(お 伺) 昭和十七年祈願詣りの帰途眩暈を感じ、医師の診察を受けましたが病名判らず、続いて三年程して血清検査を受けましたが異状無しとの事でした。併し気分は少しも変りませんので、十カ所余りの医師、鍼灸、指圧等の治療を受けました。或医師より、頭の中の病気故脳外科え(へ?)行く様にと奨められたので、十九年九月千葉医大え(へ?)入院し、四十日程して、やっと脳腫瘍ではないかとの診断を受けました。当時歩くのに中心がとれず、体が左に片寄って居りました。深部レントゲンを一日二回づ(ず?)つ三回かけましたが、頭痛、嘔吐は増し、退院帰宅後は益々頭が痛み出し床に就く日が多くなりました。二十三年十二月中旬頃急に腹痛を覚え、医師の診断で腸腫症との事で手術しなければと言われましたが、薬と注射で痛みは止りました。其後右下腹部に卵大の固結が出来、便秘勝ちとなり、此固結は其後一年程してなくなりましたが、便秘は増して一週に一度位は下剤をかけました。現在頭が非常に痛く、絶えず頭の中で土用波の様な騒音がし、目の奥が痛く、顔や胸が熱く感じて非常に苦しく、併し手足は冷え、時々脳の発作があり、持って行った食膳をひっくり返したり、無理難題を強いたり致し、後で正気に戻ると「申訳なかった。私がしたのではなく、何かにさせられたのだから」と言って詫びるのです。尚非常に苦痛のある時でも食事をすると、一時大変楽になり、二、三時間後又苦しくなり、又味覚は家族と異り、塩辛い物も、時によっては本人には甘く感じ甘いものでも塩辛く感じ、それが時間の経過によって甘、辛、酸と色々に変化致します。夜、睡眠中に大声で騒いだり、呟いたり、又急に起上って隣に寝ている人を擲ったり等致しましたが、最近は寝言丈にとどまりました。尚嗅覚が非常に強く、普通人にはとても感じられぬ様な臭いも感じて、大変に苦しんで居ります。何か霊的にも関係ある様に見えますので、前住者に色々と質ねた処左の事柄が判りました。前住者の祖母は裏の堀に入り水死し、今は堀は埋めて水神様として懇ろにお祀りして居りますが、水死の原因は此家の主人が或古屋敷を買った処、古屋敷は元首吊り等して絶家したそうで、その例に祖母は取殺されたと言う事が判り、早速其屋敷を売り払いましたが、其買取人の家にも不幸を出したそうで御座います。其為水死の霊と古屋敷の霊とを五十年よくお祀りしたからと言って安心して東京に行かれました。其後私共は昭和十年春此家に移転しましたが、昭和十二年祖母が精神異状(常?)を来し凡ゆる無理な事を言っては人を困らせ死亡しました。十三年には主人の弟が肋膜炎を患い、五年後に全治し、それと交代した様に母が病み、前記の症状で今日に及んで居ります。其間祖父、私の子二人も他界して居ります。光明如来様は未だお迎えして居りませんが、御屏風観音様を御奉斎させて戴いて居ります。尚母は入信して居りませんが、母の浄化に就き御教示賜り度御願い申し上げます。
〔御 垂 示〕
之は一日も早く光明如来様をお祀りしなければ駄目です。歩くのに中心がとれないと言うのは、霊が憑っているんですね。レントゲン――之は非常に悪いですね。嘔吐と言うのはレントゲンの為です。一回づ(ず?)つ三回なら大した事はない。だが悪いですね。兎に角頭にかけては非常に悪いです。卵大――便秘、之は何でもないですね。土用波――目の奥が痛く――脳貧血ですね。延髄部に固まりがありますよ。之は動物霊が憑っている。甘く感じ――之は動物ですね。擲ったり――嗅覚――之もやっぱり動物の本能ですね。水神――之は関係ない。首吊りとも関係ないですね。精神異状(常?)―之は関係があるかも知れないですね。之は犬か猫――そう言うものでしょう。擲ると言うのは、自分が生きている時擲られた、その因縁が残っているんですね。この家は光明如来様を早くお祀りしなければ駄目です。そうして出来るだけ御神書を読んで、やっぱり人助けをしなければならない。そうして罪が減っていくに従って、このお婆さんも良くなる。その犬猫の霊も祖先の一員で畜生道に落ちている。それを救ってやらなければならない。浄霊は頭ですね。前頭部の中と頸の廻りですね。そして気長にやれば段々良くなります。
(お 伺) 一家入信、御神体、御屏風観音様も御奉斎させて戴いて居ります。此度の父の浄化に就きお伺い申し上げます。
五十四、五歳頃迄は時折風邪を引く程度で、学校も無欠勤で御座いました。三年程前に空腹になると胃部に痛みが起り、食べれば止まる状態で当時「わかもと」「ノルモザン」「ともさん」等服用。又歯槽膿漏の為アルバヂル、ヂセプタール等の売薬を服用致して来ました。其後下痢の浄化を極度に恐れ、下痢をとめる為に濃い「げんのしょうこ」を服用し続け、下痢は止りましたが顔色悪く食慾なくなり、医薬の恐ろしさを知り御守様を二十四年一月拝受致しました。其後三年間、今日迄御浄霊を毎日続けて居ります。この間御浄化は緩慢でしたが、痛まない日は御座いませんでした。併し御浄霊を戴き大変楽にさせて戴いて居ります。去る九月二十七日頃から腹痛激しく、十月一日から特に強い浄化を戴き、二日からは吐き気を催し、殆んど連続的な腹痛にてうめき通しにて、毎日四、五回薄茶色の水を多量に吐きます。食事をしないのでリンゴ汁等御霊紙、御饌米等共に戴きましても、全て嘔吐致します。四日夕刻は吐いた水は茶褐色の泥状のもので、お小便も茶色になりました。現在は激しい胸焼けと腹部全体言い様のない苦しさで御座います。
右御垂示賜り度謹んで御願い申し上げます。
〔御 垂 示〕
学校に行っていた、と言うと――先生かな。之は薬毒ですよ。「わかもと」「ノルモザン」「ともさん」は大した事はないが、「アルバヂル」は悪いんですよ。「アルバヂル」を少し続けて飲んで死ぬ人は沢山あります。非常に悪い。それから、げんのしょうこ―之が一番悪いですね。「げんのしょうこ」は自殺ですよ。あれを沢山飲んだ人は結局治らないですね。私は、昔そう言う人を沢山やったが――だから「げんのしょうこ」を沢山飲んだ人は請負わないでやれと注意した事がある。この人は薬毒の浄化ですが、以前と今は、浄化が強くなって違ってますから、早く出る。この人は大分早く出ているが、治らないとは言わないが、吐いたり出したりして命が持てば治ります。衰弱さえ旨く耐えれる様にすれば、きっと治ります。
食事は普通ですか、流動物ですか。
「何も食べません」
非常に良くないですね。浄霊は背中を多くやるんですね。背中に固まりがある。それで背中の毒が溶けて胸に来るんですからね。最近の力を入れないやり方でやっているんでしょうね。動かしては駄目ですよ。そうして、力を入れないでやれば溶けが早いですからね。前は水落が良いです。下痢はどうです。
「全然便秘して居ります」
「げんのしょうこ」は何の位服んだ。期間は。
「十日位で御座います」
之は薬毒ですよ。今言った通り、手を動かさないで、力を抜いて、背中を触ってみて一番固い処、そこをやる。肩は。
「柔かいのです。凝った事がないそうです」
それじゃ、大体丈夫な体ですよ。
「薬は入って居らず、予防注射位です」
それだから持っている。大体この年になって肩が柔らかいのは健康だね。今の様なやり方でやって、一寸でも食欲が出たら峠を越したと思って良い。
「名前は如何で御座いましょうか」
玄角峰吉――名前は良いでしょう。玄角周子――カネと読むかね。あなたの系統は中々大変なものですね。いずれ、あなたの名前は変えた方が良いが、今の処は別に何うと言う事はないから、今言った通り、浄化が強いから案外早く溶けて、越すかも知れないですね。兎に角原因は背中の固まりですから、それを早く取る様にして、出来るだけ何回でも良いからやって、背中の固まりを取る様に。
(お 伺) 妻美彌(四十三歳)は二十年前に長男出生後一年で婦人病に罹り、数年間医師の治療を受け、良くなりましたが、昭和二十一年春より肺尖カタルに罹り、衰弱していきますので困って居りました処、本教を知り私が入信し、一年間御浄霊を続け殆んど健康状態になりました。其後指導者を失い、お守様も神棚にあげて数年を過しました。其間昭和二十三年に、永らく子供が無かったのが、妊娠し臨月になるにつれ腎臓炎を起し医療を受けましたが、死産し、其時腹部を氷冷しました。その後は丈夫になり、死兒はお祀りしてあります。昭和二十四年春より頸部淋巴腺が腫れ上り、医師よ薬よと迷って居りました処、翌年二月滝先生の御指導を得、妻も入信致し、御浄霊を続けて半年程で丈夫になりました。本年八月十五日箱根に御参拝させて頂き、帰ってから腰部の痛みを感じ、諸先生方に御浄霊を御願いして居りましたが、段々痛みは激しくなり八月末から九月にかけて、毎夜八時頃より十二時頃迄、腰部全体に激痛が波状的に起り、苦しみます。御浄霊を戴くと楽にはなりますが、毎日斯る状態を繰り返して居ります。昨今は食事も殆んど摂りませんので日々衰弱していきます。熱は三十七、八度を上下して居ります。昭和二十五年八月御屏風観音様を、十二月に光明如来様を奉斎させて戴きました。如何致しましたらお救い戴けましょうか。
〔御 垂 示〕
指導者を失い――と言うのが大変な間違いですね。指導者を信仰しているんじゃないんだからね。之が抑々の間違いで、こう言う事をすると、どうもいけない。あとが中々取れない。肺炎カタルが兎に角健康状態になったと言う事は非常なお蔭ですから、尚一層信仰に強くならなければならないのに、指導者を失いと言うのは、あべこべです。然かも二十三年に、永らく子供がなかったのに妊娠――と言うのですから有難いんですね。それでも気がつかないので――医療を受け死産した。態々自分で悪い様に悪い様にしている。その後、氷冷――之も悪いですね。頸部淋巴腺――先に之(浄霊)で肺尖カタルが治ってい乍ら、医師よ薬よ――と言うのはおかしい。頭が何うかしている。之は、つまりやりそこなったんだから、取返えすんですが、やりそこなって、あとで取返えすのは中々簡単にいかないんです。一時御守護が切れますからね。やはり、救いの綱に摑まって居て、離したんだが、今度摑まっても中々簡単にいかない。衰弱――之が悪いんですね。病気の方は治るが、治る迄に衰弱で体が持たないとしようがない。腎臓と後頭部の毒が下に下るので、腰でも――腎臓ばかりじゃないですよ。腎臓の方は知れたものです。こう言う痛みは、後頭部を良く浄霊すると良い。食事が摂れないのは熱の為です。腰から上の方――背中も相当に毒がありますから、背中も精々浄霊すると、治る訳ですがね。腰と言うが、腰だけじゃ駄目です。上の方を肝腎にやらなければならない。後頭部から背中にかけてね。
(お 伺) 昨年九月入信、一年間御浄霊を戴いて居ります。右手が中風の如く常に震えて、日々何事も致しず(づ?)らくあります。右手の震う状態は左右に動き、細かい仕事をする時、筆を持つ時、食事をする時、力仕事を致す時、人の前に出た時、又非常に驚いた時、顎の重苦しい時等は特に震えます。昨今この震いの状態がひどくなりました。之が十四、五年続いて居り、その間種々な療法を致しました。又この発病直前に肩から背中にかけて、少し力仕事を致しますと腫れ上りました。又四、五歳の頃高い処から落ちて脳天を少し右に逸れた箇所に致命傷と思われる程の傷を受けて、常に頭は逆上の傾向にあります。右手の震う原因、御浄霊の箇所を御垂示賜り度く御願い申し上げます。
〔御 垂 示〕
ここ(頸部)に固まりがあると震えます。ここからこう(肩)来て、この(肩)中ですね。それだけを浄霊すれば段々治りますがね。それから頭の中ですがね。四、五歳の頃――打った為内出血して固まった為か、内出血がこう(頸部に)下がった為かで、右手のそこを浄霊すれば治ります。その代り、相当固まっているから長くかかります。
【御 教 え】
弥勒三会
(『文明の創造』)
(御論文「弥勒三会」のあとの御教)
之に就いて面白い話は、この間鎌倉の長谷の観音をメシヤ教で引き受けて呉れないかと言う申込みがあった。聞いてみると、観音さんの身の丈が三丈三寸と言う大きなものです。観音様さんのお姿は小さい方が良い。一寸八分が良いんですから、三丈三寸と言うのは大いに間違っている。だから、やり切れない事になる。そうすると、鎌倉の大佛さんより大きい事になる。大佛さんは座ってはいるがね。
もう一つ間違っている事は石で造ってある。この間もそう言う事があったが、何うしたら良いかと言うが、何うする事も出来ない。室内ではいけないからね。雨曝しなる訳ですが、外と言うのは外国と言う事になる。観音さんは家の中でお厨子の中に入れるのが本当です。ですから、若し金無垢で出来なければ、金箔を塗る。そうして小さい箱に入れる。普通は九寸が多い。木造のね。本当は尺八寸が良いですが、それを縮めて、半分の九寸でも良い。方々にある御本尊は大抵九寸ですね。つまり一寸八分と言う事は弥勒さんですからね。観音さんは弥勒菩薩ですからね。面白いのはビルマですが、ビルマは仏教国ですが、あそこの本尊は弥勒菩薩になってますね。反って、インドの方はお釈迦さんで、ビルマは弥勒さんになっているんだから面白い。
天国的宗教と地獄的宗教
(栄光一二七号)
世間宗教とさえいえば、その信仰者は精神的にも肉体的にも多大の恩恵を蒙り、安心立命を得て、幸福な家庭が作れるものと信じ、それにつれて社会も国家もよくなり、この世は天国楽土になるという理想を目標として、一意専心拝んでいるのは衆知の通りであるが、ここに誰も気が附かない重要な事柄があるからかいてみるが、それは宗教にも天国的宗敎と地獄的宗教の差別のある事である。
それに就いて遠慮なくいえば、今日までの宗教は悉くといいたい程地獄的宗教であって、真に天国的宗教はなかったといってもいいのである。としたら我救世教こそ初めて生まれた処の天国的宗教である事は言うまでもなく、従って今日までの宗教とは、何から何まで格段の異いさである。
信者は充分知っている事だが、本教がこれ程進んだ医学でも治らない病気を訳なく治してしまう事実は、毎号本紙に満載している通りであるが、それはどんな人でも、数日間教修を受けただけで、驚くべき治病能力を発揮出来るのである。博士から見放された病人でも治せるし、自分で自分の病気も治せるので、殆んど信じられない位である。併し事実は厳然たる事実であるから、疑う人は先ず実地に触れてみられたいのである。そのような訳で本教へ入信するや、月日が経つにつれて、自分も家庭の者も日を追うて健康になってゆき、遂には病なき家庭となり、元気溌剌たる者のみになるので、一家は明るく、凡てが順調に運び、真に歓喜の生活者となるのである。勿論何年も何十年も、医者や薬の御厄介になっていたのが、全然縁切りとなってしまうから、経済上からも、精神上からいっても、その利益の莫大なる想像も出来ない程である。これこそ全くの天国の救いであって、今日の如き地獄の世の中に喘いでいる人は、到底信じられない程で、これこそ人間理想の夢の実現でなくて何であろう。
右のような訳としたら、今の世の中の多くの信仰との異いさである。事実従来の宗教によっては、熱心に信仰しても病気に罹るのは一般人と殆んど同様で、止むなくお医者の御厄介になるが、容易に治らないばかりか、往々不幸な結果になる事もあるが、その場合寿命だから仕方がないと諦めてしまう。そうかと思うと、常日頃ヤレ風邪を引くな、結核菌や伝染病菌に冒(侵?)されるな、寝冷えをするな、暴飲暴食をするな等、何や彼や五月蠅い事ばかり言われ、戦々兢々とその日を送っているのが実状である。然ももっとも悲喜劇ともいうべきは、長年病床にあって呻吟し乍ら、御当人は神に救われたといって満足している人をよく見受けるが、これなどは吾々からみると全く自己錯覚である。このようになっても運命と諦め、無理に苦悩を押さえつけ強いて満足しているという常識で一寸考えられないこの観念を、信仰の御蔭と心得ているのだから可哀想なものである。それでも御当人だけは精神的に救われたとしても、周囲や家族の者は実に悲惨なものである。御本人もそれを知らない事はあるまいが、肉体的苦痛の余り、そんな事を考える余裕すらないのであろう。これを一言にして言えば、精神は救われても肉体は救われないという訳で、言わば半分救われて、後の半分は救われないのである。
従って真に救われたという事は、霊肉共に救われる事であるが、斯ういう宗教は恐らく世界にないであろう。このような訳で、せめて半分だけでも救われたいと思って、既成宗教の信仰者となるのだから、天国とは凡そ遠ざかっている事で、ヤハリ地獄的救いでしかないのである。何よりも今日大宗教となると殆んど病院を経営しているにみて明らかである。然も、社会はこれを是認し、立派な宗教事業と心得ているのだから困ったものである。何となればその宗教に治病の力が全然ない事を表白している以外の何物でもないからである。本来なれば科学より宗教の方が形而上の存在であるべきだが、これでは宗教の方が科学以下になってしまっている。一言にしていえば宗教としての生命は喪失してしまった訳である。これに引替え本教の特色である病気治しの成績であるが、事実科学ではどうにも治らない患者をドシドシ治している。これこそ生命ある宗教と言わずして何ぞやである。
次に本教は芸術を大いに奨励している。恐らく既成宗教も数あるが、本教位芸術に重きを置いているものは外にあるまい。というのはいつもいう通り、天国とは芸術の世界であるからで、即ち芸術は真善美の内の美である以上、最も重要なものである。言うまでもなく、人間にとって美から受ける感化は軽視出来ないものがある。美によって心を楽しませると共に、不知不識の内に品性を向上させ、平和愛好の思想が醸成されるからである。この事は大自然を見てもよく分る。先ず第一は山水の美である。四季折々の旅行等から受ける景観の美は、常日頃の穢れを洗い浄め、元気を回復し、明朗なる精神を育み、然も歴史上の智識をも豊富にされるのである。又如何なる町でも村でも、到る所の木々の緑、花の色、百鳥の囀り、春の野に舞う蝶々、秋虫の集く情緒等々、人間を楽しませる凡ゆるものは地に充ちている。天を仰げば日月星辰の輝きは、人の心をして悠久な神秘境に誘うのである。としたらこれ等一切は深い神意の現われでなくして何であろう。その他飲食にしても山の幸海の幸は勿論、人間の味覚を楽しませるものの如何に多いかである。取分け言いたい事は、人間に就いての美である。舞い踊る姿、唄う声の麗しさ、スポーツマンの均整美、女性の裸体美は固より、人間天与の技能としての絵画、彫刻を始め、種々の美術工芸、建築、庭園美等々、これ等も数え上げれば限りない程であって、全くこの世界には自然と人間の美が充ち溢れている。これ等を見て考えられる事は、神の御意志の那辺にあるかで、言うまでもなく将来天国を造るべく、その要素の準備でなくて何であろうと思われるのである。
私はこの意味に於ての一模型として、現在地上天国を造りつつあるが、この構想は凡ゆる自然と人工美を綜合調和させたもので、今日まで何人も試みた事のない劃期的新芸術品であろう。これによって万人神意を覚り、人生の喜びを深からしめ、心性の向上に大いに役立たせんとするのであるから、これを以てみても本教こそ天国的宗教である事が分るであろう。
処が、既成宗教に於ては、この美の観念に対しては、昔から実に無関心であった。否反って美を否定する事が、宗教本来のものの様に錯覚して来た事である。それは大抵な宗教信者は、熱心であればある程粗衣粗食、茅屋に住み、最低生活に甘んじているのである。これでは全く真善美ではなく、真善醜といってもよかろう。斯ういう信者の家庭に入ると、何となく湿っぽく陰鬱である、全く地獄の感がするのは衆知の通りで、これを吾々は信仰地獄といいたいのである。その頭で吾々の方を見るから分りよう筈がない。何しろ地獄の眼で見る以上、本教のやり方が間違っているように思えるのであるが、実はこの見方こそ恐るべき迷信である。したがって、この迷信を打破し、目覚めさせ、天国的宗教こそ真の宗教である事を認識させたいのである。
斯うみてくると、厄介なのは現代の世相である。それは科学迷信ばかりではなく、宗教迷信も加わって地獄世界を作っているのであるから、この盲点を充分わからせなければならないのである。それには宗教以上の超宗教、即ち天国的宗教が出現する事であって、それが我救世教である事を明言するのである。その理由こそ今までは夜の世界であったが為で、愈々昼の世界に転換せんとする今、天国創造の大使命を以て生まれたのが我救世教である事を知るであろう。
(御論文「天国的宗教と地獄的宗教」のあとの御教) 【註 栄光新聞一二七号】
今読んだ通り一番肝腎な事で、つまり今迄の世の中は苦しむ事を良いとして来たんですね。その結果人類は苦しみを楽しむと言う事になった。色んな宗教や精神の修羅場と言うものの説き方は、苦しみを楽しめと言う様に説いてある。病気で苦しみ乍ら有難い有難いと言う宗教がありますからね。あれは苦しみを楽しむと言うんで、大変な間違いですね。だから世の中の一切はねじれちゃった。素直に有りの儘と言う事はなくなって、おかしくひねくれちゃったんですね。そこで皆有りの儘と言う訳ですね。だから神様と言うのは、率直に感じた儘、見た儘――それが本当の神様の御心なんです。それを人間が色々にひねくれて、楽しく楽に行ける世の中を、態々ヘンテコに――苦しむ様につくっちゃった。だから、信仰を一生懸命し乍ら段々貧乏になったり、病人が絶えなかったりする。だから、言は(わ?)ばメシヤ教は宗教改革も一つの仕事になっているんですね。医学の改革やら、宗教の改革、農業も改革し、色んなものを改革するんですね。だから、それが判りさえすれば、目が醒めた様に有難くなるんですがね。何しろ長い間ひねくれた文化が続いて来たんで、分らせるのに骨が折れる。安いものを食って居た者に、偶々美味いものを食わせると、変に思ったりする。こう言う美味いものがあると言っても、そんなものがあるもんかと言うんだから仕(始?)末が悪い。
医学迷信
(栄光一二八号)
現代医学が、如何に素晴しい迷信であるかは、吾々にして初めて言い得ると共に、一日も放っておけない重大問題である事を叫びたいのである。処が之に輪をかける事実は、唯物医学と吾々の宗教医学とは、テンデ比べものにならない程の異いさで、月とスッポン処ではない、にも拘わらず医学の方を、真実のものと思い、吾々の方を迷信と見るのだから、恐らく斯んな不可解な話はあるまい。全く哀れなる者よ、汝の名は現代文化人と言わざるを得ないのである。左記の例はそれをよく物語っているから、此文を添えたのである。
(御論文「医学迷信」のあとの御教) 【註 栄光新聞一二八号】
こう言う事は誰方も始終あるでしょうからね。併し之だからやり甲斐があるんですよ。と言うのは、若しかお医者の方で片っ端から治したら、こっちに来る訳がないし、又簡単に神様の方がそういく訳がない。こう言う人達を済度して判らせると言う処に我々の仕事があるんだから、あんまり簡単にいき過ぎても、張り合がないし、こう言うのでも厄介だし、此程皆んな分らなくなっているから、大いに救うべき必要がある訳だから、一寸考えても残念で我慢が出来ないのですがね。又良く考えれば、こうあればある程―判らない程救うべき必要が非常に強い訳ですね。
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