(お 伺) 昭和十九年一月、娘達に奨められる儘に、何となく講習を受けましたものゝ、生来の無信仰者(電気技師で、何事も科学的に理解する為)で、お守様もおかけ致さず居りますうち、昭和二十四年二月風邪にかゝり、咳が一週間程続き、突然左の耳がジーンと鳴り出し、耳鼻科医師の言によれば、O氏管の入口並びに、深部に数箇の鼻茸が出来て居るのが原因と診断され、病名は「急性中耳加答皃」とつけられました。早速鼻茸は手術により除去し、O氏管通風を行いましたものゝ耳鳴りは一向止まず、次第に耳が塞がった感が強くなり頭が重くなり始めましたので、各処の専門医の治療を受けましたが効果なく、病名もマチマチにて判定せず、最近での専門医の意見によれば「内耳の一部分が硬化症ならん」とて、之に対する治療法に関しては適当な方法なしとの事で、耳は過去三年間鳴り続け、塞がった感じと重頭が続いて居ります。然るに昨年の暮より本年春にかけて頭重も激しくなり、心臓部に刺戟性の痛みを感じ、時としては歩行も困難になる様になりました。内科医の言によれば「内耳硬化が脳神経を刺激して生じた一種の神経性の心臓疾患で、一時的のもので時期が来れば治るだろう」とて、本年初夏頃迄に葡萄酒、ビタミン注射を約三十本位致しました処、耳鳴り、頭重は治りませんが、胸部の痛みは治りました。折から、熱心なる本教信奉者として、日頃余り共鳴致しかねて居りました娘の奨めで、御浄霊を戴く気持になり、七月上旬より教会に通い始めましたが、耳鳴りは大した変化も見られぬうちに、八月上旬自宅に於て、脳貧血症状を起し倒れましたので、爾後出張御浄霊を戴く事になり約一カ月、九月中旬迄戴きましたが、其の間三度大きな脳貧血発作で倒れ、苦しみました(気分が悪くなり頭重と共に頭がクラクラとし目が廻り倒れて了います)。日々頭重と眩暈が不絶起りそうな不安に迫られ乍ら、九月中旬迄続きましたが、御浄霊の効果に疑いを生じ、一時御浄霊を休んで居りました処、十月上旬復々大きな発作で倒れ、医者の診断によれば「身体全体から言えば神経衰弱であり、部分的に言えば脳神経から来た脳貧血で、原因は耳であるから、耳が治れば頭重及び眩暈も治るが、耳は治るか何うか判らぬ」「神経衰弱を治す為に転地でもしたら良くなるだら(ろ?)う」と、寔に心細い答にて、転地をするにも日々の頭重と眩暈の発作を考えれば、身体を動かす事も恐ろしくて、それも出来ず。この上は何うしても光明如来様にお縋り致すより他はないと感じ、信仰心も以前よりは多少起りましたので、再度御浄霊を戴く事になり、新しいお守様も拝受致し今日迄御浄霊を戴いて参りましたが、御守護により其の後は倒れる様な大きな発作は起りませんが、それでも始終頭重と耳鳴りとがあり、眩暈が起るのではないかと言う脅怖感があり、胸も時々痛み、足もズキズキ痛み時折背中数カ所に痛みを感じて居り、気分の良い時は、一日に僅かの時間です。然し御浄霊を戴きますと楽にして戴けます。耳は聞こえなくなっても、頭重と眩暈さえ取れて呉れたらと思って居りますが、この症状はお救い戴けるもので御座いましょうか。原因は単なる薬毒の浄化作用で御座いましょうか。或いは何か霊的原因が御座いましょうか。尚、既往症と致しましては、約二十五年前胃痙攣で苦しみ、モルヒネ注射十本程致しました。又約二十年前脳溢血症状で倒れ、氷冷二カ月後、軽度の中風症状の為指圧、鍼灸、電気、光線等凡ゆる民間療法をやり、大した効果なき儘仕事を休み、毎日ブラブラと釣等をして居りますうちに、何時の間にか良くなりました。この七年間仕事を休みました。右延髄部に二回腫物が出来ましたが、切開手術で治しました。慢性胃腸病の為、消化剤は沢山服用致しました。
尚、祖母渡井ふく(昭和二十三年十二月四日帰幽致して居ります)生前無信仰の為、骨壺と共にお守様を埋葬致しました事を謹しみてお詫び申し上げます。
〔御 垂 示〕
耳鳴りは一向に止らず――あゝ、見当が違っているからね。之は医者の手術が拵えたものですね。時期が来ると治るだろう――と言うのは、お医者の無い国みたいだね。お医者は何の為にあるのかね。之は、何でもない病気なんですがね。O氏管通風――之は悪いんですよ。O氏管通風と言うのは、鼻の穴に管を入れるがね。耳鳴りは見当違いです。延髄です。態々病気をつくっちゃった。鼻茸を手術で除去――除去したのは差し支えないが、その時消毒薬を使うから、それが原因となる。その時打擲らかして置けば治ったが、態々一層輪をかけて作ったんですね。もっと作ったら命が無くなってます。オデキが二度出来たと言うのは、こゝ(延髄)に固まっている。頭重と言うのは、消毒薬中毒が頭に滲みて重くなったんだからね。内耳硬化――こんなものは出鱈目だね。胸が痛いのは、肋間神経が少しある。今迄飲んだ薬がすっかり固まっているんです。之は浄霊をやれば治ります。鼻茸――O氏管――之は大した事はない。脳貧血――こう言う人は、こゝ(後頭部)にあって、之(咽喉)にあります。毒の固りがね。然し、普通の脳貧血でなく、こゝ(咽喉)の浄化熱が起ると、この熱がこゝ(前頭部)に来て眩暈が起ります。之(咽喉)と、之(延髄)だから、之をすっかり浄霊すれば治りますよ。何でもない。転地をしたら――よく転地と言う事を言いますが、あれは滑稽なんです。転地とか、空気の良い処とか、色んな処に行きますが、そう言う処は病気はない様だが、やっぱり、そう言う処にも、病気がありますよ。まあ、一生懸命に神様にお縋りして浄霊して貰うんです。それから、御神書――神様の本を、出来る丈け読みなさい。そうすると請合ってすっかり治ります。延髄部に二回――切開手術――この時の消毒薬が滲みてますからね。之が大変な原因になってます。それから、霊的関係は全然ありませんからね。その懸念は要りません。
「脳貧血を起すと、祖母のお守様を骨壺に入れた事を申訳ないと申します」
それは、神憑りですか。
「脳貧血を起し、苦しくなって来ると、そう申します」
最初、講習ですか、した時に――無理に奨めたんでしょう。
「章子さんがお道にたずさわって居り、戴けば良いと言う事で――」
本人の気持でないでしょう。無理は決していけないですね。無理に押しつけたりするのは、何故いけないかと言うと、神様を冒涜する事になる。神様は――人間が、どうかお助け下さいと言うのが、本当で、それは神様の扱いですが、兎に角神様を侮辱する事になる。だから大変な御無礼になる。之は章子さんが、よくお詫びするんです。それで、もう出来ちゃったのはしょうがないから、お詫びして、今後そう言う事はないように。
「父がお守様を掘り出してと言うので御座いますが――」
焼いたんでしょう。
「焼いて居りません」
気になるなら掘って出したら良い。それでも差し支えない。出したら、よく包んで、浄い処にあげて置けば良いです。それから、病気は霊的じゃありません。病気は、お医者で作った病気です。
(お 伺) 昭和廿四年六月光明如来様を御奉斎、千手観音様もお祀りさせて戴き、家族七人入信致して居ります。昭和三年に神奈川県高座郡大和町に移転しましてより出産致しました子供は、いずれも三歳位より耳が遠くなり、現在長男(十八歳)三女(十四歳)四女(四歳)がそれで御座います。今日迄医療は施して居りません。指圧致しましても苦痛はなく、最近になり更に遠くなった様に感じられます。当地は現在町でありますが、当時は広い松林を開拓して建築した処で御座いますが、右御浄化と関係が御座いましょうか。又今後何の様に致しましたら宜敷う御座いましょうか。
〔御 垂 示〕
別に、他の人が切ったんだから、それが祟ると言う事は、おかしいですがね。中には居所がないので憑らないとは限りませんがね。然し、そう言うのは浄霊すれば、直きに良くなります。そう深刻なものではないからね。やはり他の因縁ですね。
私の処の子供も、二人共耳が遠いんです。男の子ですがね。最初は丸っきり聞こえなかったが、私が始終浄霊するようになってから、半分か半分以上聞える様になった。普通はそう不自由はしない。然し普通の人の様にはいかないが、年々良くなっている。だから、浄霊で或る程度良くなります。私の長男の方は、良く解っている。人を助ける為に川に飛び込んで、その為に溺死して、その時に耳を傷めて、それが生まれ変って来た。
気長に浄霊しなさい。それで耳の――耳下ですね。之に固りがあります。それから、延髄ですね。そこに必ず固りがありますから、それを溶かす。そうすると、少なく共半分以上治ります。それに現在は霊界の浄化が起っているから、治ります。
「三歳位迄は不自由でなかったそうです」
それじゃ、すっかり治ります。中途からならね。
「先祖の関係は御座いましょうか」
無いとは言えませんがね。
「松山の木龍と関係が御座いませんでしょうか」
無いでしょう。その事は、書いてないじゃないですか。他の人が切ったんでしょう。
「左様で御座います」
それなら無いですね。そんな事では、人間が堪りませんよ。
「然し、命じて切らせたので御座います」
それはいけない。それじゃ危ぶない。それは、大いに関係があります。切らしたとか、切ったとか言えば、先方が怨んだり、憑くのは、関係が――理窟がありますからね。こっちがやってないと理窟がないから、浄霊で良いが、この人が命じたとしたら危ぶない。それだね。よく光明如来様にお願いして、この霊を救って戴きたいと、そうお願いして、この家に松はあるんですか。
「御座いません」
松を植えなさい。二本植えるんですね。
「男松、女松でしょうか」
それはどちらでも構わない。それが夫婦であるか、ないか分らないからね。そうして置いて、光明如来様にお願いして、松に移る様にすると良い。くっついて居るから、直ぐには移らないが、段々浄化されて、或る時期が来たら移ります。命令したとしたら、それに違いないですね。
(お 伺) 過日お伺い申し上げました本山あやめ(四十三歳)で御座いますが、御守護により大変楽にさせて戴きました。現在は尿は普通に出て居り乍ら、浮腫みが依然として引けません。蛇の祟りだと御垂示を戴きまして、本人に聞きました処、五年前に兎を食べに来た青大将を半殺しにして、枯れ草にて焼き、ブツ切りにして鶏に食べさせたそうで御座います。本人は今更乍ら後悔致して居ります。発作は、夜も昼も二、三回位起きます。発作が起きますと、非常に苦しみ、胴は締めつけられる様で、浮腫みが固くなります。足の方も固くなり針で刺される様な苦しみで御座います。発作の状態は蛇が焼かれて苦しむのと同様で、浮腫みの処より油の様なものが出ます。又手足の筋が吊り上り、息苦しくなり、二目と見られません。右の様な状態で御座いますが食欲は健康者以上で御座います。何卒御垂示賜り度御願い申上げます。
〔御 垂 示〕
蛇だから締めるんだね。蛇の祟りですね。之は祖霊かも知れないな。だから、よく光明如来様にお願いして、こゝ(前頭部)を中心に全体をやれば良い。そうしているうちに、自然々々に蛇も承知して、蛇が救われて来ますからね。そこで、光明如来様にお願いする場合に、蛇の霊を救って、早く人間に生れ変って来る様にと言ってお願いする。それが、蛇が一番喜ぶんです。蛇が殺されても、人間に生れ変る様にと言うと喜びます。
私も箱根に居る時分に、ちょいちょい出て来るんで、殺したんですが、直ぐ人間に生れ変る様にと言うんです。すると喜ぶんです。喜ぶと言うのは―直ぐに憑って来ますからね。気持が良くなる。
「夜中にお腹が空くので御座いますが――」
それは、蛇が食うんだ。
「光明如来様は教会にお預りして居り、お寺の様な処で、お祀りする様な処がなく、そこも出て行く様に言われて居ります」
立退き命令か。行き所がないのかね。
「東京に何かあるそうです。本人はお縋りして居りますが、村では評判になって居り、医者にかけないで、そんな事していると、注目して居ります」
それじゃ、悪いな。村人の霊が邪魔するんです。
「汽車に乗れる様にして、それから親戚の所え(へ?)でも」
それが良いですね。然し、少しづ(ず?)つ良くなっているんですか。
「はい。お蔭様で――浮腫みはありますが、食欲は――」
それは浮腫みが極く軽いんです。固まらないからね。そう言う方針にしたら良いでしょう。そう言うのは、やっぱり村の人の霊が非常に邪魔するから離れないと駄目です。と言うのは、あんなものにかゝって迷信だ。医者にもかけないで、けしからん。と、邪魔するからね。死にでもすると、そうら見ろ、言わない事じゃないと言う。それも、やっぱり邪神がやっている。若しか、あんまり邪魔するんなら、医者にかける様にするか。
「本人は――この儘死んでも、医者にはかゝらないと、本人が親戚に納得させているので御座います」
それじゃ可哀相だから、今言った様にしたら良いでしょう。
(お 伺) 信徒、岡田洋一(十一歳)十一月七日より頭痛を訴え、一回の御浄霊後、全身発熱、頭痛は一層激しくなり、軽い咳を伴い右胸部、下腹部に激痛を加え、頭部以外は、御浄霊すると直ぐ痛みは無くなりますが、痛みの箇所が胃部、胸部、横隔膜等え(へ?)点々と移動し、頭痛以外は、短時間にて楽になります。頭の中心は、御浄霊六回にて熱も三十七度程となりましたが、尚軽痛が残って居ります。浄化発生より三昼夜にて、衰弱度強く両眼充血し、黄色の目ヤニが出始めました。時折り憑霊現象の様な言葉を発しますが、意識は判然として居ります。憑霊現象の様な時は、腹に長い虫が居て、祝詞奏上の時は苦しんで暴れ、善言讃詞奏上の時は静かに聞いて居り、非常に楽になった。又咽喉に居た虫は、知らない男の人が取って呉れて楽になった、等申しました。食欲は普通の半分程度にて、眠った時口の中でブツブツ言って居ります。家族全部入信し大光明如来様、御屏風観音様を御奉斎させて戴いて居ります。
〔御 垂 示〕
之は、最初脳膜炎だったですね。軽い脳膜炎ですね。之もやっぱり蛇の霊が憑いています。痛みが移動しますからね――霊はね。蛇の霊は割合弱いですよ。どんどんいきますからね。追っかけていってやると、段々弱って来る。脳膜炎の方は峠を越したから、もう良いですよ。両眼充血し、と言うのは、峠を越した状態です。毒が溶けて出て来たんです。善言讃詞の奏上の時は――之は良く祝詞の何を現わしている。天津祝詞――あれは浄め方が強いですから、そこで苦しい。善言讃詞の方はずっと柔らかい働きをするからで、それが良く現われてますね。咽喉の虫――と言うのは、他の虫ですね。蛇の子かも知れないがね。男の人と言うのは、神様です。之は大した事はないです。段々良くなりますからね。心配要りません。
【御 教 え】
之は、この間、地方宣伝の為に松井さん、鈴木さん、アザブ伸、鹿島秀月さん達が、四人行ったその時に私に原稿を書いて呉れと言うので、そこで、書いた原稿です。
(御論文「舌に代えて」)【註 栄光一三〇号】
舌に代えて
(栄光一三〇号)
私は今日の講演会について、直接皆さんにお話したいのでありますが、何分私の現在は仕事が余りに多過ぎて、文字通り寸暇なく不可能でありますから、舌の代りにこの原稿をかき、読ませる事にしたので、そのつもりで聴かれたいのであります。
ここで前もって断っておきたい事は、この話のあらましは、信者よりも未信者諸君を対象としたのであります。それでこれからお話する数々は、まだ昔から何人も説いた事のない新しい説であって、少々桁外れと思うくらいであるからどなたもサゾ驚くでありましょう。だが充分心を落着けて玩味したならば暗夜に光明を得たごとく心眼が開き、幸福の門の鍵を握るであろう事を、私は確信するのであります。
皆さん、今現在の文明世界を見て、どうお考えになりますか、言うまでもなく文化の進歩発達は驚異的である以上、大いに満足されなければならないにかかわらず、実際は何としてもそういう気にはなれないのであり、むしろ今日のごとく進歩する事すら恐ろしい感がするくらいなのはどうした訳でありましょうか。実に不思議と思うのであります。なぜなれば文化の進歩の目的は、人類の幸福を増進させる事にあるからであります。ところが現実は右の通り逆であるとしたら、その点に何か割切れない物があるに違いない。ではその割切れない物とは何でありましょうか。それはこれほど進歩した今日でも人間には安心もなければ幸福もない、どんな人でも病気の苦しみ、経済難、戦争の恐怖等が付纏っていて、離れないのが現実であります。そのように進歩すればする程苦しみは益々深刻となり、その人間の数も増え、大規模になってゆくばかりであります。知らるる通り今や世界の二大分野としての、アメリカ側とソ連側との対立であって、いつなんどき第三次戦争が勃発するか分らない状勢にあります。しかも今度戦争が始まったとしたら、恐ろしいアノ原子爆弾が飛び出すに決っているし、そうなったら万事お仕舞いです、恐らく世界は墓場となるか知れないのであります。何と戦慄すべき事ではないでしょうか。これが文化の進歩のお蔭としたら、これほどの矛盾があるでありましょうか、この点深く考えなくてはなりますまい。これによってみても、現在は全く文明と幸福とは、離れ離れになっており、しかもこれに気の付く者がほとんどないとしたら、世界の前途は暗澹(あんたん)たるもので悲観の一途あるのみでありましょう、ところが私はその根本原因を発見したのであります。それによって悲観どころか、今は大楽観に転じているので、このような有難い事を一人でも多くの人にお知らせしたい念願であります。それについて申したい事は、現在の文明は本当の文明ではなく片輪の文明であるという事であります。とすると誰しも意外に思うでしょうが、なるほど物質的には大いに進歩はしたが、精神的には少しも進歩していない、つまり、人体で言えば跛であります。右の脚だけ歩けて左の脚は歩けないのと同様で、例えば右の脚が物質文明としたら左の脚が精神文明であるから、この不具の左の脚も歩けるようにしなければならないのであります。ところが精神の方は何しろ目に見えない相手だから科学では駄目で、ヤハリ見えない力に依るより外ないのであります。しかしこの見えない力は生憎世界中どこを探しても見当らないし、今までとてもなかったのであります。論より証拠昔から教育や、道徳、宗教等がいかに骨を折ってもある程度の効き目はあったが、根本的効果はなかったという事は現在の世の中がよく物語っているでありましょう。
ところがその力が今度現われたのであります。それが我救世教であるというと知らない人は恐ろしい大法螺吹きと思うでありましょうが、事実は飽くまで事実であって、私はその力を神様から与えられたのであります。しかしこの事は今初めて私が唱えるのではない。二千年以上も前にすでにキリストも釈迦も立派に予言されております。ではなぜ私がそのような大任を神様から荷わせられたかというと、前にも述べたごとく現代文明は極度に行き詰まり、世界は滅亡の寸前にまで来ているからでキリストの言われた世の終りの姿であります。しかもこれは空理空論ではなく目前に迫っている現実であって、お互は今や世界的破局に直面しているといってもいいでしょう。
そうして私は今、文明の創造という本をかいております。この要旨は現在の文明は真の文明ではない魂のない空虚な文明であるからこの文明に魂を入れて、苦しみを作っている文明を、喜びを作る文明に置換き替えようとするのであります。この本当の文明を詳しく説いたものでいわば、真文明の設計書ともいうべきものであります。出来上った上は英文に訳して全世界の各大学を始め、学界、新聞社、著名人等、出来るだけ広範囲に配布するつもりであります。これによって恐らく世界的一大センセーションを捲き起すでありましょう、そうしてこの説の根本は、人類から病気を無くし、貧乏を無くし、争いを無くすという本教のモットーである病・貧・争絶無の世界を造る、その方法を明示したものであります。もちろん争いといっても個人と共に戦争もそうであり、これを無くす事こそ、全人類を救う最も根本条件でありましょう。言うまでもなく真の文明世界とは、何よりも、人間生命の安全であります。ところが現在生命を脅すものとしては、病気と戦争の二つであるから、この二つの問題を解決する以外、他のいかなる条件が具わっても無意味であります。ところが私はこの二大災厄を根本的に解決し得る方法と力を、私は神様から教えられ与えられたのであります。従ってこのような素晴しい我メシヤ教の実体は、実は宗教ではないので、宗教を超越したところの大なる救いの業であって、全宗教をはじめ、一切を救うところの空前の大偉業であります。
今一つ言いたい事は、現在吾々の住んでいるこの日本の現在であります。諸君も知らるる通り結核問題、食糧問題、経済問題等々、山積している難問題も本教の主旨に従えば、容易に解決されるのであります。もちろん個人としてもこの地獄の世の中にありながら、天国的生活者となり得るのであります。ところがこれほどな結構なメシヤ教でも、何や彼や誤解をされたり、迫害されたりしているが、これも御存知のごとく昔から宗教に迫害は付物で、本教などはむしろ軽い方でありましょう。最後に申したい事は、右のような私の言う事にいささかでも疑いを持つ人があるとしたら、百聞は一見にしかずで、思い切って接してみる事で、生れ変ったような歓喜の生活者となる事は、太鼓判を捺しても間違いはありません。恐らく世の中に幸福の嫌いな人は一人もありますまいから、幸福の欲しい人は、遠慮なくドシドシお出で下さいとお勧めする次第であります。
善悪の事を、よく言いますがね。之はあんまり説いた人はないし、それから、中々説けないですよ。けれども誰でも、何の為に悪と言うのはあるんだと言う――神様の事が分る程、そう言う疑いが起るんです。で、悪と言うのは、大変な大きな役目をしたんです――今迄はね。それと、将来悪と言うのは、何う言う事になるかと言う、その関係ですね。それを、出来る丈け分り易く書いたんです。
(御論文「善と悪」)
善と悪
(『天国の福音』より)
私は神と悪魔に就いて説こうと思うが、これは洵に困難である。何となれば人間は人間であって、神でもなければ悪魔でもないからである。併し乍ら人間には自由がある。ここでいう自由とは自由主義ではない。然らば何か。夫は人間が神にもなり得れば悪魔にもなり得るという自由である。そこで私は霊界研究から得た神と悪魔なるものに就いての見解を述べてみよう。
先ず神の意志とは何ぞやというに、それは絶対愛と慈悲そのものである。併し乍ら私の言う神とは正しい神であって、邪神ではない。という事も変な訳であるが、神には邪はなく正そのものが本質であるからである。従ってここでいう邪神とは、本来正しい神でありながら一時的過誤に陥ったという訳である。何故神にして過ちを侵すかというに、正神邪神は常に闘争している。その場合八百万の神と雖も最高級の神から最下級の神に至るまでの階級は百八十一とされている。したがって二流以下の神は往々邪神に負ける。即ち或期間邪神の虜になるのである。本居宣長の歌に「八百万神はあれども心せよ鳥なりもあり虫なるもあり」というのがあるが、その点をよく喝破している。そうして今日まで夜の世界は邪神の力が強く正神は常に圧迫され勝であった。世の乱れはそれが為である。そうして昔から善悪不二、正邪一如等という言葉があるが、これは全く真理である。善悪とは相対的なものであって、善があるから悪があり、悪があるから善がある。したがって善悪は時所位に応じ決めらるべきで、例えば今日の時代に善であったものが次の時代には悪になる場合もあり、個人的には人一人殺しても殺人罪になるが、戦争の如く集団的に大勢を殺す場合、罪人どころか殊勲者としいて賞讃さるるのである。併し乍ら個人にせよ国家的にせよ、悪は一時栄えても結局は破滅するが、善に於ては一時的には苦しむが時が来れば必ず栄える。然も死後の世界の実相を知るに於て、善は永遠の幸福者たり得るのである。そうして人間が神になるか、悪魔になるかを容易に知り得る方法がある。それは見えざるものを信ずるか否かである。即ち見えざるものを信ずる人は神にまで向上し、その反対者は悪魔にまで堕落する危険があるのである。
抑々人間が悪を行わないという事は、見えざるもの、即ち神仏が見て御座るという観念によるからで、この世界に見えざるものは何にもないと思う心は、人に見られない、知られなければ如何なる悪事をしても構わないという観念になる。故にこの思想を推進めてゆく時結局悪魔にまで堕する訳である。したがって唯物主義者に真の善人がありよう訳がない。もし唯物主義者にして善人でありとすれば、それは中心からの善人ではなく、信用を保たんが為の打算的で、暴露の場合信用の失墜を恐れるからで、いわば功利的善者でしかないという事になる。読者よ、こういう偽装善人があまりにも多い現代社会ではあるまいか。この意味に於て見えざるものを信ずる人こそ真の善でありと断定して差支えないのである。
ここに注意すべき事がある。それは正神と邪神との信仰の結果である。それは世間往々神仏を熱心に信仰しながらも、家庭のものや他人に対する行動の面白からざるものがある。愛が無く利他的観念が乏しかったり、又は虚偽、不正を平気で行うという人があるが、これ等は信仰の目標である神仏が邪であるからでそれに就いてこういう話がある、ここに一人の旅人があったが、無銭飲食によって警官が訊問し懐中を調べた。処が胴巻に百円の札束があったので詰問した処、この金は〇〇寺様へ奉納する金だから、百円から一文も減らす事は出来ないという。これなどは邪宗信者の典型であろう。したがって斯様な信仰者は一生懸命信仰しながら邪道へ陥り、不幸者となるのである。故に信仰に熱心であればある程健康を増し、家庭は円満となり家は富栄え、他人から敬愛されるというようになるこそ、正しい信仰の結果で、勿論その神は高級なる正神正仏である。
又こういう事もある。全くの至誠を以て神に仕え、熱烈なる信仰を捧げ長年月に及ぶも、病気、貧困、不幸等絶えず襲いかかり、苦悩の生活から離脱出来ない人があるが、それに対し道理をつけて善に解釈する。即ち神の試煉(練?)又は罪障消滅なる言葉である。又難病の場合、宗教家に相談すると、曰く〝人間は須く死生を超越せよ〟などというのである。然るに私は思う。右の両方共正神ではあるが、実は二流以下の神で絶対の力がないからである。然らば今日まで凡ての宗教、凡ての神は何故絶対力を発揮し得なかったかという点であるが、これには理由がある、即ち夜の世界の期間は、月神系の神仏であって、月神系は二流以下の神格であるから、絶対力を発揮し得なかったのである。
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