十二月二十一日

【御 教 え】

 今度、結核問題に対して本を作って、信者向きでなく、一般に――医学界に原子爆弾をぶつける――こう言う考えなんですがね。何しろ、あんまり馬鹿々々しい事をしているんで、到底黙まっちゃ居られない状態になってますね。以前から、結核の間違いなんかを書いて、本を出したり色々したんですが、今迄は思い切って書かなかったんですね。どうも、何だか危ぶない様な気がしたんで余程緩和して書いたんです。けれども、段々調べて見ると、法律上からは別に引掛る様は点はないし、それと何時迄はっきり言わない訳にはいかない様になって来たんで、本当の事を、有りの儘書いたんです。そこで、之を――出来たら今度新聞広告を出そうと思っている。それから、日本中の大学の医学部とか、医師会とか、大病院とか、肺病に関した病院、療養所、それから新聞社、主な官庁と――そう言う方面に配ろうと思ってます。一人でも多く読ませ様と思ってね。そう言う意味で書始めたんですが、未だ最初のうちですけれども、やはり英文に訳して、外国にもやろうと思ってますがね。世界に向っての原子爆弾ですね。本の名前は「結核信仰療法」としたんです。

 

  (御論文「結核信仰療法] 序文)

序文

(『結核信仰療法』より)

 本著は結核医学に対する原子爆弾であり、医学の革命書であり、天国の福音でもある。何となれば現在迄に於ける医学的結核療法は根本的に誤っているからである。というと何人も驚くであろうが、之が現実である以上そう言わざるを得ないのである。そうして本当の事を言えば、医学が結核を作り、結核患者を増加しているという信じられない程の事実である。見よ政府も専門家も、年々巨額の国帑(こくど)を費し、施設万端出来る限りの手段を尽しつゝあるに拘わらず、年々増加の傾向にさえあるので、此儘の方策を続けるとしたら、表面の数字は兎に角として、事実は増えるのみである。成程最近は相当減ったと云われているが、実は本当に減ったのではなく、薬物其他の方法での一時抑えの為であるから、何れは形を変えた病気か、或は悪性結核続出となるのは、火を()るよりも明かである。而も此病気は青年層に多い以上、重要産業にも大いに影響を及ぼし、国力の低下は免れないとしたら、早急に解決しなければならない重大問題である。

 私は此事を二十数年以前発見し、其後数万以上の患者に実験の結果、動かすべからざる真果を認めると共に、現在毎日私の弟子をして、幾万の患者を救いつゝあるのであるから、此空前にして劃期的療法を普ねく知らせ、結核に悩める大衆を救うべき念願の下に、先づ此著を最初の一弾とするのである。勿論之程進歩した現代医学を、真向から否定する以上、如何に絶対確信があるかを認識されたいのである。

 右の如くであるから、此原理を信じ実行に移すとすれば、結核は年一年漸減し、遂には無結核日本否世界となるのは、断言して憚らないのである。而も費用の点に至っては零に等しく、仕事も休まず、感染の憂いさえないのであるから、之程理想的医術はないであろう。事実今日社会全般をみる時、結核という嵐の中に身を置き、危険に晒され乍ら、どうしようもない惨状を見る私は、到底晏如としては居れないのである。といって政府始め専門家、一般社会に知らせようとしても、中々簡単にはゆかない。何となれば此原理が宗教人から出たという理由で、科学万能に囚われている現代人としては、容易に受け入れ難いからである。そうかといって此儘で進むとしたら、国民保健の将来は、果してどうなるであろうかを考える時、実に寒心に堪えないのである。

 (此著は医科大学を始め、大病院、療養所、専門家、各大臣、国会議員、新聞社、関係方面へも出来るだけ配布するのは勿論、世界的には英訳して、ノーベル賞審査委員会、各国の大学、大病院、医学関係方面に、広範囲に頒布するつもりである)

 

 (御論文「医学が結核を作る」)

医学が結核を作る

(『結核信仰療法』より)

 標題のごとく、結核は医学が作るものであると言ったら、何人も驚倒してしまうであろう。事程それ程医学を信じ切っているのが現在の社会である。そうして序文にもある通り、私は二十余年以前結核医学の盲点を発表したが、その当時は言論の自由がないため、思い切ってかく事が出来ず、かなり加減してかいたので、不徹底は免れなかったし、その頃は今日程結核問題もやかましくなかったから、それでもよかったが、今日はどうであろう。衆知のごとく事実は国家の最大問題となっている。今年から行う事になったという結核に対する施設及び、その他の国家的負担は千億に近いというのであるから、民間費用を合算したなら、実に驚くべき巨額に上るであろう。そこで深く考えてみるべきは、なぜこのような事態に立到ったかという事である。もちろんこの問題に対しては余程以前から政府も専門家も大わらわになって、あらん限りの対策を練り努力しつつあるにかかわらず、今もって見るべき成果がなく、近来相当減ったとしているが、これはB・C・Gやストマイ等の新薬が出来たため、一時的発病の勢いを挫いたまでで、根本的でないことは医学でも認めている。何よりももし今までの対策が当を得ていたとすれば、結核問題はとっくに解決されていなければならないはずであるのに、事実は前記の通りである。としたらそこに何らか割切れない大きな誤りがあるに違いあるまい。ところが医学はそこに気付かないのである。しかしながら喜ぶべし、いよいよ私によってその根本原理が判明し、全治の方法をも完成した以上、人類にとってこれ程大きな救いはないであろう。無論この原理に従えばこの難問題も容易に解決され得るからである。

 ところでここで厄介な事は、以上のごとき大発見を知らせるとしても、体験者以外直ちに信じ得る人は、ほとんどないであろう事である。ただ驚きの眼を瞠るか、あるいは見逃してしまうかも知れないが、この著にかいてあることごとくは絶対真理である以上、読むに従って納得され、翻然眼を醒ます人も相当あるであろう。

 さていよいよ本論に取り掛るが、そもそも人間は誰でもオギャーと生まれるや、例外なく先天性毒素を保有していると共に、生長するに従い、大多数の人は後天性毒素をも追加する。これは別項に詳しくかく事として、右の両毒素こそ結核の真の原因である。今一つ重要な事がある。それは人体における自然良能力の活動である。それは一秒の休みもなく、不断に浄化作用が行われている事である。浄化作用とは体内にあるあらゆる毒素の排除作用であって、この過程をかいてみるが、元来右の両毒素とは、血液中に含まれているというよりも、充満していると言った方がいいくらいのいわゆる濁血である。ところがこの濁血に対して浄化作用が発生し、それによって毒素分は分離し、毒血または膿となって体内各局所に集溜する。その場合主に神経を使う箇所に限られているので、人間が神経を使うところといえば、上半身特に首から上で、頭脳をはじめ、目、耳、鼻、口等であるから、そこを目掛けて集溜せんとし、一旦その手前に固結する。いかなる人でも頸の周囲を探ってみれば、淋巴腺、延髄部、扁桃腺等の部に必ずそれがあり、微熱もある。するとこの固結がある程度に達するや、自然浄化作用が発生する。この浄化作用こそいわゆる感冒であって、感冒に罹るや発熱が先駆となるが、これは右の固結を出易くせんがための熱で、この熱によって溶解し、液体化したものが喀痰であり、鼻汁であり、盗汗、濃い尿、下痢等であるから、感冒とは全く体内にあってはならない汚物の排除作用である。その結果濁血は浄血となり、健康は増すのであるから、感冒とは実に貴重な生理作用であって、神が人間の健康保持のため、与えられた一大恩恵である事は余りにも明らかである。それがいつの頃どう間違えたものか、逆に解釈したのが、今日までの医学の考え方であった。それがため「風邪は万病の基なり」などと言い恐るべきものとされ、感冒に罹らないよう注意するとともに、罹っても色々な手段をもって、毒素排除を停めようとする。すなわちせっかく溶けかかった毒素を元通りに固めようとする。この手段こそ実は結核の原因となるのである。

 これを一層詳しくかいてみると、まず感冒に罹るや、その症状としては前記のごとく、咳嗽はじめ種々の苦痛がおこるが、その中での特に重要なものが彼の喀痰である。これが口から排泄されようとし、一旦肺臓内に入り咳というポンプ作用で吸い上げ、咽喉を通って出るのであるから、そのまま放っておけば順調に排毒作用が行われ、血は浄まり、治るべきものを医学は逆解して、飛んでもない間違いをする。それは痰を出さないようあらゆる手段を用いて、肺臓内に固めてしまうのである。そうすれば病気症状は消えるから、それで治ったものと思うが、何ぞ知らん一時的固めたもので、本当に治ったのではないから、日が経てば再び風邪を引く。もちろん残りの毒結に浄化がおこるからである。その際医診を受けると、肺の中に残っている痰の固まりが、レントゲン写真に映るので、ここに結核の初期と診断するとともに、前の時肺の外部すなわち肺膜や肋骨付近にも固まりを残すので、それが溶けはじめ外へ出ようとし肺に侵入する。これを医診は肺浸潤と言い、肺の上部の場合肺門淋巴腺、または肺尖カタルというのである。これによってみるも、最初感冒の際毒素を出さないよう固めて、結核の種を蒔いておいた訳である。それだけならまだいいとして、これからが大変である。

 右のごとく結核の初期、またはその他の診断をされても、放っておけば二度目は少々日は掛るが必ず治るべきものを、医療はまたしても固めようとする。絶対安静、服薬、注射、湿布、氷冷等々がそれである。何しろ身体自身は、毒素を排泄しようとするのを、医療は飽くまで固めて出さないようにする。つまり治ろうとするのを、治さないようにする訳であるから、何と驚くべき間違いではなかろうか。

 ここでなぜ浄化作用なるものがおこるかというと、前記のごとく人間は体内に毒素があるだけは弱体で充分な活動が出来ないから、感冒は言わば自然の摂理である。という訳で人間活力が旺盛であればある程発り易く、青少年に多いのもその理によるのである。従って浄化を停止し弱らせるに限る。弱っただけは病気症状は減るからで、これを医学は治るものと誤解したのである。医学の療法が徹頭徹尾衰弱方法であるのは、この事を知ってみればよく判るはずである。見よ絶対安静を最も奨めるが、これ程弱らすものはない。今仮に健康者を何ヵ月もの間絶対安静にしてみるがいい。運動不足、食欲減退、無聊(ぶりょう)等で元気は喪失し、必ず痩せ衰えてしまう。ましてや結核患者においてをやである。しかも薬剤はもちろん、種々の衰弱療法をも行うとともに、精神的には前途に希望を失い、絶えず死の恐怖に脅えており、近親者も寄りつかず、毎日毎日天井を見詰めているばかりか、仕事も禁じられているので、経済的不安もいよいよ募り、それやこれやで漸次悪化し、どうにもならなくなる。というのが一般結核患者のたどる道程であろう。

 以上によってみる時、医学の誤謬の中心は何といっても病気症状についての誤った解釈である。それは医学は苦痛そのものを病気の本体としているから、苦痛を無くす事が病を治す事と思い、ただ苦痛を減らす事のみに専念し発達したものであって、これがそもそも誤謬の根本である。ところが本当は苦痛そのものは病の治る作用でプラスであり、喜ぶべきものである。というようにその考え方が反対であって、すなわち医学の方は浅く、吾々の方は深い訳である。しかし苦痛といっても必ず峠があって、その時だけを我慢して越してしまえば、後は漸次快方に向かうのが原則であるから、苦痛も左程長いものではない。これについて医師はよく手遅れなどというがこれも反対で、手遅れになっただけは治るので、むしろ放っておけばなおさらよく治るのである。それを逆解して早く手当をするから治らなくなる。つまり人体は治ろうとするのを、医療は治さない手段であるから、この摩擦が快くなったり、悪くなったりして(こじ)らしてしまい、ついに慢性となるのである。この理が分れば発病の場合放っておくに限る。そうすれば順調に浄化が行われるから、はなはだしい苦痛もなく容易に治るのである。ゆえに医学の進歩とは病気を治す進歩ではなく、治さない進歩であり、単なる苦痛緩和のための固め方法の進歩でしかないのである。何よりも医師は治すとは言わない。固めるというにみても、うなずけるであろう。

 ここで早期診断についてもかかねばならないが、これも実は結核増加に拍車を掛ける方法なのである。それについてさきに感冒の浄化停止をかいたが、そのような訳で現代人は残らずと言いたい程肺の内外に毒素の固まりがあるから、大抵な人は常に緩慢な浄化が起っている。微熱、だるさ、軽い咳、食欲不振等がそれでこれらも放っておけば長くは掛るが必ず治るのに医学は早期診断を行い、レントゲン撮影によって溶けかかった肺臓内の痰の固まりが雲翳(うんえい)となって映るとともに、前記のような軽い症状もあるから、ここに結核初期の烙印を捺すのである。そこでまず絶対安静を始め色々な浄化停止を行うが、取り分け薬剤を主とするため、これが毒素の原料となり、この毒の浄化も加わって漸次悪化しつつ本物の結核患者になってしまうのである。

 そうして早期診断の方法として、ツベルクリン注射を行うが、その結果陽性でも陰性でも警戒の要ありとする。この理は陽性とは浄化力が旺盛なためであり、陰性とは反対に微弱のためであるが、医師はどちらもB・C・Gの接種によって発病を止めようとする。発病さえしなければそれで済むと思うからで、その際患者にむかって、一、二年は余り過激な運動をせず、なるたけ静かにせよと戒めるが、これは浄化をおこさせないためである。といっても人間はいつかは必ず浄化が起るように出来ているから、普通の生活をし、仕事をするようになると浄化発生する。これが発病または再発である。という訳で近頃の流行薬の効果はそれであって、ただ発病の時日を延ばすだけである。この証拠として最近本教団の信者で、米国駐在の宣伝員からの報告によると、同国においても近来急激に結核患者激増し、昨年度の死亡率は、他の病気の総計よりも、上廻っているという事であるから、現在結核は同国死亡率の第一位を占めた事になり、私の説を裏書している。

 右について左の新聞記事はよくそれを物語っているにみて、ある程度医学でも分っているのである。

 昭和二十七年二月五日付読売新聞に掲載の記事

   「化学療法の手段」

東京慈恵医大教授 医博  片山良亮

 ストレプトマイシンその他の化学療法剤の発見は、従来の治療に大きな変革を来さんとしているが、マイシンでも結核の牙城を揺がす事は出来ない。マイシン治療を行っている内に、結核菌が次第に抵抗性を得て、効果を減滅するからである。その抵抗性の獲得は六~九週以上の投薬の持続によって発生するが、その間に結核菌を絶滅する事は出来ない。だがマイシンを使えば病状は急に著しく回復するが、結核菌は消失しないから、その中止によって再発の危険がある。そこで現在の研究はその事実を、いかに補うかという事になる。――(後略)

 

(御論文「結核は感染しない」)

結核は感染しない

(『結核信仰療法』より)

 結核が医療によって作られる経緯は、前項までに詳しくかいたが、その原因は結核菌感染によるとは医学の定説となっているが、私の見解によればこの説こそ大変な誤りである。それは彼のパスツールの伝染説を医学は採用したからであろうが、私はその反対に自然発生である事を断言するのである。今それを詳しくかいてみるが、最初感冒の際、喀痰を肺臓内に固めた結果、時日を経るに従い、結核菌は痰中に自然に湧くのである。というのはいかなるものでも、不潔物には必ず微生虫が発生するのは物質の原則である。としたら痰は不潔物であり、しかも体温という好条件も加わる以上腐敗もし、微生虫の湧くのは当然である。

 ところが医学の感染説であるが、この考え方は肺胞に菌が付着して繁殖し、空洞(うろ)を作ったり、病竃(びょうそう)を作ると思っているのであろうが、もしそれが本当とすれば、無菌結核は何が原因であるかという事である。だがこの答えは簡単である。すなわち無菌結核とは前記のごとく、肺臓内に固めた痰に菌が湧く程、時日が経っていないからである。と言うだけで分るであろう。それはとにかくとして、結核菌は果して感染するものであるか否かは、理屈よりも事実で示す方が確実であろう。すなわち私の多年の実験によっても明らかなごとく、私は二十数年前結核非感染の原理を知ってから、まず私自身を試験台とした。それは重症結核患者である一婦人の唾を、口移しにして試したのである。それから二十数年を経た今日、他の病気はしたが、結核的のものはした事がない。また私の家庭内にはその頃当歳(とうさい)から十五、六歳までの私の実子六人いたが、いつも二、三人の結核患者の女性を私は治療してやりながら、女中として同居させていた。その数今日までで十数人に及んで二十年以上になるが、その間治って帰宅した者と、新規の者とが交替しつつ、現在でも二、三人はいるが、今日まで結核どころか病気で寝る者すら一人もないのである。もちろん最初から消毒などは一切せず、家族同様に扱っているのであって、右の六人の子供の内四人はすでに結婚して、孫も数人出来ており、全部素晴しい健康である。また私の非感染説は、数十万の信徒にも教えており、信者は絶対に信じその通り実行しているが、結核の治った話は数限りなく聞くが、感染した話など一人も聞いた事がない。としたらこれ以上確かな証拠はあるまい。ゆえに万一今後一人でも感染する者があるとしたら、それこそ信ずべからざる一大奇蹟である。

 しかし医学が結核感染説を唱え出した事にも理由はある。たとえば一家庭内で一人が結核で死亡したとする。そのため後に残っている誰もは極度に結核を怖れると共に、医師の注意もあり、感染しないよう出来るだけ用心をする。それには何より風邪を引かないようにする事だが、万一風邪を引いた場合、早速医師に診て貰う。医師もまた結核死亡者のあった家は、疑いをもっているので特に注意し、入念に治療する。ところが医療は結核製造法であるから、結局本物に仕立上げてしまうので、その状態をみればどうしても感染としか思えないのである。ところがそれを裏書する一事がある。というのは注意をする人程感染し易く、そうでない人程感染しない例で、これなども医師は常に経験するところであろう。その他の原因としては、結核で死んだ霊が兄弟や夫や妻などに憑依して、原因となる事も少なくないが、これは唯物思想の人には信じ難いから、この説明は省く事とする。

 右のような訳で、医学は菌のみに囚われ、菌の感染を防止すると共に、殺菌方法が完成さえすれば、それで解決すると思う末梢的考え方で、これこそ根本に触れていない以上、治らないのは当然である。次にこれを詳説してみよう。そもそも菌といえども偶然降って湧いたものではなく、湧くべき条件と、湧くべき物質があってこそ湧くのであるから、その点が明らかにならない限り、病気の本体は分るはずがないのである。という訳で現代医学の菌に対する解釈は、菌その物だけに囚われ、菌の発生源にまでさかのぼっていないのであるから、幼稚極まるものであって、このような学問程度で人間生命の神秘を探ろうなどとは無理であって、これで結核問題の解決など前途遼遠と言わねばならない。それがため幾億万の生霊が、無期限に(いたず)らなる犠牲となるのであるから、実に由々しき大事件である。ところが私は神示によってこの真相を知った以上、一日も早く天下万民に知らせ、結核から解放させるべく、この著をもって警鐘の第一声とするのである。

(文中に「某夫人とキッス――」とあり)

 某夫人と言うのは、今の私の奥さんなんですよ。今はあんなに太ってますが、以前は結核で喀血して、血痰を出して、骨と皮になっていた。その前に私がやってみて、伝染しないと言う事が分った。何も――妻とキッスしても、差支えないですからね。

 この位はっきりすれば、少しは解るだろうと思いますね。むしろ、大いに反感を持ったり、憤慨したりするかも知れませんがね。そうなれば、反って面白いですよ。どうせ、間違っちゃいないなから――本当なんだから、解るのも早くなると言う訳ですからね。ですから、兎に角相当のセンセーションを起すだろうと思います。そんな騒がしい事はしっこないんですが、どうしてもそこ迄しなければ、多くの人間を救う事は出来ないですからね。実に間違った医学の為に結核を増やしているんですから、如何に沢山の人が悩み苦しんでいるかは、之は実に分り切った事ですからね。それを、今救ってやる事が一番必要な訳ですね。何しろこっちは、本当の証拠を見せるんだから、何でもない訳だ。実際言うと、医学でも薄々は解っているんですよ。解っているけれども、何ですね――しようがないと言うか――丁度、他の事に例えて見ると、良く解るんですよ。今問題になっている官吏の汚職ですね、結局知れて刑務所に行くと言う事は解っているんですよ。けれども、金が欲しいとか酒が飲みたいとか女が欲しいとか言う――そいつが、我慢出来ない。そこで、あわ良くば、誤魔化し得ると言う訳ですね。ですから、結核慮法なんかやっても、駄目――大して効果が無いと言う事は解ってますが、それをやらなければ「メシ」が食えないし、そうかと言って、自分達が作っていると言う事迄は解っていないんですね。浄化停止をすれば、苦痛が減るから、之で治ると思っている位なものですね。浄化停止をすれば、苦痛が減ると言うのは、未だ良い方で、学理上から言って、そうなるべき事になっていると言うんです――案外多いんですよ。思ったよりは治らない――「先生、何う言う訳だろう」と患者が聞くと、「そんな訳はない。理窟から行くと治るんだから、あなたが何うかしている」と言う。私も経験があります――昔、歯が痛い時にね。歯の学士か何かです。一カ月位経ってから行って、未だ痛い――そう言ったんです。すると「そんな事はない。確かに良くなっているんだ。それで痛むのは何うかしている。あなたの方が間違っている」こう言うんですからね。つまり痛みがあっても、学理上から言ったら、治っているんだ、と言うんです。随分変な理窟ですね。我々は事実を一番上にしているんですね。処が、そう言う人達は、事実より理窟を上にしている。よく、浄霊する時に、こんな――手を振った位で治る訳がない。一体何う言う理窟になっているか、それを聞かして貰おうと言うのが、よくありますよ。理窟に促(捉?)われているんですね。理屈よりも事実ですね。病気だから良いが――御馳走する場合に、之は理窟から言って美味いんだ、と言うが、食べて見ると不味い。それから、嫁も貰う場合に、あれは気立てが良い、器量が良い。だからあれを貰おうと言う――そう言った人間の好き嫌いは理窟ではないですからね。之は言う必要はないが――感じですからね。あれは好きだ。好きだと言ってそんな美人ではない。それに、そう教育もない。あれと同じです。何でも理窟ずくめですね。それが、文明の弊害と言いますかね。そんな様な訳で、この論文なんかも、何処迄も事実で押していくんですがね。結局に於て、どんなに医者の方で文句言った処で、事実には勝てないから、結局は先が負けるに決ってますがね。

 (奇書「神は子供を愛しみ給う」)   【註 栄光 第一三九号】

 段々、結核製造も――つまり準備が整って来たんで、子供から製造にとりかかるんですね。今、日本でストレプトマイシンの製造なんか、非常に増えて来て、色んな――結核に関係した薬ですね。そう言う様なものも、輸出するんです。何処に輸出するかと言うとインド、ビルマ、マレー、そう言う方面に随分出るんです。そうして見ると、あっちの方も結核患者が非常に増えて来たんですね。邪神の計画通りですね。

 邪神と言うのは、人類を弱らせると言うのが手なんです。だから、西洋医学と言うのは、邪神が拵えたものなんです。之もいずれ発表しますがね。そこで、医学の間違いを私が発見したんで、邪神の方では大恐慌なんです。そこで、私がこう言う論文なんか書くと、それは邪魔するんです。この頃は大分邪神の方が力が減って来ましたがね。兎に角邪神の方は益々手を拡げて、子供からとやっている。今の「結核信仰療法」の方もそれなんです。やっぱり九分九厘と一厘の闘いなんです。一厘の一つの現われですね。

 あんまり結核の話許りも、気持の良い話ではないからね。この間、ピカソの批判はしましたが、あれについて、ああ言った変な絵ですね。ピカソと言う人でも、別に精神病ではないんだから、何かああ言う絵を書くには理窟がなくてはならないですね。その理窟は何う言う訳かと言う事を話して見ようと思う。この根本は、西洋文明と東洋文明の異い差です。その為なんです。元々東洋文明は静なんです。西洋文明は動――動くんですね。そこで、之は芸術によく現われているんです。音楽にしろ、東洋の方は静ですから、実に静かですね。聞いていて、気が落着くんですね。西洋の方は動ですから、実に爽快で、身体が自然に踊る様になります。じっとしていない。踊る様になります。之が極端になったのがジャズです。之は動的の極地になった訳ですね。ですから、あの位身体の動くのはないですね。最近のは、又もっと動く様ですね。この間映画で見ましたが、アメリカのジャズなんて言うのは、音楽のリズムに合わして、踊るより――踊り方が細かいですね。一つのサーカス的の――芸みたいですね。あれは愈々動の極地になって来たんですね。そこで、踊り――舞踊でも、日本の方は、舞うですね。静かに落着く様な訳ですがね。西洋の方は、今言ったジャズ的になる。之は、静と動の異い差ですね。で、之は日本としても、今の文化の形体(態?)から言っても、その静か――静は守っている訳にはいかない。やはり或る程度動にならなければいけない。服装から言っても、和服と言うのは静の服装ですから、之は活動の出来ない服装になってますから、何処迄も――静かに歩くとか、立ったり座ったりする様に出来てますからね。西洋の服装と言うのは、動的で――活動的だから仕方がないですね。そこで、之からは静と動と偏らないものが出来ていくんですね。やはり一つの結びですよ。

 「結び」に就いても――この間ダレス国務次官補ですね――あの人が、この間――何処かで講演しましたが――その時に、之からは東洋の代表者としては日本だ。西洋の代表者としてはアメリカだ。だから、アメリカと日本を結んで、初めて平和的世界が出来るんだ。と言う様に信じている。と言う事を言われましたが、之は私が以前に言った、東洋の経が日本で、西洋の緯がアメリカだ。いずれは結ばなければならない。と言うのと良く合っているんで、私は面白いと思った。そんな訳で、今言う芸術もやはり結ぶ訳ですから、それで良いんですがね。その動ですね。動の極地になった、いわゆるジャズですね。そうれがピカソの絵なんです。と言うのはピカソの絵と言うのは動く処を画くんです。今迄の絵と言うのは、静止している処を画いている。だからはっきりしている。それを、動く絵を画いてあるんで、その説明をすると、何うやら解る。例えて見れば、人間でも横を向いた処を画く。すると半分が正面で、半分が横でしょう。だから、かためて、鼻が二つある様になる。又或る時は、顔が重なり合う。それから建物、汽車や電車或いは自動車を見た場合に、こう(線の様に)なる。それを画いた。だから線許りで幾何学的に画く事になる。こっちに人間が居るかと思うと、あっちに家の壊れた様な物がある。処が、実際にそんな動くなら良いが、処がそこに矛盾がある。だからピカソ自身は良いとしても、それを見物する方は災難ですよ。そう言う考えを持って見れば、或る程度解らない事はないですね。処が、絵にしろ凡ゆる美術と言うのは、人間を目によって楽しませるんですから、あれを見て楽しい感じが起るなら良いですよ。処があれを見て楽しいと思う人はないですよ。何う言う訳で、こう言うのを画くんだろうと考えますからね。考えて解るかと言うと、解らないんですからね。すると、楽しみより苦しみになる。誰も、金を出して苦しみに行く者はない。だから、私はピカソは見なかったんです。この間東京に行って、高島屋でやっていると言うので見たんですが、だからああ言う美術と言うのは無くなって了うんです。要するに動が極端になった迄なんですから、長く続くものではないんです。芸術にしろ、美術にしろ、楽しめなければならない。楽しんで、良い物でなくてはならない。それによって慰さめを得るし、それによって心が向上しなければならない。レベルが高くなければならない。人間と言うのは、見るもの聞くものによっては、魂が高くなったり低くなったりするんですからね。今言う様に、低くなるもの許りですから、人間の魂が段々低くなって、悪い事をしたりする様な事になる。そこで私は美術館を造ったりして、一つの宗教ですね。魂を救う一つの手段を考えるのです。

 私は、博物館の考古学的なものは、一つの参考品としては良いが、美術としては人に見せるものではないですね。一昨日も東京に行って――懇意にしているので、銀座に行ったが、博物館よりも大分出品して、大分見るべき物があった。あれとても、一部は良いが、そうあんまり感心は出来ない。処がサンフランシスコの博物館で見せました物を見たのですが、仏教芸術が多過ぎたんです。ああ良いとは思いますが、何百年前、鎌倉時代の阿弥陀さんとかお釈迦さんとか――専門家が言ってましたが、そうした人で――博物館に関係した人でさえ、之は阿弥陀さんかお釈迦さんか解らずに、私に聞きました位、あの人達も未だ解ってない。だから、それを見て、聞く様じゃ本当じゃない。むしろ、楽しみより苦しみですね。額に八の字を寄せて――そう言う事が、今多過ぎるんですよ。話は違うが、ラジオでもそうです。今度民間放送が出来るんで良いが、ラジオなんか、教育的なんですね。音楽なんかで一番解る。シューベルトは、元――生れて何んな事をした。何時作曲した。そんな事は要らない。聞いて楽しければ良いんですからね。それを、西洋音楽を日本人に教育し様と言う考えは――聞く人は災難なんです。朝の一時間は堀内敬三の音楽教育をされる。本人は良い気持になっているが、こっちは甚だ迷惑です。美術館もそう言う処がある。そこで、私は成る程楽しめる。目から――理窟でなく、自然に知らず識らず楽しみ乍ら、魂を高めると言う方針でやる積りですからね。要するに、美術教育にしろ、一切の何にしろ、そう言う教育が本当です。今迄の教育は間違っているんです。つまり、子供なんかも、もっと愉快に面白く、人格が出来ると言う訳ですね。話は色んな方に行ったが、ピカソの意味ですね。そう言う事も知って置くと良いんですね。それを真似して、日本なんかでやってますがね。之もしようがないと思うんですがね。それでピカソがああ言う風になったのは、大体アメリカの金持の影響もあるんです。成り金が、美術館を造って、それを自慢にするんです。成り金がそう言う物を集め様と思っても、東洋の物は集まらない。他で皆んな買っちゃってある。そこで西洋の油絵を買おうと思っても、美術館が買っちゃったりして無いんです。そこで、何か驚く様な物がなくちゃならないと言うので、今迄は油絵と言うのは、昔からの古い絵を見ると解りますが、段々駄目になって、結局に於て色のある写真だと言う事になって、行き詰っている処に、日本の光琳の影響を受けて、あっちが違っちゃった。写真とは反対の、印象派が出来て、後世、感覚派とか出来て、実際と離れた絵が出来て来た。実際と離れて、離れ過ぎちゃった訳ですね。それで、動きを画いて見ようと言うヤマですね。その考え方が、非常にアメリカの金持に合っちゃった。それで非常に高くやったんです。そして、古い物を持っている者に、ヘンどんなものだと見せたんです。そこで、人々がピカソは、何萬弗で買ったと――段々せり上げて――すると一般はどうかと言うと、ピカソの絵は一枚何萬弗だ。それじゃ良いに決っていると言うんで有名になった。それが日本に来て、日本は昔から、雷同性があるから、西洋であんなだから良いに決っていると、偉い人が無理に押しつけちゃう。それで一般は、あの人がああ言うんだから、良いに違いないとなったんですね。一つの流行心理と言いますかね。殆んどそれに従っているんですね。私が、この間言って――ぼろくそに言ったのが、中部日本に出ていたそうです。私がピカソをぼろくそに言ったと言うのを、何と言いますか――変っているとでも言うんでしょう。書いた記事は見ませんが、驚いたと言う事は確かです。そんな訳で、何時かは私の書く事が、之が本当だと言う事が解る時期が来ますが、兎に角、私は本当のものを――本当の意味を書くんですから誰が何と言おうと、そんな事は眼中に置きません。

 

 

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