金峯山寺

奈良県吉野郡吉野町吉野山2498

吉野山から山上ヶ岳にかけての一帯は、古くから金の御岳(かねのみたけ)、金峯山(きんぷせん)と称され、古代から世に広く知られた聖域とされていた。山号の国軸山は、日本国の中心軸に位置する寺という意味。

白鴎年間(7世紀後半)、役行者は、金峯山の山頂にあたる山上ヶ岳で一千日間の参籠修行されて、金剛蔵王大権現を感得。蔵王大権現を修験道の本尊として、その姿をヤマザクラの木に刻んで、山上ヶ岳の頂上と山下にあたる吉野山にお祀りされたことが、金峯山寺の開創。以来、金峯山寺は、皇族貴族から一般民衆に至るまでの数多の人々から崇敬をうけ、修験道の根本道場として大いに栄えた。明治初年の神仏分離廃仏毀釈の大法難によって、一時期、廃寺の憂き目を見たこともあったが、篤い信仰に支えられて仏寺に復興。現在では、金峯山修験本宗の総本山として、全国の修験者・山伏が集う修験道の中心寺院となっている。

また、役行者が蔵王権現のお姿を山桜の木に彫刻したことから、吉野山では山桜がご神木として保護、献木され、日本一の桜の名所となった。桜の時期に行くと、山全体が桜になる感じ。山の麓に近い方から、下千本、中千本、上千本、奥千本と分かれ、咲く時期もずれることもあって、1ヶ月ほど桜の期間が続く。

――役行者――

修験道の開祖と仰がれる役行者は、日本の正史の一つである続日本紀の文武天皇3(685)年5月24日の条に記される実在の人物。

寺伝では、舒明天皇6(634)年正月元旦に、葛城上郡茅原の里(現在の御所市茅原)で生誕。幼少の頃から英邁利発で、当時の世相を慨嘆して、葛城山(現在の金剛葛城連山)に入って修行。続いて、全国の霊山を開山した後、熊野から吉野大峯の山々に入って修行。最後に、大峯山山上ヶ岳で一千日の参籠修行をして、金剛蔵王大権現を感得。そのお姿をヤマザクラの木に刻んで、山上ヶ岳と山下の吉野山にお祀りされたことが、修験道と金峯山寺の始まりとされている。

大宝元(701)年6月7日に、箕面の天井が岳で昇天されたとも、天竺に渡られたとも伝えられる。没後一千百年にあたる寛政11(1799)年、時の光格天皇様より神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を賜る。

 

<蔵王堂(本堂)>

金峯山寺の本堂である蔵王堂は、単層裳階付き入母屋造り檜皮葺きで、高さ34m、裳階の四方36mの豪壮な建造物。

  

  

木造古建築としては、東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇る。本尊金剛蔵王大権現三体のほか、多くの尊像を安置している。1m以上もある三鈷杵が展示されている。

白鳳年間に役行者が創建と伝わる蔵王堂には、「山上」と「山下」の2つある。山上の「大峯山寺の蔵王堂」への道はとても険しいため、いつでもだれでもお参りできるよう、山下の「金峯山寺の蔵王堂」が建てられた。

【金剛蔵王大権現】

金峯山寺の本尊「金剛蔵王大権現」は、約1300年前に修験道の御開祖である役行者神變大菩薩によって感得された権現仏。「権現」は「権(かり)に現れる」という意味で、3体の仏様が合わさって神になった、仮の姿。その「権現」に対して、本来の仏の姿のことは「本地仏」といい、蔵王堂の裏にある本地堂で、3体の蔵王権現に対応する本地仏、釈迦、千手観音、弥勒が祀られている。

寺伝では――飛鳥時代、政権抗争が激しく、世の中が乱れていた。役行者は全国の霊山を御開山になった後、熊野から大峯山脈の稜線伝いに吉野で修行されること33度、最後に金峯山(大峯山)山上ヶ岳の頂上で一千日間の参籠修行をされた。苦しみの中に生きる人々をお救いいただける御本尊を賜りたいという役行者の祈りに応えて、まず釈迦如来、そして千手千眼観世音菩薩、弥勒菩薩の三仏がお出ましになられる。その三仏の柔和なお姿を見て、役行者はこのお姿のままでは荒ぶ衆生を済度しがたいと思い、「もっと強いお姿を」と願った。すると天地鳴動し、山上の大盤石が割れ裂けて、雷鳴と共に湧き出るが如く、忿怒の形相荒々しいお姿の御仏がお出ましになられる。「小角よ。お前の求める姿はこの姿か!」役行者は、これぞ末法の世を生きる人々の御本尊なりと確信。そのお姿をヤマザクラの木に彫刻して、山上ヶ岳と吉野山にお堂を建ててお祀りした。これが金峯山寺の始まりで、修験道の起こりと伝えられる。

それぞれ過去、現在、未来を守護される「釈迦・観音・弥勒」の三仏が、柔和なお姿を捨て、忿怒の形相荒々しいお姿となられた3体の秘仏本尊「金剛蔵王大権現」は、蔵王堂の中心に祀られているが、普段は大きな厨子で閉ざされている。中尊は7・28メートル、向かって右側が6・15メートル、左側が5・92メートル。巨大な厨子に入られた日本最大の秘仏は、全身が慈悲と寛容を表す青いお姿で、憤怒の中にも全てを許す「恕(じょ)」のお姿で、とてつもない迫力がある。

(本尊御開帳のリーフレットより)

3体がお出ましになる御開帳時は、ご本尊のすぐ真下でお祈りできる。

<仁王門国宝・世界遺産>

北側から吉野大峯に入峰する人々を迎える仁王門は、日本屈指の山門。巨大な石垣の上に建つ、重層入母屋造り本瓦葺き、棟の高さ20.3m、創建年代は不詳。本堂が南を正面とするのに対し、仁王門は北が正面。現在の建物の下層は、南北朝期、上層は康正年間の建造と推定され、金峯山寺に残る諸堂の中で最も古い建造物。

下層の正面両脇には、身丈5.3Mほどの阿形・吽形2体の仁王像(重要文化財)を安置。両像は、奈良東大寺南大門の仁王像に次ぐ巨像で、南都仏師の康成(こうじょう)が、延元3(1338年)年に阿形、延元4年(1939年)に吽形を造立した。

国宝で、世界遺産の中核資産に登録されている仁王門は、現在、解体大修理事業中で、事業終了までの間、仁王像は奈良国立博物館に寄託されている。南北朝時代に建立されたと考えられている仁王門は、平成30年より大修理に着手。

<観音堂>

南北朝・室町時代ころの創建。本尊十一面観音立像は南北朝の作とされ、脇に安置される阿難・迦葉尊者立像(あなん・かしょうそんじゃりゅうぞう)は、現在は廃寺となっている世尊寺(せそんじ)に安置されていたと伝わる。

<愛染堂>

本尊は愛染明王。現在の堂は、明和7年(1770)に経蔵として建立され、その後、護摩堂として使われていた。昭和58年(1983)、それまで蔵王堂に安置されていた愛染明王を遷座し、愛染堂とした。この像は明治の初めに廃寺となった安禅寺に安置されていた。

<四本桜>

蔵王堂の境内、石の柵の中に桜が四本植えられ、「大塔宮(だいとうのみや)御陣地」と刻まれた石柱が建っている。

元弘3年(1333)、大塔宮護良親王(だいとうのみやもりながしんのう)が、鎌倉幕府勢に攻められて、吉野落城を覚悟して最期の酒宴をした所。その際の陣幕の柱跡に植え続けられているのが、この桜。

<蔵王権現本地堂>

食堂(じきどう)の跡地に、役行者1300年大遠忌を契機として建立された。本地堂には、蔵王権現の本地である釈迦・千手観音・弥勒の三尊、役行者・前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)像が安置されている。

<鐘楼>

蔵王堂の西脇に建つ。創建は不詳だが、文永元年(1264)に落雷によって焼失した記録がある。江戸時代以来、時刻や法要を告げる鐘として使用され、除夜の鐘としては参拝者全員が撞くことができる鐘でもある。

<南朝妙法殿>

昭和33年(1958)、南朝の四帝と忠臣たちを祀り、第二次世界大戦の戦死者と有縁無縁(うえんむえん)の霊を合祀する三重塔として建立。

かつて、ここには後醍醐天皇が行在所とした実城寺があり、毎年10月15日に後醍醐天皇御聖忌法要が営まれる。南朝妙法殿には、旧実城寺の本尊と伝えられる、奈良県指定文化財の木造釈迦如来坐像が安置されている。

<聖仏舎利宝殿(せいぶっしゃりほうでん)>

昭和42年(1967)11月24日、インド政府から贈呈された仏舎利(お釈迦様の御真骨)を安置するために建立された。南朝妙法殿のさらに奥、脳天大神龍王院(のうてんおおかみりゅうおういん)への参道沿いに位置する。

<役行者銅像>

修験道の開祖、役行者の大銅像。戦後、女性行者のための行場として、蔵王堂の西方の谷間にある一の滝(龍神池)を開いた際、昭和26年(1950)に行場の入り口に建立された。

役行者には、夫婦の鬼が付き従う、手に斧を持った前鬼(ぜんき)、水がめを持った後鬼(ごき)は、生駒山の暗峠(くらがりとうげ)で人の子をさらう悪い夫婦の鬼だったが、役行者がこの夫婦の子供を隠しておびき出し、調伏したと言われている。

<脳天大神龍王院(のうてんおおかみりゅうおういん)>

 昭和26年(1951)、当時の管領五條覚澄(かくちょう)の手によって創祀され、蔵王堂の西方の谷あいに位置する。

ある日、滝へ向かう途中、頭を割られた一匹の蛇に遭遇し、手厚く回向(えこう)したところ、翌日から夢に現れるようになり、ついにはある人に憑依して「まつられたし、まつられたし。吾(われ)は頭を割られた山下の蛇である。蔵王の変化身である。脳天大神としてまつられたし。首の上の如何なる難病苦難も救うべし」と告げたという。こうして、現在の金龍王(きんりゅうおう)の地に霊標が立てられたが、多くの参拝者が来るようになったため現在地へ移転した。

今では「脳天さん」と多くの人によばれ親しまれている。また、境内にある宝泉坊には、水子地蔵尊が祀られて、8月22日の大祭には多くの参拝者で賑わう。

<銅鳥居(かねのとりい)(重文)>

仁王門から北へ約200m。銅鳥居(かねのとりい)は蔵王堂の北方、北向きに建つ鳥居型の門。大峯山上に詣でるまでの間にある四門の最初にあたり、発心門(ほっしんもん)と称され、菩提心(ぼだいしん)を起こすところとされている。

ここは、入峰修行の行場の一つで、「吉野なる銅(かね)の鳥居に手をかけて 弥陀(みだ)の浄土に入るぞうれしき」という秘歌が伝えられている。また、聖武天皇の勅願により東大寺大仏の余った銅で建立したという伝承がある。「太平記」には、正平3年(1348)に高師直(こうのもろなお)が来攻した際に焼け落ちたとされ、室町時代に現在のものが建ったと言われている。

<二天門跡>

二天門は、かつて蔵王堂の南に南面して建っていた門で、大峯から出峰してきた行者を迎える門だった。

元弘3年(1333)1月16日、鎌倉幕府が攻め寄せたとき、村上義光(むらかみよしてる)が大塔宮護良親王(だいとうのみやもりながしんのう)の身代わりとなって、二天門で切腹したという伝説がある。江戸時代の絵図の中には二天門を描くものがあるが、実際には南北朝時代の焼失後、ついに再建されることはなかった。

現在二天門跡には、「二天門跡村上義光公忠死之所」と刻まれた石柱がたたずんでいる。

――金峯山修験本宗

役行者が創始した修験道は、一宗一派に偏ることなく、吉野大峯をはじめ全国の霊山を道場とする実践実行の活宗教だった。中でも、金峯山寺は山上と山下の両蔵王堂を中心に、百数十の塔頭寺院が建ち並ぶ一大聖地だった。

しかし、江戸幕府から、金峯山寺は日光輪王寺宮の支配下とされ、比叡山の影響を強く受けることとなる。加えて、明治の神仏分離廃仏毀釈の大法難によって、金峯山寺は一時、廃寺の憂き目を見るが、その後、天台宗として寺院に復興した。

第二次世界大戦後、信仰の自由が保障され、本来の姿に帰すべく、昭和23(1948)年4月10日、現在の金峯山寺を中心に大峯修験宗の立宗を宣言。昭和27年、金峯山修験本宗と改称して、伝統教団としての宗派となって以来、蔵王堂の昭和大修理をはじめとする数々の伽藍整備を行い、全国の末葉寺院・教会とともに、修験道の広宣と教信徒の教化布教に努めている。

――修験道

修験道は、人間誰もが持っている自然に対する畏敬の念、いわゆる自然崇拝に外来の仏教、道教、陰陽道などが融合して成立した我が国独自の宗教。修験の修とは苦修練行、験とは験得の意味で、苦修練行することによって霊験を得て、衆生を済度する道といえる。修験道の修行者は、「修験者」「山伏」と呼ばれ、役行者をその開祖と仰ぐ。森羅万象ことごとくを神仏の応化神とする修験者達は、苦修練行の場を山に求め、中でも吉野の山々に分け入って深山幽谷に身を置いて修行することとを尊び、吉野大峯は修験道の根本道場とされている。

 

 

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