十一月五日

(お 伺) 今年一月風邪を引き発熱し、トリアノン注射五本許りで熱は下がりました。其後ずっと食が進まず、段々痩せて血色が悪くなって来ましたが、何処にも苦痛を感じませんので、仕事は相変らず農事を続けて居りました。余り長くかゝるので、今年七月初めて医診を受けました処、左肩甲骨の下に拳大に腫れ、奥底に大豆位のぐりぐりがありました。注射器で探って見ましたら、血液が溜っている事が分り、之は肉腫らしいから、一日も早く手術して取除いた方が良いとの事に、早速七月末手術致しました。肉を取った其奥に袋になって、中に血液が溜っていたそうです。其の後又、十五日目位に其の奥が少し腫れたので二回目の手術を受けました処、血管が二ヶ所許り静脈瘤の様に「こぶ」になっていたそうです。其の後十五日許りで退院しましたが体の調子は悪く睡眠も出来ずに居ります内に、又横に腫れて来ましたが、今度は医師も手術して呉れず「肉腫はそう言うもので、中々それで治った人はないのだから」と言って、見離されました。其の後お道の事を知り御浄霊を一ケ月半許り戴いて居ります。よく熟睡出来る様になり、食欲も出て血色も少し出て、元気も大変良くなり、少し肥って参り、勝手仕事もぼつぼつ出来る様になりましたが、最近の状態では、又少し腫れが目立つ様になり「ぐりぐり」も一つ出来ましたので心配して居ります。御浄霊は何処を主に致したら宜敷いでしょうか。尚、御浄霊を戴く様になってから、主人が十月初め入信。現在本人も入信の御願いを済しました。御神体は御奉斎致して居りません。

〔御 垂 示〕

 中々之で治った人はない――治った人がなかったら、最初からやらなかったら良いですね。之は医学による被害者ですね。風邪を引いて発熱と言うのは、腫れる為に熱が出たんですね、良い熱です。それを注射五本許り―で冷まして了った。固りは前から固まっていた。それが溶け様としたのを溶かさない様にしちゃったんです。そこで、食が進まなくなり、出ようとするのを止めたから、血色が悪くなった。それから、肩胛骨――之は結構なんです。もっと腫れて、膿が出たらそれで治ったんです。何時も言う通り、腫れ様と言う時それを切ると、そこから出ないで他にいくんです。ぐりぐりが腫れて来て、そこから溶けるんですね。未だぐりぐりが残っていて、腫れた丈け取ったんですね。取って未だ後に残っているから、それは他から出る事になる。それから、之は肉腫ではないんですよ。血液――毒血の固りですよ。肉腫と言うのは、血液とは関係ありません。読んで字の通り、肉の腫れる固りの様なものですね。之は肉腫らしいから――肉腫と言うが、之は全然分らないからです。血の固りです。毒血がそこに寄って来たんです。十五日位で、其毒が又腫れて――一所に腫れ様と言うのを手術したから他所に行った。針で突いた位でも、そこに寄らないですよ。いけないですね。「こぶ」の様と言うのは、血の固りですよ。自然に毒血が出ようと言うのを、色んな事をして止めたから、変テコな事になった。

 実際お医者に金を使って悪くして、下手すると命迄なくなって了うんだから、実際馬鹿を通りこして可哀相な位です。肉腫はそう言うもので――それなら最初からやらない方が良い。治る見込みがないものをやると言うのは、罪悪ですよ。罪悪と言った処で、お医者さんはそうしなければ「メシ」を食っていけないから仕方がないですが、要するに医学そのものが罪悪ですね。罪悪を行わせる様な方法を作ったその医学なるものが、罪悪の根元と言うんですね。心配――心配じゃない。あべこべです。馬鹿に喜んで、お祝いして良い。ぐりぐりは沢山出来て、うんと腫れた方が良い。それで体の毒血が出て、あとは健康になります。実に、人間の体は良く出来てます。それをあべこべに考えているんです。神様の御心持としてわ(は?)ね。浄霊は腫れた処ですよ。浄霊をすれば、膿が減り毒血が減りますから少なくて済む。少いさいものなら、少なくて済むが――こう言うものは、腫れて膿がすっかり出ます。結構です。だから、成る丈け運動をした方が良い。運動をすると早く腫れて、早く出ますからね。苦痛がなければ、不断の通りにした方が良い。安静にすると、治りがずっと遅くなります。

(お 伺) 信者北沢文治の長男邦男(一歳八ヶ月)は十月三十日頃より風邪気味にて身体全部に赤発疹が出来、親達は「ハシカ」ではないかと思って居りましたが、三十一日朝頃より、余り泣かず唯口で呼吸をし、起きようともせず寝ていますので、何うした事かと心配になり、十一月一日支部に連れて来ました。その時は相当に熱もあり、鼻汁が出て、お乳も飲み(にく)い様でありました。浄霊を戴いて帰ってから、大変濃い鼻汁が沢山出る様になりました。翌日支部に連れて来た時は、全然熱はなく、相変らず言葉も出ず、泣く事もなく眠って居る様な状態で、時々(うつろ)(うつろ)?)な目で見開きする程度にて首のまわり、後頭部、腎臓部など良く御浄霊致しましたが何等変化なく、昨日はお乳も飲みそうにせず、たゞうとうと眠って居る許りです。一昨日頃迄は、多少の下痢もありましたが、それもなく不絶放屁して居ります。父親は二十二年二月入信致し、光明如来様を御奉斎させて戴いて居ります。初めのころは、教導師補の御資格を戴き、布教に努力致して居りましたが、父母弟妹が非常に反対なので、御用も思わしく出来ず、今は長男であり乍ら別居致して居り、ゴム裏、草履製造業を営んで居ります。母親は二十五年十一月入信致しました。丁度、昨年母親が肋膜の御浄化を戴き、御浄霊にて健康にさせて戴きましたが、その発病日と子供の発病の日と同一であったとの事です。右は、何か霊的の関係が御座いましょうか。又御浄霊は何処を主にさせて戴きましたら宜敷いでしょうか。

〔御 垂 示〕

 やっぱり祖霊ですね。之は、祖霊が早く神様の事――御神業を一生懸命にやって貰いたくてしょうがない。だから、御用も思わしく出来ず――と言う之ですね。之で、祖霊が非常に困っちゃった。母親が入信したのは結構だが、唯入信した丈けでは駄目だ。最初母親を信仰に入れたい為にこうして、今度は父親も母親も、一生懸命に信仰させたい為のお気附けです。よく、それを心から解ってお詫びするんです。そうしないと、之は或は死ぬかもしれないですよ。祖霊さんは、こんな事じゃ駄目だと思って、一人亡くしたらば目が醒めるだろうと言う様にして――之は危ぶない処です。だからお父さんもお母さんも、一刻も早く目が醒めて、よくお詫びして、之から一生懸命に神様の事をさせて戴くからお許しを戴きたいと言う事を、神様にお詫びして、それから祖霊さんにもそう言う風にする。そうすると、直き治ります。それで、早くそうしないと、霊界に居る祖霊が救われないんですからね。段々最後が来るに従って、祖霊さんは気が気じゃないですよ。

【御 教 え】

 昨夜、福井県の方の信者で、相当古いらしい信者なんですが、何でもそこに来る、やっぱり信者らしいんですが、最近龍神が憑て、色々邪魔したりすると見え、浄霊すると、龍神だか何だか知らないが――精神病的に暴れたんじゃないかと思いますが、それを十五人の人間が抑えつけて、無理に腕力でやったとみえて、怪我したらしいのです。

 それはそれとして、「憑っている邪神と今闘っている。だからそれを屈服させるべく御守護願いたい」と、頼んで来た。運転手の米谷君から私に手紙の依頼をして来たんです。それで米谷に、こう言う風にしろと教えてやった。之はあり得る事で、心得て置かなければならない。それは「先は――暴れた人間に憑った龍神は邪神だ。之をやっつけなければならないと思った。私の神力で―お力でやっつけて貰いたいと言う意味なんですが、それは逆で、あなた方皆んな――十何人かの信者皆んなに邪神が憑っている。暴れると言う龍神は、神様なんだ。手紙には、何うしても勝たなければならないと言う事を書いてあるが、勝たなければならないと思う気持は、それは邪神なんです。だから、あっちに行ったら、負けなさいと言え」と言った。負ければ、先が良い気持になる。負かそうとするから、先が怒って来る。負かそうと言う気持そのものが、全然メシヤ教ではない。昔から言う通り、負けるが勝ちです。負けなければならない。勝とうとする気持が、全然メシヤ教の気持とはあべこべになっている。それは、行者か何かがやる事です。(よしん)ば邪神でも、負ければ良い。

 然し、私は悪に負けてはいけないと言う事を言いますが、悪に負けないと言う事と、邪神に負けないと言う事は違うんですよ。それで私は話したんですが、善とか悪とか言う事は、その道理ですね。理窟にはずれている事は、悪ですから負けてはいけない。邪神と言うのはそうではない。唯、邪魔すると言うんだから、そう言う邪魔する人間は、無抵抗にして収めて了えば良いんだから、そんな善悪なんて考える事は勿体ないから、相手によっては――事情によっては、負ける方が良いんですよ。第一、日本の戦争が、日本が負ける気になったから、あれで収まった。降参したんだからね。若し降参しないで、未だやっていたら、未だ未だ何んな犠牲をはらったか分らない。実は降参の仕方が遅かった。もっと、半年も早く降参していたら何んなに良かったか分らない。負けるが勝ですね。フィリピンを攻めたとき、マッカーサーが逃げたですね。その時私は、マッカーサーと言うのは偉い人だと褒めましたがね。と言うのは、マッカーサーは逃げるから偉い。日本の軍隊は逃げないからいけない。(いくさ)は逃げれば勝つんです。徳川家康は逃げ逃げ天下を取った。一旦負けても、あとを勝てば良い。私は今迄も、最初は負けろと言うんです。で、何時かは勝ちますね。最初から勝とうとするからいけない。

 この人達は信仰が間違っているから、神様がこの人達をいじめたんです。警察問題になって、今調べられてますが、之は邪神が信者に憑ったんです。そうして、懲りさせたんですね――神様がね。だから、結局邪神の方に神様が、反って憑った。そう言う訳です。

 猶もう一つは、霊憑りは、不断から言う通り、霊憑りはやってはいけないんです。唯、或る場合に祖霊や何かが出て、警告を与えると言うのは良いんですが、霊憑りを全然いけないと言うのではないが、それを心得て置かなければならない。然し、霊憑りは面白いので、皆んなやりたがるんですよ。それで、如何なる場合にも常識的に考えれば分るんですね。若しか、精神病なんかにしろ、暴れたりすると、それこそ病院に入れちゃうと良い。何故なれば、それでないと教えに瑕をつけますからね。その為に普通の――他の人の浄霊が出来なくなるし、手間をとって他の患者の邪魔になるからね。ですから結果に於てマイナスになる訳ですね。だから、そう言う場合には臨機応変に処して、暴れたりする事のない様にすると良い。こっちの御神業の邪魔する場合には、然るべき処置をとると良い。今の話は、目茶苦茶に――浄霊一方でやろうと言うのだが――憑っている精神病者の霊は、浄霊でやっても、そう言う浄霊は、余程こっちの霊力がないと抑える事は出来(にく)い。普通ならば浄霊でも治りますが、余程強いのがありますから、そう言うのは、こっちで適当に処置をとる。そう言った判断が、その人の智慧正覚ですからね。ですから、そう言う点も大いに勉強する。それには私の書いた本を出来る丈読むと良い。ちゃんと書いてありますからね。読み方が足りないと判断を間違えるんですね。ですから、そう言う事も、良く言ってやりましたがね。

 それから今度、地方の講演に――今度は九州の方ですがね。あっちの方面に行く人や、それから西の方、山陰、山陽でしょうが――あっちの方にもいくが、私の講演の代りに、原稿を書いて貰いたいと言うので、昨日書きましたが、それを読ませます。

 

(御論文「舌に代えて」) 【註 栄光一三〇号】

舌に代えて

(栄光一三〇号)

 私は今日の講演会について、直接皆さんにお話したいのでありますが、何分私の現在は仕事が余りに多過ぎて、文字通り寸暇なく不可能でありますから、舌の代りにこの原稿をかき、読ませる事にしたので、そのつもりで聴かれたいのであります。

 ここで前もって断っておきたい事は、この話のあらましは、信者よりも未信者諸君を対象としたのであります。それでこれからお話する数々は、まだ昔から何人も説いた事のない新しい説であって、少々桁外れと思うくらいであるからどなたもサゾ驚くでありましょう。だが充分心を落着けて玩味したならば暗夜に光明を得たごとく心眼が開き、幸福の門の鍵を握るであろう事を、私は確信するのであります。

 皆さん、今現在の文明世界を見て、どうお考えになりますか、言うまでもなく文化の進歩発達は驚異的である以上、大いに満足されなければならないにかかわらず、実際は何としてもそういう気にはなれないのであり、むしろ今日のごとく進歩する事すら恐ろしい感がするくらいなのはどうした訳でありましょうか。実に不思議と思うのであります。なぜなれば文化の進歩の目的は、人類の幸福を増進させる事にあるからであります。ところが現実は右の通り逆であるとしたら、その点に何か割切れない物があるに違いない。ではその割切れない物とは何でありましょうか。それはこれほど進歩した今日でも人間には安心もなければ幸福もない、どんな人でも病気の苦しみ、経済難、戦争の恐怖等が付纏っていて、離れないのが現実であります。そのように進歩すればする程苦しみは益々深刻となり、その人間の数も増え、大規模になってゆくばかりであります。知らるる通り今や世界の二大分野としての、アメリカ側とソ連側との対立であって、いつなんどき第三次戦争が勃発するか分らない状勢にあります。しかも今度戦争が始まったとしたら、恐ろしいアノ原子爆弾が飛び出すに決っているし、そうなったら万事お仕舞いです、恐らく世界は墓場となるか知れないのであります。何と戦慄すべき事ではないでしょうか。これが文化の進歩のお蔭としたら、これほどの矛盾があるでありましょうか、この点深く考えなくてはなりますまい。これによってみても、現在は全く文明と幸福とは、離れ離れになっており、しかもこれに気の付く者がほとんどないとしたら、世界の前途は暗澹(あんたん)たるもので悲観の一途あるのみでありましょう、ところが私はその根本原因を発見したのであります。それによって悲観どころか、今は大楽観に転じているので、このような有難い事を一人でも多くの人にお知らせしたい念願であります。それについて申したい事は、現在の文明は本当の文明ではなく片輪の文明であるという事であります。とすると誰しも意外に思うでしょうが、なるほど物質的には大いに進歩はしたが、精神的には少しも進歩していない、つまり、人体で言えば跛であります。右の脚だけ歩けて左の脚は歩けないのと同様で、例えば右の脚が物質文明としたら左の脚が精神文明であるから、この不具の左の脚も歩けるようにしなければならないのであります。ところが精神の方は何しろ目に見えない相手だから科学では駄目で、ヤハリ見えない力に依るより外ないのであります。しかしこの見えない力は生憎世界中どこを探しても見当らないし、今までとてもなかったのであります。論より証拠昔から教育や、道徳、宗教等がいかに骨を折ってもある程度の効き目はあったが、根本的効果はなかったという事は現在の世の中がよく物語っているでありましょう。

 ところがその力が今度現われたのであります。それが我救世教であるというと知らない人は恐ろしい大法螺吹きと思うでありましょうが、事実は飽くまで事実であって、私はその力を神様から与えられたのであります。しかしこの事は今初めて私が唱えるのではない。二千年以上も前にすでにキリストも釈迦も立派に予言されております。ではなぜ私がそのような大任を神様から荷わせられたかというと、前にも述べたごとく現代文明は極度に行き詰まり、世界は滅亡の寸前にまで来ているからでキリストの言われた世の終りの姿であります。しかもこれは空理空論ではなく目前に迫っている現実であって、お互は今や世界的破局に直面しているといってもいいでしょう。

 そうして私は今、文明の創造という本をかいております。この要旨は現在の文明は真の文明ではない魂のない空虚な文明であるからこの文明に魂を入れて、苦しみを作っている文明を、喜びを作る文明に置換き替えようとするのであります。この本当の文明を詳しく説いたものでいわば、真文明の設計書ともいうべきものであります。出来上った上は英文に訳して全世界の各大学を始め、学界、新聞社、著名人等、出来るだけ広範囲に配布するつもりであります。これによって恐らく世界的一大センセーションを捲き起すでありましょう、そうしてこの説の根本は、人類から病気を無くし、貧乏を無くし、争いを無くすという本教のモットーである病・貧・争絶無の世界を造る、その方法を明示したものであります。もちろん争いといっても個人と共に戦争もそうであり、これを無くす事こそ、全人類を救う最も根本条件でありましょう。言うまでもなく真の文明世界とは、何よりも、人間生命の安全であります。ところが現在生命を脅すものとしては、病気と戦争の二つであるから、この二つの問題を解決する以外、他のいかなる条件が具わっても無意味であります。ところが私はこの二大災厄を根本的に解決し得る方法と力を、私は神様から教えられ与えられたのであります。従ってこのような素晴しい我メシヤ教の実体は、実は宗教ではないので、宗教を超越したところの大なる救いの業であって、全宗教をはじめ、一切を救うところの空前の大偉業であります。

 今一つ言いたい事は、現在吾々の住んでいるこの日本の現在であります。諸君も知らるる通り結核問題、食糧問題、経済問題等々、山積している難問題も本教の主旨に従えば、容易に解決されるのであります。もちろん個人としてもこの地獄の世の中にありながら、天国的生活者となり得るのであります。ところがこれほどな結構なメシヤ教でも、何や彼や誤解をされたり、迫害されたりしているが、これも御存知のごとく昔から宗教に迫害は付物で、本教などはむしろ軽い方でありましょう。最後に申したい事は、右のような私の言う事にいささかでも疑いを持つ人があるとしたら、百聞は一見にしかずで、思い切って接してみる事で、生れ変ったような歓喜の生活者となる事は、太鼓判を捺しても間違いはありません。恐らく世の中に幸福の嫌いな人は一人もありますまいから、幸福の欲しい人は、遠慮なくドシドシお出で下さいとお勧めする次第であります。

 之は、善と悪に就いて書いたんですがね。之は最も根本的問題です。それを書いてあるんです。つまり悪は必要だと言う事ですね。悪は大変な大きな功績をしていると言う事ですね。こう言う事は、質問される事があるんです。私なんか、よく質問されました。何故、神様は悪を作って、悪人を作って、悪い事をさせて、罰をあてる。人間をひどい目にあわせると言うのは、神様の愛と言うのと異うではないか。一体何う言う訳だと言う事を、よく聞かれたものです。その解答とも言うべきものです。

 

(御論文「善と悪」)

善と悪

(『天国の福音』より)

 私は神と悪魔に就いて説こうと思うが、これは洵に困難である。何となれば人間は人間であって、神でもなければ悪魔でもないからである。併し乍ら人間には自由がある。ここでいう自由とは自由主義ではない。然らば何か。夫は人間が神にもなり得れば悪魔にもなり得るという自由である。そこで私は霊界研究から得た神と悪魔なるものに就いての見解(けんかい)を述べてみよう。

 先ず神の意志とは何ぞやというに、それは絶対愛と慈悲そのものである。併し乍ら私の言う神とは正しい神であって、邪神ではない。という事も変な訳であるが、神には邪はなく正そのものが本質であるからである。従ってここでいう邪神とは、本来正しい神でありながら一時的過誤に(おちい)ったという訳である。何故神にして過ちを侵すかというに、正神邪神は常に闘争(とうそう)している。その場合八百万の神と雖も最高級の神から最下級の神に至るまでの階級は百八十一とされている。したがって二流以下の神は往々邪神に負ける。即ち或期間邪神の虜になるのである。本居宣長の歌に「八百万神はあれども心せよ鳥なりもあり虫なるもあり」というのがあるが、その点をよく喝破(かっぱ)している。そうして今日まで夜の世界は邪神の力が強く正神は常に圧迫(あっぱく)され勝であった。世の乱れはそれが為である。そうして昔から善悪不二、正邪一如等という言葉があるが、これは全く真理である。善悪とは相対的(そうたいてき)なものであって、善があるから悪があり、悪があるから善がある。したがって善悪は時所位に応じ決めらるべきで、例えば今日の時代に善であったものが次の時代には悪になる場合もあり、個人的には人一人殺しても殺人罪になるが、戦争(せんそう)の如く集団的に大勢を殺す場合、罪人どころか殊勲者としいて賞讃(しょうさん)さるるのである。併し乍ら個人にせよ国家的にせよ、悪は一時栄えても結局は破滅するが、善に於ては一時的には苦しむが時が来れば必ず栄える。然も死後の世界の実相を知るに於て、善は永遠の幸福者たり得るのである。そうして人間が神になるか、悪魔になるかを容易に知り得る方法がある。それは見えざるものを信ずるか(いな)かである。即ち見えざるものを信ずる人は神にまで向上し、その反対者(はんたいしゃ)は悪魔にまで堕落する危険があるのである。

 抑々人間が悪を行わないという事は、見えざるもの、即ち神仏が見て御座るという観念(かんねん)によるからで、この世界に見えざるものは何にもないと思う心は、人に見られない、知られなければ如何なる悪事をしても構わないという観念になる。故にこの思想を推進めてゆく時結局悪魔にまで堕する訳である。したがって唯物主義者に真の善人がありよう訳がない。もし唯物主義者にして善人でありとすれば、それは中心からの善人ではなく、信用を保たんが為の打算的(ださんてき)で、暴露の場合信用の失墜を恐れるからで、いわば功利的(こうりてき)善者でしかないという事になる。読者よ、こういう偽装(ぎそう)善人があまりにも多い現代社会ではあるまいか。この意味に於て見えざるものを信ずる人こそ真の善でありと断定して差支えないのである。

 ここに注意すべき事がある。それは正神と邪神との信仰の結果である。それは世間往々神仏を熱心に信仰しながらも、家庭のものや他人に対する行動の面白からざるものがある。愛が無く利他的観念が乏しかったり、又は虚偽(きょぎ)、不正を平気で行うという人があるが、これ等は信仰の目標である神仏が邪であるからでそれに就いてこういう話がある、ここに一人の旅人があったが、無銭飲食によって警官が訊問し懐中を調べた。処が胴巻に百円の札束があったので詰問(きつもん)した処、この金は〇〇寺様へ奉納する金だから、百円から一文も減らす事は出来ないという。これなどは邪宗信者の典型(てんけい)であろう。したがって斯様な信仰者は一生懸命信仰しながら邪道へ陥り、不幸者となるのである。故に信仰に熱心であればある程健康を増し、家庭は円満となり家は富栄(とみさか)え、他人から敬愛されるというようになるこそ、正しい信仰の結果で、勿論その神は高級なる正神正仏である。

 又こういう事もある。全くの至誠を以て神に仕え、熱烈なる信仰を捧げ長年月に及ぶも、病気、貧困、不幸等絶えず襲いかかり、苦悩の生活から離脱(りだつ)出来ない人があるが、それに対し道理をつけて善に解釈する。即ち神の試煉(練?)又は罪障消滅なる言葉である。又難病の場合、宗教家に相談すると、曰く〝人間は(すべから)く死生を超越せよ〟などというのである。然るに私は思う。右の両方共正神ではあるが、実は二流以下の神で絶対(ぜったい)の力がないからである。然らば今日まで凡ての宗教、凡ての神は何故絶対力を発揮(はっき)し得なかったかという点であるが、これには理由がある、即ち夜の世界の期間は、月神系の神仏であって、月神系は二流以下の神格であるから、絶対力を発揮し得なかったのである。

 

(御論文「B・C・G問題」)

BCG問題

(栄光一三〇号)

 昨今BCG問題が喧しくなって来て、言論機関も盛んに論議されており、医家の間でも賛否両論に分れていて、仲々決着はつかないようである。そうしてこの問題の起りというのは、先頃米国ミネソタ大学の教授マイヤース博士が、BCGの有害無益論を、八月十八日発行の米国医学協会雑誌に掲載されてあったところ、折も折日本においても武見太郎博士が文芸春秋四月号に、結核撲滅対策を撲滅せよとの題下に、BCGの効果に疑問ありとし、法によって強制するのは不可なりという意見を発表したので、それらに刺激されてか、最近に至って橋本厚相が、同薬の効果はいまだ不確実な点あり、充分確定するまで接種は見合した方がいいとの主旨を発表した事から、俄然波紋を捲き起し、政治問題なども絡んで、面倒臭くなったようである。これについて私としての見地から、いささか批判を加えてみるが、

 これは事改めていう程の事もないが、BCGに限らずどんな薬でも効果は一時的で、時が経てば必ず薬害が表われる。というのは私の持論であって、今度の問題などもそれである。もちろん吾々にはよく分っているが、科学者としたら実に不可解千万と思うであろう。というのはこの薬は、昨今使用しはじめたものではない。すでに二、三十年も前からさかんに使用されて来たにかかわらず、今までは別段何事もなかったにかかわらず、思いもかけぬ今度のような事が起ったので、本来なれば何よりもこの原因を究明しなければならないが、それも無理であろう。なぜなれば、この原因は科学の分野には属していないからであって、その証拠には今もって決定しないため、今度の問題が起ったのである。というのは真の原因は霊的であるから科学的智識では分りようがないので、今ここにかくところの私の説明を見たところで、科学者から見ればまず一種の珍説か、迷信的ドグマにしか思えないであろう。ところが吾々から見ればこの人達こそ、立派な科学迷信に陥っているからである。

 さてこれから真の原因を明らかにしてみるが、それはこうである。私は以前かいた事もあるが、長い間の夜の世界がいよいよ昼の世界に転換する事となったので、霊界においては太陽の精である火素が増え、浄化力は日一日と旺盛になって来たので、以前は薬で固め得たものも、今日では固まりえなくなったためで、それが今度の問題の原因である。そのような訳で今後時日を経るにつれて、段々固まらなくなり、いずれは医師自身がすべての医薬に疑問を起す事となり、結局薬害の恐るべき事がハッキリ分って、ついには医学の再出発という事になるであろうし、ここで初めて眼を他の面に向ける事となる結果、本教の浄霊療法こそ真の医学としての真価が判り、医学の大革正となりやがては世界医学界に一大センセーションを捲き起すのは、時の問題でしかあるまい。従って今度の問題も、その時機の接近の示唆でなくて何であろう。

 

(御論文「B・C・Gの猛毒」)

     B・C・Dの猛毒

(栄光一三〇号?)

(御論文「B・C・G問題」「B・C・Gの猛毒」のあとの御教え)【註 栄光一三〇号】

 之は、今度「栄光」新聞に出して、厚生大臣に送ってやろうと思っている。つまり、霊界の浄化が強くなっているから、B・C・Gが今迄固まったのが、固らなくなったんですね。この子供なんか信者だから固らない訳ですね。だから忽ちこう言う悪影響が来たんです。ですから、段々薬が固まらなくなるから、今迄なんともなかったのが悪化する事になるから、嫌でも薬毒と言う事が分って来る訳ですね。そうなってから、愈々こっちの出る幕になるんですがね。もう大して長い事はないから楽しみですね。だから、何うしても医学の誤まりはお医者さん自身が分って来なければいけないんです。そこではじめて、メシヤ教があんな変った事を言っているが、之だなと言う事が分る。処がお医者さんによっては、私の方の出版物を見ていると見えて、チョクチョク私の方の説を取入れている点が見えるんですね。注意していると、大分そう言う事があります。

 

 

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