今日は六ずくめです。十六日で、質問事項が六名六項。参拝者が三百六十六名。六でもないじゃなくて、六でもあるんだから良いがね。
(お 伺) 山元儀三郎(昭和二十五年八月入信、四十七才)は二十四年暮より心臓の動悸激しく、不眠の為医師の治療を受けましたがはっきりせず、二十五年七月御浄霊を戴く様になりましたが、余り変化なく一時御浄霊を中止致し、田舎にて静養し、動悸が収まりましたので家に帰り、御浄霊を戴く様になり、不眠は殆ど良くなり、心臓の動悸もなくなりましたが、本年に入り、又以前の状態の様になり、一月三、四日には心臓を圧迫する様な痙攣の発作があり、頭の状態は皮膚と肉とが離れて引吊った様な感じで、後頭部、延髄は入信当時は冷たかったのが、暖くなりました。足は常に浮いた様な感じが致し、皮膚は弾力性がなく、常に脅怖を感じ、喜怒哀楽の感鈍く、食欲も余りありません。以前に睡眠薬を常用致して居ります。御浄霊の個所を御教えの程御願い申し上げます。尚、御神体は御奉斎致して居りません。
〔御 垂 示〕
之は死霊ですね。死霊が浮ばれない訳ですね。それで、この人にくっつくんだから、之は光明如来様を一日も早くお祀りしなければ駄目ですね。大体それ丈ですよ。死霊を救ってやらなければならない。ですから、光明如来様をお祀りする事と、御神書を出来る丈読む事と――それ丈で治りますよ。
(お 伺) 四十才になる婦人。お産後の子宮出血が因で、今日に至るも治らず、御浄霊を戴き、二カ月位の間一時止りましたが、今度は寒気がして咳が激しく、痰も出、衰弱致しますので、教会にて二カ月程御浄霊を戴き、大変楽にさせて戴きましたが、其後はっきりせず衰弱も加わって居ります。主人及び親戚一同は御浄霊を嫌い、医薬療法を奨める為、家庭の不満は去らず、主人は光明如来様を破る等致し、御浄霊を戴く為に、逃げ隠れして伺う状態で御座います。結婚当時から、心にもない義理的の結婚を養父から奨められた為、結婚後毎日様に不満を抱き、病気も婦人科の手術、灸療法を行ったり致し、今度は黄疸又は肺浸潤の為に気胸療法六回、マイシン十五本致しましたが、一向に良くならず、二十四年一月に入信、御浄霊を時々戴きました処、体は肥って参りましたが、病状ははっきり致しません。主人は、御浄霊を止めて医者に行く様に厳しく申しますが、如何致しましたら宜敷う御座いましょうか。
〔御 垂 示〕
之はどうも感心しませんね。之は、こうしろと言う事は言えませんがね。若し私が、この人の親だったら離婚しますよ。離婚しろとは言えません――それでは、甚だ誤解を受けますから、私としては、そう言う風に考えますね。之は、全然霊的に合っていないんですよ。ですから、夫婦である間は仕合せになれませんね。
それから、こう言う反対のある場合は治らないんですよ。何時も言う通り、その霊が邪魔してね。霊の邪魔と言うのは実に恐ろしいもので、その一家に居ると、絶えずその霊が働きますから、その邪魔によって浄霊の力があんまり強くないんですよ。弱りますからね。ですから、之は浄霊している教師は、本当は止めた方が良いです。そうして時期を待つんですね。処が本人が中々止められないから――それに、縋って来るでしょう。そうしたら、本人に穏かに――結局離れる様にした方が本当は良いですね。それでないと、こう言うのは、霊的に喰違っているんだから、仕合せになれないし、信仰にも入れないんですね。従って、幸福にはなれないと言う訳になる。
之は、つまり結婚が間違っているんですね。こうなると、恋愛結婚は良いと言う事になりますが、恋愛結婚でも見合結婚でも、結局同じ事ですが、之はその人が霊に曇りが沢山ありますから、旨くいけないんだから、それ丈の苦しみをして、霊がそれ丈浄まるんですから、浄化ですよ。病気でない浄化ですね。それは、それ丈の苦悩なんですから、一番良い事は、信仰をして神様にお願いして、御主人を刺戟しない様にして時期を待つんですね。そうすると、その人に御守護が段々加わると、自然に離れられるか、さもなければ御主人に信仰心が起って、円満になるか、どっちかですからね。その辛抱が出来なければ、離れるより仕方がないですね。それは、その人の気持ですね。その道理丈を説いて、あとは本人の自由意志と――それよりしようがないですね。
(お 伺) 私の弟(内臓外科医)の長女本田幸子(三才)何時とはなく、片方の眼のみにて物を見る様になり医診の結果「脳膜神経膠腫」と言う稀病で、原因不明で予防法、治療法は共になく、早くて半年、遅くも五カ年内に脳髄と肝臓を犯され、必ず一命を取られる恐ろしい病気で、この儘放って置けば、眼球突出し、臭気甚だしく、看護に耐えられぬとの事に、右眼は摘出手術、軽症の左眼はラジウムを挿入致しました。手術後は順調でありましたので退院し、自宅より毎日通院しレントゲン療法を施してを(お?)ります。至極元気で左程苦痛も訴えず、両眼帯の為手探りで遊んでを(お?)ります。医者には絶対に治らないと見離されましたが、本人の親は、光明如来様をお祀りすればお救い願えますでしょうかとの事で御座います。尚、御浄霊の方法を御教えの程御願い申し上げます。
〔御 垂 示〕
惜しいな。之は治るんですがね。別に大した病気じゃないですよ――我々から言えばね。之は、眼の裏に膿が一杯溜るんです。眼が飛出ると言うのは、押すんです。早くて半年――そんな事はありません。之は間違っている。眼が悪くなって肝臓を何うすると言う事はありませんよ。眼は直接肝臓に何うと言う関係はありません。若しそんな事言うと、目の手術した人は皆肝臓が悪くなる筈だ。
放って置けば臭気甚だしく――之は上等ですね。膿が出るんですからね。右眼は手術したと言うのだからしようがないが、左眼にラジウムを挿入したと言うのは、困りますね。
ラジウムは組織を破壊するんですからね。組織を殺すんですからね。こんな事してなければ訳なく治るんですが、唯問題はラジウムですね。それからレントゲンは膿を固めるんですからね。この為に非常に長くはかゝるでしょうが、治るには治ります。唯レントゲンが弱いとか、ラジウムが弱いとかすれば、それ丈早く治るでしょうがね。実に困るんですよ。お医者の手をかけた丈は遅いんですからね。けれどもラジウム、レントゲンをかけ乍ら浄霊しては何にもならないから、それ丈は止める。それで、一週間か二週間位試してみて、それで膿が出て来ればしめたものです。膿が出て来れば溶けて来たんだから、請合って治ります。
(お 伺) 倉地一(四十三才)六歳の頃右眼に打撲傷をし、約一カ年翳んで居りました事が御座います。二十六年十一月二十五日夜籾摺の時、俄かに目が翳み、目薬をさしても思わしくなく、町の眼科医の診察では視神経と言われ、二、三日通い、はっきりしないので岡崎市立病院へ行き、左眼黒底翳、右眼白底翳と言われ、十日程通い、毎日両眼に眼球注射しましたが、何の変化もなく、名古屋大学病院で診断の結果、網膜炎と言われ、入院を奨められ、岡崎市立病院へ入院し、毎日眼球注射及び油薬を腕、胸、股に摺込みました。手術して牛の脳を股に入れよと言われましたが、手術直前に御道を知り、早速退院致しました。この時は両眼に三十四本の眼球注射をうち、両眼共に失明状態となり、十二月に妻と共に入信させて戴き、御浄霊を戴く様になってより、寝汗が出、気分も大変軽くなりました。両眼には余り変化がありませんが、多少充血し、一間程近ず(づ?)けば、黒くぼーっと見え、言葉を聞いて、人と思う位の状態で御座います。御神体は未だ御奉斎致しておりませせんが、今後如何様に進ませて戴きましたら宜敷いでしょうか。又御浄霊の個所を御教えの程願い申し上げます。
〔御 垂 示〕
視神経障害とか、視神経麻痺とか言うんですがね。視神経と言うのは――病名じゃないですね。網膜炎と底翳は大変な間違ですね。網膜炎は眼球の外面ですからね。底翳と言うのは、裏面ですからね。医者の診断はそんなものです。解らないと言えば良いんですが、解らないと言うと値打が下ると思うんですね。あれが困る。要するに不正直なんですね。人間の命を預かる者が、正直でないと言うのは甚だ困るんですね。
股に摺込み――之は水銀軟膏ですね。黴毒の疑いがある。之も、別に難かしいのじゃないんですよ。之は、最初打撲症(傷?)受けましたね。この時内出血してあった。それが固まったんです。そこで、一旦見えるに差支えなかったんですね。それが、浄化が起って内出血が溶けて、眼の裏に溜った訳ですね。それで見えなくなった。こんなのは、放ったらかして置けば、もう治っているんですよ。お医者に行って、一生懸命に悪くして貰ったんですね。悪くされたんですね。
ですから之は、底翳には違いないです――裏に溜っているんだからね。然し、普通の底翳とは違う。内出血が溶けたものですからね。だから之は、放って置けば段々出て来て、目ヤニになって治ったんですが、良い塩梅にお医者さんに悪くされたんですね。眼球注射と言うのは悪いんですよ。大体、常識で考えても分るんですよ。目の玉に直入れるのは悪いんですからね。ですから、目の玉に注射して、治るのは一人もありませんよ。実に、医学と言う代物は困ったものです。
それから、油と言う――水銀なんかをこするが、之は大した事はないが、勿論、良くはないですね。気長にやれば治りますが、眼球注射と言うものは、段々目ヤニになって出ますからね。その代り何年か経って出るんですがね。それから、どうしても光明如来様をお祀りしなければなりませんね。そうして、その部屋に寝なければいけませんね。こう言うのは、僅かづ(ず?)つ治って来ます。黒くぼーつと見えると言うのは、幾らか効き目があったんですね。気長に、今言った様にやると、段々少しづ(ず?)つでも見えると、希望が出て来ますからね。まあ――結構でしたけれどもね。
(お 伺) 伊藤義雄(十八才)胃下垂の為二年間服薬注射を致し、段々衰弱し、昨年夏頃より御浄霊戴き、大分気分が良くなり、入信させて戴きました。其後父も入信させて戴き、以後自宅で父の御浄霊を戴いて居りました。本年元旦に教会に参拝致し、午後から下腹から寒気がして気持が悪くなり、其夜から熱が出て、食欲なく、胃が痛み、四時間程苦しみました。毎日下痢し、お腹も数回痛み、元気なく、何となく疲れ易くなりました。御浄霊の個所を御教示御願い申し上げます。
〔御 垂 示〕
之は結構ですよ。熱が出たと言う事は、薬毒の固まりが溶け始めたんだから、浄化熱ですね。それから、胃が痛み――痛みもやはり薬毒が溶ける苦痛ですね。その為に食欲がないんだからね。毎日下痢――之は結構ですよ。この為に毒が出るんだからね。疲れる――之はしようがないですよ。食欲がなく、下痢するんだから。少し位疲れます。この位我慢しなさい。浄霊は背中の方に固まりがありますから、それを溶かす。一旦服んだ薬は、仰けに寝るから背中に溜りますから、それを溶かす。前にも固い処がありますから、それをとる。
胃下垂と言うのは、薬の飲み過ぎなんですからね。何時も言う通り、薬を飲み過ぎて、薬が垂れて来るんですからね。こんなものは何でもないですよ。それから、こう言う人はお茶漬を食べると良いんですよ。お香こをきざんで、それでお茶漬する。鮭でお茶漬ですね。そう言う風なものが割に良いんですよ。つまり胃下垂と言うのは、消化の良い物とか、良く噛んだりすると駄目なんですから、胃の悪い人は、お茶漬を食うんですね。それ丈で治ります。胃下垂なんかは、お茶漬で百発百中です。
(お 伺) 山田なつ(四十五才)二十四才の時裁縫中に側の物差を取ろうとして右手を伸ばした処、物差は取れず、左手が突っ張って其の儘意識不明となり、三日目に恢復と共に左半身不随になり、自由が利かず親戚の医師に治療を受け、又民間療法、電気療法も致し、良いと言う事は何でも致し、既成宗教も信仰しましたが、何等変りはなく、歩行困難、言葉はもつれ、涎も出て、不自由な日を送っております。御浄霊は毎日戴いて居りますが、変りありません。尚御浄霊を戴きますと、左胸部(乳の上)左肩の部より両手先、特に左手先等激痛を感じます。之は霊的で御座いましょうか。又御浄霊の個所を御教えの程御願い申し上げます。
〔御 垂 示〕
之は、薬毒の――つまり中風ですね。丁度、物差を取る時に中風が起ったんです。若い時分だから、割に命に関わらなかったんですね。之は、そんなに質の悪い方じゃないです。舌は未だもつれてますか。
「未だもつれております」
ここ(頸部淋巴腺)に固まりがありますから、ここの固まりを溶かすのが一番です。之が元ですよ。それから、あとは歩けるんですか。
「歩けます」
手は動かせるんですか。
「動かせますが、しっかり握れません」
そうすると、手を握ってみて、痛い処か痺れた処がありますから、それを浄霊してやる。それから、舌のもつれは、ここ(頸部)です。それから、頭脳の程度は――
「普通で御座います」
ぼんやりしてませんね。軽いんですよ。もう一息で治りますよ。今言った通りにやればね。
【御 教 え】
今度、農業特輯号を出しますけれどもね。多分この次辺りの「栄光」だろうと思いますがね。それで、論文ですね。あれは、この前読んだと思いますが、その次に――この前は早過ぎたので、報告が来てからと言う事を言って置きましたがね。あれから、大分報告が来て、もう大体恰好がつきますから――で、この前の論文の、次の論文ですがね。報告を見てからのです。それを読ませます。
(御論文「農業の大革命(二)」 【註 栄光 一四一号】
農業の大革命 五ヶ年にして米の五割増産は確実(二)
(栄光一四一号)
今度各地から報告された昨年度の成蹟をみると、時期が早い為収穫迄に到らないものもあって遺憾ではあるが、しかし大体は判ったので、これに就いて私の感想をかいてみるが、何よりも自然農法は、今迄作物の生命と頼んで来た肥料を否定するのであるから、最初は家族をはじめ、村人等から思わざる非難攻撃を受け、嘲笑の的とされるので、実に血の涙で隠忍自重、黙々と頑張り通して来た事は、読み乍ら私は目頭が熱くなる位である。全く信仰ならではという感が胸に迫るが、何しろ先祖代々肥料迷信になり切っている人達からみれば、反対するのも無理はない。これに就いて惟われる事は、歴史上今日でも、人類に多大な貢献をなしつつある発明発見と雖も、その当初は例外なく誤解と迫害を浴び、苦心惨澹押切って来た幾多の記録は、吾々の魂を揺り動かさずには措かないものがある。
そんな訳でこの自然農法と雖も、一時は相当反対されるであろう事は覚悟はしていたが、何といっても実際に驚異的成果を挙げる以上、或時期迄の辛抱と思っていた。ところが予期の如く、漸く各方面の注目を惹くに至った事は、今度集まっただけの報告をみてもよく分る。しかし最初は何といっても周囲の事情も悪いし、本人でさえ確信が持てない事とて、思い切って堂々とやり始めた人は少なく、大部分はオッカナ吃驚試作的に始めたのである。しかも土地にも種子にも肥毒が相当滲み込んでいるので、最初の年などは枯死するかと思う程の黄葉、細茎等で、これを見ては不安焦燥、只管神様に祈るのであるが、収穫時になると案外好成績なので、ホットするとは誰もがいう言葉であって、この難境を切抜けてこそ、勝利の栄冠をかち得るのである。しかし本当をいうと四、五年本栽培を続けて、五割位増産の各地からの報告を載せたかったのだが、それ迄待たれない程の目下の実状であると共に、最早今迄の実蹟だけでも、本栽培の効果は充分判ると思うから、取敢ずこの特輯号を刊行し、早急に農業者はもとより、一般人にも知らせるのである。
右の意味に於いて、この際、目からも耳からも入れるべく、この特集号は各大臣、国会議員、主なる新聞社、全国の農事試験場、農会、農事関係者等に、普く配布すると共に、準備つき次第全国的に本部から出張講演する予定である。従って農村の信者諸君はもとより、一般信者諸君に於いても、大いに宣伝し、勧告されん事を望むのである。
次に最近の新聞紙上によれば、政府も思い余ったとみえ、本年度から莫大な費用を支出し、あらん限りの方策を樹て、一ヶ年三百万石増産の計画を実行するとの事である。それもいいが今迄通り金肥人肥を使用するとすれば、他の農事改良や種々な方法を講じても、三百万石増産は先ず夢でしかあるまい。私の推測では旨くいって平年作か、下手をすると昨年の如く減産になるかも知れないとさえ想えるのである。故に何としても肥料迷信を目醒めさせ、一日も早く自然農法に切替えたいと思うのである。しかし、幸いこの事が分って実行するとしても、日本全国を一挙に切換えることは無論不可能であるから、慎重の上にも慎重を期し、先ず一ヶ年一割づつ十年計画で実行すればいい。そうすれば全然減産の心配はなく一、二年は平年作とみて、三年も過ぎると漸次増産となり、五、六年経た頃から五割以上は、太鼓判を捺しても間違いないのである。
ここで特に言いたい事がある。それは未信者では一寸分り難いが、元来人間の主食である米というものは、神が人間を養うがために造られたものである以上、人口が如何に増えても必要量だけは必ず生産される筈である。ところが現在の如く一ヶ年二千万石も不足するというのは、全く間違った農耕法、即ち、人為肥料を用いるからであって、前記の如く五割以上増産になるとしたら、日本経済はどうなるであろう。借金王国の有難くない名は逆となって、国民は鼓腹撃壌という文字通りの時代が来るのは必定である。こんな事をいうと余りに棚牡丹式で、反って疑念が起るかも知れないが、私は根拠のない事は言わない。実績報告中にもある通り、自然栽培によって肥毒がなくなるに従い、稲は穂に穂が出る。即ち一本の茎から何本もの枝が出て、その枝に悉く実が生るから、少なくとも一茎で三百ないし五百粒は確かである。その上虫害もなく、風水害も激減するとしたら、昔から言われる豊葦原瑞穂の国の名に愧じない国となるであろう。以上によってみても、今後日本の人口が一億になり、二億になり、三億になっても、現在の耕地面積そのままで充分養える事は、断言して憚らないのである。
次に今一つ言いたい事がある。それは報告中の随処に出ている浄霊の文字である。これは未信者には分り難いだろうが、分かる分からないは別として、ザットかいてみるが、つまり浄霊とは肥毒を消す方法である。なにしろ手をかざしただけで、素晴しい効果があるのだから、唯物思想で固まった頭脳では到底分りようがない。しかしこれこそ本教の真髄であるが、ここでは略す事とし、先ず土の解剖をしてみよう。本来土と言うものは、霊と体との二要素から成り立っているもので、体とは土そのもので、霊とは目には見えないが、土の本体である。言わば体は表で霊は裏である。ところが肥料は毒素である以上、土の体を弱らせるから、それが霊へ映って曇らせる。というのは霊主体従が万物の法則であるからで、言わば浄霊とは肥毒解消法である。即ち浄霊の場合掌から一種の強力な光波が放射され、霊の曇りは払拭されるので、それが体に移って肥毒は減るのである。これが真理であって、この理を知らない科学は、半面である体だけを対象とする。つまり跛行的学問である。この様な不完全な科学と伝統的考え方の為、肥料によって土を弱らして来たのである。この原理を私は発見し、ここに自然栽培法が生れたのであるから、これこそ真の科学であり、世界的大発見であろう。従って画期的増産の実を挙げ得るのも、何等不思議はないのである。
最後に注意すべき事がある。それは私の唱える五ヶ年にして五割増産というのは、普通量の人為肥料を施した田を標準としての成果であって、五年位で肥料分が全く消滅するからである。ところが近来は収穫を挙げようとして至るところの農村は、硫安の如き化学肥料を多量に用いるようになったので、今日自然農法に切換えても、肥毒が全く消滅するには、それだけ暇がかかるから、五年以上と見ねばなるまい。これは報告中にもある通り、自然栽培を実行してもその成績に相当差別がある事で、これこそ肥毒の多少によるのであるが、これもじき分る。即ち出穂の場合黄色を帯びている間は肥毒のある為で、肥毒がなくなるに従い、初めから青穂となる。従ってその為の浄霊であるから、五年以上経って肥毒皆無になれば浄霊の必要もなくなる訳である。次に客土をすると、一時的成績が良くなるのは、肥毒のない土を入れるからであって、この事だけでも肥毒の害が分りそうなものだが、分からないのは全く肥料迷信に陥っているからである。
私が以前神様から知らされたのは、最初出来た時は五、六粒しかなかった。それが段々、人間が増えるに従って粒が増えて来たのですね。今日の粒と言うと、平均百二、三十粒位ですがね。それでも、今から千年位前は、生り方がもっと少なかったんです。この半分位かも分らないですね。五十粒か六十粒かも分らない。そんな訳で、人間が増えるに従って、生り方増えていくんですよ。ですから、今の人口としては、もっと粒が多くならなければならない。多く生ろうとしても、肥料で止めてあるから生れない。粒が余計になるから、増産になる訳です。それで粒が増産になると共に、穂に穂が出るんです。分蘖は根から出るんですが、穂から穂が出るんですから、幾らでも生るんですよ。今も読んだ通りね。凡て、そう言う事は、神様がやられているんですからね。人間許り増えて、食物が生らないなんて――そんな気の利かないものじゃない。人間が気が利かない為に、折角神様が気の利く様にしてやっても、旨くいかない様なものなんです。で、無肥料栽培と言うのは、大変な効果があるんです。無肥料栽培でやっていくうちに解るんですが、今度の無肥料栽培の座談会にそんな事がありました。皆が不思議不思議と言っているが、不思議でも何でもない。当り前の事なんです。で、地球上の色んな事が変っていくんです。こう言う事も人間が知ると、非常に良いんですがね。
今年は暖冬異変と言って、冬暖かいですね。段々年限が経つに従って地球上の気候が段々平均していくんです。寒い処と暖かい処――その差が著しくないんですね。平になっていく。之は色んな原因があるんですがね。人間が増えて――人間と言うのは非常に暖かくするんですね。北海道なんか、昔からみると非常に暖かくなってますね。それからシベリヤなんかも、昔は住めなかったが、今は都会なんか出来ている。それからラジオですね――気候を緩和している。ここにラジオの機械を据えると聞えるでしょう。そうすると、ここに人間の声が一杯あるんです。そうすると、霊界が違っている。言霊界と言うのは、霊界の浅い処ですね。深い処は想念界ですね。言葉が――形が現われるんですからね。形が現われる世界は、一段下るんですね。それで、一番高級の世界は、神霊界――神様の世界。だから、そう言う理窟が解れば、色んな事は大体判断がつく訳です。処が、今は科学教育を受けてますからね。そんな事は全然知らないから、今年は不思議だとか、暖冬異変だとか、色んな事を言ってますがね。
それから、お米の事はこの位にしておいて、この間も言った通り結核問題の本を書いて――之は単行本にして、之も方々にばらまこうと思ってますがね。今度は、表面的に、思い切って、世界的にやろうと思ってね。先ず最初は、日本の大学とか学界、大病院、結核療養所――そう言う方面に読ませ様と思って――送ろうと思って、まあ――原子爆弾ですね。それをぶつける訳です。どの位続くかは、一寸見当がつきませんが、けれども素通りする事はないですね。それは心の何処かに止まりますからね。最初から解らせると言う事は中々難かしいから、先ず一発放っておいて、度肝を抜いておいて、それから第二発第三発の手をやる積りです。大体書上ったんですが、之は「結論」ですが、今読ませます。
(御論文「結核信仰療法 結論」)
結 論
(『結核信仰療法』より)
私は結核問題について、現代医学に対し随分思い切って、赤裸々にかいて来たが、これを読んだとしたら政府当局者も、専門家も、一般人も、余りの意外な説に、恐らくただちに首肯する事は出来ないであろう。ある人は怪しからんと言うであろうし、ある人は宗教人一流の独善論と思うかも知れないし、中にはこれは大変な説である、もし真実としたら世界的大問題として、真面目に研究しようとする人も現れるであろうが、私としてはあえて医学を誹謗する考えは毫もない。ただ真理を真理として披瀝したまでである。というのは真に人類を救おうとするには、こうするより外に方法はないからである。
何といってもこの著の出現は、人類不幸の根源たる病気滅消の天の時が来ったのであって、これこそ神意の発動でなくて何であろう。従って既成学理にこだわる事なく、白紙になって読むとしたら、何らの疑念も起こらないはずで、信ずるより外はないであろう。そうしてこの真理を神は日本人である私に、初めて啓示されたという事は、まず日本から救いの業を始めよとの意図であろう。としたら現在日本においての最大苦悩は結核問題であるから、ここにまずこの著の出版となったのである。とはいうものの現在の日本人も、唯物科学の信奉者になり切っている以上、科学上の新説なら耳を傾けるが、科学以外いかなる立派な説といえども、最初から否定の眼を以って見るに違いあるまい。しかも神とか霊とかいう宗教的臭いがあるとしたら、なおさらそうであろうが、しかし理論を体系とし、事実を裏付けとして解説してある以上、全然否定の余地のない事はもちろんである。そうしてこの実証方法こそ我浄霊法であって、現在あらゆる病を治し、病人なき家庭を無数に造りつつある、この生きた事実を見ても分かるはずである。
最後に浄霊の原理も根本的にかきたいが、これは信者以外第三者としては分かり難いから、ある程度に止めておくとして、元々この著の主とするところは、医学の盲点を指摘する事と、浄霊の効果を知らすにあるのである。
そこで浄霊法の概略だけをかいてみるが、この方法たるや何らの物質を用いず、患者にむかって数尺離れたところから、ただ手を翳すだけで、それであらゆる病気が治る。という訳は掌から光の霊波が放射され、それによって患者の霊の曇りが払拭され、体に映って毒素は溶解排除されるからである。そうして毒素稀薄な場合、大部分は水分となって、漿液中に混入され、濃度の場合は濃い分だけ種々の排泄物となって体外へ出るのである。例えば盲腸炎の激痛のごときは、普通二、三十分で治り、重症となるとそれを二、三回繰返せば半日くらいで全治する。もちろん溶解された毒素は、間もなく下痢となって排泄されるから、全く根治であり、再発の憂いは決してないのである。この事だけにみても現在の医療が手術の苦痛や多くの日数莫大な費用はもちろん、擬似腹膜炎(これは手術後の盲腸部の痛み)や腎臓病の原因をも作るのであるから、我浄霊法と較べたら雲泥の相違であって、この浄霊法こそ最も進歩せる新医術である。そうして今日結核療法においては、気胸はじめ種々の手術を行うが、これらも間に合せ手段で、根本的ではないからはかばかしく治らないのみか、たとえ治るにしても一時的で、再発かそうでなければ弱体者となり、一生壊れ者扱いをされなければならない人間となるのは、医家もよく承知しているであろう。
ここで浄霊の霊波について、概略説明してみるが、これは一種の光線である。しかし単に光線といっても霊と体との区別がある。彼のレントゲンやラジウムのごときは光線の体であるが、浄霊の光線は霊であって、この二様の作用は反対である。前者は医学でも知らるるごとく、レントゲンは毒素を固める性能であり、ラジウムは毒素を破壊する性能であるから、癌治療はこの破壊力を応用するのである。しかし厄介な事には、その破壊力は癌と共に、局部の機質をも破壊するから、結果において効果は抹殺され、差し引き零となり、気休め以外の何物でもないのである。しかも非常に高価な代金を払って外国から取寄せるのだから、実に愚かな話である。
ところが浄霊による光波たるや、右のごとき固めでも破壊でもない。固まった毒素を溶解し、原形に復させる療法であるから、全く邪と正との異いさである。しかも前者は機械的に鉱物から採取するため、費用も手数も掛るが、後者に至っては人体から無限に放射されるので、一文も要らずして効果は前記のごとくであるとしたら、全く神が人類を救うべく、授けられたものである事は推測されるであろう。
最後に人間の寿齢の事を少しかいてみるが、近来日本人の寿命がだいぶ延びて、男女平均六十一、二歳になったと喜んでいるが、今少しくらいは延びるかも知れないが、これは健康になったためではなく、浄化停止によって発病を延ばすからで、発病しなければ医療を受ける機会がないので、生命の危険を免れるという訳である。この例として高度の文化国家程そうであるのは、彼の英仏のごときを見ればよく分る。なるほど寿命は延びたと共に、老人が多くなり、青少年はその割に少ないから、国民の元気乏しく人口も殖えず、安易を貪る事にのみ汲々たる消極的人民になってしまった。現に両国共数ある植民地も漸次減ってゆき、国威は日に月に衰えつつあるにみて分かるであろう。そうして今日までの人間は死の原因といえば、災害を除けばことごとく病気であるから、言わば不自然死である。故に病なき時代となれば、全部自然死となる以上、早逝者はなくなり寿齢は大いに延び、百歳以上は普通となるのは当然である。としたら誰でも一生涯の間に、いかに多くの仕事が出来、しかも病気の心配がないから思い切った計画も立てられ、死ぬまで活動が出来るから、人類社会にとってこれほどの大きな福音はないであろう。このような夢にも等しい世界が如実に生れるその方法こそ、本著の理論を信じ、実行する事であって、私は神の代行者として、この真理をあまねく人類に伝えんとするのである。
最後に結核に限らず、一般医学に対する批判と私の抱負をかいてみるが、まず今日全世界を挙げて、現代医学をもって最も進歩せる療病法と信じ、各国政府においてもこれを基礎として、健康確保の施設を立てており、医学の進歩によってのみ、人間生命の安全を保ち得るとしているのである。
そうして昔から幾多の新発見や新学説、または幾度とない革命はあったが、この医学の革命程偉大なものは、いまだかつてなかったであろう。何よりもこれによって人類の生命は永遠に確保されるとしたら、正直に言って釈迦、キリストの偉業よりも、何層倍価値あるものであるかは考えるまでもあるまい。この意味において好むと好まざるとにかかわらず、信ずると信ぜざるとにかかわらず、今やいよいよ真の医学は太陽のごとく燦として、東方の一角に輝き出でたのである。ゆえにこれに従う者は永遠な栄えを得ると共に、従わざる者は医学と共に、滅亡の運命を甘受するより外ないであろう。聖書にある“あまねく天国の福音を宣べ伝えらるべし、しかる後末期到る”という一節に留意されたいのである。
この間ピカソに就いて「栄光」に出しましたがね。それから、その後ざっと話もしましたが、それを今度文章に書いた処が、中々面白い点があるんです。
(御論文「速度の芸術とピカソに就いて」) 【註 栄光 一四〇号】
速度の芸術とピカソに就いて
(栄光一四〇号)
抑々、東西芸術を比較考察してみると、西洋は動的であり、東洋は静的である事がよく分かる。例えば音楽にしろ、西洋は飽迄動的で、速度的であり、聴く者をして勇躍、爽快、自らジットしては居られないようになるが、そこへゆくと東洋の方は、静かに落着いた気持になる。舞踊にしてもそうで、日本のそれは踊るよりも舞うという方で、どこ迄も静である。それに引替え西洋の方は動的で、その極端になったのが、彼のジャズであろう。
処が絵画にしてもその通りで、只音楽、舞踊と本質的に違うのは、絵画は動を表現しようとしても、静的手法である以上困難で、そこに無理が生ずる。併し何とかしてそれを破って、新しい傾向を作りたいという意欲から生まれたのが、今日の洋画であってみれば、これ迄のように物体の静止をじっと見たままか、でなければ動いている物でも、画家の方で静的に描写するかで、その観念が真実でないとして、アノ奇怪な絵画が生まれたのであって、その巨匠がピカソというわけある。
この意味を知って彼等の絵画を見る時、大体分かるであろう。即ち動いている物体から受ける瞬間の感覚を表現するので、この場合前記の如く物体の動きを客観する場合と、物体は静止していても、見る画家自体が動く瞬間の感覚との、二様である。という訳だから、観者もこれを正確に見分けなければならないが、それが中々難かしい。早く言うと、相手の動きの速度と、相手の静止を見る画家の動きの速度とである。としたら、甚だヤヤッコシイが、何れにせよ速度の感覚と思えばいい。だから顔が重なり合ったり、歪んだり、顔が小さくて、身体が馬鹿に大きく、釣合がとれなかったりするのである。又幾何学的線の交錯なども、建築物に対する速度の感覚であり、同様取り止めのない色彩の乱舞なども、花畑とか女性の服装などの瞬間的感覚である。故にこの事を心得て見れば、或る程度は分からない事もないが、遠慮なく言えば、一々画いた時の説明書を附けた方がよいと思う。そうでないと、見る者は徒らに頭脳を困惑させられるばかりで、本来楽しみたいから展覧会へ行くので、それが苦しむとしたら、大いに考えざるを得ないであろう。
これだけ書けば大体は分ったであろうが、茲で画家に対し観者としての申分がある。今我々が画家に向うや、直ぐに何の絵かが分かってこそ、作者の意図が摑み得られ、楽しめるので、それが芸術の生命であらねばならないが、ピカソ的絵は、画面に向うや、作者は一体何を狙ったものか、何を画こうとしたのかという、二十(重?)の扉じゃないが、動物か植物か鉱物かを考えなくてはならない。それが為苦しい時間を要する。これでは、芸術ではなく、一種の判じ物でしかあるまい。幸いアナ君からご名答の言葉を戴ければいいが、そういう人は恐らく何人もないであろう。私などは数枚も見ているうちに頭痛を覚えるので、全部を見たらどうなるであろうかと、恐ろしい気がする。としたら、極端な言い方かも知れないが、見物人は一種の被害者である。成程画家自身はいい気持になって、主観の押売をするのだが、買わされる見物人こそいい面の皮である。哀れなる者よ、汝の名は展覧会の見物人也と言いたい位である。これというのも、現代美術家の考え方である。彼等は客観を無視し、私がいつも言う、主観の幽霊となるのを誇りとしている。というように、以上私は随分思い切って書いたが、これも私としての個性の押売かも知れないし、押売に対する代償かも知れまい。
そこで、私は絵画に対する私の意見を少し書かして貰うが、一体絵画とは一般美術の基本的なものに違いないが、この重要性を持つものとしたら、単(端?)的に美の感覚が感受されるものでなくてはならない。即ち良い作品に向った場合、心ゆくばかり美に魅惑され、陶酔されてこそ、絵画の真価であって、優秀なる文化財である。としたら、展覧会とはこの為の存在でなくて何であろう。今一つ附け加えたい事は、古今東西を問わず、絵画そのものの存在意義であって、特殊な眼識者のみが鑑賞出来るものであっては、本当ではない。誰にも楽しめるという普遍性こそ芸術の生命である。としたら、今の洋画の如き独りよがり的であってはならない事は、言う迄もあるまい。只徒らなる流行を追うジャズ音楽に堕するとしたら、早晩自滅あるのみであろう。勿論絵画とは、眼から摂取する人間の精神的食物であってみれば、不味い物よりも、美味い物を食わすべきで、それが画家としての良心である。
ピカソや何かの色んな批評がありますけれども、あのピカソの絵が、解ったと言う様な、或いは解る様な書方をしてあるんですよ。あれは、私は自己偽(欺?)瞞だと思っている。解る筈がないんですよ。若し解るとしたら、その人の頭が何うかしている。自分の見た儘、聞いた儘を書くのが本当です。どうも、日本人は――人があんなに言うから、何処か良い処があるだろう。悪い処はあるが、それは書かないで、良い処丈を書こうと――そう言う処がありますね。私は思い切って書いたんです。何事もそうですがね。之は、絵ばかりではなく、凡ゆるものがそうですね。と言うのは、日本人の教育が間違った教育を受けているので、ものを見破る事が出来ないですね。本当の事を教わってないからです。そこで、要するに眼が――眼識が低い訳ですね。だから私は、そう言う意味から学者の人にも、本当の事を知らして――要するに本当の教育をしたいと、そう思っているんです。ですからああ言う美術品も眼の利いた人は解る。一般の人間は解らない。画家なんかもそうですよ。俺の芸術は、一般の人に解ってたまるか。解る人は解る。それで良いんだ。と、その考えが間違っているんです。之は画家丈でなく、一般の芸能人にもありますがね。それが案外逆なんです。
私は映画を見る度に、そう言う感じがするんです。処が、映画で見る感じと言うのは、今の感じとは、又違うんです。と言うのは、映画の方が行過ぎになってますね。それで、過ぎたるは及ばざるが如し、となる。特に日本の映画は、客を軽蔑しているんです。実際に有り得べからざる事ですね。私は、一番嫌だと思う事は、ピストルの射合いしますね。すると、主人公には決して当らないです。どうでもよい人間には、弾が当りますね。処が西洋映画は実に自然なんです。どんな偉い人でも、弾が当って死んでいく。あれ丈日本映画は感覚を殺しているんです。大体、日本映画の狙いは若い者ですね、映画を見るのは若い者ですから、唯面白ければ良いと言うのでね。若い者でも―映画を見たての極く低級なのはそうですが、見慣れた者はそうではない。
チャンバラですね。二十人も三十人も相手にして闘っているでしょう。実際にあんな事が出来る訳がないですよ。私は、馬鹿々々しくて見て居られない。どうかすると、刀を持たないで二、三人をどうかして、切り抜けますがね。あんな事がある訳がない。それから陰に隠れて鉄砲射ちますが当らないですね。当らなければ当らないで、納得のいく場面を作れば良いんですが。実に安直なんです。観客が低い様に思っているが、御自分の方が低いんです。処が、イタリヤ映画で「自転車泥棒」と言うのがありますが、あれなんかは、費用も――殆んど一人の人間の芸みたいですね。だから、あの位金のかからない映画はないですよ。監督の腕ですね。それで、グングン引きつけて――あの位感覚を軽蔑しない映画はないですね。実に真面目な作品ですね。そう言う事があり乍ら、どうも日本のプロデューサーや監督は、人を小馬鹿にしているんですね。然し、私がそう色んな事を言っているそんな暇はないから、我慢してますがね。
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