或客との対談

「貴教団の凡てのやり方は(まこと)に我意を得ているが、ただ一つどうかと思うのは、余りに病気治療に専念し過ぎはしないかと思うが、この点御高見を伺いたい」

「貴君のそう思うのは無理はない。既成宗教のやり方が常識となっている現代人として、そう見るのは無理はないが、本当のことをいえば、私のやっていることは宗教とはいえないかもしれない。では何であるかというと、救いの業というべきであろう。救いの業とは一言にして言えば病気を治すことだけで、外には何もないのである。というと、一寸変に聞えるであろうが、実はこうである。みんな病気を狭義に解釈している。病気といえば人間だけと思っている。処が私は広義に解釈する。すなわち病気とはひとり人間のみではない。社会も国家も世界も現在は(ことごと)く病体である。例えば日本だけにみても、支配階級の苦悩は頭痛であり、上層階級の転落(てんらく)は脳溢血であり、悪思想の蔓延は肺結核で、心臓の悪いのは社会一般の不安恐怖である。金詰りは血行が悪く貧血であり、勤労階級の苦悩は手足の苦痛というように、国全体が病体であり、半身不随で苦しんでいる。世界も勿論同様であろう。とすればこれを如何にして健康体になすべきやというのが、人類に課せられたる、少くとも文化人に課せられたる大問題である。

 処が、基督教は別とし、今日までの宗教、道徳、法律等では一時的苦痛緩和のカンフル注射位の効目(ききめ)はあるが、全治させることは不可能であることは、現実が証明している。この意味によって、どうしても絶対的強力なる療法が生まれなくては、人類の不幸は益々甚だしくなるばかりだ。本教が生まれたのも、全く生まれるべくして生まれたのである。勿論広い世界と雖も二十億の個人の集団である。とすれば、先ず個々人の病気から解決してゆかなければならない。それより外に有効な方法はあるまいからである。

 最初に私が言った本教は宗教ではない、救いの業という所以で、本教が治病に力をそそぐということも理解されたであろう」

「成程、分りました」といって帰った。

(光 二五号)

 

 

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