【御教え】
自然栽培に就いて、今度佐渡の方から報告が来たんです。座談会です。之は、私の言った通りにやって、又、その通りの結果を得られているんですから、之を大いに参考にした方が良いと思うんです。その中で一番肝腎な事は、私の説には浄霊しなくても増収する。増産になると言う事を書いてある。あれを忘れている――というよりか、余り軽く見ている人が多いんですよ。その為に何んでも彼んでも、浄霊しなくてはいけない様に思ってやっているんですが、そうではないんですよ。それは私の考えと幾らか喰違っているんですね。浄霊しなくても増産になる。浄霊をしなくては増産にならないとしたら、それを見た隣の百姓や何かは、信仰に入らなければ増産にならないと言う事になって、自然栽培や何かを実行しない様になるんですよ。やっぱり、一つの宗教宣伝だ。巧妙な宗教宣伝だと解釈されるんですね。それでは面白くない。そうすると、食糧増産するのが遅れる訳ですね。信仰に入らなくても、肥料さえ無くすれば良いというのだと、ドンドン実行しますから、普及するのが早い訳ですね。私は信仰を宣伝する為に利用する意志はないんですからね。日本が早く食糧増産になる様にという点を祈念としているんですから、その点を考え違いしない様にして貰わなければならない。病気を治す方は、信仰に依って大いに効果がある。健康になる。之は結構ですが、自然栽培の方は、全然そういう事を一緒にしないで、信仰でなく栽培法丈の改良で充分増産になるんですから、それで良い訳なので、早く日本中――そういう自然栽培の人を多くして、増産になる様にするという事が肝腎なんです。
それから、先にこういう人があった。之は新聞にも出てますが、堆肥が良いと思って水田に迄堆肥をうんと入れて、失敗ではないけれども、前年より減った――減収したという例がありましたがね。ああいう工合にどうも堆肥に囚われ過ぎるんですね。囚われるという事は、土の威力を無視することになるのです。ですから今度は何にも――堆肥も要らないんです。それから浄霊の必要もないんですよ。唯、浄霊するという訳は、肥毒を減らす効果があるんです。それですから、肥料のある間は浄霊は結構ですが、五、六年も経てば肥毒は無くなりますから、そうすれば浄霊しなくても良いんです。そういう風に考えていれば間違いないです。今読ませます。
(御論文「自然農法の勝利」)
自然農法の勝利
(栄光一六三号)
今度新潟県佐渡地方の信者の、自然農法成績に関する座談会が開催されたその記事を読んでみると、今迄にない快いものがあったのである。というのは自然農法に切換えた最初の年から、一人の減収もなかったという事実で、全部初年度から二年、三年と漸次増収しつつある報告である。しかも私の指示をよく守った人ばかりなのであるが、それは浄霊せずとも増収する事を、如実に示された点である。
しかし他の信者でも私の説を守らない訳ではあるまいが、どうも長い間の肥料その他の迷信から抜け切れず、ともすれば私の説を軽視しがちで、自分の考えが幾分でも混じるため、それだけ成績に影響を及ぼすのである。例えば水田は藁を細かく切れといってあるのに、非常に長く切ったり、その土地の習慣上堆肥といっても、糞尿とか馬糞などを交ぜたがる。又指導者の中にも、自分の考えが多少混じる事もよくある。といったように純粋堆肥を使わない人も幾らかあるようだが、充分注意されたいのである。
という訳で本当を言えば、自然農法に於いては指導者の必要はないのである。何となれば私の説をよく噛み締めれば、それで充分解る筈だからである。そうして不徹底な人の多くは、技術面に関心を持ちたがるが、本農法に限って技術は大して重視する必要はない。常識で考えただけで沢山である。何よりもこの原理の根本は、肥毒を早く消滅さして、土自体の性能を発揮させればよいからである。
この中で、一寸可笑しな処がある。畑ですね。畑作の方は未だそうしないという意味の事がありましたが、之は何か間違っているんじゃないかと思うんですよ。畑の方が、自然栽培は水田よりも余計効果があるんですよ。というのは、水田の方は大雨が降ったりすると、荒れますから肥毒が流れるんです。処が畑の方は肥毒が流れないから害をするんです。そこで畑の方が水田よりも一層効果がある。之はやった人は知っているでしょうが、イモとか豆とかは一、二年で倍になるんですね。もう一つは、米の本質――種類ですね。之は、未だ知らないだろうが、神様は最初米を造られたのは一つなんですよ。それが段々年代が経つに従って色々分れて来た。それは何ういう訳かというと、土地の――土がみな違うんです。それと気候ですね。それから水の多い少いとかですね。土の変化という事も、精しく言うと色々あるんですが、一番気のつかない事は地霊ですね。地球の中心の火ですね。火から始終霊気が立っているので、それが地層を通って地殻を通して発散している。その時に地殻の変化が色々ある。厚い処と薄い処がある。それから又亀裂がある。その為に亀裂の処からは地霊が強く発散する訳ですね。そうすると、土に変化を起す。鉱物というのは亀裂の処から霊気が強く発散しますから、硬化作用が強いので、鉱物が発生する。之は全然学問にもないので、思いもつかないんですが、本当はそうです。そこで地層の厚い薄いが非常に関係がある。地球上でも、日本は地層が割合薄い。というのは、日本は新しく出来たですからね。之は信仰雑話にも書いてあります。地層が薄いから地霊が強く出るので、日本の土というのは非常に肥えている。世界中で一番肥えている。そこで、日本で自然栽培をやれば良く穫れる。それを知らない為に色んな事で地力を殺しちゃうから、収穫が無くなる。それで今日の様に輸入しなければならない。一ヵ年に一千万石も――人間の食う丈足りないというのは、そういう訳です。
それからもう一つは、その土地に生える木の多い少いは大変関係がある。日本は木が多いですからね。雨が降って、木の汁が流れていって土に変化を起させる。それから山が沢山ある。山の蔭になったり、色々して土に変化を及ぼす。そんな様な色んな関係があって、そこで稲の品種が違って来るんです。品種が違って来て、それで良いんですがね。それを、北海道に出来たものを本土に持って行って植えるとか、九州に出来たものを関東に持って行って植えるというのが間違っている。種というのは、その土地に適当した様に出来ている。北海道のジャガイモなんかが良いといって、こっちに持って来て植えるのは間違っている。あっちは広いので肥料が行渡らないから良いので、こっちでも肥料をやらなければ成績は良くなる。そんな事を知らないから可哀相なものです。品種なんてどっちでも良い、一年でも無肥料で育った種なら良いんです。その位にして置きましょう。
私が今度――明後日奈良、京都方面に行くんですが、それは何の目的かというと、私が去年あたりから日本の仏教芸術を研究してみると、日本の彫刻、特に木彫ですね。之が非常に優秀なものなんです。私は驚いたですね。而も奈良朝時代に既に立派なものが出来ている。この間の三越であった興福寺の展覧会に出ている阿修羅なんかは、大抵の人は見たでしょうから知っているでしょうが、実に良い作ですね。他にも色々ありましたが、あれが千二、三百年前に出来たんですから大したものですね。ですから、あの時分に出来た彫刻でも、力士なんていう力を入れたものとか、帝釈天、多聞天という力を入れたものは素晴しいものです。それが空想的に出来たものですがね。処がロダンなんて言うのは、大体写生ですね。ロダンは力の彫刻としては有名になってますが、日本の力の彫刻なんかと較べるとロダンの方は足下にもおっつかない位です。そういう、日本に素晴しいものがあり乍ら、それを無視してロダンなんかを崇拝しているのは、実際可笑しくなるんですね。ですから日本は素晴しい美術品があると思う。日本人の美術的感覚というものは世界一です。ですから之を大いに外国に知らせる必要がある。之は戦争の道具を自慢するのと違って、平和的の文化財を自慢するんだから、どんなに自慢しても外国で変な目で見る心配はないんですから、大いに誇張して良いと思うんですね。それで、その木彫ですね。ですから、美術というと、みんなお寺のものを珍重しますからね。そういう様な風で、私の目的は、京都に一大美術館を造ろうと思うんです。そうして、美術品は京都、奈良に沢山あるけれども、それを見るとしても一々お寺を廻って歩かなければならないし、大変ですからね。それに、お寺で――見せるお寺もあるし、見せないお寺もありますからね。仮に外人がお寺を見たいとしても、一々廻っていては、予定があって、全部を見られる訳のものじゃないから、そういうものを一堂に集めて一ぺんに見られる様にしなくてはならないですね。それに、何しろ大きいものが多いですからね。それこそ四畳半一杯位のものが沢山ありますからね。大きな美術館を造らなければならない。東京に運ぶのは困難ですからね。ですから京都に運ぶのは訳ないから、どうしても京都に美術館を造らなければならない。各お寺にあるものを美術館に集めて、一ぺんに見られる様にしなくてはならない。然もお寺に見に行くと、一々坊さんが案内して薄暗い廊下を通って――そういう仏像がある処は薄暗い処の為に、良く見られないのです。それを美術館で鑑賞出来ると良いですね。それで、そういった日本の秀れたものを世界に知らせる事になりますからね。入場料を取ってやっても、随分来ると思います。その収入を各お寺にみんな分配しようと思うんですよ。そうすると、実際お寺は、今財政に困っているのが沢山ありますから、一挙両得だろうと思います。然もそういった寺の修繕もしなければならないのです。美術品の良いものが置いてあっても、雨漏りの修繕や、風が入ったりして、政府でも非常に心配して、文化保護とかやってますが、何しろ金がかかりますからね。之は、気の毒な位予算が少いので、修繕が出来ないんですよ。ですから、美術品を保護する意味から言っても、非常に肝腎だろうと思います。そんな意味で、京都に美術館を造るのに適当な土地がある様ですから、それを見たいと思ってます。有名なお寺を――大体連絡が取れましたから、それを見る。そういう目的が主なるものです。で、霊的には未だ別の意味があるんです。之は、簡単に言えば、仏界を大いに救わなければならないですね。仏様が苦しんでいるのが随分沢山あるんです。そういうのを救うには、やっぱりそういう様な方法もやらなければならないので、そんな様な意味もあるんです。之は余り言うと、やっぱり信者以外では、中には誤解する人が無い事もないでしょうから、余り言わないが、そんな様な色々な意味があるんです。結局箱根、熱海の美術館では、そういった仏教的な事は、場所も要りますし、今言った運ぶ事も出来ないので、そういうものは避けて、一般の美術品を並べる積りですがね。京都の方はそういう意味で、その為に京都という都市が非常な恵を受けるだろうと思ってます。だから、解れば大いに――京都市等も援助しても良いと思いますけれども、尤も援助を受けたいとは思いませんが、大いに感謝する事になるでしょう。未だ、それに就いて話すべき事がありますが、之は――京都で一ぺん講演会を開きますから、その時にもっと精しく話します。
(「大いに注意すべき事」)【註 栄光一五六号】
大いに注意すべき事
私のかいた文字を粗末にすると必ず御気づけがあるから、注意して貰いたい。これは御守に限らず、凡ての文字がそうである。というのは、その上へ品物を載せると、霊的に大変な御無礼になるから、必ず御気附けがある。何となれば一字々々に神霊が宿られているからである。その位の威力がなければ、万人を救うことが出来る筈はないからで、つまり私の文字は生きているので、そのつもりで扱うべきである。左の御蔭話はそのことを神様が御示し下されたものである。
もう一つはこういう例があったんですがね。二十年近く前ですが、私は宝山荘に居る時分に、或る部屋の床の間の前に行くと、皆気持が悪くなる。どうも不思議でしようがない。それから調べてみると、床の間の柱に雲盤が掛っていた。それに色紙が――誰かが書いたのを――色紙を雲盤に入れて掛けてあった。それは歌か何か――発句だか――その人はそういう事をやっている人で、それが掛っている。それで、私がそれを取って見た。すると、その下に私の色紙があった。それでその色紙を取って、私の色紙丈を掛けた。それから何んともなかった。そんな事があったんです。
(御論文「医学迷信」)
医学迷信
(栄光一二八号)
現代医学が、如何に素晴しい迷信であるかは、吾々にして初めて言い得ると共に、一日も放っておけない重大問題である事を叫びたいのである。処が之に輪をかける事実は、唯物医学と吾々の宗教医学とは、テンデ比べものにならない程の異いさで、月とスッポン処ではない、にも拘わらず医学の方を、真実のものと思い、吾々の方を迷信と見るのだから、恐らく斯んな不可解な話はあるまい。全く哀れなる者よ、汝の名は現代文化人と言わざるを得ないのである。左記の例はそれをよく物語っているから、此文を添えたのである。
浄霊日記
(本文省略)
(御論文「唯物主義が悪人を作る」)
唯物主義が悪人を作る
(栄光一五五号)
この標題は少し厳しすぎるようだが、事実であるから止むを得ないのである。というのは、唯物主義即無神主義こそ、我々からみれば最も危険な思想であると言っていい。ブチまけて言えば、もしこの世の中に本当に神がないとしたら、私なども随分、人に知れないように巧く誤魔化して金を儲け、したい放題の事をし、贅沢三昧に暮すと共に、相当出世も出来たであろうが、何しろ神様の実在を知った以上、どうしてもそんな事は出来ない。出来るだけ真直な道を歩いて、人の幸福を念願する人間にならなければならない。そうでないと、幸福に決してならないから、生甲斐ある生涯を送る事は出来ない。
これは理屈でも何でもない。昔から歴史を見ても分る通り、悪で一時はどんなに栄えても長くは続かないで、結局は滅びてしまう例は余りにも多すぎる。そこに気が附きそうなものだが、中々気が附かないとみえて、相変らず社会は犯罪で埋っている。強盗、詐欺、殺人などの兇悪犯罪をはじめ、地位ある人の汚職事件、市井の巷などでの人騒がせや、数知れない程の中小犯罪なども、その悉くは無神思想から生まれたものである。従って、この無神思想こそ犯罪を生む母体であると言ってもよかろう。
従って、世の中から犯罪を除くとしたら、何よりもこの無神思想を撲滅する以外に方法のない事は、余りにも明らかである。処が今日、識者も、当局も、教育家も、反対に有神思想を迷信と見ている錯覚で、相変らず法の取締や、教育、御説教等に頼って効果を上げようとしているが、これでは、何程熱心に努力しても、効果の上る筈がないのは当然である。何よりも、日々の新聞の三面記事を見れば、よくそれを物語っている。
以上によってみても、社会を清浄にするには、有神思想を大いに鼓吹するより外に仕方がないが、情ない哉現在の日本は、智識階級程無神思想者が多い実情で、然も無神思想がインテリやジャーナリストの資格とさえ思われ、無神論を大いに唱える人程進歩的とされているのである。という訳だから、これが一転して無神論者は古い人間に見られ、有神論者が時代の尖端を行く智識人と見えるようにならなくては、住みよい、明朗な社会とはならないのである。
Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.

-1-scaled-2.jpg)