真理を説く

 私の(とな)える説の殆んどは、何処かに今迄と異った意味が含まれている事を認めない訳にはゆくまい。というのは今迄唱えられて来た(あら)ゆる説は世に知れ渡り、今更新しく書く必要はないからである。今日何程巧妙(こうみょう)に説いてみても、それは畢竟(ひっきょう)同じ説の焼直しに過ぎない以上、徒労以外の何物でもあるまい。

 成程、古くから幾多の聖賢や偉人が輩出(はいしゅつ)しては立派な教えや説を唱え人類に裨益(ひえき)した功績は如何に高く評価しても差支えないが、さらばといって世界の進歩につれてその有用価値が薄れてゆくのも亦止むを得ない現実であろう。とすれば今日以後の時代に役立つべき新しい説が生まれなければならない。言うまでもなく現代人が切実に要望する処のものはこれである。

 成程既成宗教の教説なども、その当時の民族には極めて大きい価値があった事は勿論であり、その内容に於てもその時の人間の文化程度に適応したものには違いなかったであろうが、長い年月を経た今日、大衆にアッピールする力のありよう筈がないのは事実がよく物語っている。然も大抵の宗教は中途に於て、幾人かの学者や賢哲がその時代に適応すべく改竄(かいざん)(ゆが)められた点も相当あるにはある。斯様なわけで、現存せる宗教自体、現世を救うべき力の大半は失われてしまったといってもよかろう。しかも問題は古典や文献の難解な点である。宗教といえば一人の開祖の説であり乍ら、各宗各派に分れ、中には宗教争いさえ絶えないものもあるのであるから、真に大衆に安心立命(あんしんりゅうめい)を与える力などは、木によって魚を求むるの感なくんば非ずである。

 元来宗教の本質は真理の具現であってみれば、真理を説く事によって人間の精神的改造が何より重要事である。従って他の事業例えば社会事業の如きは派生的のものであるに拘らず、それが宗教本来であるように思われて来たのは全く宗教認識に欠陥(けっかん)があるのである。然らば真理とは何ぞやという事で、この徹底がなければならないが、実をいうと真理ほど簡単で分り易いものはないのである。故に難解なややこしいものほど実は真理に遠ざかっていると見るべきである。例えば真理とは東から太陽が出て西へ沈み、人間が空気を吸って飯を食い糞を垂れるというのと同じである。それをどう間違えたのか昔から真理を非常に難かしく考えられて来たが、それは理由がある。即ち真の見真実者が現われなかったからで、それというのも根本は夜の世界であったからである。

 私は四十幾歳の時重大使命を神から命ぜられると共に、何人も到達し得なかった見真実の境地にまで上ったのである。勿論その境地にあって一切を眺める時、現代文化の余りに誤謬(ごびゅう)の多い事に気が附く。従って一切を明々白々に晒(曝?)け出し全人類の一大啓蒙(けいもう)こそ救いの根本であらねばならない。この意味に於て私の唱える事も行う事も、今までのそれとは余りに異っており、万事型破り的なものばかりである。見らるる通り如何に深遠(しんえん)微妙(びみょう)なる真理と雖も、いとも平易簡単に解明する。如何なる学者にも非学者にも理解され得るように説くのである。併しここに困る事は、私が説く処の真理は、長い間非真理を真理と錯覚(さっかく)し固く守られて来た人達の眼には非真理に誤解され易い事であるが、これも過渡期の一時的現象として亦やむを得ない処であろう。併し真理はどこまでも真理である以上、時の進むに従って漸次理解されるのは当然で、それが真理の真理たる所以でもある。何よりも本教教線が、前例を見ない程の発展ぶりがそれをよく物語っているのである。

  (救世 五八号)

 

 

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