右の題目は勿論仏語であるが、この意味は現在に於てもよく当嵌まるから、それを解説してみよう。
苦集滅道とは読んで字の如く、苦が集まる、即ち苦しみが多いと道が失われるという、人間誰しも苦しみが余り多いと自暴自棄になるばかりか、背に腹は変(替?)えられない式で、道に外れる事をするようになるものである。よく言われる事だが、泥坊にも二種類あって、本当にズルイ奴と、貧に迫って悪いと知りつつも苦し紛れにやる者とがある。又闇の女でも、そんな事をせずともよいのに好んでする者と、切羽詰って嫌々やるものとの二種類があるのも同じである。
この弱点を利用して宣伝するのが、彼の共産主義である。従って政治の理想としては、困る者、苦しむ者を作らない様にする。それが、犯罪を減らし、社会の秩序を保つ上に、最も根本方策である。恒産ある者は恒心ありという言葉もよくそれを表している。本教の理想である病貧争を無くすという事もそれ以外の何物でもない。としたら、何よりも先ず健康が元であるから、健康人を増やす事こそ問題解決の鍵である。
次に道法礼節であるが、この事も現代によく当っている。道法とはいうまでもなく道であり、法であって、道とは道理に叶う事で、道理に外れる為に人間同志(士?)の悶着や家庭不和、社会秩序の紊乱となるのである。法とは人間が作った法律のみでなく、神の律法もあって、これは目には見えないが、絶対犯す事が出来ない。人間諸々の災は、悉く神の律法を犯すための刑罰である事を知らねばならない。実はこの刑罰こそ人間の法律よりも恐ろしいと共に、絶対免れる事は出来ないのである。勿論死刑もあるのであって、それが災害による死、病死等、総て神律を犯した為の刑罰死である。そうして凡ゆる物にも法がある。即ち法とは一切の規準であり、秩序である。分り易く言えば、人間の為すべき事、考うべき事はチャンと決っておって、例えば政治家は政治家、教育家は教育家、宗教家は宗教家、芸術家は芸術家、官吏でも、商人でも、医者でも、男でも女でも、如何なる人間でも、為すべき事、為すべからざる事は、一定の法則があり、それを守る事によって順調にゆき栄えるのである。昔から法を越えるなと言うのもその意味である。
次の礼節であるが、これこそ現代人には最も適切な言葉である。特にこの点昔の人よりも大いに低下している。私は日々多くの人に会うが、真に礼節を弁えているものは十人に一人もいないと言ってよかろう。併し何と言っても、信者諸君は一般人とは区別がつく程よいにはよいが、只信者同志(志?)の接触の場合、まだ物足りない点が見えるので、今一層向上して貰いたいのである。
併し現在の様な煩雑な社会生活では、思う通りの儀礼は行われないから、或程度は至(致?)し方ないとしても、注意すべきは民主主義の履き違いから、若い人達には上、中、下無差別式の考え方の者がよくあるが、これは困ったものである。成程昔のような士農工商的の差別主義も間違っているが、今のような悪平等的行過ぎも間違っている。特に遺憾でならないのは、学校教育の行き方である。余りに自由主義の為、放縦に流れ、師弟の差別さえないのをよく見受けるが、この点教師たる人も大いに考慮の余地があろう。勿論、昔の軍隊式も困るが、今のズンダラでも困るのである。要は偏らないでよく程を守り、中性が肝腎で、教育の方針もここにもってゆかなければならない事は言うまでもない。礼節という意味はそれであって、既に古人が喝破しているのであるから、現代人としてもそれに愧じないようにすべきである。
(栄光 一〇二号)
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