- 五芒星(形)
五芒星は、本質的に五つの角をもつ星形。五線星形とも呼ばれ、多くのキリスト教徒にとっては黒魔術の象徴と受け取られているが、もともとは魔除け、あるいは神聖な幾何学記号で、起源は少なくとも古代ギリシャ。「ペンタグラム」は古代ギリシャ語で「五つの線」を意味するが、このシンボル自体はもっと古い時代にも使われていた。紀元前3000年頃の古代メソポタミアに起源をもつものと思われ、当時は、天体や星を意味した。エジプトでは、円に囲まれた五つの角のある星形は、エジプトの神話と象徴主義における冥界のしるしだった。
キリスト教伝承において、五芒星はかつて、キリストの五つの傷、つまり聖痕を意味した。ピタゴラス派にとっては、五つの角は古典的五元素「火、土、空気、水、思考(あるいは神聖なもの)」を意味し、五芒星の中に数学的完全性を見出し、その線に、1.618の黄金比が隠されていることに気づいた。黒魔術や悪魔の所長主義では五芒星は裏返しにされ、角が下にきて、その形からバフォメットの頭を表すという。五芒星が悪魔の象徴として用いられるようになったのはかなり新しく、古代には前例も関連する例も見られない。
ヘブライ伝承では、五芒星はモーゼが書いたとされる旧約聖書の冒頭の五書と結び付けられていた。また、五芒星は史料によって「ソロモンの星」あるいは「ソロモンの封印」としても知られ、アラブの伝統的魔術や儀式、ユダヤ教の儀式でも用いられている。
- テンプル騎士団
テンプル騎士団は、最古の武装修道士の集団。1182年、フランスのシャンパーニュ出身のユーグ・ドゥ・パイヤンという騎士と8人の仲間が、エルサレムを支配する総大司教の前で永遠の誓いを立て、結成された。原則として彼らは施し物で生活し、キリストの清貧騎士団と呼ばれていた。しばらくして、騎士たちはシトー会に由来する有名な先の広がった十字架を縫い付けた白い外套をまとうようになる。パテ十字はテンプル騎士団に特徴的な紋章。二重十字架はテンプル騎士団の十字架の変形。
※ キリストの騎士たち・・・・・・テンプル騎士団と同じ時期、病人達のために働く別の修道士たちが、聖ヨハネ騎士団またはホスピタル騎士団と呼ばれる騎士修道会となった。この騎士団もテンプル騎士団と同様に軍事的なものだったが、11世紀から病人の世話をしてきており、イスラム教徒の対するキリスト教徒の戦いに戦士を供給しながら、病人の世話も続けた。ホスピタル騎士団は、本拠を地中海地域に移して、イスラム教団との戦いを続ける。
1198年に騎士修道会となったドイツ騎士団は、ヨーロッパ東部に移り、スラブ人をキリスト教に改宗させるために戦った。
当初、彼らは第一次十字軍後にヨーロッパから聖地エルサレムに押し寄せた新しい巡礼者たちを異教徒から守るべく活躍したが、まもなく騎士団は自分たち自身の権利を守り基盤となり、いかにも厳格な修道規則にもかかわらず、多くの人々がこの新しい団体に入団した。この頃、教会は同騎士団に対して非常に好意的だった。その財産は税を免除され、あらゆる種類の特権が与えられた。このことから、一部の教区付き聖職者の反発も高まっていく。
名前の由来は、その歴史的な本部がエルサレムの神殿(テンプル)の丘にある岩のドームに置かれていたこと。多くの人がこの場所はソロモンによって建てられた伝説のエルサレム神殿の跡地であり、そこに財宝(契約のアークか?)があると信じていた。テンプル騎士団はシトー会の実力者・クレアヴォ―の聖ベルナールの庇護を受けた結果、権力や権威を得、事実上、ヨーロッパから中東を股にかけた広い範囲で財産を所有するようになる。最古の国際的銀行システムの一つは、この騎士団によって確立された。
ところが、騎士団は悲劇的な破局を迎える。1307年10月13日、フランス在住のテンプル騎士団の大半が突然、フィリップ4世(端麗王)によって逮捕され、多数が拷問や処刑に見舞われた。奇襲はこの日の明け方同時刻にかけられ、日暮れまでに15000人が捕縛された。
※ キリスト教で、13日の金曜日が不吉だという概念の起源はこの事件。
騎士団に対してなされた告発の数々は、どぎついものだった。キリストを否定し、その像に唾を吐きかけ、互いに騎士団の冒涜的な儀式に従って人間の尊厳を辱める接吻(肛門や臍や口へ)をしあった、さまざまな男色行為に関与した、偶像を崇拝しているなど、秘密主義で儀式に取り憑かれているという風評が流れた。
自身の成功におぼれたテンプル騎士団は、その権力と地位がローマ・カトリック教会の一部にただならぬ不興を買い、最終的な破滅を招いたことと、フィリップ端麗王が彼らの銀行システムとネットワークを手中に収めたいと考えたことが、彼らを崩壊に導いた(騎士団解散)。
フィリップ4世は、法王クレメンス5世に圧力をかけ、法王はキリスト教世界のすべてのテンプル騎士を逮捕するよう命ずる大勅令書「パストラリス・プレエミネンツィエ」(1307年11月22日付)を発布する。迫害はイングランド、スペイン、ドイツ、イタリア、キプロスにおよび、1312年には、騎士団の弾圧を公式に認めるもうひとつの大勅令書を発布。この間、数千人に上るテンプル騎士団が残虐な拷問や審判に委ねられ、多くの騎士が火刑に処せられ、財産を没収された。
しかし、ポルトガルとスコットランドでは当時の政治社会情勢も手伝って、ほとんどのテンプル騎士は迫害を免れた。これらの国々では、いろいろな偽装をしたうえで騎士団は存続する。
1318年、テンプル騎士団は新たな名のもとに、「イエス・キリストの民兵」(キリストの騎士たち、キリスト騎士団)として生まれかわり、ポルトガルのテンプル騎士団の所領や資産はすべて、そのままキリスト騎士団に属することになった。そして1319年、キリスト騎士団は法王ヨハネス22世の承認を受ける。
また、フリーメイソン最古の集会所スコットランド・ロッジ(キルウィニング)であり、スコットランドの秘密裏に存続した騎士団がフリーメイソンになったと言われる。
騎士団解散後、彼らがテンプルの丘の下に莫大な財宝を発見したのではないかという憶測は絶えず、本や文書が詰まったたくさんの櫃が繰り返し登場する話がある。それらは騎士団の壊滅前後にフランスからひそかに運び出されたとされ、多くの人がその目的地はイングランドかスコットランドだったとする。彼らがテンプルの丘の上に莫大な財宝のみならず、契約の櫃とそのものを発見したという説も多い。
- 聖杯
聖杯とは、キリストが最後の晩餐で用い、アリマテアのヨセフが十字架に架けられたキリストの血を数滴受けたカップとされる杯。
中世ヨーロッパ文学であるアーサー王伝説の中心的主題の一つで、その杯で飲む者を不老不死にすると言われるが、後世さらにオカルト的意味が施され、キリストを刺したとされる「ロンギヌスの槍」の二つを合わせて手にした者は、地上世界の王となるともされた。
フランスのシャルトル大聖堂には、中央柱間の主題となっているメルキゼデク像(旧約聖書の祭司にして王)がある。あるガイドブックのその写真には「テンプル騎士団員にとって聖杯は石であった」とあり、聖杯はカップではなく、石(契約のアーク?)の可能性もある。中世期、処女マリアが契約のアークや聖杯にたとえられることは多かった。
また、モーセの十戒を刻んだ2枚の石版が納められていた「聖櫃(アーク)」(契約の箱)を所持する者は、神のパワーが得られるとされた。聖書をはじめとする古代の文献には、契約のアークは閃光を放ち、有毒な雲を発生し、イスラエルの敵に悪性腫瘍や致命的な火傷を負わせ、山を崩し、川をせき止めるとされている。アークについては、石板ではなく、隕石だとする聖書学者もいる。
また、ヨーロッパ文学に聖拝伝説がはじめて登場した12世紀の詩人たちは、〝聖杯家(グレイル・ファミリー)〟という言葉を使っている。聖杯すなわちsangraalを分けて、sang raalとすると、古フランス語で〝王家の血〟を意味するとして、この説は大いに物議をかもした。この仮説によれば、聖杯は文字通りの杯ではなく、〝王家の血〟であり、マグダラのマリアがそれをフランスの地中海岸へもたらしたことになる。
また、アリマタヤのヨセフが、イエスの血を入れた何らかの容器をフランスへ運んだとする説もある。
- フリーメイソン
フリーメイソンは「自由な石工」の意で、石造建築家のギルドに由来する国際的秘密結社。その伝説的起源は、古代エジプトの密儀宗教、ソロモン神殿の建設にあたった職人など、諸説ある。ドイツの優れたメイソン、カール・フォン・フント男爵は「フリーメイソンはテンプル騎士団を起源とする。それゆえ、めいめいのメイソンはテンプル騎士団なのである」と述べている。
実際にフリーメイソンの名が歴史に現れるのは14世紀のスコットランドで、18世紀に啓蒙思想と結びついて発展を遂げる。象徴によって人類最古の叡智を体得しようとする神秘主義、既成の宗教のようなドグマにとらわれない普遍性、理性によって神に近づこうとする理神論や科学主義などが特徴とされる。ゲーテ、シラー、モーツァルトなどの芸術家との関係、ヨーロッパ王朝下での政治的陰謀、さらにはアメリカ合衆国の独立など、近代政治、近代精神においてフリーメイソンの果たした役割は無視し得ない。
- シオン修道会
数千年の歴史をもつ秘密結社。シオン修道会の真の目的解明は不在だが、メロヴィング王朝の血統がイエスとマグダラのマリアの子供たちから伝わる名残であり、シオン修道会の目的がその聖なる血脈を守ることだったとされるが、この存在はとらえどころのない謎として残っている。今日、シオン修道会について得られるほどんどの情報が、何らかの形で、最終的に修道会総長および渉外担当に選出されたピエール・プランタール(1984年辞任)によって画策されたものらしい。シオン修道会が生み出した文書はたいてい、なぞめいた二重の意味を持つ言葉と、高度な内輪向けジョークを用いている特徴がある。それが多くの聖杯マニアの好奇心を刺激した。
シオン修道会の保管文書「ドーシアーズ・シークレッツ」に記された公式史によると、同修道会は1090年に聖地で創会され、創立者ゴロフロワ・ブイヨンは1099年、エルサレムを確保したとある。エルサレムが十字軍の前に陥落したあと、ゴロフロアはエルサレムの嘆きの壁の外、シオン南方にあった古代ビザンティン様式教会の廃墟跡に大修道院の建立を命じた。
修道会文書によると、1118年のテンプル騎士団創生にも密かにかかわって、修道界の軍隊および対外行政部隊として活動したらしい。シオン修道会とテンプル騎士団は相互協力の下に機能したが、深刻な意見の食い違いから、1182年、公式に袂をわかった。シオン修道会はその時点から地下に潜り、レッド=クロス・ヴェリタス修道会、またはコードネーム「オルムス」を名乗って密かに活動を続けたという。一説には、後のヨーロッパ史に名を轟かせることになる「バラ十字主義」なる秘密結社活動の起源はここにあったとも言われる。
シオン修道界の歴代ナヴィゲーターは特定の家族の血脈に沿ってリーダーシップを譲渡する暗黙の了解があったが、のちにこの地位は影響力の強い芸術家、科学者などのヨーロッパ史に刻まれた才人たちにも受け継がれている。・・・・・・レオナルド・ダ・ヴィンチ、アイザック・ニュートン、ヴィクトル・ユゴー、ジャン・コクトーなど
- 守護聖人
カトリックやギリシャ正教では、個人、職業団体、都市、国などがそれぞれ皆、ある特定の聖人が自分たちを守ってくれていると信じている。それが守護聖人と呼ばれるもの。
キリスト教は一神教なので、聖人に祈るというのは本当はおかしいが、聖母マリアの場合と同じように、聖人にすがると神様にとりなおしてくださるという神学論が考え出された。聖人崇拝は自然発生的に始まり、それを後から教会が追認し、さらに列聖という手続を整えて制度化したと考えられる。
守護聖人の例としては――イギリスの国の守護聖人は、「セインド・ジョージ(聖ゲオルギオス)」。ヴェネツィアの都市の守護聖人は、「聖マルコ」。大工たちの守護聖人は、大工だった、マリアの夫の「聖ヨセフ」。画家たちの守護聖人は、画才があり、マリアの像を始めて描いたと伝えられている「聖ルカ」。
個人については、自分の洗礼名と同じ名の聖人。例えば、ドイツ語でヨハンという洗礼名の人の守護聖人は、「聖ヨハネ」。昔は、自分の誕生日と同じように、あるいはそれ以上に、自分の守護聖人の日にお祝いをした。これを、聖名の祝日という。
今でもギリシャでは、誕生日ではなくて、聖名の祝日に親戚や友人を招いて盛大にお祝いをする。
- 聖遺物崇拝
聖遺物崇拝とは、上は、イエス・キリストや聖母マリアの異物から、下は、聖人の遺骸に至るまで、そこに霊力が宿っていて、危難から救ってくれたり、病気を治してくれたりすると信じること。聖遺物崇拝は、聖人崇拝と表裏一体をなしており、中世のキリスト教は、これらを抜きにして考えることはできない。
イエス・キリストについては、生まれたときに寝かされていた飼い葉桶、生後8日目に割礼を受けたときに切り取られた包皮、諸気院前に被せられた茨の冠、十字架に手足を打ち付けるのに使われた釘(聖釘)、十字架(真の十字架)、傷口から流れ出た地を集めたもの(聖血)、右脇腹を突くのに使われた槍(聖槍)など。
いずれもそう信じられているが、本物とは思えない。例えば、「真の十字架」の一片と信じられているものはヨーロッパの各地にたくさんあり、全部集めると家が一軒建つほどといわれる。
聖母マリアも昇天したために、遺骸はない。身に付けていた衣が聖遺物として伝えられている。
聖人は、すごく数が多いため、ランキングがある。生前のイエスに親しく接した十二使徒、マグダラのマリア、ラザロ、マルタその他、使徒パウロ、四福音書記者などは、トップクラスで、彼らの聖遺物と信じられたものは、最高の尊崇を受けた。一般に、聖人については、五体満足な遺骸が一番の聖遺物とされ、遺骸の一部がそれに続く。
- 聖なる遺骸の発見
霊験あらたかな聖遺物が安置されているか否かによって、賽銭の上がりがケタ違いだったばかりではなく、その大聖堂なり修道院なりの格がウンヌンされる有様だったため、どこでも聖遺物の獲得には躍起になった。
既存の聖遺物には限りがあるため、目をつけられたのが、古代の殉教者たち。著名な伝道者で、殉教したという記録は残っていても、墓の所在が分からない者はいくらもいた。そこで、各地で行われるようになったのが、聖なる遺物の発見。
発見縁起の典型――ある夜、某々聖人の霊が、その地の司教の夢枕に立って、厳かに「わが躯はこれこれしかじかの場所にあり。改装して崇めよ」と告げる。司教は恐れかしこみ、3日間断食して身を清め、衆を率いてくだんの場所へ行くと、地下から妙なる光が差している。しかし、この光は司教にしか見えない。早速、地面を掘ったところ、立派な石棺に納められた尊い「聖人の遺骸」が出てきた。
このようにして各地で発見が相次ぐと、同じ聖人の以外が二ヶ所にあるという事態も起こった。
マグラダのマリアの遺骸と信じられているものは、フランス国内に2カ所あり、双方とも自分のところがホンモノだとしている。加えて、両者とも五体満足な遺骸なのに、ローマには別に頭蓋骨だけがあるところもある。
どちらも、自分のところがホンモノだと主張したが、判定を下したのは民衆。病気が治る、手足が動くようになる、敵に捕らえられていた夫や息子が無事に帰ってくるなどの奇跡が、じゃんじゃん起こるほうがホンモノと評価した。
よそから、聖遺物を盗んでくる、あるいは、力づくで強奪してくるといったことも行われた。アッシージの修道院聖堂の地下にある聖フランチェスコの墓が、ものすごく強固な鉄格子で守られているのは、強奪を恐れたため。
中世の末期になると、聖遺物の新しい発見はほとんどなくなり、変わって、毀損の聖遺物の分骨が盛んに行われた。そのため、骨の微小な一片とか、頭髪の数本とかが入っているだけの、小型の聖遺物容器が作られるようになった。
- 聖遺物容器
たいていの大聖堂や修道院の宝物庫には、いくつもの聖遺物容器が展示されている。
大きいのは、人間が中で横臥できるくらい、小さいのは掌に乗るぐらい。形は、ミニアチュアの御堂、石棺、厨子、右腕、その他さまざま。石製や木製もあるが、多くは金属製で、すばらしい彫刻が施されていたり、金銀宝石や七宝で美しく飾られているものも少なくなく、聖遺物容器は中世工芸美術の精華の一つである。
- 七つの大罪
―― 傲慢 嫉妬 大食 色欲 怠惰 強欲 憤怒 ――
キリスト教において、人間が罪を犯す原因となる感情・状態を示したものが、七つの大罪。最初は八つであったが、教皇グレゴリウス1世(590-604)により、〝七つの悪霊〟とは七つの大罪だと考えられ、七つと規定された。
そのもととなったのが、『ルカ』(8章2節)に書かれている、七つの悪霊を追い出していただいた、マグダラの女と呼ばれるマリアとあること。
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