワ十字軍の時期とみごとに一致する。13世紀から盛んになった宗教裁判は、特に南フランスで苛烈をきわめた。聖書を重んじる異端が信者を増やし、ローマ・カトリック教会による支配を脅かしていたからである。フランス王と手を組んだ教皇は、アルビジョワ派に対する十字軍を組織し、数十年に及ぶ血なまぐさい戦争によって、ラングドック地方に花開いた文化を町ごと滅ぼした。
同じ頃、かつてはマグダラのマリアに与えられていた美しくも重みのある添え名は、聖母マリアのものとなった。〝われらの母〟のために与えられた教会も、うわべはイエスの母を讃えるものに変えられた。マリアの彫像や肖像画も多く作られ、そのほとんどはイシスとホルスの像を髣髴させる、子供を膝のうえに抱いた姿をしていた。13世紀半ばを過ぎると、事実上〝花嫁の声〟は絶えたが、ヨーロッパの石工たちは信仰を守り、自分たちの建てたゴシック様式の大聖堂の石にその象徴を残したと言われている。
◇女神崇拝
紀元前3万5000年にまで遡る女神崇拝は、世界最古の宗教と考えてよい。この頃出現したクロマニヨン人の手によって、初めて女神をイメージしたらしい形象やアートワークが生まれた。すべての事象の母として生まれた女神図案の進化と発展の跡は、中東やヨーロッパ、さらにはヒンドゥー教が女神崇拝をより高い精神基準に持ち上げたインドにも広く見られる。旧約聖書の時代、女神崇拝は聖地でごくあたり前のように実践され、特に尊ばれたアシュラ(フェニキア人やカナン人が崇拝した女神)は、いくつかの伝説の中ではヤハウェ(エホバ=ユダヤ教の絶対神)、もしくはそのものの配偶者とされているほど。当時、より著しい父権社会の台頭によって女神崇拝・尊敬を抑圧する計画的な運動があり、神、王、聖職者、父が女神、女王、女性聖職者、母にとって代わった。女性の服従はユダヤ=キリスト教の教義によって徹底されたことを強調しつつ、キリスト教会が女性聖職者を選ぶようになったのは、近代に入ってから。イスラム教においても女性蔑視が横行し、イスラムの至高の神、アラーの原型は女神アラルートとともにあり、彼女が祀られていたメッカのカーバ神殿はイスラム教徒のためにムハンマド自身の手で不当に奪われたという研究もある。
中世のヨーロッパでは、何千人もの女性が魔女のそしりを受けて火あぶりにされた。この反女性粛清運動は、改めて女性の独立と力の台頭を抑圧するためのもので、勢いを取り戻しつつあった女神崇拝を屈服させる意味があった。
◇魔女狩り
(by「世界の宗教101の謎」21世紀思想研究会編集、河出書房新社)
プロテスタントの拡大に対抗して、カトリック内部にも対抗改革の動きが起こる。その頂点とされる、1544年から3回開催された「トリエント公会議」では、カトリックの教会の聖書解釈のみが唯一是っていであると宣言され、その教義に離反した人物や集団をすべて異端として迫害・弾圧する「異端審問(宗教裁判)」が開催されるようになった。異端審問はすでに13世紀から行われていたが、トリエント以降はこれが激化。とりわけ魔女狩りは陰惨を極めた。
一神教であるキリスト教では、悪罵や悪霊に対する敵対意識が強く、そこに教会が「呪術を行う女(魔女)は生かしておいてはならない」(「出エジプト記」22章18節)という旧約聖書の一説を利用してキャンペーンを張ったため、魔女狩り旋風はヨーロッパ全土を巻き込んでいく。
虐殺された魔女は、200万~数千万人ともされ、魔女であると告発されれば必ず処刑され、密告・謀略も横行し、罪のない者までもが犠牲にされた。
<エキュメニカル・ムーヴメント(教会一致、世界教会運動)>
長い歴史の中で分立し、さまざまな対立さえ生み出してきたが、各派バラバラの海外伝道による混乱への反省と、過去二度の世界大戦を平和に導けなかった反省から、各派は信仰において一致して現代社会に対処しようとする運動。
1948年、アムステルダムで「世界教会協議会」(WCC)結成。
1961年、ニューデリーの会議で、ロシアと東方の正教会が加盟。
1962~65年、第二ヴァチカン公会議以来、ローマ・カトリック教会も参加。
<欽定訳から、新国際訳へ>
英国王ジェームズの時代(1622年初版)にできた訳。国王・議会・教会が承認した訳ではないが、非常に優れた訳であったため、そうそのとき以来呼ばれるようになる。300年余り英語を話す世界を支配する「聖書」となった。 その後、私訳、試訳も含めてあまたの訳が行われたが、現在はアメリカで刊行された新国際訳(NIV)を中心としている。
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