4度にわたる中東戦争で、イスラエルはその領土を拡大していった。パレスチナをめぐる戦いが休息している間に、米ソの冷戦が終結、世界情勢は新たな局面を迎える。
- 第4次中東戦争(1973年)
ヨルダン内戦を調停後、エジプトでは、ソ連よりのナセルに代わってサダトが大統領となった。アメリカの助けで占領されているシナイ半島を取り戻し、イスラエルとの和平を実現しようと考えたサダトは、親米路線に転じる。
しかし、イスラエルは、占領地から撤退してパレスチナ人に自治を認めれば和平協定を結んでもいいというサダトの提案をきっぱりと拒否。そこでサダトはサウジアラビアに、石油を武器に欧米などへ圧力をかける「石油戦略」の発動を要請。ファイサル国王の快諾を受けて、サダトはイスラエルとの戦争を決意した。
1973年10月6日、ユダヤ教徒にとって年間最大の祝日ヨム・キップール(贖罪の日)に、エジプト軍はスエズ運河を越えて、イスラエルの占領地を奇襲。第4次中東戦争がはじまった。
前半戦はエジプト軍が優勢だったが、後半戦はアメリカによる武器支援もあって、シャロン将軍率いるイスラエル軍はスエズ運河を渡って戦局を逆転しかかった。これにより形勢はイスラエルに傾き、シャロンはこの戦争における英雄として称えられた。
サダトはかねてからの計画に従って、停戦交渉をはじめとする戦後処理をすべてアメリカに一任する。OAPECが石油価格を引き上げる決定をして、イスラエルを支持する諸国に大打撃を与え、アラブ諸国に有利な停戦となった。アメリカのキッシンジャーが停戦交渉をまとめ、エジプトはスエズ運河に近いシナイ半島西部と、スエズ湾沿岸の二つの油田をイスラエルから取り戻した。
この戦争によって、アラブとイスラエルとの間には対等交渉の希望が生まれた。1977年11月、サダトは電撃的にエルサレムを訪問、イスラエル国会で演説し、アル・アクサモスクで礼拝する。これをきっかけに翌年9月には、アメリカのカーター大統領が、キャンプデービッドにサダトとイスラエル首相ベギンの両首相を招き、協議の末、合意文書の調印に成功、シナイ半島は返還された。
しかし、この歴史的な和平合意は、エジプト、イスラエルの2国間の平和条約締結の枠組みを定める一方で、パレスチナ問題については、イスラエルの占領体制下でパレスチナ住民の自治を認め、その後の扱いについては改めて交渉するという曖昧なもの。エルサレムについても合意されることはなく、サダトがアラブ側への返還を求めたのに対して、ベギンがこれを拒否するに留まった。そのため、エジプトが単独でイスラエルと和す形になり、サダトの行動はアラブ世界において裏切り者と映った。1981年、サダトは批判勢力のアラブ過激派によって暗殺され、エジプトはアラブの中で孤立していく。
※ ノーベル平和賞・・・・・・キャンプデービッド合意を実現したことで、アウワル・サダトとベギンが共に受賞した。
ここまでのイスラエルvsアラブの対決の背景には、常に、イスラエルを支持する英米仏の西側対、アラブ支持に回ったソ連・中国の東側があった。戦争は、両陣営の代理戦の様相も呈していたが、冷戦が終結した1990年代以降、アラブ対イスラエルの全面対決は避けられ、1979年には「エジプト・イスラエル平和条約」が交わされる。これ以降、国家間の戦争に代わって、イスラム原理主義者によるテロが、紛争の表舞台に登場するようになる。
- インディファーダ
oPLOを追放したイスラエルのレバノン侵攻作戦
イスラエル軍は、シナイ半島から撤退したが、パレスチナの占領地には進駐したままだった。1982年、イスラエルはシャロン国防相の指揮によって、レバノンを活動の拠点とするPLOを壊滅するため、レバノンに侵攻、占領する。この戦闘で約2万人の死者と3万人以上の負傷者が出た。PLOのアラファト議長はやむなく、1万5000人のゲリラと共にアフリカ北岸のチュニジアへ脱出、ここで組織の再建を図る。
イスラエルのもう一つの狙いは、PLOやシリア軍をレバノンから追い出して、親イスラエル政権を樹立するものだった。計画通り、レバノンの次期大統領として、イスラエルに近いバシール・ジェマイエルが選出されるが、就任前、何者かによって爆死する。怒ったイスラエル軍は、治安維持として西ベイルートに侵攻。このとき、近郊のサブラやシャティーラの難民キャンプで、キリスト教右派民兵によるパレスチナ難民大虐殺を見て見ぬふりをした。
※ 犠牲となったのは、老人、婦人、子供を含む1000人以上。
イスラエル軍は、レバノン政府が弱体で、撤退すればPLOの帰還を阻止できないと考え、PLO追放後も南レバノンに駐留しつづけた。これに対して、南レバノンに数多く住むシーア派イスラム教徒を中心に反発が強まる。シーア派の抵抗運動の中でも、特にヒズボラとう組織の抵抗は熾烈で、殉教をいとわなかった。こうした激しい抵抗はパレスチナ人を大いに刺激する。
oアラファトが宣言したパレスチナ国歌の成立
その後、イスラエルが入植地拡大策を推進するが、イスラエル占領地では経済的に自立することができず、次第に輸入が増加、人々の暮らしを圧迫する。ガザ地区やヨルダン川の西岸の経済が停滞し、パレスチナ人の不満は爆発寸前となった。
――イスラエル軍占領地の輸入額(100万イスラエルシェケル)
ヨルダン川西岸地区 ガザ地区 計
1972年 68.4
1973年 89.3
1974年 149.7
1975年 258.1
1976年 345.7
1977年 528.8
1978年 約400弱 786.9
1979年 約900弱 1432.8
1980年 約2000 3381.2
1987年、ガザ地区でイスラエル軍用車両がパレスチナの住人をひき殺す事件をきっかけに、パレスチナ人が大衆蜂起、インティファーダと呼ばれる抵抗運動へと発展した。蜂起は当初、自然発生的なものだったが、やがて東エルサレムにも飛び火し、組織的な運動に変わっていった。1988年には、PLO主流派のファタハを中心に民族指導部が結成される。
イスラエル政府は、激しさを増すインティファーダの抗議活動を容赦なく弾圧した。パレスチナ人の投石による抵抗に対し、イスラエルは実弾で持って臨む。これを見た国際世論は、イスラエルを激しく批判する。そこで、イスラエルは西岸支配をヨルダンの行政から分離する声明を発表。一方、アラファト議長は国連決議242号などを承諾して、武装闘争の放棄とパレスチナ国家の独立を宣言した。
- 湾岸戦争――フセインのクウェート侵攻とアラファトの誤算
o泥沼状態となった、イラン・イラク戦争
1979年、イスラム教シーア派の神学・法学者アヤトラ・ホメイニを指導者として、イラン革命が起きる。ホメイニはアメリカを、イスラム文化を汚す悪魔だとして厳しく批判。急速な西欧化と恐怖政治対する国民の不満が爆発して、パーレビ王政が倒された。
同年、イラクではサダム・フセインが大統領になる。1980年、フセインはイラン革命の混乱に乗じて、イランを攻撃し、イラン・イラク戦争が開戦する。フセインの目的は、1975年にイランに渡したシャット・アル・アラブ川の国境線の回復、アラブ系住民が多く、油田があるイラン内部の獲得、イスラム革命の波及から自国の政権政党バース党を守ることだった。戦いは間もなく膠着状態に陥り、約8年続いた。
イランと国交を断絶したアメリカも、イスラム革命が湾岸諸国に広がるのを恐れ、イラン・イラク戦争の頃からイラクに肩入れし始める。アメリカの支援を受けたイラクの軍事力は急速に拡大、とくに化学兵器や弾道ミサイルの開発が進展した。
oフセイン支持を表明し、世界中の批難を浴びたPLO
イラク・イラン戦争で、大きな人的・経済的損失をこうむったイラクのフセインは、穴埋めのため、1990年クウェートに侵攻する。フセインは、オスマン帝国時代にイラクの一部だったクウェートを併合しても世界は黙認する、アメリカはイラクの友好国で、アラブ諸国もイラン革命の波及を阻止したイラクを支持してくれる、と踏んでいた。
しかし、イラクがクウェートを併合すると、世界の石油埋蔵量の2割を支配することになる。このままではサウジアラビアなど他の産油国まで狙うかもしれないと危惧したアメリカは、NATO加盟国を中心に多国籍軍を編成して、1991年1月17日、イラクを空爆。湾岸戦争が始まった。
アメリカ軍はイラク本土を爆撃した。これに対してイラクは、参戦していないイスラエルに何度もスカッドミサイルを撃ちこんで、イスラエルを挑発する。イスラエルと対立するアラブ諸国を多国籍軍より離反させ、湾岸戦争を「アラブ諸国対イスラエル」の構図に変えることを狙っていたが、イスラエルは最後まで参戦せず、イラクはアメリカの軍事力の前に敗れた。
湾岸戦争では、エジプトやシリアなどが多国籍軍に参加する一方、PLOはヨルダン、スーザン、イエメンなどとともにイラクを支持した。そのため、PLOはアラブ諸国や国際世論の怒りを買い、その国際的な信用は落ち、パレスチナ国家樹立も遠のいた。
- オスロ合意――ラビン暗殺により途絶した和平への道
o失敗に終わったマドリッド会議
1991年10月、アメリカの肝いりで、スペインのマドリッドで中東和平会議が開催された。しかし、占領地を返還することなく、平和だけを勝ち取ろうと考えるイスラエルのシャミル首相はPLOの参加を否定、エルサレムの居住者を代表団に加えることも拒んだ。
一方、PLOは、アラブ諸国からの資金援助をストップされるなど厳しい状況に追い込まれていた。和平交渉も一向に進展しないことから、アラファト議長への批判が高まり、最初から和平交渉に反対してきたイスラム原理主義のハマス(イスラム抵抗運動)やイスラム聖戦などが民衆の支持を得るようになる。
こうした事情から、マドリッド会議は思うように進展しなかった。占領地問題は2国間の個別交渉で行うというイスラエル個の要求が受け入れられ、経済協力や安全保障、難民などについて多国間協議の枠組みがつくられた程度だった。しかも、ワシントンで続けられたその占領問題の2国間協議はほとんど進展はみられず、シャミル首相は和平交渉を引き延ばす腹づもりだった。
oラビンの登場で実現した和平の第一歩
1992年、事態は大きく動いた。7月、イスラエル総選挙で、2年以内に和平交渉を成立させることを公約した労働党のラビンが政権の座に就く。ラビン政権成立後は依然として交渉は進展しなかったが、同年末からノルウェーが仲介者となって、オスロでPLOとイスラエルとの秘密交渉が開始され、和平への動きが加速する。
1993年1月、ロンドンでPLO幹部とイスラエルの大学教授が会見した頃から、交渉は具体的になり、イスラエルのペレス外相とPLOのアッバスとの間で合意がまとまって、8月にオスロで仮調印された。
合意文書では、ヨルダン川西岸とガザの占領地で5年間、パレスチナ人の「暫定自治」を実施し、自治発足2年後から、ユダヤ人入植地の扱い、最終的な両者の境界線、東エルサレムとイスラエル建国で解散したパレスチナ人の帰国問題などの諸問題について交渉することになっていた。最大の難問を棚上げした苦肉の合意だったが、合意によってPLOはパレスチナ人の代表として認められ、イスラエルの生存権を認めると共にテロと絶縁することになった。
1993年9月、ワシントンで、アラファト、ラビン、ペレスも出席し、パレスチナ暫定自治宣言の調印式が行われた。これは、合意達成のもとをつくったオスロでの階段を敬して、「オスロ合意」と呼ばれている。
※ ノーベル平和賞・・・・・・この後、アラファトとラビンが受賞した。
中東和平における歴史的第一歩となったオスロ合意だが、情況はまもなく一変する。1995年1月、和平を推進したラビン首相が、イスラエル極右勢力によって暗殺されてしまう。暗殺後、右派正党リクードのネタニヤフ、シャロンが政権を取ったために合意はほとんど守られず、21世紀を迎えた。
- シャロン政権の横暴――キャンプデービッドの挫折から右派政権の誕生へ
oネタニヤフ政権の誕生で停滞したパレスチナ和平
ラビンに対する同情票から与党有利と考えていたラビンの後任ペレスは、選挙を暗殺の六ヵ月後とする。しかし、イスラエル中央公安情報帰還(モザド)が、ペレスに命じられて、イスラエルに送り込んだ若者に自爆テロを行わせていた人物が暗殺されたことにパレスチナの人々は怒り、テロが激化。この影響か、ペレスは逆転されて、ネタニヤフ政権が誕生した。
和平反対派の政党リクードが政権を握ったことで、中東和平は停滞してしまう。ネタニヤフはユダヤ人の入植地を拡大し、テロ防止の名目で、聖域全域や自治区を封鎖して、パレスチナの経済を苦しめた。だが、国内ではネタニヤフのワンマンぶりが際立ち、国民の支持を失い、1999年の繰り上げ首相公選で、バラクの労働党に敗北する。
oバラク政権の提案を拒否したアラファト議長
和平推進派を公言していたバラクだったが、首相就任後、ユダヤ人入植地の造成を前政権以上に急ピッチで行うなど、パレスチナの不信を買う。
2000年、再び、キャンプデービッドで、イスラエルとPLOの和平交渉が行われ、イスラエル側はガザ地区全域や西岸地区の一部を返還するなど譲歩し、エルサレムに就いては再分割案を提示した。キャンプデービッドでの提案よりもはるかに譲歩した提案がなされたが、神殿の丘の管理権はパレスチナに認めるものの、主権はイスラエルが保持するとしたため、PLO側は反発。加えて難民問題も解決の糸口を見出せず、アメリカのクリントン大統領の説得にもかかわらず、PLOのアラファト議長は合意を拒否する。
和平交渉挫折のわずか2ヵ月後、イスラエルのリクード党シャロンがエルサレムの神殿の丘にあるイスラム教の聖地アル・アクサモスクに立ち入ったため、パレスチナ人は怒り、アル・アクサ・インティファーダと呼ばれる第二次インティファーダへと発展する。それでも、エジプトのタバでさらなる和平交渉が行われ、イスラエルは従来よりもさらに譲歩した案を提示する。
交渉は合意寸前にまで持ち込んだものの、最終的にはイスラエルの首相公選後とされた。ところが、政権はまたもリクードのシャロンの手に渡り、すべて棚上げとなる。シャロンはパレスチナ側の要人暗殺を繰り返し、入植を推進したりして、混乱はますます深まっていった。
- 分離壁――ヨルダン川西岸の封鎖をもくろむ巨壁の設置
o激しさを増すシャロンのパレスチナ攻撃
2001年の就任首相以来、対パレスチナに強硬な政策を取り続けるシャロンは、レバノンのベイルート郊外、シリア軍の施設を空爆した。また、東エルサレムにあるPLO事務所などの施設を接収し、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の議長を暗殺する。その報復として、パレスチナ側はイスラエルのゼエビ観光相を暗殺。シャロンの強攻策は、血で地を荒らす報復合戦を招いた。
その頃誕生したアメリカのブッシュ政権は、クリントン政権の方針と一転して、中東問題へは介入しない姿勢を示した。しかし、2001年9月11日、ニューヨークで大規模な同時多発テロが起こると、中東問題に積極的に関与し始めた。アメリカは、今までよりも明瞭にパレスチナ国家の創設を支持、テロの停止とイスラエル国家の明確な承認などを求めた。
だが、イスラエルがガザ地区を総攻撃した際に出された国連安保理決議に反対するなど、常にイスラエルよりの政策をとってきたアメリカに対し不満をもっていたパレスチナ民衆は、同時多発テロに歓声をあげ、イスラム過激派の自爆テロは増加した。
これに及んで、シャロンはパレスチナ自治政府をテロ支援団体と宣言し、アラファト議長との関係を断絶。ついで、ヨルダン川西岸とガザ地区への報復攻撃を始める。
o国連の批難も無視するシャロン首相
国際世論はイスラエルへの批判を強め、2002年3月、国連安全保障理事会は即時停戦とパレスチナ・イスラエル領国歌の共存を求める決議を採択し、アナン事務総長は厳しくイスラエルを非難した。しかし、シャロンは動じず、アラブ連盟首脳会議が出した、アラブ諸国とイスラエルとの和平などを盛り込んだ「ベイルート宣言」も無視。シャロンはパレスチナ暫定自治政府の置かれたラマラへ侵攻、アラファトを監禁してしまう。
さらに、イスラエル軍はヨルダン川の西岸地区にあるジュナン難民キャンプを攻撃し、大虐殺を行った。女性や子供を含む約500人が殺されたとされるが、イスラエルは武装勢力十数人のみの死者だったと主張した。
これに対して、イスラム過激派はテロ攻撃をエスカレートさせた。福祉活動で支持者を増やしたハマス、イスラム聖戦などがテロリストを養成し、度重なるテロを行っている。
その後、シャロン政権は「分離壁」の建設を進める。表向きは、パレスチナが川からやってくる自爆テロリストの親友防止としているが、壁全体はパレスチナ側に食い込む状態で建設されており、パレスチナ人をヨルダン川西岸へ封じ込めようとする、イスラエルによる強行分離と見られる。「アパルトヘイトウェール」と呼ばれる壁が完成すると、ヨルダン川西岸の入植地まで、イスラエル側に取り込まれることになってしまう。
- テロと報復の連鎖が止まらないエルサレムの未来図
o「ロードマップ」を作成も、1年足らずで空文化
イラク戦争を画策するため、アラブ諸国の支持が不可欠。アメリカのブッシュ大統領は、EU、ロシア、国連と協力して、新たな中東和平構想である「ロードマップ」を作成。イラク戦争後の2003年6月に、ヨルダンのアカバで正式に成立した。
内容は・・・・・・第一段階では、パレスチナはイスラエルの生存権を認め、tげろを停止し、過激は組織を解体する。イスラエルはパレスチナを主権国家と認め、ガザ地区やヨルダン川西岸から撤退すると共に入植活動を凍結する。第二段階では、パレスチナが憲法を制定し、暫定的な境界線をもつ独立国家を樹立する。第三段階では、エルサレムの主権、難民の帰国問題などの難問を解決して関係を正常化する・・・・・・これを2005年までに行うというものだった。
イスラエルのシャロン首相と、パレスチナ自治政府のアッバス首相はこれを受け入れた。しかし、パレスチナ側では、ハマスが猛烈に反対し、自爆攻撃をエスカレートさせる。これに対して、イスラエルも報復攻撃を行い、これまでと変わらない血で地を洗う報復攻撃が続いた。2004年3月、イスラエルへのテロ攻撃の中心となっている組織ハマスの創始者、アハマド・ヤシンが、健康を害し、ガザ市内を車椅子で移動中、イスラエル軍のヘリコプターのミサイル攻撃を受け、殺害されたことも報復合戦を激しくさせた。ヤシン殺害に対して、日本を含む多くの国がイスラエル批判の声明を出す。テロを押さえられなかった自治政府のアッバスも、首相辞任に追い込まれた。
一方、2006年現在、イスラエルは依然として分離壁の建設を続けている。国内の意見も強硬で、入植地からの撤退もなかなか進まない。こうしてロードマップは、1年足らずで空文化してしまった。
o真の平和はいつ
2003年10月、「ジュネーブ合意」が調印された。イスラエルの元法相ヨシ・ベイリン、パレスチナの元閣僚アベドラボらが3年かけてまとめたもので、エルサレムの聖域の主権問題など、これまで合意できなかった難問に合意し、将来の政府間交渉のたたき台になるとされる文書。政府間の正式な交渉ではないため、拘束力はないものの、パレスチナ問題を解決するにあたって、もっとも理想的な妥協案と目されている。
※ 「ジュネーブ合意」要旨
- パレスチナを多国籍軍が駐留する非武装国家とし、イスラエルと外交関係を樹立する。
- 第三次中東戦争以前の軍事境界線を国境とする。
- エルサレムを東西に分割し、東側をパレスチナの首都とする。
- 一部を除き、ヨルダン川西岸などのユダヤ人入植地を撤去する。
- パレスチナ側は難民の帰還権を放棄する。
また、パレスチナ自治政府では、アラファトが亡くなり、アッバスが跡を継いで議長に就任した。イスラム聖戦組織やハマスなども現実的な対応を見せるようになり、2005年3月には年内のイスラエルへの攻撃を控えることで合意した。イスラエルも、ガザ地区の全域からの全面撤去を完了し、和平交渉につながるのではないかと期待されている。
パレスチナとイスラエルが互いに首都としているエルサレムでは、依然として緊張が続いている。だが、アラブ人・キリスト教地区をパレスチナに、ユダヤ人・アルメニア人地区をイスラエルが管理し、主権も分け合う、そして神殿の丘や嘆きの壁は国連が分割管理するといった前向きな構想も生まれている。
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