(お 伺) 井上満之助(六十一才)去る九日突然腰が痛み、教師の浄霊を戴き治りましたが、シャックリが連続に出始め、四十度の高熱が出ましたので、浄霊を戴きましたが、熱は下らず、シャックリは稍軽くなりつつありましたが、五時間も続くので医者に診せた処肺炎と言われペニシリンを一本打ち、熱は七度に下りましたが、依然としてシャックリは五日目にも止らず、私が昨晩浄霊を頼まれ、体を見ましたが別に熱の高い処もなく、横隔膜が痛いと言うので浄霊致しますと、一層激しくなります。頭と延髄を致しますと稍軽くなり、水が欲しくなり飲みますと、三十分程止りましたが、又始まり、それを繰返しております。シャックリは、他に御浄霊箇所、霊的原因が御座いましょうか。
〔御 垂 示〕
之は霊的らしいですね。やっぱり、延髄付近と前頭部の中ですね。そこを気長にやってやれば、段々軽くなりますよ。シャックリが幾日続くと死ぬとか言われるが、そんな事はないです。シャックリなんか命に関係はないからね。そう言う事を考えて、急るんですよ。それを良く安心させて、気長にやると言う様にすると、案外早く治ります。
(お 伺) 二十年前より両足首に痛みを感じ五、六年前足首に根の無い「オデキ」が出来、ジュクジュクして余り膿も出ませんでした。梅毒ではないかと六〇六号を十五本打ち、何の変化もなく、種々医者の手当を受けましたが、レクールと言い千人に一人位しか治らないと言われました。四年前に右足の親指の次の指を三分の一程落して了い、同時に身動きが出来なくなり、其の後二十四年五月、一家入信御神体も御奉斎させて戴きました。御守護戴き動ける様になり、指先が崩れるのも止り、最近は少しの農事の手伝いも出来る様になりましたが、足の「オデキ」は、特に昨年の暮より毎日午後の三時から夜の九時迄、激痛を感じます。私の家の本家は、昔代官であり、門番の妻が手足、顔、露出部が崩れる病気となった為、四代前の人が本家の命令によって無理に追出したらしく、その時門番には二人の子供があり、一人を其処に捨て置き、病む妻と一人の子を連れて旅立ち、途中妻は死亡、門番は三島に流れ、今日は立派な米屋を致して居ります。捨て置かれた子供は、私の処より三里山奥に買われ、其子供が、私の母親で御座います。母は三十才頃より、露出した部分に私の足の如き「オデキ」が出来、四十八才で死亡。長男も二十八才で同病にて倒れ、次男は船乗りで、やはり同病を苦に海中に投身死亡致して居ります。右は霊的関係が御座いましょうか。又門番の妻(改名不明)はお祀りすべきで御座いましょうか。
〔御 垂 示〕
十人に一人――まあ、こう言って置けば一番間違いないな――誰も分らないからね。之は珍しいですね。一寸、癩病みたいですけれども、之程ひどく痛むのなら癩病じゃないです。やはり霊ですね。非常に強い怨みですね。けれども、治るには治りますがね。別に大した事じゃないんですからね。やっぱり、気長にやれば治りますよ。それから、やっぱり自分でも浄霊すると良いですね。悪い処をね。力を出来る丈抜いてやれば、段々治って行く訳ですがね。然かも痛むんですから治りは早いんですがね。治り良いんですね。痛むのなら、霊的にしろ体的にしろ、浄化だから、反って仕(始?)末が良いですよ。どうも、浄霊に力が入っているんだね。自分でやった丈でも結構治りますよ。今言った様に出来る丈力を抜いてやって御覧なさい。
(お 伺) 昭和十八年肺浸潤にて医療を受け、昭和二十年秋に再発しマイシン二本注射しましたが効果なく気胸を致しました。其の時医師の不注意により肋膜が少々破れ、空気が洩れる為呼吸困難となり、大変苦しみました。其後はラジオドクターの放送を聞き乍ら安静療法を致し、半年余りカルシウム剤を服用致しました。昭和二十五年お道を知り、妻が入信、会長先生と妻の御浄霊により、一カ月位で大分呼吸も楽になりましたので、家業の八百屋の仕入れに自転車でかけ廻って居りました。九月頃より又呼吸困難となり、其後三カ月程会長先生の御浄霊を戴き楽になり、私も入信。光明如来様、御屏風観音様を御奉斎させて戴きました。本年五月喘息で、息苦しさ甚だしく、横にもなれず苦しみました。之も先生の御浄霊で楽にならせて戴きました。十月三十日名古屋別院にて明主様の御参拝を戴き、翌日より一層呼吸が苦しくなり寝ついて了いました。咳や痰が甚だしく、体が段々衰弱して参り、先生の御浄霊を戴き、楽になりました。食物は魚、鳥、獣肉、サッカリン、ズルチン、合成酢、色粉等を入れた物を食べますと三、四時間後に、其物丈吐きます。最近は菜食に致して居りますが、何を食べても美味しく感じます。発病後少量乍ら十回程喀血し、血痰は毎日の様に出、朝夕は「ヌラ」の如きものを必ず吐きます。痰や唾は一日七、八合位出ます。右の息苦しいのは如何なる訳で御座いましょうか。又御浄霊の箇所御垂示の程御願い申し上げます。
〔御 垂 示〕
空気が洩れ――ああ、之はひどいな。つまり、気胸の時に肋膜――空気が――之ですね、原因は。之が未だ治らないんだな。之がいずれ――膜でも、段々治るんですが、こう言うのは非常に暇がかかるんですよ。だから少し良くなって、八百屋さんか何かで――車引いて、之が悪かったですね。膜が、薄く着いた位だったのが、労働した為にはずれたんですね。元は医学に因る被害者だ。それで、未だ薬毒が沢山あります。それが、痰やヌラになって、それから血痰や喀血になるんだから、それは出る丈出れば無くなるが、労働は暫らく出来ませんね。治ってから一年位は――ぶらぶらしているのは良いが、力を入れるのはね。手に力を入れるのが悪いですからね。手に力を入れると肋膜にひびきますから、そんな風にして、気長に段々良くして――身体が疵物だから、少しづ(ず?)つ起きて、慣らせる様にして、一年位ぶらぶらしているんですね。菜食にしたのは、結構ですね。こう言うのは魚鳥獣肉は絶対いけない。そんなものだね。ですから、今じっとして寝て居れば、息苦しくないんだから、じっとして少しづ(ず?)つ――段々身体を慣らしていく、そんな風で治りますよ。
【御 教 え】
今度結核の本を作る。今出来ている「結核の革命的療法」ですね――あれは大体信者向きになってますから――それともう一つは、今まで思い切って書かなかったんです。と言うのは、本当に思い切って書くと、医学を形なしに書くことになりますから――それで問題でも起すとか、何とかあっちゃいけないから、ぼかして書いたんですね。処が、段々調べて見ると、徹底して書いても別に差支えないと言う様な事が分ったので、之を、出来たら少し継続的に、新聞広告なんか出して、日本中の医師会とか医科大学とか政府の要路者とか――そう言う者に配ろうと思っている。要するに原子爆弾ですね。そうでもしなかったら、とても駄目ですから、それでそう言う本を作ったんですね。題は「結核の信仰療法」です。それを書始めて――私の思う通り書いてありますからね。随分驚くだろうと思います。
(御論文「結核信仰療法] 序文)
序文
(『結核信仰療法』より)
本著は結核医学に対する原子爆弾であり、医学の革命書であり、天国の福音でもある。何となれば現在迄に於ける医学的結核療法は根本的に誤っているからである。というと何人も驚くであろうが、之が現実である以上そう言わざるを得ないのである。そうして本当の事を言えば、医学が結核を作り、結核患者を増加しているという信じられない程の事実である。見よ政府も専門家も、年々巨額の国帑を費し、施設万端出来る限りの手段を尽しつゝあるに拘わらず、年々増加の傾向にさえあるので、此儘の方策を続けるとしたら、表面の数字は兎に角として、事実は増えるのみである。成程最近は相当減ったと云われているが、実は本当に減ったのではなく、薬物其他の方法での一時抑えの為であるから、何れは形を変えた病気か、或は悪性結核続出となるのは、火を睹るよりも明かである。而も此病気は青年層に多い以上、重要産業にも大いに影響を及ぼし、国力の低下は免れないとしたら、早急に解決しなければならない重大問題である。
私は此事を二十数年以前発見し、其後数万以上の患者に実験の結果、動かすべからざる真果を認めると共に、現在毎日私の弟子をして、幾万の患者を救いつゝあるのであるから、此空前にして劃期的療法を普ねく知らせ、結核に悩める大衆を救うべき念願の下に、先づ此著を最初の一弾とするのである。勿論之程進歩した現代医学を、真向から否定する以上、如何に絶対確信があるかを認識されたいのである。
右の如くであるから、此原理を信じ実行に移すとすれば、結核は年一年漸減し、遂には無結核日本否世界となるのは、断言して憚らないのである。而も費用の点に至っては零に等しく、仕事も休まず、感染の憂いさえないのであるから、之程理想的医術はないであろう。事実今日社会全般をみる時、結核という嵐の中に身を置き、危険に晒され乍ら、どうしようもない惨状を見る私は、到底晏如としては居れないのである。といって政府始め専門家、一般社会に知らせようとしても、中々簡単にはゆかない。何となれば此原理が宗教人から出たという理由で、科学万能に囚われている現代人としては、容易に受け入れ難いからである。そうかといって此儘で進むとしたら、国民保健の将来は、果してどうなるであろうかを考える時、実に寒心に堪えないのである。
(此著は医科大学を始め、大病院、療養所、専門家、各大臣、国会議員、新聞社、関係方面へも出来るだけ配布するのは勿論、世界的には英訳して、ノーベル賞審査委員会、各国の大学、大病院、医学関係方面に、広範囲に頒布するつもりである)
(御論文「医学が結核を作る」)
医学が結核を作る
(『結核信仰療法』より)
標題のごとく、結核は医学が作るものであると言ったら、何人も驚倒してしまうであろう。事程それ程医学を信じ切っているのが現在の社会である。そうして序文にもある通り、私は二十余年以前結核医学の盲点を発表したが、その当時は言論の自由がないため、思い切ってかく事が出来ず、かなり加減してかいたので、不徹底は免れなかったし、その頃は今日程結核問題もやかましくなかったから、それでもよかったが、今日はどうであろう。衆知のごとく事実は国家の最大問題となっている。今年から行う事になったという結核に対する施設及び、その他の国家的負担は千億に近いというのであるから、民間費用を合算したなら、実に驚くべき巨額に上るであろう。そこで深く考えてみるべきは、なぜこのような事態に立到ったかという事である。もちろんこの問題に対しては余程以前から政府も専門家も大わらわになって、あらん限りの対策を練り努力しつつあるにかかわらず、今もって見るべき成果がなく、近来相当減ったとしているが、これはB・C・Gやストマイ等の新薬が出来たため、一時的発病の勢いを挫いたまでで、根本的でないことは医学でも認めている。何よりももし今までの対策が当を得ていたとすれば、結核問題はとっくに解決されていなければならないはずであるのに、事実は前記の通りである。としたらそこに何らか割切れない大きな誤りがあるに違いあるまい。ところが医学はそこに気付かないのである。しかしながら喜ぶべし、いよいよ私によってその根本原理が判明し、全治の方法をも完成した以上、人類にとってこれ程大きな救いはないであろう。無論この原理に従えばこの難問題も容易に解決され得るからである。
ところでここで厄介な事は、以上のごとき大発見を知らせるとしても、体験者以外直ちに信じ得る人は、ほとんどないであろう事である。ただ驚きの眼を瞠るか、あるいは見逃してしまうかも知れないが、この著にかいてあることごとくは絶対真理である以上、読むに従って納得され、翻然眼を醒ます人も相当あるであろう。
さていよいよ本論に取り掛るが、そもそも人間は誰でもオギャーと生まれるや、例外なく先天性毒素を保有していると共に、生長するに従い、大多数の人は後天性毒素をも追加する。これは別項に詳しくかく事として、右の両毒素こそ結核の真の原因である。今一つ重要な事がある。それは人体における自然良能力の活動である。それは一秒の休みもなく、不断に浄化作用が行われている事である。浄化作用とは体内にあるあらゆる毒素の排除作用であって、この過程をかいてみるが、元来右の両毒素とは、血液中に含まれているというよりも、充満していると言った方がいいくらいのいわゆる濁血である。ところがこの濁血に対して浄化作用が発生し、それによって毒素分は分離し、毒血または膿となって体内各局所に集溜する。その場合主に神経を使う箇所に限られているので、人間が神経を使うところといえば、上半身特に首から上で、頭脳をはじめ、目、耳、鼻、口等であるから、そこを目掛けて集溜せんとし、一旦その手前に固結する。いかなる人でも頸の周囲を探ってみれば、淋巴腺、延髄部、扁桃腺等の部に必ずそれがあり、微熱もある。するとこの固結がある程度に達するや、自然浄化作用が発生する。この浄化作用こそいわゆる感冒であって、感冒に罹るや発熱が先駆となるが、これは右の固結を出易くせんがための熱で、この熱によって溶解し、液体化したものが喀痰であり、鼻汁であり、盗汗、濃い尿、下痢等であるから、感冒とは全く体内にあってはならない汚物の排除作用である。その結果濁血は浄血となり、健康は増すのであるから、感冒とは実に貴重な生理作用であって、神が人間の健康保持のため、与えられた一大恩恵である事は余りにも明らかである。それがいつの頃どう間違えたものか、逆に解釈したのが、今日までの医学の考え方であった。それがため「風邪は万病の基なり」などと言い恐るべきものとされ、感冒に罹らないよう注意するとともに、罹っても色々な手段をもって、毒素排除を停めようとする。すなわちせっかく溶けかかった毒素を元通りに固めようとする。この手段こそ実は結核の原因となるのである。
これを一層詳しくかいてみると、まず感冒に罹るや、その症状としては前記のごとく、咳嗽はじめ種々の苦痛がおこるが、その中での特に重要なものが彼の喀痰である。これが口から排泄されようとし、一旦肺臓内に入り咳というポンプ作用で吸い上げ、咽喉を通って出るのであるから、そのまま放っておけば順調に排毒作用が行われ、血は浄まり、治るべきものを医学は逆解して、飛んでもない間違いをする。それは痰を出さないようあらゆる手段を用いて、肺臓内に固めてしまうのである。そうすれば病気症状は消えるから、それで治ったものと思うが、何ぞ知らん一時的固めたもので、本当に治ったのではないから、日が経てば再び風邪を引く。もちろん残りの毒結に浄化がおこるからである。その際医診を受けると、肺の中に残っている痰の固まりが、レントゲン写真に映るので、ここに結核の初期と診断するとともに、前の時肺の外部すなわち肺膜や肋骨付近にも固まりを残すので、それが溶けはじめ外へ出ようとし肺に侵入する。これを医診は肺浸潤と言い、肺の上部の場合肺門淋巴腺、または肺尖カタルというのである。これによってみるも、最初感冒の際毒素を出さないよう固めて、結核の種を蒔いておいた訳である。それだけならまだいいとして、これからが大変である。
右のごとく結核の初期、またはその他の診断をされても、放っておけば二度目は少々日は掛るが必ず治るべきものを、医療はまたしても固めようとする。絶対安静、服薬、注射、湿布、氷冷等々がそれである。何しろ身体自身は、毒素を排泄しようとするのを、医療は飽くまで固めて出さないようにする。つまり治ろうとするのを、治さないようにする訳であるから、何と驚くべき間違いではなかろうか。
ここでなぜ浄化作用なるものがおこるかというと、前記のごとく人間は体内に毒素があるだけは弱体で充分な活動が出来ないから、感冒は言わば自然の摂理である。という訳で人間活力が旺盛であればある程発り易く、青少年に多いのもその理によるのである。従って浄化を停止し弱らせるに限る。弱っただけは病気症状は減るからで、これを医学は治るものと誤解したのである。医学の療法が徹頭徹尾衰弱方法であるのは、この事を知ってみればよく判るはずである。見よ絶対安静を最も奨めるが、これ程弱らすものはない。今仮に健康者を何ヵ月もの間絶対安静にしてみるがいい。運動不足、食欲減退、無聊等で元気は喪失し、必ず痩せ衰えてしまう。ましてや結核患者においてをやである。しかも薬剤はもちろん、種々の衰弱療法をも行うとともに、精神的には前途に希望を失い、絶えず死の恐怖に脅えており、近親者も寄りつかず、毎日毎日天井を見詰めているばかりか、仕事も禁じられているので、経済的不安もいよいよ募り、それやこれやで漸次悪化し、どうにもならなくなる。というのが一般結核患者のたどる道程であろう。
以上によってみる時、医学の誤謬の中心は何といっても病気症状についての誤った解釈である。それは医学は苦痛そのものを病気の本体としているから、苦痛を無くす事が病を治す事と思い、ただ苦痛を減らす事のみに専念し発達したものであって、これがそもそも誤謬の根本である。ところが本当は苦痛そのものは病の治る作用でプラスであり、喜ぶべきものである。というようにその考え方が反対であって、すなわち医学の方は浅く、吾々の方は深い訳である。しかし苦痛といっても必ず峠があって、その時だけを我慢して越してしまえば、後は漸次快方に向かうのが原則であるから、苦痛も左程長いものではない。これについて医師はよく手遅れなどというがこれも反対で、手遅れになっただけは治るので、むしろ放っておけばなおさらよく治るのである。それを逆解して早く手当をするから治らなくなる。つまり人体は治ろうとするのを、医療は治さない手段であるから、この摩擦が快くなったり、悪くなったりして拗らしてしまい、ついに慢性となるのである。この理が分れば発病の場合放っておくに限る。そうすれば順調に浄化が行われるから、はなはだしい苦痛もなく容易に治るのである。ゆえに医学の進歩とは病気を治す進歩ではなく、治さない進歩であり、単なる苦痛緩和のための固め方法の進歩でしかないのである。何よりも医師は治すとは言わない。固めるというにみても、うなずけるであろう。
ここで早期診断についてもかかねばならないが、これも実は結核増加に拍車を掛ける方法なのである。それについてさきに感冒の浄化停止をかいたが、そのような訳で現代人は残らずと言いたい程肺の内外に毒素の固まりがあるから、大抵な人は常に緩慢な浄化が起っている。微熱、だるさ、軽い咳、食欲不振等がそれでこれらも放っておけば長くは掛るが必ず治るのに医学は早期診断を行い、レントゲン撮影によって溶けかかった肺臓内の痰の固まりが雲翳となって映るとともに、前記のような軽い症状もあるから、ここに結核初期の烙印を捺すのである。そこでまず絶対安静を始め色々な浄化停止を行うが、取り分け薬剤を主とするため、これが毒素の原料となり、この毒の浄化も加わって漸次悪化しつつ本物の結核患者になってしまうのである。
そうして早期診断の方法として、ツベルクリン注射を行うが、その結果陽性でも陰性でも警戒の要ありとする。この理は陽性とは浄化力が旺盛なためであり、陰性とは反対に微弱のためであるが、医師はどちらもB・C・Gの接種によって発病を止めようとする。発病さえしなければそれで済むと思うからで、その際患者にむかって、一、二年は余り過激な運動をせず、なるたけ静かにせよと戒めるが、これは浄化をおこさせないためである。といっても人間はいつかは必ず浄化が起るように出来ているから、普通の生活をし、仕事をするようになると浄化発生する。これが発病または再発である。という訳で近頃の流行薬の効果はそれであって、ただ発病の時日を延ばすだけである。この証拠として最近本教団の信者で、米国駐在の宣伝員からの報告によると、同国においても近来急激に結核患者激増し、昨年度の死亡率は、他の病気の総計よりも、上廻っているという事であるから、現在結核は同国死亡率の第一位を占めた事になり、私の説を裏書している。
右について左の新聞記事はよくそれを物語っているにみて、ある程度医学でも分っているのである。
昭和二十七年二月五日付読売新聞に掲載の記事
「化学療法の手段」
東京慈恵医大教授 医博 片山良亮
ストレプトマイシンその他の化学療法剤の発見は、従来の治療に大きな変革を来さんとしているが、マイシンでも結核の牙城を揺がす事は出来ない。マイシン治療を行っている内に、結核菌が次第に抵抗性を得て、効果を減滅するからである。その抵抗性の獲得は六~九週以上の投薬の持続によって発生するが、その間に結核菌を絶滅する事は出来ない。だがマイシンを使えば病状は急に著しく回復するが、結核菌は消失しないから、その中止によって再発の危険がある。そこで現在の研究はその事実を、いかに補うかという事になる。――(後略)
各結核療養所や結核の病院に配付する積りですがね。之を読んだら、相当ショックを与えるだろうと思ってます。
あんまり病気に関した事許りで、少し湿っぽくなる様な気がするから他の話をして見ますが、今の油絵ですがね、この間も、ピカソの――今度の「栄光」に出しましたがね。あの絵ですね。この間も書いた様に轢死の死骸か原子爆弾――とか書きましたがね。あれは然し、何う言う訳で、ああ言う風に絵を画くかと言う事は、誰も疑問起すんですが、それに就いて、私は説明して見ようと思う。大体、東洋の美術と西洋の美術――美術でない、芸術ですね。芸術は、根本的に反対になっているんです。と言うのは、仮に日本ですね。日本の芸術としても、音楽でも、舞踊でも、全て静ですね。静かです。西洋のは動なんです。動くんです。だから、仮に舞踊にしろ、あっちはダンス――激しく踊っている。処が日本のは舞踊ですね。静かに舞うんですね。ですから日本のは舞ですね、西洋のは踊ですね。舞うと踊るの違いですね。それが、西洋でも動く方が多くなって来た。ジャズなんて言うのは、極端に動くんです。段々動くのが激しくなって来たですね。この間も、映画で見ましたが、最近のジャズはもっと動くんですね。丸で機械の様に細かく動くんです。音楽でも無論それと同じですね。洋楽は動ですね。動くんですね。日本の音楽は静かです。ですから、洋楽を聞くと、体が踊り出す様になりますね。日本の音楽を聞くと落着いて、静かになります。この違いが大変なものです。
そこで、今言う絵ですが、絵も日本画は、静かに物を見た感じを画く――表現する。処が西洋のは、成可く動くのを出そうとする。そこで私は「速度の芸術」と言うのを書いてますが、絵を画く人の感覚が物を見た場合に、ある瞬間ですね。物を見たと言っても、静止しているものではない。ですからピカソの絵でも、みんな動いている――動いているのを見たんです。仮に人間が踊りをおどっている。或いは何かの動作をしている。非常に早い――それを瞬間に見るんですね。それが人間の官能にパッと来るんです。ですから、目が――二人分――四つあったり、顔が――横の顔と前の顔がくっついて見たり、まあ訳が分からないですね。あれは、その人にパッと来た、それを画く。私はこの春、日本の梅原龍三郎氏ですね――あの人が私は一番好きなんです。あの人のカーネーションを画いた額を買いましたが――美術館に飾る積りですが――中々良く画いてある。まあ、梅原氏の傑作です。花は普通より大きく画いてあり、ぼやぼやしてある。実に、カーネーションの様に画いてない。私は何うも分からないが、それを画かした人からカーネーションと聞いた。成る程そう言えばそうも見える。何う言う訳で画いたかと言うと、梅原先生がカーネーションを一寸見たその瞬間を画いたんだそうで、梅原先生がそう言われた、と言うんです。そう言う風で、刹那的に画くんです。それは、今言う通り動くのを画くんです。動くのをと言うよりか、動く物体の感覚ですね。それを画く。ですからああ言う妙チキリンな――家なんか画くと、丸で地震見(み?)たいに画く。片っ方に人間の顔があると、片っ方に家とか木がある。遠近なんかない。パッと見てヒョッと画いた。それを現わした。ですから、動的絵画ですね。そう言うと分かるんですね。その最も早い処を画いたのがピカソですよ。ですから速度の芸術と言うんです。非常に早いですね。一秒の何分の一ですね。人間が走るのを見て、その時に目玉が印象に残りますからね――目玉丈画いちゃいますよ。ですから、見る人は災難ですよ。幾何学的に、線許り画いてあるのがありますが、あれはそうです。仮に汽車なり自動車なりが走ってますが、あれは、スーッと行くと線許りですからね。形と言うのはないですからね。そう言う風に画きますがね。それを読めば、幾らか解るだろうと思うがね。どうも――精神病者を説明する様な事でね。
絶対力
(栄光一三九号)
抑々宇宙に於ける森羅万象の活動の源泉は、言うまでもなく神の力である。一切の生成流転も力の現われであり、万有を動かすのも、静止させるのも勿論力である。人間始め凡ゆる動物から、黴菌に至るまで力によって生まれ、力によって死滅する。要するに力こそ無限絶対なる支配者である。斯うかいてくると限りがないから、この位にしておくが、詮じ詰めれば宇宙そのものが力である。そこで私は力に就いて、各々の角度からかいてみようと思うのである。
先ず力なるものを言霊上から説いてみると、チは血であり、霊であり、カラは空であり、躰であり、体である。としたら力とは霊体合致して生まれるものである。又人の言霊を解釈してみると、ヒトのヒは霊であるから、霊が体へ止まる、即ちヒがトまるである。以上の如く、力とは霊体一致したものである。次に文字であるが、力の形は最初経棒を引き、次に緯棒を引いて十字に結ばせ、次に横棒の末端から、稍斜の棒を引き、その尾が跳ね上る。つまり経緯結ぶや活動が起る意味で、左進右退に回転し始めるのである。即ち力の活動である。という訳でいつもいう通り、言霊も文字も、全く神様が造られた事が分るであろう。
次に今度は実際面の事から説いてみよう。これを最も大きな意味からいえば世界の二大思想である。言うまでもなく、唯心思想と唯物思想であり、精神主義と物質主義であり、霊的文化と体的文化である。これを宗教的にみると一番分り易いからそうしてみるが、右の現われが世界の二大宗教としての彼の仏教と基督教である。前者は東洋的、経であり、霊であるに反し、後者は西洋的、緯であり、体であるのは、屢々私が言う通りである。処が今迄の世界は、この経と緯が別々になっていた為、本当の力が出なかった。その何よりの証拠は、今以て世界的和合統一が出来なかった為、人類は救われなかったのである。
その事に就いては先ず歴史を見てみよう。原始時代を経て漸く人間の生活らしいものが生まれてから、最初は太陽崇拝、自然物崇拝、人工物崇拝という様になってから、遂に人間崇拝と迄なったので、その頃から原始宗教が各地に現われ始めたのである。それから漸く初期文化時代となって生まれたのが仏教、回々教、次いでキリスト教であるが、前二者は勿論根本は経であるから、真の力が出ないと共に、キリスト教も根本は緯であったから、ヤハリ力が出なかった。という訳で結果としては前者は経に片寄り、失敗とはゆかないまでも、仏教は漸く日本にだけ形を残しているに過ぎないと共に、回々教も亜細亜の一部に伝統的に残っているのみである。又後者のキリスト教は緯であるから、世界の大部分に拡がってはいるが、目標の天国は実現しない処か、地獄が多分に残っている現在としたら、これも失敗であると言えよう。
以上の如く今日までの主なる宗教は、何れもその目的は理想世界実現にあった事は言うまでもないが、遂に現在見るが如き世界の混乱、行悩みの惨憺たる様相を呈しているとしたら、如何に予想と食違っているかで、実現の夢は未だ遠いとせざるを得ないのである。この理由こそ全く力の不足にある事は、否定出来ないが、力の不足とは最初に述べた如く、経緯が結ばれていなかったからである。併し乍らこれも時の問題であって、神の経綸上止むを得なかったともいえる。
ここで私という者の使命を説明してみれば、右の意味が一層ハッキリ分ると思う。今私の行りつつある仕事の中心としては浄霊の業である。これは信者は知りすぎている位であるが、私がかいた一枚の紙を御守として懐へ入れるや、医師の見放した重難病までも全治させ得る力が与えられる。そうしてこの御守は今日まで何十万枚出したか分らない程で、しかし何程増えてもその力に変りはない。然も病気ばかりではなく、精神が改善され、人格が高まり、又危機一髪の危難が救われる等々、日々数限りのない奇蹟によって、歓喜の生活者が増えつつある不思議さで、この力こそ御守から発揮される力であって、私は敢えて誇るつもりはないが、事実は飽まで事実であってみれば発表しても差支えあるまい。この様な絶大な力を行使した者は、歴史上一人もない事は今更言うまでもあるまい。これ等数限りない奇蹟は御蔭話中に載っているから、何等疑う処はあるまい。としたらこの力こそ経と緯を結んで生まれた力であって、この力こそ仏教的にいえば観音力であり、妙智力であり、基督教的にいえばメシヤの力である。そうして右の力は今は霊的が主であるが、何れは体的力の発現となるであろうから、その暁神の目標である東洋の精神文化と、西洋の物質文化が結ばれた真文化が生まれるのは勿論で、それが神意であり、全く世界肇って以来の救世的大事業遂行となるのである。
(御論文「絶対力」のあとの御教え)
之に就いて一寸面白いのは、今度ダレス国務次官補ですね。今来てますが――あの人が昨日、講演した中に、世界平和を確保するに就いては、東洋に於ては日本、西洋に於てはアメリカだと、之が両方共手をつないでやる事が一番必要な問題だ。こう言う事を言っている。私が前から言っている、経の中心は日本であり、緯の中心がアメリカである、と言う――だから、どうしても日本とアメリカは結ばなければならない。結ぶ時期が来ると、前から言いましたが、今度ダレスさんの言葉が、丁度それと同じなんですね。要するに、それが具体的に一歩実現に入った、と言う様に思われるんですよ。その経緯、結ぶんですね。結ぶ、その極く種の中心ですね。それが私がやる仕事なんですよ。それは何時も言う通り、伊都能売ですね。バッチの形ですけれどもね。その意味が解れば、メシヤ教と言うものの根本が解る訳ですね。それで、今言う通り、経緯が結んで力が出るんです。力の文字や言霊の説明をしたんですが、今迄は経緯を結んでいなかった。それで、力が出なかった。釈尊にしろキリストにしろね。キリストなんかは、奇蹟によって病気を治したと、バイブルに書いてますが、それはあったに違いないが、キリスト御自分丈で、弟子は出来なかったですね。と言うのは力が小いさかったんですね。処がメシヤ教の方は、私の弟子がキリスト位の事をやっているんですからね。そうすると、力の大きさと言うのは、全然比較にならないんですからね。何故そう言う力が出て来たかと言うと、経緯が本当に結ばれて来たんですね。それで本当の力が出るんですから、結局力なんですよ。じゃ神様の方丈に力があるかと言うと、邪神の方にも力があるんです。邪神は九分九厘、神様は一厘とね。九分九厘の力を持っている。だから、色んな――何しろ邪神に負けるんですよ。だから、教祖が現れた時は、相当な力を持っているから、その宗教も拡がったんですね。然し、段々衰えて来て――仏教にしろキリスト教にしろ――殆んど力がなくなった、と言うのは邪神の方が、力が勝った為に、段々抑えつけられたんですね。しかし抑えつけ切りにはならないですね。一厘は神様が勝っているからね。九分九厘抑えつけられたんですね。それが今なんです。そこで一番分るのは、相当大きな宗教になると、病院を拵えてますね。天理教なんかも拵えてますね。あれは、神の力が駄目だと言う事を表現してますね。処がメシヤ教は、病院を作るどころではない、病院を無くし様と言うんですからね。さっきの論文なんか、露骨に医学を無くし様と言うんですからね。それは何かと言うと、力ですよ。若し力が無かったら、そんな突拍子もない事を言える訳がないですからね。
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