(お 伺) 連れ子をして柴家に再婚し、其末子(飯田朋子二十九歳)は昭和二十年の暮頃より、失恋の結果神経衰弱となり、悪化して二十二年春頃より完全に精神病となり、二十四年九月武蔵野精神病院に入院、各種療法、電気治療を三十六回程繰返しました。又仏の因縁とて霊友会に入会し、一心に供養致しました。それより次第に快方に向い、本人の希望により退院を申出ました所、未だ完全な治療を施してないので、完全に治癒していない。兎に角ベストを盡すべきだ、とて強いられる儘に手術をし、其経過香しくなく、「九分九厘は治癒したが、後の一厘が治癒しない。然し、現代医学の最善を盡したので、之も止むを得ない」と言われ、手術前より悪化した儘、本年一月退院し今日に至って居ります。去月十日にお道の事を聞き、早速御浄霊を御願い致しました。御浄霊前は常識外れの事許り致して居りました。私の浄霊は厭がりましたが、支部長先生のご浄霊は大人しく戴き、最近では大変落着いて参り、熟睡出来る様になり、顔の艶も良くなり、目玉も上りぎみで白眼勝ちでありましたが、少し下って黒眼勝ちとなり、声も大変静かになって参りました。電気療法や手術を致して居りますが、今後何の様に致しましたら宜敷いでしょうか。尚何処を主に浄霊致しましたら宜敷う御座いましょうか。主人は頑固で信仰を嫌い、近所の家を借りて、其処に出張戴き御浄霊を戴いて居ります。尚、朋子が退院後間もなく、霊友会で戴いた物(仏壇中央に貼る物)をはがして破り棄てた後は、「位牌が見えなくなった」と言って、仏壇内の物を全部拂い落し、ボロや自分の脱ぎ捨てた物等を押込んだり致します。何か先祖関係、霊的関係が御座いましょうか。
〔御 垂 示〕
位牌は何うしたんですか。霊友会では、位牌を片附けますがね。霊友会じゃ、位牌は撤去しますよ。位牌は、昔からある黒いのに金で書いたのですね。
「そこ迄いって居りません」
やっぱり――仏壇屋で拵えているでしょう――金で文字を書いた、黒く塗った――あれを使わなければならない。白い紙や白木は四十九日迄なんです。それ以後はちゃんと金文字にしなければいけないんです。それを、早速拵えてやりなさい。こう言うのは、祖先がちゃんとしたのを拵えて貰いたくて憑るんですからね。それから精神病と言うのは、眠る様になったら必ず治るものです。眠れる様にするには頸、延髄――大抵右ですが、左の場合もありますから――固りを溶かせば眠れる様になります。眠れる様になれば、必ず正気になるんです。大分いじって壊してますから、普通になるのは四、五年ですね。こう言うのは、病院や何かでいじくってあるのと、相当長いので、長くかかりますが――精神病で、一週間か十日のなら治って了いますがね。こう言うのは、相当壊れてますから、そう言う意味で気長にやるよりしようがない。然し、結局は治ります。年限で治るに違いない。それから前頭部、頸――前頭部の中ですね。何しろ、頸の廻りと、熱い処がありますからね。それを主にしてやるんです。そうすれば、必ず治りますよ。
「主人が反対なので、外で浄霊してますが、その儘で宜敷いので御座いますか」
仕方がないです。
「祖霊で御座いましょうか」
色々なものがあります。狐もありますしね。それから、祖霊の中でも順繰りに憑ります。それから――人間の様な、獣の様なものがあります。之は、人間が狐になり切らない――半分の奴が――色んなものがあります。主人公が入信すれば、早く治りますが、そうかと言って無理に入れる訳にはいかない。先に治してね――そうすると、自分の方から入りたくなりますよ。やっぱり、主人公が入信しないと言うのも、訳があるんですからね。
「霊友会に入って居りましても宜敷いので――」
悪くってもしようがない。そう言うのは、神様にお任せして時日を待つんですよ。そうするとそのうちに祖先が働きますから――祖先が主人をやりますから――何うしても、急ってはいけないですね。
【御 教 え】
今度、結核問題――之に就いて、今迄も「革命的療法」なんて出しましたが、今迄は徹底して書かなかったんです。何故と言って、徹底して書くと、全然医学と言うものを、丸でこき下して了うので、何かうるさい問題でも起ると、と加減していた。あんまり、間違った事で皆なが苦しんでいるので、そんな事を言って居られない。それからもう一つは、良く調べて見ると、そう言う風に論じても法規には触れないそうですから、そこで今度は、私は思い切って、言いたい丈は書いてますからね。之を、出来たら連続的に新聞広告して、各大学の医学部――之は日本中ですよ。病院から著名な医者とか――結核に関したね。そこに配付しようと思っている。まあ、原子爆弾ですね。之が本当のものなんです。今迄は之迄書けなかった。だから今迄は――一寸靴の裏から掻く様な――そう言う点があったがね。この本の名前は「結核信仰療法」と言うんです。
(御論文「結核信仰療法] 序文)
序文
(『結核信仰療法』より)
本著は結核医学に対する原子爆弾であり、医学の革命書であり、天国の福音でもある。何となれば現在迄に於ける医学的結核療法は根本的に誤っているからである。というと何人も驚くであろうが、之が現実である以上そう言わざるを得ないのである。そうして本当の事を言えば、医学が結核を作り、結核患者を増加しているという信じられない程の事実である。見よ政府も専門家も、年々巨額の国帑を費し、施設万端出来る限りの手段を尽しつゝあるに拘わらず、年々増加の傾向にさえあるので、此儘の方策を続けるとしたら、表面の数字は兎に角として、事実は増えるのみである。成程最近は相当減ったと云われているが、実は本当に減ったのではなく、薬物其他の方法での一時抑えの為であるから、何れは形を変えた病気か、或は悪性結核続出となるのは、火を睹るよりも明かである。而も此病気は青年層に多い以上、重要産業にも大いに影響を及ぼし、国力の低下は免れないとしたら、早急に解決しなければならない重大問題である。
私は此事を二十数年以前発見し、其後数万以上の患者に実験の結果、動かすべからざる真果を認めると共に、現在毎日私の弟子をして、幾万の患者を救いつゝあるのであるから、此空前にして劃期的療法を普ねく知らせ、結核に悩める大衆を救うべき念願の下に、先づ此著を最初の一弾とするのである。勿論之程進歩した現代医学を、真向から否定する以上、如何に絶対確信があるかを認識されたいのである。
右の如くであるから、此原理を信じ実行に移すとすれば、結核は年一年漸減し、遂には無結核日本否世界となるのは、断言して憚らないのである。而も費用の点に至っては零に等しく、仕事も休まず、感染の憂いさえないのであるから、之程理想的医術はないであろう。事実今日社会全般をみる時、結核という嵐の中に身を置き、危険に晒され乍ら、どうしようもない惨状を見る私は、到底晏如としては居れないのである。といって政府始め専門家、一般社会に知らせようとしても、中々簡単にはゆかない。何となれば此原理が宗教人から出たという理由で、科学万能に囚われている現代人としては、容易に受け入れ難いからである。そうかといって此儘で進むとしたら、国民保健の将来は、果してどうなるであろうかを考える時、実に寒心に堪えないのである。
(此著は医科大学を始め、大病院、療養所、専門家、各大臣、国会議員、新聞社、関係方面へも出来るだけ配布するのは勿論、世界的には英訳して、ノーベル賞審査委員会、各国の大学、大病院、医学関係方面に、広範囲に頒布するつもりである)
(御論文「医学が結核を作る」)
医学が結核を作る
(『結核信仰療法』より)
標題のごとく、結核は医学が作るものであると言ったら、何人も驚倒してしまうであろう。事程それ程医学を信じ切っているのが現在の社会である。そうして序文にもある通り、私は二十余年以前結核医学の盲点を発表したが、その当時は言論の自由がないため、思い切ってかく事が出来ず、かなり加減してかいたので、不徹底は免れなかったし、その頃は今日程結核問題もやかましくなかったから、それでもよかったが、今日はどうであろう。衆知のごとく事実は国家の最大問題となっている。今年から行う事になったという結核に対する施設及び、その他の国家的負担は千億に近いというのであるから、民間費用を合算したなら、実に驚くべき巨額に上るであろう。そこで深く考えてみるべきは、なぜこのような事態に立到ったかという事である。もちろんこの問題に対しては余程以前から政府も専門家も大わらわになって、あらん限りの対策を練り努力しつつあるにかかわらず、今もって見るべき成果がなく、近来相当減ったとしているが、これはB・C・Gやストマイ等の新薬が出来たため、一時的発病の勢いを挫いたまでで、根本的でないことは医学でも認めている。何よりももし今までの対策が当を得ていたとすれば、結核問題はとっくに解決されていなければならないはずであるのに、事実は前記の通りである。としたらそこに何らか割切れない大きな誤りがあるに違いあるまい。ところが医学はそこに気付かないのである。しかしながら喜ぶべし、いよいよ私によってその根本原理が判明し、全治の方法をも完成した以上、人類にとってこれ程大きな救いはないであろう。無論この原理に従えばこの難問題も容易に解決され得るからである。
ところでここで厄介な事は、以上のごとき大発見を知らせるとしても、体験者以外直ちに信じ得る人は、ほとんどないであろう事である。ただ驚きの眼を瞠るか、あるいは見逃してしまうかも知れないが、この著にかいてあることごとくは絶対真理である以上、読むに従って納得され、翻然眼を醒ます人も相当あるであろう。
さていよいよ本論に取り掛るが、そもそも人間は誰でもオギャーと生まれるや、例外なく先天性毒素を保有していると共に、生長するに従い、大多数の人は後天性毒素をも追加する。これは別項に詳しくかく事として、右の両毒素こそ結核の真の原因である。今一つ重要な事がある。それは人体における自然良能力の活動である。それは一秒の休みもなく、不断に浄化作用が行われている事である。浄化作用とは体内にあるあらゆる毒素の排除作用であって、この過程をかいてみるが、元来右の両毒素とは、血液中に含まれているというよりも、充満していると言った方がいいくらいのいわゆる濁血である。ところがこの濁血に対して浄化作用が発生し、それによって毒素分は分離し、毒血または膿となって体内各局所に集溜する。その場合主に神経を使う箇所に限られているので、人間が神経を使うところといえば、上半身特に首から上で、頭脳をはじめ、目、耳、鼻、口等であるから、そこを目掛けて集溜せんとし、一旦その手前に固結する。いかなる人でも頸の周囲を探ってみれば、淋巴腺、延髄部、扁桃腺等の部に必ずそれがあり、微熱もある。するとこの固結がある程度に達するや、自然浄化作用が発生する。この浄化作用こそいわゆる感冒であって、感冒に罹るや発熱が先駆となるが、これは右の固結を出易くせんがための熱で、この熱によって溶解し、液体化したものが喀痰であり、鼻汁であり、盗汗、濃い尿、下痢等であるから、感冒とは全く体内にあってはならない汚物の排除作用である。その結果濁血は浄血となり、健康は増すのであるから、感冒とは実に貴重な生理作用であって、神が人間の健康保持のため、与えられた一大恩恵である事は余りにも明らかである。それがいつの頃どう間違えたものか、逆に解釈したのが、今日までの医学の考え方であった。それがため「風邪は万病の基なり」などと言い恐るべきものとされ、感冒に罹らないよう注意するとともに、罹っても色々な手段をもって、毒素排除を停めようとする。すなわちせっかく溶けかかった毒素を元通りに固めようとする。この手段こそ実は結核の原因となるのである。
これを一層詳しくかいてみると、まず感冒に罹るや、その症状としては前記のごとく、咳嗽はじめ種々の苦痛がおこるが、その中での特に重要なものが彼の喀痰である。これが口から排泄されようとし、一旦肺臓内に入り咳というポンプ作用で吸い上げ、咽喉を通って出るのであるから、そのまま放っておけば順調に排毒作用が行われ、血は浄まり、治るべきものを医学は逆解して、飛んでもない間違いをする。それは痰を出さないようあらゆる手段を用いて、肺臓内に固めてしまうのである。そうすれば病気症状は消えるから、それで治ったものと思うが、何ぞ知らん一時的固めたもので、本当に治ったのではないから、日が経てば再び風邪を引く。もちろん残りの毒結に浄化がおこるからである。その際医診を受けると、肺の中に残っている痰の固まりが、レントゲン写真に映るので、ここに結核の初期と診断するとともに、前の時肺の外部すなわち肺膜や肋骨付近にも固まりを残すので、それが溶けはじめ外へ出ようとし肺に侵入する。これを医診は肺浸潤と言い、肺の上部の場合肺門淋巴腺、または肺尖カタルというのである。これによってみるも、最初感冒の際毒素を出さないよう固めて、結核の種を蒔いておいた訳である。それだけならまだいいとして、これからが大変である。
右のごとく結核の初期、またはその他の診断をされても、放っておけば二度目は少々日は掛るが必ず治るべきものを、医療はまたしても固めようとする。絶対安静、服薬、注射、湿布、氷冷等々がそれである。何しろ身体自身は、毒素を排泄しようとするのを、医療は飽くまで固めて出さないようにする。つまり治ろうとするのを、治さないようにする訳であるから、何と驚くべき間違いではなかろうか。
ここでなぜ浄化作用なるものがおこるかというと、前記のごとく人間は体内に毒素があるだけは弱体で充分な活動が出来ないから、感冒は言わば自然の摂理である。という訳で人間活力が旺盛であればある程発り易く、青少年に多いのもその理によるのである。従って浄化を停止し弱らせるに限る。弱っただけは病気症状は減るからで、これを医学は治るものと誤解したのである。医学の療法が徹頭徹尾衰弱方法であるのは、この事を知ってみればよく判るはずである。見よ絶対安静を最も奨めるが、これ程弱らすものはない。今仮に健康者を何ヵ月もの間絶対安静にしてみるがいい。運動不足、食欲減退、無聊等で元気は喪失し、必ず痩せ衰えてしまう。ましてや結核患者においてをやである。しかも薬剤はもちろん、種々の衰弱療法をも行うとともに、精神的には前途に希望を失い、絶えず死の恐怖に脅えており、近親者も寄りつかず、毎日毎日天井を見詰めているばかりか、仕事も禁じられているので、経済的不安もいよいよ募り、それやこれやで漸次悪化し、どうにもならなくなる。というのが一般結核患者のたどる道程であろう。
以上によってみる時、医学の誤謬の中心は何といっても病気症状についての誤った解釈である。それは医学は苦痛そのものを病気の本体としているから、苦痛を無くす事が病を治す事と思い、ただ苦痛を減らす事のみに専念し発達したものであって、これがそもそも誤謬の根本である。ところが本当は苦痛そのものは病の治る作用でプラスであり、喜ぶべきものである。というようにその考え方が反対であって、すなわち医学の方は浅く、吾々の方は深い訳である。しかし苦痛といっても必ず峠があって、その時だけを我慢して越してしまえば、後は漸次快方に向かうのが原則であるから、苦痛も左程長いものではない。これについて医師はよく手遅れなどというがこれも反対で、手遅れになっただけは治るので、むしろ放っておけばなおさらよく治るのである。それを逆解して早く手当をするから治らなくなる。つまり人体は治ろうとするのを、医療は治さない手段であるから、この摩擦が快くなったり、悪くなったりして拗らしてしまい、ついに慢性となるのである。この理が分れば発病の場合放っておくに限る。そうすれば順調に浄化が行われるから、はなはだしい苦痛もなく容易に治るのである。ゆえに医学の進歩とは病気を治す進歩ではなく、治さない進歩であり、単なる苦痛緩和のための固め方法の進歩でしかないのである。何よりも医師は治すとは言わない。固めるというにみても、うなずけるであろう。
ここで早期診断についてもかかねばならないが、これも実は結核増加に拍車を掛ける方法なのである。それについてさきに感冒の浄化停止をかいたが、そのような訳で現代人は残らずと言いたい程肺の内外に毒素の固まりがあるから、大抵な人は常に緩慢な浄化が起っている。微熱、だるさ、軽い咳、食欲不振等がそれでこれらも放っておけば長くは掛るが必ず治るのに医学は早期診断を行い、レントゲン撮影によって溶けかかった肺臓内の痰の固まりが雲翳となって映るとともに、前記のような軽い症状もあるから、ここに結核初期の烙印を捺すのである。そこでまず絶対安静を始め色々な浄化停止を行うが、取り分け薬剤を主とするため、これが毒素の原料となり、この毒の浄化も加わって漸次悪化しつつ本物の結核患者になってしまうのである。
そうして早期診断の方法として、ツベルクリン注射を行うが、その結果陽性でも陰性でも警戒の要ありとする。この理は陽性とは浄化力が旺盛なためであり、陰性とは反対に微弱のためであるが、医師はどちらもB・C・Gの接種によって発病を止めようとする。発病さえしなければそれで済むと思うからで、その際患者にむかって、一、二年は余り過激な運動をせず、なるたけ静かにせよと戒めるが、これは浄化をおこさせないためである。といっても人間はいつかは必ず浄化が起るように出来ているから、普通の生活をし、仕事をするようになると浄化発生する。これが発病または再発である。という訳で近頃の流行薬の効果はそれであって、ただ発病の時日を延ばすだけである。この証拠として最近本教団の信者で、米国駐在の宣伝員からの報告によると、同国においても近来急激に結核患者激増し、昨年度の死亡率は、他の病気の総計よりも、上廻っているという事であるから、現在結核は同国死亡率の第一位を占めた事になり、私の説を裏書している。
右について左の新聞記事はよくそれを物語っているにみて、ある程度医学でも分っているのである。
昭和二十七年二月五日付読売新聞に掲載の記事
「化学療法の手段」 東京慈恵医大教授 医博 片山良亮
ストレプトマイシンその他の化学療法剤の発見は、従来の治療に大きな変革を来さんとしているが、マイシンでも結核の牙城を揺がす事は出来ない。マイシン治療を行っている内に、結核菌が次第に抵抗性を得て、効果を減滅するからである。その抵抗性の獲得は六~九週以上の投薬の持続によって発生するが、その間に結核菌を絶滅する事は出来ない。だがマイシンを使えば病状は急に著しく回復するが、結核菌は消失しないから、その中止によって再発の危険がある。そこで現在の研究はその事実を、いかに補うかという事になる。――(後略)
(御論文「結核は感染しない」)
結核は感染しない
(『結核信仰療法』より)
結核が医療によって作られる経緯は、前項までに詳しくかいたが、その原因は結核菌感染によるとは医学の定説となっているが、私の見解によればこの説こそ大変な誤りである。それは彼のパスツールの伝染説を医学は採用したからであろうが、私はその反対に自然発生である事を断言するのである。今それを詳しくかいてみるが、最初感冒の際、喀痰を肺臓内に固めた結果、時日を経るに従い、結核菌は痰中に自然に湧くのである。というのはいかなるものでも、不潔物には必ず微生虫が発生するのは物質の原則である。としたら痰は不潔物であり、しかも体温という好条件も加わる以上腐敗もし、微生虫の湧くのは当然である。
ところが医学の感染説であるが、この考え方は肺胞に菌が付着して繁殖し、空洞を作ったり、病竃を作ると思っているのであろうが、もしそれが本当とすれば、無菌結核は何が原因であるかという事である。だがこの答えは簡単である。すなわち無菌結核とは前記のごとく、肺臓内に固めた痰に菌が湧く程、時日が経っていないからである。と言うだけで分るであろう。それはとにかくとして、結核菌は果して感染するものであるか否かは、理屈よりも事実で示す方が確実であろう。すなわち私の多年の実験によっても明らかなごとく、私は二十数年前結核非感染の原理を知ってから、まず私自身を試験台とした。それは重症結核患者である一婦人の唾を、口移しにして試したのである。それから二十数年を経た今日、他の病気はしたが、結核的のものはした事がない。また私の家庭内にはその頃当歳から十五、六歳までの私の実子六人いたが、いつも二、三人の結核患者の女性を私は治療してやりながら、女中として同居させていた。その数今日までで十数人に及んで二十年以上になるが、その間治って帰宅した者と、新規の者とが交替しつつ、現在でも二、三人はいるが、今日まで結核どころか病気で寝る者すら一人もないのである。もちろん最初から消毒などは一切せず、家族同様に扱っているのであって、右の六人の子供の内四人はすでに結婚して、孫も数人出来ており、全部素晴しい健康である。また私の非感染説は、数十万の信徒にも教えており、信者は絶対に信じその通り実行しているが、結核の治った話は数限りなく聞くが、感染した話など一人も聞いた事がない。としたらこれ以上確かな証拠はあるまい。ゆえに万一今後一人でも感染する者があるとしたら、それこそ信ずべからざる一大奇蹟である。
しかし医学が結核感染説を唱え出した事にも理由はある。たとえば一家庭内で一人が結核で死亡したとする。そのため後に残っている誰もは極度に結核を怖れると共に、医師の注意もあり、感染しないよう出来るだけ用心をする。それには何より風邪を引かないようにする事だが、万一風邪を引いた場合、早速医師に診て貰う。医師もまた結核死亡者のあった家は、疑いをもっているので特に注意し、入念に治療する。ところが医療は結核製造法であるから、結局本物に仕立上げてしまうので、その状態をみればどうしても感染としか思えないのである。ところがそれを裏書する一事がある。というのは注意をする人程感染し易く、そうでない人程感染しない例で、これなども医師は常に経験するところであろう。その他の原因としては、結核で死んだ霊が兄弟や夫や妻などに憑依して、原因となる事も少なくないが、これは唯物思想の人には信じ難いから、この説明は省く事とする。
右のような訳で、医学は菌のみに囚われ、菌の感染を防止すると共に、殺菌方法が完成さえすれば、それで解決すると思う末梢的考え方で、これこそ根本に触れていない以上、治らないのは当然である。次にこれを詳説してみよう。そもそも菌といえども偶然降って湧いたものではなく、湧くべき条件と、湧くべき物質があってこそ湧くのであるから、その点が明らかにならない限り、病気の本体は分るはずがないのである。という訳で現代医学の菌に対する解釈は、菌その物だけに囚われ、菌の発生源にまでさかのぼっていないのであるから、幼稚極まるものであって、このような学問程度で人間生命の神秘を探ろうなどとは無理であって、これで結核問題の解決など前途遼遠と言わねばならない。それがため幾億万の生霊が、無期限に徒らなる犠牲となるのであるから、実に由々しき大事件である。ところが私は神示によってこの真相を知った以上、一日も早く天下万民に知らせ、結核から解放させるべく、この著をもって警鐘の第一声とするのである。
可成り思いきって――之が本当で、先の方が嘘だから、ちっとも恐れる事はない。幾らでも証拠をお目にかけますからね。
之は、医学の犠牲になった人の経路をお蔭話として書いてあるんですが、実に良く書いてある。全く之を読んだら、解るのも解るし、実際涙がこぼれる位です。
(「医学が悲劇を作る」)
医学が悲劇を作る
(栄光一四〇号)
吾々は現代医学の盲点を常に指摘し、警告を与えているが、事実医療による被害者の如何に悲惨なるかは、誰も気付かないのであるから大問題である。左の例などは到底読むに堪えられない程のものである。此感謝報告をかいたのは、シベリヤ帰りの元軍務に携った人で、帰国後最初軽い病気に罹った処、其原因は勿論、日本を出発の際の種々の注射の薬毒にある事は勿論だが、そんな事は全然分らない医師は、出来るだけの治療を施したが、漸次悪化するばかりなので、患者は迷いに迷い、医師や病院を取換えてはみても、お定まりの手術、注射、服薬等あらん限りの療法を受け、金の続く限りやってみたが、反って悪くなるばかりなので、絶望の極一家心中迄企てたというのであるから、其苦悩目に見ゆるようである。
そこで若し此文を医師が読んだとしたら、果してどう思うであろうか。まさか自分達の行っている医療の結果とは想像もつかないであろうが、右の如き生きた事実はどうしようもない。としたら実に由々しき大問題であろう。又普通人が之を読んだら、憤激を禁じ得ないのが当然であるが、恐らくそう思う者は一人もあるまい。何となれば現代医学に盲信し切っているからである。そこで吾々は此迷信を打破し、大いに目醒めさせんとしているが、彼等は反対に吾々の方を迷信とするのであるから、問題は深刻である。処が事実は此例と同じような医療被害者が到る処に満ちてをり、全国では何万何十万に上るか分らない程であろう。としたら何と悲惨な世の中ではあるまいか、忌憚なく言えば、戦争よりも寧ろ恐ろしい位である。成程戦争の恐るべきは誰も知っているから、世界を挙げて其防止に努力するが、此方は反対に可と信じ切っているのであるから、問題は容易ならぬものがある。
此報告をかいた本人は結局本教によって、完全に救われたからいいようなものの、若し本教を知らなかったとしたら、今頃は一家揃って彼の世行となり、地獄で苦しんでいるに相違なかろう。としたら此様な医学の過誤はいつ迄続くかという事であるが、最早其心配の要はない。神の大愛は之に対して、決定的解決をされ給う時が来たのであるから、先ず其警鐘の一歩としての此文と、そうして此実例と思って貰いたいのである。
これぞ救い
身を以て体験した医学の恐しさ
(本文省略)
中々良く書いてあります。之も実際ですからね。拵え事じゃ感動する様に書けません。今の一人丈――今の人のを読んだ丈でも、普通の頭ならピンと来るんですがね。
この間ピカソの事に就いて書きましたがね。やっぱり、喫(吃?)驚りしたと見えて――私が読んだのではなく、聞いたんですが、最近の中京の中部日本――あの新聞に出ていたが、メシヤ教の美術館の事を書いてあって――ピカソを思いきって、こき下したとか、何とか――そう言う事を書いてあったそうですよ。喫(吃?)驚りしたと思いますよ、けれども、本当だからしようがないね。では、何うしてあの奇怪な絵が流行るかと言うんですね。流行らした本元はピカソですがね。それを考えて見ると理窟はあるんです。あれは何う言うのかと言うと、根本的の理由がある。と言うのは、東洋――特に日本ですね。芸術上から言って、東洋の方は静ですね。西洋は動なんです。仮に音楽としても、西洋音楽を聞くと、静かに落着いて居られないでしょう。どうしても踊り出すですね。つまり、動の芸術なんですからね。日本のはそうならない。静かに、ゆったりと落着いて来る。だから。(、?)踊りでも日本のは舞踊ですね。舞踊でも、舞いですね。西洋のは踊りですからね。踊りも、段々西洋の方は動が進んで来て、極端になって来たですね。今アメリカなんかで、ジャズですが、最近のジャズは実に早いですね。テンポがね。手足の動かし方が、丸で目にも止らない位です。西洋でも十七、八世紀位の時は、長い箱みたいなものを着けて、着物を長くして、あんまりくっつき合わないで、手を両方――舞う様な具合で、実に静かです。最近に至っては、極端に迄なったんです。徹頭徹尾西洋は動です。東洋は静です。処で、絵が今迄――東洋は勿論ですが、西洋の方でも静的だったんですが、段々動的になって来た。ピカソなんかも動なんです。動くのを画くんです。例えて見れば都会の色んな――交通機関とか、人間の動き方も、見た瞬間を画くんです。それから、人間が走る――或いは汽車や自動車がヒョッと走る、その見た感覚を画くんです。それから、物体の方は動くんでなくて、自分が動くんです。すると、顔が二つに見えたりする。ヒョッと見て、それを画くと横顔と前顔と――それから、半分前向きで、半分横向きと言うのがあります。つまり動を画くんです。動の速度ですね。速度を画く。そう思って見れば、稍解るんですがね。そうでなかったら、てんで解りっこない。それから、何か物体を画くのも、幾何学的に線許り画きますが、あれも、ヒョッと見ますね――そうすると、目茶苦茶に線許りになる。それから、色んな色でも、着物を着た綺麗な娘さんでも、ヒョッと見ると、色許りが神経に来るから、良い加減な色を画く。ですから、理窟はあるんです。唯、その理窟を――見る人間ですね。お前達もそう言う風に思え。つまり苦痛ですね。あれは、苦痛を押し売りする様なものです。御自分はそれで良いが、押しつけられた者は災難です。高い入場料払ってね。ピカソのそう言う物を、自分丈――一人よがりして押しつけるんですからね。それで、押しつけられているのを、褒める人間が沢山あるんですからね。ですから、私のあの評を見ると喫(吃?)驚して――一溜りもない事を言うんですがね。そこで見ても、現代人の美術観ですね。美術観と言うものは、非常に未だ幼稚なんですよ。そこで、この間もピカソの論に書いてあるんですがね。そんな芸術と言うものは、動くとか動かないとか、色んな事でなくて、見て楽しめるものですよ。見て愉快なものですね。
こう言う押し売り主義は他にもあるんですよ。ラジオでもそうです。大分押し売りがありますがね。何を押し売りするかと言うと、西洋音楽ですよ。西洋音楽の押し売りをやってますがね。日本人が、西洋音楽の高い深い、高級な音楽を理解出来ると言うのは、極く少ないです。西洋音楽も良いですよ。昔からある名曲なんかは良いですね。然し、ベートーベン、シューベルトあたりでも、十の種目で、私等が興味を覚えるのは、二つか三つですよ。居眠りが出るのが多いですよ。それを、大衆が楽しめるのにすれば良いが、放送局でも、官僚的でね。西洋音楽でも、ファンに対して教育する様な態度です。こっちは、何も音楽家になる訳でもないしね。日曜の朝なんか、堀内敬三さんですかね、御丁寧にやってますが、さっぱり面白くないです。こっちは、そんな、生れた――経歴とか――何も興味はないんです。楽しめば良いんですからね。あれが、やっぱり今言う押し売りですね。そこで、民間放送が出ると、周章てて番組を変えてますがね。民間放送は興味本位ですからね。押し売りの一番親玉がピカソの絵なんでね。今度の私の美術館ですね。それは、解った人でも解らない人でも、それに魅力を感ずる。実に良い、楽しめる、と言うのを主にしてますからね。ですから、出来てから見ると分りますがね。私は、昨日箱根に行って来ましたが、大分出来て来て、予想よりか良く出来てます。部屋の光線の取り具合から――完全とは言えませんが、小さいですからね。それに金もかけないしね。然し、先ず小規模のものとしては成功と思っている。だから、出来上って世の中の人が見たら、相当唖然とするだら(ろ?)うと思います。来年の夏迄には出来る積りです。
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