抑々、本教誕生の理由は何であるかというと、先ず人類が数千年以前から孜々として作り上げた処の近代文化を検討してみる時、外形的には如何にも進歩発達し、絢爛たる容装は、実に幻惑されるばかりである。これを見る現代人が如何に絶讃し謳歌して来たかはいうまでもない。処が、飜ってその内容をみる時、これは又余りにも意外である。凡そ外形とは全く反対である事に気附くであろう。反対とは勿論精神方面であって、聊かの進歩も見られない。寧ろ古代人の方が勝っているとさえ思えるのである。今人間の心を善悪の計量器で測るとすれば、遺憾乍ら善より悪の方が多いであろう。
この事が、人類社会に如何に悪影響を与えているかは、蓋し予想以上のものがあろう。見よ人類の最大苦である戦争も、病気、貧困、犯罪、天災等の忌わしいことも少しも減らない処か、反って増加の傾向さえ見らるるにみて明らかである。この様に科学文化の進歩に伴なわない精神文化のあり方は、不思議といってよかろう。然もそれらの事実に対し疑問を抱かない処か、益々物質文化に酔い、拍車をかけているのである。世界各国の宗教家も、学者も、政治家も、多くの智識人はそれに目覚めないのはどうした訳か。中にはそういう人達も少しはあるであろうが、如何せんその根本が分らない為、止む事を得ないとし、寧ろ人類本然の姿であると、諦めてしまっているようである。
そうして、人類欲求の中心は、何と言っても幸福であり、幸福を得んが為には如何に智能を傾け、凡ゆる手段を尽くして来たかは勿論である。それがユートピアの夢となり、理想世界の念願となったのは言うまでもない。その意味から、初め人類は宗教に依存したのである。処が宗教のみによっての可能性が危ぶまれて来た結果、これを他に求めようとした。それが彼の中世紀以後支那を初め、ヨーロッパ方面に於て興って来た、教育、道徳、哲学等である。支那に於ては孔子、孟子、朱子等の碩学や、西洋に於ては、ソクラテスの如き教育家、カント、へーゲル等の哲学者等の輩出するあり、人類はそれらに期待をかけたのは勿論である。処が西洋に於ては十七世紀頃より唯物科学が擡頭しはじめ、凡ゆる面に亘って漸次改革が行われた。就中機械文明の発展は、俄然産業革命を起し、世界は挙げて科学に魅惑されてしまった。茲に於て人類は、今までのような宗教や道徳の如き迂遠な道を辿るより、眼に見え手で摑める実証的科学文化こそ無上のものとし、人類の幸福を増進し理想世界を作るには、これに若くものはないと思ったのも無理はないのである。
然も、事実を見れば文化の優秀なる国程富み栄え、戦備は具わり、国民生活は恵まれ、世界から尊敬され、国威は四隣を圧する勢となるので、これを見た各国家は、競ってそれに倣おうとした。それが為科学文化の興隆発達は目に見えて顕著となり、今日に到ったのである。処が人類は余りに科学文化に心酔し過信した結果、遂に精神界の方は虚脱状態となり、道義は地に墜ち、人間は只眼に見える物のみを追求し、いつしか科学の奴隷となってしまったのである。本来科学を支配すべき人間は、科学に支配されるようになったのは今日見る通りである。そのような訳で、現在の如く世界的禍乱の一歩手前の状勢に迄追いつめられてしまったのである。全く人類の前途や危しというべきである。
以上によってみても、人類最初の念願であった幸福も理想世界もいつしか忘れられ、遂に抜きも差しもならぬというのが現状であってみれば、文化が発達すればする程幸福は益々遠ざかるという皮肉極まる結果になり、丁度ブランコと同様、一方が上れば一方が下るという訳である。これを一層分り易く言えば、最初精神文化を以て天国を造ろうとしたのが実現しそうもないので、今度は科学文化こそ天国を作り得るものと思い込み全力を傾けて進んで来たのである。処が前述の如く、天国処か反って地獄よりも恐ろしい人類破滅という段階にまで来てしまった。それが彼の原子爆弾の発見である。これ程の危い時代となってもまだ目が醒めず、相変らずの唯物科学崇拝である。一言にしてこれを言えば、唯心文化で失敗し、唯物文化で又失敗して、まだ懲りないという悲惨事である。とすれば、一体どうすればよいかという事こそ全人類の切実な課題でなくてはならない。それは今迄の過誤を認識して再出発する事である。即ち精神に偏らず物質にも偏らない両々一致した中性的新しい文化形態であり、それによってのみ天国は実現するのである。
以上によってみる時、現在は丁度旧文化と新文化の交代期ともいうべく、吾等が常に言う処の世界的大転換時代である。有史以来、斯くの如き人類にとっての大異変があったであろうか。実に空前の大問題である。併し乍ら旧文化に取って代るべき新文化とは、果して如何なるものであろうか。勿論この事は到底今日の人間の智能では片鱗だも摑めない事はいうまでもないが、それでは一体如何なるものであるか、何人がその様な新文化創造の掌に当るであろうかという事である。茲で初めて信ずると信ぜざるに拘らず、神というものの実在を肯定するより外にない事になる。
従って、これから神に就いての説明をしてみるが、単に神と言っても、実は上中下の階級があり、千差万別の役目がある。神道にては八百万あるというが、全くその通りで、今日迄神といえば、キリスト教的一神教と、神道的多神教のどちらかであった。併し両方共偏った見方で、実は独一真神が分霊して多神となるのであるから、一神にして多神であるというのが本当である。これは私が永年の神霊界研究によって得たる結論であって、この考え方も今日まであるにはあったが、それ以上は説け得ないようであった。そうして今日迄最高神として崇められて来た神と雖も、実は二流以下の神であって、最高神は遥か雲の彼方に坐し、只人類は遠くから礼拝していたに過ぎなかったのである。では最高神とは何ぞやというと、主神に外ならないのである。エホバ、ロゴス、ジュース、天帝、無極、再臨のキリスト、救世主等の御名によって、各民族各国家の人民が称え来た神である。主神の御目的は真善美完き理想世界を造るにあるので、それにはすべての条件が具備しなければならないので、神はその時を待たれ給うたのである。その時とは即ち現在であってみれば、人類はこの事を先ず認識しなければならないと共に、自己自身の精神革命こそ喫緊事である。
右の如き、時に就いての一つの証拠をかいてみよう。近来米国で唱え始めた世界国家という言葉がある。これはいうまでもなく、世界を打って一丸とした理想世界の事であって、これが可能にまで物質文明が進歩したという訳である。如何に天国を造るとしても、文化が低く民族や国々が個々別々であったり、交通が不便であるとしたら、世界は不透明で、根本である人類思想の統一も出来ないからである。そうして愈々新文化の創造時代となったとしたら、その雄大なる構想はいかなるものであろうかを予め知って置く必要があろう。勿論その為には神は一個の人間を通じて行わしめると共に、その人間を機関として一大経綸を行わしめるのは当然である。それに選ばれたのが、誰あろう私という者であるとしたら、本教の出現の理由も理解出来ない事はあるまい。故に神は天国の設計を時々刻々私に向って啓示され給うので、私はその命のまにまに経綸を行いつつあるのである。それと共に、旧文化の中からも役立つべきものは残され、そうでないものは革正して役立つものにされ給うという事である。それが神の大愛である。それ以外のものは遺憾乍ら永遠に滅びるより外はない事になろう。これが最後の審判でなくて何であろう。実に有難くもあり、恐るべきでもある。只茲で遺憾な事は、私が神示の儘を発表する場合、唯物主義者は異端視し非難攻撃を浴びせるが、これも一面無理もない。何しろ長い間、曩に述べた如く精神か物質かどちらかの文化の経験しか持たない人類であってみれば、どちらにも偏らない中性的新文化など、容易に理解出来ないのは当然であろう。そうして精神文化の側の人は、吾等の現わしている現当利益を以て、物質のみを追求する低級信仰といい、只精神の満足のみを求めるのが高級となし、学問的に難解な字句を並べて、独りよしとしている。処が事実最大多数者を救わんとするには、理論宗教のみでは効果が薄いとしたら、既成宗教不振の原因もこの点にあるのではないかと思うのである。
今度は唯物主義の側の人の観方であるが、これは又物質偏重の為、何でも目に見える物以外は悉く迷信と断じてしまう。勿論、神の実在など信ずる余地もない。然も始末の悪い事には、少く共日本の指導階級、所謂有識者と言わるる側の人々にこの種の人の多い事実である。その為吾々の信仰に対しても極度に迷信視し、筆に口に反対する。甚だしいのになると、近寄る事さえ戒める者もいる位であるから、大衆はそれに惑わされ、吾等の真相を把握する事が出来ず、兎もすれば触れる事を躊躇するのである。従って結果から見れば、智識人の多くは知らずして文化の阻害者という事になろう。尤もこの事は洋の東西を問わず、新しいものが生まれた場合、必ずといいたい程反対者が出るもので、これは時代の先駆者が被る悲哀な宿命とも言えよう。
茲で面白い事には、その時代の文化のレベルから僅か頭角を抜いた位の説が出た場合、識者はそれを謳歌し称讃するものである。何となれば既成文化の教育を受けた人達はこの程度の説が最も理解しやすいからで、ノーベル賞受賞者の多くはこの種の学者である。処が偶々その時代のレベルから余りに飛躍隔絶した説を唱えるとすると、到底理解する事が出来ないから、反って異端視し、排撃し、抹殺しようとするのである。それらの例として、ヨーロッパに於ても、キリストを始めソクラテスやコペルニクス、ガリレオ、ルーテル等々先駆者の受難史を見ても明らかである。処が私の唱える説は、右の人達よりも層一層破天荒で、一世紀も二世紀も進歩したものである以上、初めて聴く人や既成文化に固った人達は、唖然として、進んで検討しようともせず、頭から極端な迷信として葬り去るのである。併し若し単なる突飛な説であるとしたら、これ程非難攻撃を浴びせられ、搗て加えて絶えず官憲の圧迫を受け乍ら微動だもせず、益々発展を加えつつあるのは、其処に何物かがなくてはなるまい。吾々は今日まで荊の道を潜り、槍衾の中を突破した事も幾度あったか知れない。にも拘らず、予想以上に天国建設の事業は進展しつつあるのは、人間の理窟では解け難い事を覚らない訳にはゆくまい。何よりも一度本教の信者となるや、何人と雖も一宗の教祖位の救いの力を現わし得る事である。一信者にして奇蹟を現わすなどは日常茶飯事といってもいい。実に素晴しい現当利益である。そうして本教の教えによれば人生の妙諦を会得し、真理に目覚め、日常生活は改善され、心中明朗となり、確固たる信念の下、未来に渉って迄も透見されるので、真の安心立命を得るのである。何よりも本教信者は時の経るに従い人相がよくなる事である。というのは、浄血者となる以上、健康は増進し、前途の不安は消え、品性も向上するので、世間の信用は高まり人々から敬愛されるという、有徳者となるからである。そうして本教のモットーである地上天国を造るその基本条件としては、先ず個人の向上であり、天国人たる資格を得る事である。このような人間が増えるとしたら、世界は個人の集団であるから、やがては地上天国出現となるのは勿論である。
(世界救世教早わかり 五頁)
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