――正統とされる初期の歴史書――

 本居宣長は、古事記・日本書紀は天武帝によって語られた神典であり、書かれていることは正しいとした。こざかしい人間の知恵で、神のことをあれこれ言挙げすることをやめて、神の言葉をそのまま聞けという宣長の解釈に基き、戦時中の教育はそれを歴史的事実として教えた。津田左右(そう)吉(1873-1961)は、両書の神話は大部分6世紀の大和朝廷の指導者によってつくられた虚偽とした。

【「古事記」(3巻)・・・・・・712年撰進】

 天武帝(在位673―686)の命によりつくられた歴史書。上巻は神代、中巻は神武帝から応神帝まで、下巻は仁徳天から推古帝(在位592-697)までの歴史記述。神代の話が全体の1/3を占め、中巻においても神に関する記述が多く、どちらかといえば神事(宗教)に関する書。

 神代の巻(上巻)・・・・・・①イザナギ・イザナミの出現、②アマテラスとスサノオの生誕、③アマテラスの子アメノオシホミミとスサノオの子孫オオクニヌシの生誕、④オオクニヌシの国譲りとアメノオシホミミの子ニニギの天孫降臨、⑤イワレヒコの生誕――初期の神代の巻(巻1、2)も同じ構成

 記紀をつくるときに材料になった、古事記の序文にある帝紀・旧辞は、6世紀前半、安閑・宣化・欽明の時代に作られたといわれている。

 「古事記」は、天武天皇の発案によって、稗田阿礼(ひえだのあれ)が「帝記」「旧辞」を繰り返し読み、太安万侶(おおのやすまろ)が4カ月かけて編纂、元明天皇の和銅5年(712年)に完成した。内容は前半が神々の誕生から国造り、岩戸隠れ、ニニギノミコトまで、その後は神武天皇から推古天皇までの33代の天皇記。

 一部の最初は、天地が現れて早い時期に成った、天津神の中でも特別な別天(ことあま)()(かみ)。男女の別がない(ひとり)(かみ)で、姿かたちもなく、すぐに御身(みみ)(みみ)を隠された。――――天と地が初めて分れて、高天原に出てきた神は、「天之(あめの)御中主(みなかぬしの)(かみ)」「(たか)御産(みむ)()(びの)(かみ)」「神産(かみむ)()(びの)(かみ)」。その後、まだまだ国土は若く、固まらない状態の中、「宇摩志阿斯詞備比古遅(うましあしかびひこぢの)(かみ)」「天之(あめの)(とこ)(たち)(のかみ)」が生まれた。

 次は(かみ)()七代(ななよ)で、国造りまでの神々――次に成りし①「国之常立神」②「(とよ)(くも)(のの)(かみ)」は独神で、すぐ身を隠された。次に、対で男神と女神がお現われになり、二柱で一代(ひとよ)と数える「十柱の神」――③男神の「宇比地邇(うひじにの)(かみ)」と女神の「須比智邇(すひちにの)(かみ)」。④男神「角杙(つのぐいの)(かみ)」女神「活杙(いくぐいの)(かみ)」。⑤男神「意富及(おおと)(じの)(かみ)」女神「意富斗(おおと)()地神(じのかみ)」。⑥男神「於母陀流(おもだるの)(かみ)」女神「()夜調(やか)()古泥(こねの)(かみ)」。⑦男神「伊耶那岐神」女神「伊耶那美神」。――そして、天つ神(高天原の神全体)の命によって、イザナギノミコト、イザナミノミコトは「国生み」(国を(おさ)(つく)り固め成せ)と、神生みをなされた。その後は、数々の神々や、天照大御神、素盞鳴尊、大国主命などの数々の物語から、岩戸隠れまで。

 「続日本記」には古事記撰修について一言の記事もなく、日本書紀撰修についても720年につくられたと一行触れているだけ。日本書紀編纂が国家事業であるのに対して、古事記編纂が天皇と阿礼との個人的な話し合いによってつくりはじめられた個人の仕事であった配慮か?

 太安万侶と稗田阿礼が古事記をつくったといわれる。多氏(太氏)である太安万侶は他の書物にも記録がある実在の人物であり、多氏は壬申の乱に成り上がった氏族である。古事記以外に稗田阿礼という名前はなく、日本書紀にも「続日本記」にもない。朝廷と少しでも関係のある氏族はほとんど登録されている「新撰(しんせん)姓氏録(しょうじろく)」にも、阿礼が属している稗田という氏族の記録はない。平田篤胤や柳田国男は阿礼を女としているが、実在の人物ではなく、藤原不比等ではないか。

<理由> ①記紀は、中臣神道の思想、ミソギ・ハライを根本の思想としている。

②記紀の神話は、藤原―中臣氏に有利に作られており、藤原氏以外の他氏に有利な生地はほとんど皆無。

③古事記は、天武天皇が舎人稗田阿礼に暗記させ、阿礼は二十何年間暗記していたものを、太安万侶に筆記せしめたと考えられているが、この暗記説は不合理。

 古事記の主要なねらいは、天皇家と諸豪族、とくに中臣家の権威の由来を、神統譜をもとにして設定する点にあり、日本書紀は、それをふまえながら、律令制の成立にいたる政治過程において、あらかじめ設定された価値序列の検証を行えばよかったのではないか。このとき、藤原氏の氏長である不比等は、一族を完全に掌中に治めていた。古事記、日本書紀の撰修の中心は藤原氏以外にないと考えられる。

 「(おおの)朝臣(あそみ)安万侶(やすまろ)(?―723)の序文」 ―― 天武帝から歴史撰修の命があり、稗田(ひえだの)阿礼(あれ)(生没年不詳)は、「帝皇(すめらみことの)日継(ひつぎ)及び先代(さきつよの)旧辞(ふること)()み習」わしたが、時代が変わって中断していた。元明天皇の御世に、再び歴史撰修の事業が復興され、712年1月28日、稗田阿礼の誦むところの旧辞を撰録して献上した。

 ミソギ・ハライは古事記の中心思想であり、同時に「大祓の祝詞」が中臣の祝詞といわれるように、中臣神道の中心思想を表す。

【「日本書紀」(30巻)・・・・・・720年撰進】

 天武帝の命によってつくられた持統帝(在位686-697)までの歴史書。神代の話が2巻で全体の1/10以下。当時の日本や外国に流布していたらしい多くの本を引用している。

 日本書記は引用書を挙げることに比較的厳密で、個人の記録、個人の史書なども書名を明記して引用しているが、最も近く撰修され、最も内容的に深い関連のある古事記については語らず、全扁一度もその名がない。

 日本書紀撰修について、日本書紀や「続日本紀」は、あまり語っていない。

続日本記(しょくにほんぎ)

 天武帝によってつくられた新しい日本国家の基礎が、徐々に固まっていく時代の歴史が書かれた国家の正史。統一国家としてまず律令がつくられ、都・年号・祝詞・宣明も必要となる。その一端として修史事業が必要とされたと考えられる。舎人(とねりの)親王(みこ)(?-735)を中心とする修史事業集団によってつくられた。

 

 

Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.