【御教え】
明々後日箱根に移る事になってます。何時もは六月一日ですけれども、早くして十八日という事にしたんです。何しろ来月の十五日に美術館の開館式をやろうと思ってますから、まあ之から一カ月間大車輪で色んな飾附けや、準備をやって了おうと思ってます。おまけに初めてやる事なので、まあ少しは骨も折れる事だろうと思ってますが、然し嫌な事で骨を折るんでなくて、新しいことで骨を折るんだから結構な訳なんです。つい二、三日前に行って見たけれども、大体出来上って、あと塗る丈で良い訳です。案外早く出来たですね。色々な点に於て私の思う通りに出来まして非常に気持が良いです。恐らく皆吃驚するだろうと思ってます。凡て新しい行り方をしてありますからね。一つの、美術館としての見本を造った様な訳ですね。だから見た人は、成程斯うやれば良い、斯うするのが本当だという様な気持が残るだろうと思います。で、之に就いて矢張り神様がやられている事は、如何にも多方面に亘っているんです。それで、斯ういうものが無くちゃいけない、斯ういうものは是非並べなくちゃいけないと思っていると、パッと出て来る。それからもう一つ面白い事は、私が好きなものは安いんです。そう迄ない――まあ、斯ういうものはと思うのはベラボーに高い。ああいう処は神様は旨くやられるんです。だから割合に安く手に入った訳ですね。で、並べる品物は、其物の一級品ですね。それから私はあんまり専門的には知らなかったです。唯、好きですから若い時分から見ているので、漠然とは知っていた。又、道具屋がそういった様なものを持って来て、色んな説明をして教育をされた訳ですね。だから支那陶器なんか去年から急に研究を始めたんですね。又そうなると不思議に支那陶器許り持って来る。斯ういうのも面白いですね。それから、それに関した本なんかを読んだりして、約一年――去年一年で大体分っちゃったですね。だから道具屋は皆吃驚してますがね。あんまり私が分るんで、良い加減に嵌込もうと思った奴が、大当外れなので、つい失望する人達があります。そんな訳で美術館に並べる品物も各面に亘ってます。みんな二級品。まあ下っても一級品程度ですね。だから、よく斯ういうものが集まったという事で驚くだろうと思います。
それからもう一つは、贋物は一つもない。みんな本物許りです。之は霊感ですね。こうやってみますと、贋物は厭な霊気が来るんです。それで直ぐ分る。それから、本物はとても良い霊気が入って来るんです。だから其点が一番ですね。色んな説明がありますね――専門家の方のね。私はそういうのは参考に聞いてます。何よりも感じですね。要するに霊感ですね。それでやって行きますから、贋物は手に入らなかった。だから殆ど買損ったというものはないですね。どんな人でも相当買損っている。どうしても、今でも月謝を一千万円払わなければ駄目だという事を言われてますが、私は殆ど月謝なしで稽古したんですね。そうして要り様(入り用?)なものはちゃんと来るんです。何ういう訳だというと、霊ですね。霊界で手柄をしたい為に、自分が持っていた物とか、愛好したものはメシヤ教の手に入る様に、やっぱり霊界で色々働くんです。之は本人に知れちゃ、気持悪くするけれども、どうしても俺は手離すものかといっていても、やっぱり金が要って、背に腹は替えられなくて、大事なものでも手離さなければならないという事も大分あります。此人が斯ういうものを手離すのは不思議だというけれども、そうじゃない。其人の祖先の霊が、霊界で大いに働く訳ですね。ですから、そういう点でも不思議に色々なものが集まるんです。丁度四、五年前から二、三年前位ですが、浮世絵なんか私は大して感心を持ってなかったが、一寸したものを持って来たのを買っていたんですが、割合に其頃は安かった。今それを見ると、浮世絵の最高のものです。今そういう専門家に見せると、どうして手に入りましたかという。どうしてといって、持って来たから買ったというんです。之は中々手に入るものじゃないという事を聞いて、私も吃驚する。だから、そんな様な工合でとても値が上っている。どうしても、平均として買った時の三倍乃至五倍になってますね。だから私は道具屋としたら随分儲かったが、銭儲けじゃないですからですが、そういう点でも奇蹟は非常に多いですね。今でも始終奇蹟がある。つい最近ですが、之は絶対秘密という事になってますが、日本一という素晴しいものです。処がそれは財閥ですが、どうしても息子が売らなければならない。それは三人非常に目掛けている。みんな財閥の息子ですが、それを一人に売ろうとしても、三人のうちのあと二人に対して悪いので、どれに売る事も出来ない。処が金が要る。何処かに売らなければならないというので、秘密に私の方なら当り障りがないという訳で、非常に安く持って来たんです。博物館なんかでも、前から言って来ているが、博物館に出すと、国宝にされちゃんでね。それで、国宝にされると厭だというので出品しなかったのです。それは財閥の極く偉い人でね。それは人に見せなかったんです。これは余程奇蹟ですね。買手が三人もある為にこっちが安く買った。それは一例ですが、そんな事が色々ある。
又、支那陶器なんかは、私は色々外国のを調べてみると、日本で持っている人は少ないです。之は英国、米国に負けているんです。英・米は明治初年時分から注目して集めたんです。日本人の方はそれを見て知った位ですから、立後れになっている。処が日本は昔からそういうものがあったんです。だから外国に無い様な良いものもあるんです。今支那陶器で一番良いものが集っているのはロンドンの博物館です。之は以前も話したホップレスが集めた。それが第一です。それは、非常に数があるんです。図録が十一冊ありますがね。それに出てます。私の方の支那陶器と較べてみると、無論数に於ては負けてます。均窯というんですがね。あとは勝っているものが多いですね。二番目はイギリスの、デヴイットという美術館がありますがね。図録が一冊ですが、厚いのがあります。其本が中々手に入らなくて、漸く手に入れて、見ると私の方が勝っているんです。デヴイットというと、支那陶器の有名な蒐集家ですが、その品物と私のと較べてみると、デヴイットの方が負けている。非常に安心しました。私のは一年位で集めたものですがね。デウイットというのは何年もかかって集めている。之が人間力と神力の違いですね。あとイギリスでホブソンというのが居るが、之は大した事はない。日本にも来て写真を写した事がありますがね。そこで均窯というものの少し良いものを私が集めたら世界一という事になりますね。熱海の美術館が出来たら、そう思っている。処が品物があるかどうかが問題です。日本には古い良いものがありますが、茶に関したものが多いです。茶に関係しない鑑賞的なものは昔から日本にあまりなかった。猶、米国の博物館、美術館。ニューヨーク、ワシントン、ボストンのですね。そういった様な美術館、博物館は論ずるに足りないんです。唯、私の方でアメリカに負けているのは銅器です。支那の周銅という之は私の方がずっと負けてます。銅器は、支那から英国、米国がいち早く集めちゃった。日本は昔から銅器は問題にしないで、集めなかった。それで、支那の陶器というのは英・米に買われちゃってます。それを買うべく日本でも骨折ってますが、中々難かしい。日本でも数を集めたのは住友ですがね。京都に陶器の美術館があります。四百何十点という。之は一寸歯が立たない。それから、根津美術館、白鶴ですね。此三カ所は銅器は立派なものがあります。之は一寸私の方は負けます。望なきにあらずでなくて、望なしですね。けれども神様がやられる事ですから、どんな事になるか今の処は一寸分らない。然し、銅器というのは普通の人は分らないものですよ。非常に難かしいものです。私なんかも、銅器を随分研究してますが分らない。何しろ周銅というのは三千年前ですからね。神武天皇の前ですからね。周の前が商で、その前が殷ですね。殷というと三千四、五百年前ですからね。だから三千年前と三千五百年前という見分が中々難かしい。二千年前は漢の時代になり、それは良く分ります。全然違ってますからね。それから支那はイミテーションが上手いんです。二千年位前に上手い物を作っている。それは売らないで大抵直ぐに地に埋めちゃうんですよ。それで孫の代に売る。非常に上手いので中々分らないんですよ。私の方に少しありますがね。専門の、或学者は本物だという。或学者は贋物だという。そういう事がよくある。今そういうのが一つあるんですよ。京都の大学教授で梅沢という有名な人ですがね。此人は「素晴しい、本物だ」という。それから東京の博物館の、そういうものを書いて居る田沢という――私の方の顧問にしてますが、此人は「贋物だ」という。両方の議論があるんです。それでそれを預かっている道具屋が美術館に出して呉れという。それで、そういった好事家とか専門家の意見を聞いて判断して下さいというので、私が預かっている。そんな様な工合で非常に難かしい。まあ、美術の話はその位にして置きます。どうも私は美術の話というと、時間を忘れちゃうんでね。
それから此間火星が近附いて、あそこに生物が居るとか居ないとか新聞に出てましたが、それに就いて色々書いてみた。それから月の旅行ですね。
(御論文「宇宙は地球以外に生物なし」) 【註 栄光一五九号】
宇宙は地球以外に生物なし
(栄光一五九号)
外国の天文学者は、余程前から火星に生物がいるとか、運河があるとかいう説を唱えていたが、私は以前火星には生物はなしと記いた事がある。ところが近頃になって火星無生物説を唱える学者もボツボツ出て来たので、私は愉快に堪えないのである。という訳でまだまだ現在の天文学は幼稚極まるものと私は思っている。ところが近頃は月の世界への旅行可能として、準備している物好きな学者が英国辺りにあるそうだが、これなども実に気の毒なくらい低級な学者達である。
ここでそれらについて少しかいてみるが、この大宇宙には、地球以外に生物は決して生存していない事を断言する。そうして月の世界はいつもいう通り氷の塊であって、その冷たさは到底零下何度などと人間が想像出来るような生易しいものではない。全く絶対無極の大氷塊である。だからもし人間が行けたとしても、一瞬にして石のごとく氷結してしまうと共に空気など一粍もないところの無と同様な世界であるから、まず諦めた方がよかろう。という訳で望遠鏡に映る種々な凹凸は氷塊の不規則な一面である。ついでだから太陽も説明してみるが、これも想像もつかない程の巨大な火の塊であって、いわば火の霊であり、火の体は地球の中心になっている火の塊である。つまりこの天と地とにある火熱が、氷塊である月球を溶解し、水素を造って地球活動の役目をしているので、海も、川も、雲も、霧もその変化したものである。そうして星は地球を牽引しつつ、星自体の霊気を宇宙線を通じて地球に供給し、地球の活動を助けているのである。
以上の理によって現在学者が誇りとしている天文学なども、まず原始時代に毛の生えたものと思えばいいので、全く唯物科学ではこの謎を解くなどは痴人の夢である。ところがいつもいう通り、現代科学は独り天文学ばかりではない。医学も農業もあらゆる文化も右と同様の程度であるから、その盲点を明らかにして科学のレベルを引上げるべく、私は現在骨を折っているのである。
(御論文「日本は文明か野蕃(蛮?)か」) 【註 栄光一五九号】
日本は文明か野蛮か
(栄光一五九号)
この標題を見た人は私の頭脳を疑うかも知れない。何故なれば、日本は戦には負けたが依然として文明国の仲間に入っている事は確かだからである。そうして先ず野蛮国といえば彼のアフリカを始め、地球上には色々の国があるが、よく考えてみると、これ等は単なる野蛮国ではなく、野蛮未開国というのが本当であろう。只日本は未開の二字だけは確かに除れたが、野蛮の二字は依然としてその儘残っているのが事実である。
何よりも、私は近頃の世相をみてつくず(づ?)くそう思われるのは余りにも野蛮的な事が多すぎるからである。何かというと、集団的暴力を奮って社会を騒がしたり、人々を脅かし、殴り合い、兇器の奪い合い等々、怪我をしたり、させたりしているという様に、実に不安極まる社会である。然も将来文明の指導者たるべき、最高学府の学徒までがその仲間になって騒ぐのだから、全く情ない話である。そうかと思うと市井の巷などでも、運チャンの首締め、殴打で人事不名にして、僅かな金を奪ったり、又一寸した事で人を殺したり、中には親子兄弟の殺傷沙汰さえ往々あるのだから、全く野蛮極まる世相で、日々の新聞に一つや二つ出ていない事はない位である。
その他強窃盗、強姦、掏摸や放火、喧嘩、殺傷沙汰等、数えあげればキリがない程で、これが文明世界であるかと疑いたくなる。私は寧ろ獣に近い社会と言った方がよいとさえ思うのである。という訳で、実際現代人はまだ文明の何たるかを知らないようである。成程近代文明は機械の発達によって非常に便利になり、社会組織や機構などが科学的に巧妙に仕組まれるようになったので、単に見た目には驚異的進歩であるので、これが文明というもののあり方と思ってしまい、随喜の涙を零しているのが大部分であろう。処が何ぞ知らん、吾々からみればこれは文明の表面だけで、裏面は文明処か野蛮がまだ大いに残っていると思わざるを得ないのである。
これを分り易くするため歴史的順序をかいてみるが、抑々人類は原始時代から未開野蛮時代を経、それから宗教や学問の発達によって文明が生まれたには違いない。と共に、野蛮の方も減りそうなものだが、事実は減る処ではない。という訳で、変な言葉だが、今日は文化的野蛮時代と言った方が適切であろう。従って真の文明時代とはこれから出来る世界であって、この時代こそ全人類の待望する平和幸福な世界である。だが喜ぶべし、その時代は已に目前に迫ったのである。それはその時代を造る役目として生まれたのが我救世教であるから、本教の今行っている事業を見ればよく分る。その第一着手としては、文明の裏に潜んでいる幾多の誤謬を指摘し暴露すると共に、真の文明というものを教えているのである。故にそれを信じさせる為の手段として、神は盛んに私に奇蹟を行わせ、神の実在を信じさせているのである。こうみてくると本教は既成観念で考えるような、あり来たりの宗教ではなく、全く新しい文明世界の創造者であり、世界歴史大転換期に於ける神の一大経綸の担当者である事が分るであろう。
昨日だかの新聞に盲が――女の人で見えなくなったのを手術するや直きに見えた。という事をデカデカと出てましたが、あれは目の側に肉腫が出来ていて――肉腫を二つ許り手術でとった処見えて来たというんです。あれは肉腫じゃないんです。何故というと、熱が出て痛みがあったというんです。熱が出て痛みがあるなら肉腫じゃないんです。膿の固まりですからね。浄霊をやれば直ぐ見える様になるんですがね。大変な巧妙な、医学を信じさせる様な旨いやり方ですがね。そういう様な事は始終あります。我々からみると、屁の様な事を、大変な偉い様にデカデカとね。それは医学を偉く見せる様な邪神の働きなんです。それを今一寸書いてみたんですがね。
(御論文「世界的迷信としての現代医学」) 【註 栄光一五九号】
世界的迷信としての現代医学
(栄光一五九号)
よく時々新聞、ラジオ等で報道されている事だが、鉄の肺で小児麻痺が治ったとか、赤ン坊の決定的死を親の血液と取替えて助かったとか、死人の網膜を移植して目が見えるようになったとか、心臓の手術が成功したとか云って、サモ医学が進歩したように特ダネ的に扱っている記事がよくあるが、これを吾々からみると、医学の低級さに情ないと思うくらいである。何となればよし治るにしてもむごたらしい冒険的手段で万一を僥倖するのであるから、確実な方法とは言えないと共に、仮に治ったとしてもそれは一時的で、決して根本からではないから、いずれは必ず故障が起こるか、再発するのはもちろんである。それに引き換え本教浄霊によれば、それしきの病気などは簡単に治るのみか、そんな手数も要らず、苦しい思いもせずして安心しながら全治出来ると共に、再発の憂いもないのだから、到底比較にならない程の異いさである。従って本教の全快者の驚きは大変であると共に、絶対的信念を得て百八十度の転換となり、医学を棄ててしまうのである。もちろん病気になっても浄霊一本で済むばかりか、家族の誰でも信者になりさえすれば浄霊が出来るのだから、これ程有難い事はあるまい。たとえ夜が夜中でも急の間に合うのだから、その安心感たるや到底言葉では表わせない程である。ところがこれ程進歩した信仰療法を、筆に口に知らせても一般は容易に信じられないのであるから、いかに医学迷信が根強く沁み込んでいるかが分かるであろう。もちろん政府も専門家も同様で、振り向いても見ないのであるから困ったものである。これを想像してみるとこうであろう。そんな馬鹿な事があって堪るものか、ヤハリ戦後派宗教の巧妙な手段の一つで、全然科学性がないのだから、迷信以外の何物でもないと決めてしまうので、この態度こそ吾々から見れば恐るべき迷信以外の何物でもないのである。
右のように医学の僅かばかりの御手柄を、大々的に宣伝するジャーナリストも、ヤハリ迷信屋の味方であるから、吾々の方でどんなに奇蹟的効果を知らせても、豚に真珠で迷信を通り越して野蛮蒙昧人と言いたいくらいである。しかし事は人間生命に関する重大問題であるから、何とかして彼らの眼を醒ましたいと思うが、右の通りだから仲々容易な業ではない。しかし時が来れば神は絶対力を揮わせ給うから、その時こそ万人の眼を覚まさせられるのは言うまでもあるまい。
それから斯ういう事を知らなくちゃいけない。一寸気がつかないですがね。つまり此処(後頭部)を浄霊していると、此処(後頭部)は良くなるんですね。そうすると胸が悪くなる。極く軽い吐気が起る。そういう事はよくあるんです。それは、こういう所(後頭部)の毒が溶けたのが、一旦胃に行くんです。胃に行って、胃でそれを自然浄化で溶かす。その間気持が悪くなる。ですから方々浄霊して、胸が悪くなったら、溶けた毒が胃に入ったんだから、之は直き治ります。それから溶けた毒が肺に入ると、咳をして痰になります。よく浄霊すると咳をしますが、あれは溶けた毒素が肺に入るんです。そうでなくムカムカする人がありますが、それは溶けた毒が胃に入るんです。それは、多く下痢になりますね。それをよく心得て置くと良い。浄霊してムカムカしておかしくなるという事があるが、そういう訳ですから、それを良く心得て置かなければならない。段々浄化が強くなりますから、そういう事が苦しくなるんです。此頃は、一寸悪い人をやると、直ぐに咳が出て痰が出ますが、そういう様な訳だから、今言う毒の溶けたのは、肺から出る場合と、胃に行って胃から排泄されるというのと両方あるという事を心得て置けば良いですね。
それから此頃御守護電報なんかが日に何本となく来ますが、重態な場合もあるし、つまらない――こっちから見るとつまらないんだけれども、本人や浄霊している人は、重大だと思って電報打つんでしょうが、病状と苦痛に依って分ります。大した事でなくて直きに直る様な事で御守護の電報が来ますが、あれはどうも治し方が違っているんですね。浄霊が違っているんですね。というのは矢張り力が入るんですよ。で、力を抜いてやれば何でもなく治るという事が、治らないという事はそういった訳ですね。だから浄霊の一番の修行というのは、力を抜く修行ですよ。力を抜いてその霊が向うに通らなければならない。だから本当いうと難かしいんです。やり方は楽なんです。だから楽で難かしいと、こう思わなければならない。通そうとすると力が入るんですね。そうでなく力を抜いて霊を向うに通す。之をやると非常に良く治る。兎に角力が入っちゃいけない。若し治りが悪いと、力が入ったなと気がつかなければならない。私が始終そうです。私が、一寸誰か浄霊してやる場合に、力を抜くと非常に良く治る。可笑しいなと思うと、不知不識力が入っている。ですから力を抜く修行ですね。それが出来るに従って良く治ると、こういう風に思っていいですね。
Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.

-1-scaled-2.jpg)