幸運者を作る宗教

 本来宗教とは何かというと、不幸な人を幸福に導く為に神の愛によって発生したものであって、それ以外の何物でもない。知らるる通りこの世の中に生を(いとな)んでいる誰もは、幾ら一生懸命に幸運になろうとしても、中々思うようにはならない。一生涯かかって幸福になる人は九牛の一毛で、殆んどの人は幸福処か逆に後から後から不幸という奴が見舞って来る。という様に、学校で学んだ学理も、偉い人の修身談や伝記、それに関する書籍(しょせき)を読み、その通り実行しても役立つ場合は(まれ)である。成程理窟は実によく出来ていて感心はするが、実際となると理窟通りにゆかないのは誰も経験する処であろう。

 早い話が正直主義でやると、お人好しやお目出度人間にみられるし、方針(ほうしん)を変えて変な事をすると、今度は信用を落したり、下手をすると法律に引掛ったりするので、どっちにしていいか分らない事になる。そこで小利巧な人間は正直らしく見せかけ、裏で不正直をやり、口を拭いて知らん顔の半兵衛(はんべえ)を決め込むに限る。というのが世渡り哲学という訳で、今日の人は滔々(とうとう)としてその哲学信者になってしまい、このチャンピオンが出世頭となるのであるから、どうしても一般はそれを見習いたがる。これが社会悪の減らない原因であろう。このような世の中だから、正直者が馬鹿を見るなどと言われるのである。故に正直な人間程融通(ゆうずう)の利かぬ時世後れとされるし、正義など唱える人間は人から煙たがられ相手にされず、社会の落伍者(らくごしゃ)となるのもよく見受ける。

 このような世の中に向って、私は常に正義感を振り(かざ)しているのであるから、並大抵の努力ではない。普通人は馬鹿々々しいと思うであろうし、宗教家の決り文句で、意気地なしで慾のない変り者位にしか見ないであろう。そんな訳で以前は新聞雑誌などにも蔑視的(べっしてき)興味本位に書かれたり、裁判沙汰などにされたりして随分虐められたものでる。それというのも私は悪と闘うべく思い切ってかいたりするので、それが(たた)ると共に、急激の発展に対する嫉視(しっし)も手伝い、大木に風当りが強い訳であろう。

 処がそのような圧迫に遭い乍らも、一路発展の道を辿りつつあるその力強さに、近頃は余程見直したらしく、形勢も大分緩和(かんわ)されたのでやり良くなったのは何より嬉しく思っている。それというのも神様が後楯(うしろだて)になっている以上、如何なる攻撃に遭ってもビクともしないからである。というのは本教には今までの宗教に見られない大きな武器を有っているからで、それをかいてみよう。

 それに就いては今日までの凡ゆる宗教の行り方を見れば分る通り、大別して二通りある。一は真向から正義を()(かざ)して進む信仰で、この代表ともいうべきものは彼の日蓮の法華経(ほっけきょう)で、アノような法難に遭ったのもその為である。それが災いとなって宗祖一代中は余りパッとせず、数百年かかって今日の如き隆盛を見たのである。といって法難を恐れ安全の道を辿(たど)るとしたら、拡まるにしても大いに時を要するか、さもなければ消えてしまうであろうから、茲に難かしさがある。しかし有難い事には民主主義となった今日、信教の自由を許されたので、終戦以前の日本と違い大いに恵まれ、致命的(ちめいてき)法難も避け得られたのである。という訳で私の大方針たる正義を貫くべく、一歩々々悪を排除しつつ、善の目標に進みつつあるのである。

 次に問題である人間の幸福に就いてかいてみよう。即ち幸福を生む根本は何かというと勿論善であるが、この善を通そうとするには悪に勝つだけの力がなくてはならないのは言うまでもないが、既成(きせい)宗教にはこの力が不足していた為、真の幸福は得られなかった。そこで物質は諦め、せめて精神面なりとも安心を得たいとの民衆の要求に応えたのが、彼の仏教の悟りの説である。又キリスト教ではキリストに習えという贖罪(しょくざい)精神(せいしん)で諦めさせたのである。彼の〝右の頬を打たれれば左の頬を出せ〟と言ったのも、無抵抗的悪に対する敗北精神であった。以上の如く悉くの既成宗教には物質的には悪に勝てないので、考え出したのが現当利益否定説である。曰く現当利益本位の宗教は低級(ていきゅう)であって、精神的救いこそ高級宗教なりとの説を唱えたのは無理はないが、それは或時期までの便法でしかなかったのである。これに就いて二、三の例を挙げてみるが、よく長い間病気で苦しみ乍ら救われたといって満足しているが、これは無理に本心を抑えつけて諦めているにすぎないので、一種の自己(じこ)欺瞞(ぎまん)である。病気が全快してこそ本心からの満足感を得らるるのが真実である。又昔からその信仰に如何程熱烈(ねつれつ)であっても、物質的に恵まれず、不幸の絶えない家庭もよくあるが、その結果精神的救いのみが宗教本来のあり方と錯覚(さっかく)したのである。

 処が我が救世教は、精神的救いと共に物質的にも救われる。寧ろそれ以上といってもいい程である。本教が数年の間に現在見る如く、各地に地上天国や美術館を造営しつつあるのも悉く信者の寄附金である。しかも本教は最も搾取(さくしゅ)を嫌い、自発的寄附を方針としている。にも拘らず、これ程の大規模の事業を経営するとしたら、莫大(ばくだい)な基金を要するのは勿論で、それが集ってくるのは実に奇蹟である。これにみても信者の懐が楽であるからである。しかも一時的ではなく、多々益々増えるのであるから、金銭上の心配などした事はない。次に言いたい事は時代である。昔の各宗教が出た時代は小乗信仰でよかったから〝祖師(そし)(かみ)()の五十年式〟で済んだが、今日となってはそうはゆかない。一切万事世界的となった以上、全人類を救うとしたら驚くべき大仕掛けでなくてはならない。つまり規模(きぼ)が大きい程救われる人も多数に上るからである。以上の如き本教の大計画を知ったなら、何人と雖も本教を見直さない訳にはゆかないだろう。

(栄光 二一二号)

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