ーー「神霊正典より」ーー
第百二十三章 国祖国万造主大神[国常立大神]三千年の仕組
『 前述の如く、太古より万国棟鿄国たるの権威を以て発達し来れる日の本の人文、一朝にして桑滄の変を蒙りたる為め、予てより創造神の神意を体して隠退し居り給いし、国祖「国万造主大神」[国常立大神]は、世界統理の根本国としての日の本の文化の回復建設の必要上、嘗て歴代天皇によりて日の本が指導啓発したる外国文物の逆輸入を計画し給う。従って、其の間に於て、外国諸神の跳鿄弥が上にも激しくなり、また、外国文物の輸入によりて、個有日本の破壊も当然行わるべきにより、斯の如き附随的事象に対する適当なる防遏手段を講ぜざるべからず。また同時に、最後に到来すべき天の岩戸開きに対する事前の準備も整え置かざるべからず。玆に於て、国祖「国万造主大神」は葺不合文化没落を期として、鋭意諸般の劃策を樹立し、時期の到来を待ち給えり。国祖国万造主大神三千年の仕組と云う。明治二十五年、「国常立大神」再出現の時より、正に三千五十年以前に当り、葺不合六十九代天皇の末期、其の第三回大地変の直後なり。』
ーー明主・岡田茂吉様御言葉よりーー
『節分というものは〝福は内、鬼は外〟で、鬼の災いを避けるという、昔からの行事があるのです。そのために方々の神社仏閣で豆まきをやるのです。
ところでこれは、前にも話した事がありますが、あべこべなのです。鬼というのは偉い神様なのです。艮の金神国常立尊という神様です。今日の御讃歌にも「常立の神」というのがありましたが、国常立尊の事を略して常立の神と詠んだのです。それからもう一つ「艮の神」という事も入れてありました。そういうようで、つまり事の起こり始めは、これは神代となってますが、神代ではないのです。そう古いことでもないのです。尤も三千年という事になっていますから、三千年前はやっぱり人間の世界です。この国常立尊という神様が世界的に支配していた時代があった*のです。ところが非常に厳格な神様で、間違った事は許さないというために――大本教のお筆先などを見ると分りますが――つまりあまり厳しいので八百万の神様がとてもやりきれないというので、こういう喧ましい神様は押込めなければ楽はできないというわけで、押込められたわけです。押込めた方の神様は天若彦神(あまわかひこのかみ)というのです。これはよく天邪鬼(あまのじゃく)と言いますが、天若彦というそれを後世天邪鬼と言って、つまり素直でない、何でも横車を押すという性格の神様です。それで国常立尊という神様を艮(東北)に押込めたのです。そこでそれを鬼門と言って忌み嫌ったのです。最も忌み嫌うわけです。人間の方が間違った事をすれば、そういう喧ましい神様を嫌うわけですから、どうしてもそうなるわけです。そうして鬼門除けと言って、いろんな事をやったのです。そういうわけで、三千年押込められたとしてあります。
そうしてその神様が明治二十五年に大本教の教祖の出口直子(なおこ)という方に憑られて非常に怒鳴ったのです。出口直子刀自の口を借りて怒鳴ったのです。その第一声が「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。竹は外国であるぞよ」というそれが最初の獅子吼です。それで、大きな声をして怒鳴るので、気違い扱いにされて警察に引張られて、二十日か三十日間勾留されたのです。それが大本教の始まりなのです。
その艮の金神という神様は、押込められて肉体の方は無くなりましたが、霊は霊界に行かれて閻魔大王になるのです。それで閻魔大王というのは、善悪、罪穢れを裁く神様、裁く御役目です。閻魔大王というと非常に恐ろしがられたのです。それが、本当は至正至直の神様ですから、そこで霊界に行っても、悪い人間が見ると恐ろしい顔に見えるのです。これは霊がそういう事を言っていました。それから心の善い人がゆくと非常に柔和な慕わしい優しい神様のお顔に見えるのです。これは面白いです。というわけで、そこで大本教のお筆先に「艮の金神はこの世の閻魔と現われるぞよ」とありますが、〝この世の閻魔〟という事は、現界の審判をなされるという事です。今までは霊界の、死んだ人間を審判されたが、今度は現界で生きた人間を審判される。〝この世に現われて〟というのですから、現界に現われて審判をするというわけです。(中略)
恐ろしいですが、しかしそれがこっちに邪念があったり曇りがあったりすると怖いので、そうでなくてこっちが本当に正しく立派な心を持って居れば有難いのです。今まで悪い奴にいじめられたりしていた、それがいじめられなくなるから、善い人間には非常に結構です。
それから「今度は善悪を立分けるぞよ」とありますが、これは私は始終書いてます。最近いろんな汚職事件が目茶目茶に現われて来ました。よくもそういった不正事件が出るという事は、今までに例がないように思います。これもいわゆる審判が近寄ったという事を現わしていると思います。それで、艮の金神様が表に現われるという事は、艮の金神様は火の系統の神様ですから、そこで非常に光が強いのです。やっぱり霊界が明るくなるのです。だから今まで隠していたり隠蔽していたものが現われるのです。目に見えるわけです。そこでいろんなそういう事が出て来るのです。それから今年から又一段と病気が多くなります。それと共に薬毒がだんだんはっきりして来るわけです。
以前も言ったとおり、恐怖時代の一歩に入ったわけでもあります。(後略)』
昭和二十九年二月四日(立春)
[註* 「神霊正典」では、現界(三次元―限身界)の出来事ではなく、神霊界(四次元―駛身界)の出来事とされている。3000年前までは、「国常立尊」が神霊界で司宰神として世界的に支配していたと解釈される。神霊正典第十八章参照]
ー六韜三略の巻ー
『昔から六韜三略の巻という言葉があるが、これには非常に神祕があって、この謎を解く人は今までなかったようである、これを私からいえば、よく絵や彫刻にある観音様の御手に持たれている巻物に当る訳で、これを持経観音の御名で古くから伝えられているが、実は御経ではなく、右の如き神祕貴重なものである、何となれば御経をかいた巻物などは昔から何処にもあるので、その様に人間の手に持たれるようなものを、観音様とも言われる尊い御方が手にされる筈のない事は分りきった話である。これは全く、仏滅後ミロクの世を御造りになる大経綸の深い仕組をかかれたものに違いなく、その文字はミロクの神様の御神示をかかれたものであって、これこそ私が現在実行しつつある多種多様の神業のプログラムで、私が見真実になった時、已に明されたものである。
それに就いて、先ず文字の意味からかいてみるが、六踏(支那では六韜とかくが、この意味は六つの兵法という事になっているが、私は特に踏の字を用いたのである)とは六合の意味も含まれているが、それは別として、茲では分り易く示してみれば、六の文字はいつもいう通り月であり、水であり、五六七の真中であって、丁度現在の世界、つまり夜の世界で、これを踏んで立つという意味である。三略とは三つの計略ではなく、三つの経綸である、即ち五・六・七、三・六・九、上・中・下、経・緯・伊都能売という訳である。
この事に就いて、私は面白い事をかいてみるが、歌舞伎劇中の九代目団十郎の当り狂言であった、歌舞伎十八番の中の、菊畑一名鬼一法眼三略の巻というのがある。これは有名だから大抵の人は知っているであろうが、まだ見ない人の為にザットかいてみよう。彼の鬼界ヵ島へ流された源家の重将俊寛が島を脱出して密かに京に上り、身を変じて軍略の指南をしていた処、相当世に認められるようになったので、平家から招かれ、今でいう参謀格となって仕えていたのである。処が偶々牛若丸が虎蔵という偽名を使って奉公に入り込み、軍略を教わり乍ら豆々しく働いていた。その時牛若丸は一人の智恵内という家来を連れ、智恵内を下男とならせ共に仕えていたが、鬼一法眼に一人の息女があった。名を真鶴姫といい、どちらも美貌であったからでもあろう、御定りの恋仲になってしまったのである。そこで牛若丸は、予ての熱望していた六踏三略の巻が法眼の家の土蔵の中に隠されてあるのを知り、真鶴姫に向って盗み出すよう頼んだ処、何しろ恋しい男の切なる希望とて、喜んで密かに土蔵の中から持出して、牛若丸に渡したのである。
処がこれには深い意味があったのだ。それは元々鬼一法眼には深い思慮があった事とて、虎蔵の行動を知り乍ら見て見ぬ振りして、ワザと盗み出さしたのであった。というのは、法眼の肚の中は、どこまでも源家再興にあったからである。という訳で、この法眼の深い心持を団十郎の腹芸的所作でやったのだから、何ともいえない深みのある至芸で、今尚私の頭に残っている。劇の内容はそれだけであるが、これを宗教的にみると中々神祕が潜んでいるので、それを今かいてみるが、私がいつもいう通り、義経は観音様の化身であったのである。以前私のかいた中に、艮の金神、国常立尊という神様が神代の時御隠退せられ、霊界に於ては閻魔大王となり、現界に於ては観世音菩薩と化現され、慈悲を垂れ給い、一切衆生を救われたのである。そういう訳で、牛若丸の虎蔵とは即ち艮で金神様の御名を祕されたものである。そうして鬼一法眼は伊邪那岐尊の御役をされたのである。鬼は岐であり、一は神の意味であるからである。これに就いて以前私は義経に生まれ変ったのだと話した事があるが、右の意味にも表われているであろう。従って今日と雖も伊邪那岐尊様から随分色々な事に御援けを蒙っているので、これに就いての面白い話もあるが、何れ機を見てかく事とする。』
(昭和二十六年八年月二十九日)
ー国常立尊についてー
『観音様には一切のお働きがあり、幽世大神にもなるのです。幽世大神は閻魔大王ですから、観音様は間接的に閻魔大王にもなるんです。観音様は現幽神の三界を司るのです。(中略)観音様には裁きのお働きはない。お救いのお働きだけです。一切を無差別に救われるのです。観音様と閻魔大王とは表裏になってるのです。神様にはいろいろとお役目があり、一つの神様もいろいろ役目を兼ねておられる。』
『国常立尊とは以前世界の実権を持っておられたが、節分の夜鬼門のほうに押し込められ艮金神となられた神様です。国常立尊が伊都能売大神になる。国常立尊は霊界で閻魔大王になり、裁きの役をやるが、それが苛しくてかわいそうだということから半分は閻魔大王に半分は観音になる。神は厳格だが仏というのは慈悲だから、伊都能売大神は、仏界で観音様になったんだ。すなわち善悪無差別の慈悲である。』
(昭和二十三年二月二十八日)
お伺い
「光明如来と日月地(みろく)大神との相違についてお教え願いたいのですが」
御垂示
『結局同じもんですがね。つまり最高の地位になられた場合「日月地」です。
「日月地」は大神で神の位です。これで五六七となってお働きが完全になる。光明如来のほうは火と水です。観音様は火水土ですが、土が少しなんです。何故土が少ないかと言うと、これは私が出てから加わったからです。観音様は慈悲のお働きで善悪無差別、一切衆生をすべてを救うお働きであって、あいつは悪いとか、こいつはどうとかいうのは観音様ではない。観音様の御本体は国常立尊で、北海道の芦別山に押込められてから霊界で閻魔大王となり審判のお働きをされる。従って頗る苛しいんです。処がそれ丈では人間がやり切れぬから慈悲の神として現れたのが観音様であり、神や如来の地位では高すぎて衆生済度が出来ないから菩薩の位に下がられたんです。それが一段上がったのが光明如来です。…光明如来になると火と水―光が強くなる。今度離して御浄めする様になったのは、光明如来のお働きで、くっつけてしていたのは観音様のお働きです。そして土の力が完全に強くなられたのが「日月地(みろく)」です。…一昨年までは私も治療したが、去年から出来なくなった。それは位が高くなって大衆と離れた為なんです。』
(昭和二十三年三月二十八日)
お伺い
「天照皇大神、伊都能売大神、国常立尊の御関係について・・・」
御垂示
『天照皇大神と伊都能売大神は関係あるが、国常立尊のほうは古いことです。だから関係はないですね。岩戸隠れはつまり素盞嗚尊と争いになってね、天照皇大神がお逃げになったんです。それが岩戸隠れで、信州水上山のことであってそこで一生を終わられたらしいですね。それから戸隠にも行かれたらしく、ここから「岩戸」という言葉が出たんでしょう。後、天照皇大神を慕ってほうぼうへお祀りした。いま判っているのは丹波の元伊勢、丹波の綾部、丹後のマナイ神社その他、宇治山田などです。』
お伺い
「夜の世界とは・・・」
御垂示
『天照皇大神の岩戸隠れ以後の時代を言うんです。伝説によれば国常立尊は非常に厳格な神様で、そのためその支配にやり切れず八百万の神々が一致して御引退を願った。結局世論に抗しかねて御引退になったということになってますがね。この点は大本教祖の「出口なお」に国常立尊がお憑りになっていろいろ物語られた、それを基にして私はお話するんです。艮に引退せられ北海道の芦別山に押し込められた。これは本当でしょう。これが節分の日で、一般の者はそれから豆を煎ってこれをぶつけるようになったんです。神々はこの煎豆に花が咲いたら出てきてもいいということを言って節分の行事をしたんです。そのとき国常立尊は綾部にもおられたんです。そのためか綾部地方は、鬼は内、福は外と逆に言うんです。ですからこれは事実と思えるんですね。国常立尊は霊界で閻魔大王になられた。これは非常に苛(きび)しい善悪審判の役目ですね。しかし厳格一方のやり方ではかわいそうなので、尊は現界で観音様になられた。これは私の解釈です。だから観音様は善悪無差別で慈悲をもって救われるんです。絶対の慈悲ですね。そういうわけと思って大差ない。』
(昭和二十三年五月八日)
お伺い
「天照皇大神と伊都能売大神の御経綸について・・・伊都能売大神につきましては「古事記」にも出ておりませんが…」
御垂示
『伊都能売大神のことは昔は言えなかった。いい加減にボカしてあったんです。天照皇大神は太陽神で、位は上だがお働きは限られる。伊都能売大神は火と水で、仏界では観音様になる。これに土のお働きが加わって弥勒になるのです。天照皇大神は一つの力であり、伊都能売大神は二つ、弥勒大神(五六七・日月地・大光明)は三つの御力となり、これが三位一体で完全になる。』
お伺い
「弥勒大神は土の御力すなわち肉体をお持ちになって御出現と存じますが…」
御垂示
『ええそう、そうです。』
(昭和二十三年五月十八日)
ー「天照皇大神」についてー
『天照皇大神は太陽神で、仏界では大日如来です。』
『何千年前世が替った時があって、すべての神々は仏として化現された、例えば月読尊は阿弥陀如来となり、天照大神は大日如来と、稚姫君尊は釈迦如来と、伊都能売神は観世音菩薩となったようにである、この期間が夜の世界でいわゆる真如の世であった、』
『六月十五日というのは天照大御神様の誕生日になりますが、誕生日という事は日が出るわけです。(中略)前に房州の日本寺に行った時が昭和六年六月十五日ですが、これがつまり日本の日の出になるわけです。そしてそれが世界の黎明です。』
(昭和二十三年五月十八日)
ー観音力とは何ぞやー
『昔から、妙智力又は観音力というが、勿論妙智力は観音力と同意味である。世に阿弥陀力とか、釈迦力、達磨力などいう言葉がなく、ただ観世音菩薩だけがその力を唱えたという事は、不思議であると共に、理由がなくてはならないはずである。之に就て、文献もなければ言伝えの如きものもない。私は以前から此事に就て疑問を抱いていたが、信仰が進むにつれて、実にはっきり判る事になったので、それを解説してみよう。
それに就て今一つの疑問がある。之はよく聞かれる事であるが、観世音菩薩は男性であられるか、女性であられるかという点であるが、之こそ、観音力と密接不離の関係があって、実をいうと世尊は男であり、女であり、いわば両性を具備され給うておらるるのである。 そうして、男は陽、女は陰である事も、昔から誰も知っている処で、女は水であり、火は経に燃え、水は緯に流れる。此経緯がいよいよ結ばるという時が来たのである。
又光とは、火と水の密合であって、火素の量が勝つ程、光は光度を増すのである。此理に由って、昼の世界は、火素の量が殖えるから光が強くなる。観世音菩薩の御働きが、光明如来と現ぜられる所以である。
次に最も重要なる点は、経緯の結合する事によって真の力が発生する。力という字は、経の棒と緯の棒と結んで曲り、その先端が撥ねる。之は結ぶ事によって、左進右退的回転力が発生躍動するという意味で、全く文字なるものの意義深きを思わしむるものである。以上の如く観世音菩薩に限り、経緯両性を具備さるるのは、経緯の結合によって力が生ずるそれで、特に観音力という所以である。
序でに、今一つの重要事をかいてみよう。観世音菩薩は光明如来と現じ給い、次は、弥勒又はメシヤの御活動をなされるのである。前述の如く、光は火と水であるが、之に土が加わる事によって、火水土の御働きとなる。元来火と水だけでは霊の御働きだけで体がないが、之に土が加わって、初めて火水土の三位一体の力を発揮されるので、之が如意宝珠であり、麻邇の玉である。又火は五であり、水は六であり、土は七であるから、五六七の世が始まるという事は、此五六七、即ち火水土の順序正しき世界が出現するという事でなくて何であろう。
そうして如何に釈尊が大予言者と雖も、実際の五十六億七千万年後というが如き天文学的数字の未来を予言し給う必要があろうか。それは何等の意味をもなさないからである。先づ予言の価値としては、精々数千年位が実際に即している。キリストの二千年後の予言などは、洵に適切な年数であろう。
観世音菩薩のミロクとは、応身弥勒の事で、それは仏説の通りであるが、今後此弥勒の千変万化の御働きこそ、刮目して見るべきである。
又五六七の数も三六九も合計十八である。十は結びであり、八は開く数である。観世音菩薩の御本体は、一寸八分の黄金と昔から定っており、御堂は十八間四面と言う事なども、意義深きを思わしむるものがある。』
〈昭和二十五年一月三十日発行〉
『救世主(メシヤ)は、最後の審判のとき、救いに出ることになっている。』
『救世主(メシヤ)という神は国常立尊という審判の神様で、これは永久的のものでない。ある時を限られたお働きで、長い。一厘の種はメシヤとは違う。神様のやられること、計画は非常に深く絶対判らぬ。経綸は最高の神たる国常立尊様でも判らぬとおおせられる。経綸の主体は大弥勒の神で、この神が経綸の中心である。キリストや釈迦もぜんぜん判らぬ。必要だけのことしか判らぬ。神秘である。最高の神でも判らぬ。お筆先に「神界の事は判らないと思う人は判ったのである」と。世界の種々なことは、根本の神から出ているので、人間が気をもんだり、とやかく言うのも馬鹿馬鹿しい。最高の神の経綸は、善悪両方を造って操っておられるのが神である。今度はずいぶん苦しんだが、怒ってもしかたない。神様が使って、立派な仕事ができてゆく。ただ悪魔は一時的で勝たぬ。いままでは神が勝つのが遅かった。今度は早くなって五六七の世になる。』
〈昭和二十五年三月五日〉
『今の〝世界を救う聖者が八人目に出る〟という事は、伝説にあるのです。仏教の方では釈迦が八人目だという事になっているのですが、それは仏教の都合のよいように作ったものです。釈迦は「八」という事はないのです。釈迦は「七」で、七人目なのです。というのは五六七のミロクとして、釈迦が七のミロクになるのです。釈迦は何処までも「七」の数字で支配される人です。だからつまり「地」は「七」ですからして、地のミロクです。私は伊都能売ですから「八」になるのです。伊都能売というのは、数で言うと「五」(火ー経)「三」(水ー緯)ですから「八」になるのです。そして「八」という数字は富士山になるわけです。ですから「八」という数字を書くと、富士山の形になります。それで私は大和民族の宗家になるのですが、大和民族というのは、今の駿河の附近が発祥地なのです(本当は富士山の上なのですが)富士山の麓なのです。だから昔は富士山が本当の神様の山として、あそこの上に今でも木の花咲爺姫が祀ってありますが、そういった意味で、私は富士山と非常に因縁があるのです。』
〈昭和二十五年四月七日〉
ー国常立尊と豊雲野尊ー
『主神は造物主自身ではなく、実際は国常立尊、豊雲野尊御二柱で造られ、形を豊雲野尊が造られ、それに霊を入れて生きるようにしたのが、国常立尊である。』
『艮の金神の妻神豊雲野尊は「未申 (坤・ひつじさる)の金神」です。国常立尊と一緒になって日月になる。国常立尊が経で豊雲野尊は緯です。』
『艮の金神様は、霊的御守護をされる訳で、坤(ひつじさる)の金神様は体的の御守護下さる。坤の金神様は物質の御守護である。勿論正しい物質の御守護である。
光明世界建設の時は、特に大活動される。五六七の御代になれば、御守護下さる。坤の金神様は物質の働き、物質の御守護であるが、それも、艮の金神様の御差図がなくては出来ない。』
『国常立尊は忠義というより、実に誠忠無比の神様で力のある神様である。
国常立尊が天下平定の御経綸を申付けられたが、最初は良く治ったが、余り厳格な神様故人民が窮屈になりし為、どうしてもやり切れん様になった。そこを見て取ったのが盤古神王の子天之若彦命(あめのわかひこのみこと)である。この命が国常立尊を排斥する運動を起したのである。これに共鳴者が非常に多かった。そして盤古神王を押立てんとしたが、盤古神王は善良でおとなしい神様で力がないから、この神を立れば楽が出来るからと、看板に盤古神王を立て、実権は天之若彦命が握り世界統治をやられたのである。この為国常立尊は隠退遊ばされたのである。この御隠退は東北へなされたと成っているが、世界から見ると日本であり、日本からすれば東北である。日本の東北、即艮へ御隠退された為にこの神様のことを艮の金神と申上げるのである。日本の艮はどこか、北海道の芦別山に御隠退になられたのである。又一方幽界では閻魔大王となられたのである。神様は霊分身が御自由である為、幾柱にも別れることが出来るのである。
そこで伊都能売神様は、一方印度にて観音になられ、一方は兄の花姫尊(梅の花)となられて富士山に御鎮りになられ、又、一方は金龍となって近江の国の琵琶湖へお隠れになられたのである。その故富士山と琵琶湖を邪神に占領されたならば、日本は危険であるからである。富士山はなぜ大切かと言うと、人間で言うと富士山が臍であるからである。人間の体としても臍は一番大切なところとすればその意であるからである。この為兄の花姫と成られ、金龍となられてこの二ケ所を守られたのである。
豊雲野尊は国常立尊の妻神様であるが、夫神様の犠牲となられ坤の方へ御隠退になられた。坤の方とは鬼界ケ島の事である。日本の西南に当るところである。この神様が思兼尊(おもひかねのみこと)様である。』
昭和十年八月五日
ーー「神霊正典より」ーー
第百七十二章 天地御和合[天の岩戸開き]
『 昭和五年の十一月の初め、「天地根本大祖神」より創造神「天一天柱主大神」司宰神「天照皇大御神」地の親神「国常立大神」に対して、宇宙剖判以来空前の某大神勅降下せり。之が為め、同年十一月二十一日、「天照皇大神」(駛身界に御出現給いし「天照皇大御神」)地上に御降臨し給えり。斯くて「国常立大神」の日の本建替えの準備は漸次進捗して、昭和六年四月二十日に及び「国常立大神」より「天照皇大神」に対し奉り、
「地上建替準備完成及び其の実施に関しては、徐々に御下命ありたし。」
と御奏上あり。此の御奏上を聞召されて、司宰神「天照皇大御神」より、初めて『現界建替開始』の御神勅降下せり。』
『 天地御和合の神命は、駛身神霊界全般に亘りて残る隈なく伝達せられ、駛身四次元界の建替は、玆に全く完了を告げたり。即ち、も早や自在時代は終りを告げて限定の時代に入りたるを以て、先づ、「天照日大神」(太陽神)は、神の世界に於ける天津日嗣天職天皇の御位の侭にて、宇宙の宝座に即かせられて、宇宙の司宰神として、
天照皇大御神 (アマテラススメネホミカミ)
とならせ給えり*。次に「国常立大神」は更めて
国祖 地の親神
の座に御帰還あらせられたり。玆に於て、神代に於ける神政政治この方、初めて玲瓏玉の如き清浄なる駛身神霊界出現し、之より諸神協力して限身界即ち人類界の建替建直しに望む事となれり(昭和六年六月二十日)。』
[註* 明主・岡田茂吉様は、昭和六年六月十五日、御神命により房州(千葉県)鋸山瑠璃山頂に於いて、ご来光に向い祝詞ご奏上の砌、「夜昼転換」天啓をうけられました。(「御神書」七、神学 第二章御神格「東方の光」参照)]
第百七十四章 駛身界及限身界の将来
『 ここに現在三次元界に起りつゝあり、また将来起るべき、凡ての事象は、国祖「国常立大神」永年の準備、所謂その三千年の仕組みに従い「天照皇大御神」よりの登動の勅令を待って、始めて諸般の事象顕現し来るものにして、之が将来軈て吾人の面前に展開さるべき事象にて、善、悪共に、凡て、国祖の仕組みの権限に外ならず。従って、自在時代に於けるが如く、世界各国が鎬を削りて各自の利益の為に相争い、国際間には道徳存ぜざるが如き時代に生まれたる観察眼を以て、現在及び将来に起るべき世界諸国の趨勢を見んとする時は、大いにその認識を錯るものなり。例えば、東洋に於ける日本帝国の勃興は嘗て泰西諸国の不利を招来せし所にして、この為に日本は、之等諸国より事毎に抑圧を加えられ、猶将来も、依然同じ状況を繰返すべし。而も、此の抑圧は、現在及将来、其の形式に於ては過去自在の時代に於るものと相違する事あらざるべきも、其の抑圧の動機たる根本の精神に於ては、霄壌も只ならざる相違あるものなり。何となれば、
『日の本清掃の為に、現在及び将来、其の抑圧の矛を向け来れ。』
と云う国祖「国常立大神」の神策に基きて発動し来るものにして、その矛それ自体は在来のものと異る所なきも、そを発動せしむる根源には重大なる相違あり。即ち、今後の抑圧の矛は、善悪共に万事を悉く清掃し、日の本を確立すると云う以外には、何等の根拠も将また策謀もなきなり。
以上の意義に於て、現在国内に議喧しき農村不振商工沈滞等の状況の如き、決して憂慮するに足らざるのみならず、而も実は、当然起るべき事が起こりつゝあるに過ぎざるなり。故に、此の所謂国難の時期に善処する方策として、現代の政治家或は一般国民が様々に画策するが如き方法及びそれ等の人々が描くが如き解決の予想は、事実に於て何等の権威をも示すを得ざるものにして、此の解決は一に国祖「国常立大神」の御意志の侭に成り行くものにして、従って、此の国祖の御仕組みの中に於て、将来神政成就のために相当の破壊を行うべきを当然とする場合あらば、必ず其の破壊は勃発すべく、而も全く不可避に属す。故に、此の現在の状況を此の侭人力のみを以て弥縫し善導せんとせば、全く不可能に終わるものなり。要するに、現在の日本並に世界的苦境の打開は、人為を以てしては全く如何とも為し能はざるものにして、実に論議の結果にもあらず、政治的変革の結果にもあらず、将また戦争の結果にもあらず、全く自然の結果、即ち国祖「国常立大神」の御仕組み実施が進捗する結果として、天皇親政なる事実が実現し、之により打解され、之によりて新なる建設が行わるべきものと推知さるゝなり。』
<奉納:天川神社> <奉納:金北山神社>
< 原画 令和三年十月十五日>
作:荒川夏朶
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