六月二十六日

【御 教 え】

 昨夜の映画で、博物館のがあったんですが、之は理研の文化映画なんです。博物館のは殆ど仏像です。それから、あとは奈良が主で京都あたりのお寺、桂の離宮とか――古美術的なものです。そういう映画で、之は珍しいです。今迄そういった映画はないですからね。それ丈世の中が美術という事に関心を持って来た訳なんです。フランスあたりと油絵の交換とか、そういう事が新聞に出てますが、そんな様な工合で何んとなく美術というものが人の注目を引く様になって来ました。で、理研の映画をやっている人の話では、博物館を写して――フランスにあるカンヌという処で毎年文化コンクールがあるんだそうですが――写しかけたが、あと大したものがないので、それで仕方なしに奈良やあっちの方のものを写して纏めた訳だと言うんです。

 処が此処の美術館は――此処の庭も色々取込めてでしょうが、大丈夫コンクールに出す映画が撮れるというので――二十日位かかるそうですが、此の九月に撮って文化コンクールに出す話になっているんです。そういう訳であってみると、まあ博物館以上という事は確かなんです。そうすると日本では博物館がそういった美術に対しては一番としてあるんですが、それ以上とすれば日本一はもう間違いない話です。

 そういう美術館を造ったというのは、計画をそう思いついたのは二、三年前からなんです。そうすると驚く程早いんです。早いというのは、之は私から言っては甚だ変ですが、つまり頭の良い悪いなんです。私は、自分ではそう頭が良いとは思わないです。忘れる事もあるし、色々まごつく事もあるしね。然し一般の人から較べると素晴しく良いんです。そうすると普通の人が素晴しく頭が悪いという訳です。そういう事が言える。色々考えてくると結局頭の問題です。大体人間の幸不幸は之は頭です。不仕合せになるのは頭が悪いんです。一番頭が悪いのは悪人ですよ。之は、悪い事で成功すると思う――悪い事で幸福になると思う、その錯覚ですね。悪い事をすると駄目になるという事に気がつかない頭の悪さです。ですから私は、悪い事をする人間は非常に頭が悪いと思う。それで人間が偉い偉くないとか、或いは名前がある人とか、名前が出ている人とか出ていない人とかいう事は余り関係ないです。つまり幸福ですね。何も、名前を得たら幸福という訳じゃないです。そこで同じ頭が悪くても、悪さにも色々差別があります。非常に悪いのとそれ程でもない――今、出世している人とか著名な人は悪いなりにも、少ないです。良いとは言えないが――。

 それに就いて気がついたのは、最近マッカーサーが非常に評判が良いというんです。何処に評判の良い元があるかというと、今度国連軍の方で、黄緑江を渡った処を爆撃しましたが、あれなんです。あれはマッカーサーが主張した案なんです。それを、いけないと言ってマッカーサーを抑え附けたんです。然しその戦法を今度実行したんです。そうするとやっぱりマッカーサーは偉かった。一年前にちゃんとその案を主張したという事に於て、マッカーサーの人気が非常に良くなっている。或いは、今の処はタフトを後援してますが、マッカーサーが、大統領に出る様な匂もしているそうです。そうすると私があの当時からマッカーサーを褒めてました――あの政策は非常に良いと言ってましたが、やはりそうなる訳です。トルーマンという人も偉い人ですが、その点に於て非常に頭が悪いです。折角、共産軍をあそこ迄追いつめて置き乍ら、マッカーサーが大胆に満州を爆撃するというのを()めたんですから、蛇の生殺しにしたんです。だから今以て停戦会談なんか、グズグズしてます。あれなんかもいずれ今に協議が纏まるとか何んとか唱える偉い人がアメリカにありましたが、処が私は先からあれは駄目だと言っている。つまりソ聨の消耗作戦です。()めて了えば、アメリカは引上げますから、アメリカの消耗は駄目なんです。処が闘えば勝目はないから、闘わない様にしてアメリカの軍隊をどこまでもあそこに()めて戦力を消耗するというので、グズグズしているんです。それに気が附きそうなものですが、気が附かないで――妥協が出来ると思っているんですが――今漸く気が附きかけて来たんです。その位頭が悪い。凡てがそうです。

 之はアメリカに限らず日本でも、その頭の悪さは同じ事ですが――今でも頻りに解散論を唱えてますが、あれは承知してやっているのかも知れませんが――改進党でも社会党でも、どうも頭は悪いんです。兎に角内閣が失敗するとか政治が悪いとか言って、到底維持出来ない。国民の輿論が轟々として、拾(収?)拾がつかないという、そういう声になった時に解散論を唱えると、ワッと言って、そうなりますが、今の様に無事に行って――それに吉田は中々旨くやるんですから、兎に角吉田以外に政治を担当するという人はないですから、後釜の目当のつかない内に解散しても国民はついて行かないですからね。一人よがりで笛吹いている様なもので、国民はソッポ向いてます。それから共産党が頻りに工場焼打したり巡査を何してますが、あんな事をしても逆効果です。そうすると、段々警察予備隊を増やして行くし、政府の方も厳重にして来ますから、段々共産党は手も足も出ない様になる。彼等は成程地下に潜って姿を(くら)ますのは上手いですよ―今以て徳田以下潜ってますが、あれは実に頭が良いです。処が肝腎な事は、暴動を起して社会を困させて了おうという目的です。処がそれに踊っているのは日傭人夫や学生の若い者です。之は要するに小児病の具体化です。どうも頭が悪い。仮りに、やるとすれば油断させて―大人しくして居て一挙にやると、それは効果があるでしょう。然し、それをやられても困ります。そんな様でああして騒いで、自分丈やっているのは効果はないです。あそこに非常に頭の悪さがあるんです。それから共産党が騒いでますが、もっと野蕃(蛮?)蒙昧な国――それから、もう一つは、非常に政治が悪くて貧乏や色んな事の為に国民が食うや食わずに居るという状態とすれば、共産主義は相当それに興味を持たれるんです。処が日本は今それ程の困窮にはなっていないし、それから又斯ういう事が良い、斯ういう思想が良いか悪いかという、そういう判断力から言っても、兎に角日本人は相当進んでますから、いくら共産主義で踊らせ様としても、それに引掛らないです。で、兎に角文化の発達した国――ヨーロッパでも日本でも共産党が非常に社会から嫌われている。段々議員なんかの数が減って行く。ひとしきりイタリヤなんか共産党がはばったが、年々共産党の議員が減って行く。そうしてくると成功の見込は少くなるんです。というのは、文化の発達した国民は判断力がありますから、中々丸呑みにしないで批判しますから、批判してみるとどうも共産党が面白くない。之で幸福な社会になろうとは思えない。そこで段段人気がなくなって来る。だから、それに旨く成功したのは中共です。支那です。処が中国は未だ教育の程度が低い、それ丈の隙がありますから、そこでまあ成功したんです。そのやり方を日本に持って来ても、それは成功しないですよ。それもスターリンあたりは大分感ず(づ?)いて来たんで、近来非常に日本に対する優遇政策を取って来たんです。一方で社会を困(混?)乱させ様としているが、一方では政府や有識階級には妥協政策をやってます。そういう政策を見つめてみると、やっぱり頭が悪いです。だから日本では先ず共産主義は成功しないという事は言えるんです。

 此間アメリカのブレーデンという宗教の研究調査に来た人ですが、強羅ホテルで一時間ばかり会談した時に、共産主義に就いて何う思うかと質問されたが、近き将来亡びるから私は問題にしないと言ったら吃驚してました。恐らくその様に言う人はないでしょう。何故亡びるかというから、それは根本が悪だから――自己の団体、階級の利益を計って人類全体の幸福を計らない。そうすれば悪だから亡びるよりしようがないから、私の方は別に問題にしない。そういう訳で、成功するか成功しないかは、思想なり問題なりの根本がはっきり解れば何んでもない話です。そういう訳ですから、ものを批判したり見る場合に、本当に人類の為になると、或いは世界全体が幸福になるという、そういったものは必ず成功する。そうでないのは、一時的に良くても失敗する、という様に判断すれば決して間違いない。処がそういう簡単な理窟が中々解らないんです。というのは、頭が悪い。その原因は、何時も言う通り、矢鱈に薬毒を身体に入れて始終心配許りするから、頭に毒素が上って、それで頭が悪いんです。だから教育や学問で一生懸命頭を良くしようとする。頭を良くしようとするからして、それ丈は良くなるが、その為に頭を使って薬を入れるから、その薬毒が頭に来て悪くなる。という訳ですから、今の人間は理窟は旨い事を言うが、その理窟は浅いんです。外部から注ぎ込むやり方ですから、だから上っ面は非常に発達するが、内部の方は毒を頭に注ぎ込んでますから悪い、斯ういう状態です。だから、上面(うわべ)利巧の(しん)馬鹿――斯ういう人が沢山出来ている。

 三十日と一日に美術愛好家、それからそういう方面で著名な人を招ぶ事になってます。まあ外国人も相当――新聞記者や何か来ます。で、喋った事を翻訳するよりか、原稿を書いて貰って翻訳した方がずっと正確で楽だというので、書いて貰いたいというから書いたので、それを読ませます。

 御論文「美術家建設の意義」【註 栄光一六四号】

美術館建設の意義

(栄光一六四号)

 私はメシヤ教教主岡田茂吉であります。今日は御多忙の処、折角御光来下さいました段、厚く御礼申し上げます。

 ()て今回特に開館に先立って御覧を願う次第は、美術に対する具眼者である諸氏の御批判を仰ぎたいと共に、一言私の抱負を開陳致したいからであります。そうして、宗教本来の理想としては、真善美の世界を造るにあるのでありまして、真と善とは精神的のものでありますが、美の方は形で現わし、目から人間の魂を向上させるのであります。御承知の通り、西洋でも希臘(ギリシャ)(ロー)()の昔から中世紀頃迄は勿論、日本に於ても聖徳太子以来鎌倉時代迄は、宗教芸術が如何に盛んであったかは御存じの通りであります。従って、絵画、彫刻、音楽等凡ゆる芸術は、宗教が母体であった事は、否み得ない事実であります。

 処が現代に至っては、それが段々薄れてゆき、宗教と芸術とは離れ離れになってしまい、そこへ近代科学の影響も手伝って、宗教不振の声は常に聞く処であります。そのようなわけで、どうしても宗教と芸術とは車の両輪の如くに進まなければならないと思うのであります。

 処で、それはそれとして、日本という国柄に就いて一言申したい事は、本来地球上の国という国は、人間と同様それぞれその国独自の思想文化を持っている事であります。では、日本のそれは何かと申しますと、美によって世界人類を楽しませ乍ら、文化の向上に資する事であります。日本の山水美が特に秀でている事や、花卉、草木の種類の多い事、日本人の鋭い美の感覚、手技(しゅぎ)の勝れている点等を見ただけでも、よく分る筈であります。処が、そのような根本を知らないが為、戦争などという無謀極まる野望を起した結果、アノような敗戦の憂き目を見るに至ったのであります。然も、再び戦争などを起さないよう武器まで取上げられてしまったという事は、全く神が、日本人の真の使命を覚らしむべくなされたのは、言う迄もありますまい。尤も、最近再軍備などと喧ましく言われていますが、これは単なる防衛手段であって、それ以上の意味はないのは勿論であります。

 以上によってみても、今後日本の進むべき道は自ら明らかであります。即ち、それを目標とする以上、永遠なる平和と繁栄は必ず招来するものと信じ、(かね)てこの事を知った私は、微力ながら、その考え方をもって進んで参ったのであります。そうして、その具体的方法としては、先ず美の小天国を造って天下に示すべく企図し、その条件に適う所としては、何と言っても箱根と熱海で、交通の至便と、山水の美は勿論、温泉あり、気候空気も良く、申分ない所であります。そこでこの両地の、特に景勝な地点を選び、天然の美と人工の美をタイアップさせた、理想的芸術境を造るべく、漸く出来上ったものがこの地上天国と、そうして美術館であります。それに就いては、御承知の如く日本には今日迄、日本的の美術館は一つもなかった事であります。支那美術館、西洋美術館と博物館の宗教美術等で、日本人であり乍ら日本美術を観賞する事は出来ないという有様で、今仮に外国の人が日本へ来て、日本独特のものを見たいと思っても、その希望を満たす事は不可能でありました。としたら、美術国日本としての一大欠陥ではありますまいか。というわけで、今度の美術館が、幾分でもその欠陥を補うに足るとしたら、私は望外(ぼうがい)の幸いと思うのであります。

 それから、こういう事も知って貰いたいのです。それは、昔から日本には世界に誇り得る程の立派な美術品が豊富にあり乍ら、終戦までは華族富豪等の奥深く死蔵されており、殆んど大衆の眼には触れさせなかった事であります。つまり、独占的封建的思想の為でもあったからでありましょう。それが、民主的国家となった今日、昔の夢となった事は勿論であります。そうして、元来美術品なるものは、出来るだけ大衆に見せ、楽しませて、不知不識の内に人間の心性(しんせい)を高める事こそ、その存在理由と言えましょう。とすれば、先ず独占思想を打破して、美術の解放であります。処が幸いなる哉、戦後の国家的大変革に際して、秘蔵されていた多数の文化財が市場に放出されたので、これが我が美術館建設に如何に役立ったかは、勿論であります。

 そうして、今度の美術館は規模は小さいが、今後次々出来るであろう内外の美術館に対し、模範的のものを造りたい方針で、一から十まで私の苦心になったもので、勿論庭園も一切私の企画で、一木一(いちもくいっ)(そう)と雖も悉くそうでありますから、素人の作品として欠点は多々ありましょうが、聊かでも御参考になるとしたら、私は満足に思うのであります。尚且つ将来あるかも知れない空襲や、火災、盗難等に就いても、環境、設備等充分考慮を払ったつもりでありますから、国宝保存上からも、お役に立つでありましょう。

 以上で大体お分りの事と思いますが、つまり日本本来の美の国、世界のパラダイスとしての実現を念願する以外、他意はないのであります。

 尚近き将来、熱海にも京都にも、地上天国と、それに附随する美術館を作る計画でありますから、何卒今後共宜しく御支援あらん事を、茲にお願いするであります。これを御挨拶と致します。

 之は薬毒に就いてですが、信者でも相当古い人は徹底しているが、新しい人は中々薬毒に気がつかない人が随分あるんです。兎に角薬毒に気がついて徹底するのが一番肝腎なんです。薬毒の恐ろしさを書いてみたんです。

 (御論文「薬毒の恐怖」)

薬毒の恐怖

(栄光一七三号)

 あらゆる病原は薬剤である事は、私の常に唱えているところであるが、これについて一層深く突込んでかいてみると、右の原理を常に頭に置いて診査すればよく分る。たとえばこの病気は何の薬を服んだためとか何の注射のためとか、何を塗布したからだとか、洗滌したからとかを考えてみるのである。仮に盲腸炎にしろこれはいつ何の薬を服んだから、消毒薬を用いたからと考える。言うまでもなくその薬毒が膿化し、盲腸部に固結したものだからである。また胃に関する病気にしても、何の薬を何年間服み続けたからだとか、この神経痛は、リョウマチスは、腫物は、ひょう疽は、脱疽等々もそうであり、頭痛、眼、鼻、耳、歯痛、歯槽膿漏、扁桃腺炎、声嗄れ等、何も彼も原因は薬であるから、必ず見当はつくはずである。また薬を用いた事のない子供とすれば、もちろん親の薬毒が遺伝したものであるから、その気で考えれば直ぐ分るはずである。

 というようにほとんど想像もつかない訳であるから、恐ろしい話である。しかし我神霊医学を修得すれば根本が薬毒である事が分る以上、病気の心配から解放されるのである。そうして歯痛の原因が盲腸手術のためがよくあるのも、ちょっと意外に思うであろうし、あらゆる手術の際の消毒薬が色々な痛みの原因になる事も、非常に多いものであるから、身体のどこかに激しい痛みや、執拗な痛みのある場合、既往の手術を想い出せば必ず肯くであろう。また歯槽膿漏の原因が腎臓萎縮による余剰尿が上へ昇るためと知ったら驚くの外ないであろう。その他数え上げればキリがないから、この辺で止めておくが、要するに万病ことごとくの原因は薬毒なりと知ればいいので、これだけでもその人は安心立命を得たのである。

 

 此間ラジオかで一寸聞きましたが、今病気の数は千百幾つというんです。だから、昔は四百四病と言ったが、ずっと増えた訳です。三倍になった。で、そういう風に病気の種類が増えるという事は、一寸考えると可笑しいんです。処が病気の原因が薬という事が分れば、何んでもなく分ります。つまり薬の種類が増えたから、病気の数が増えたんです。兎に角そういう様な工合で、何んの病気でも先ず薬を考えてみる。そうすると分ります。よく信者の人なんかで、どうも治らない、しつこい、憑霊現象ではないか、何んの霊でしょう。と、よく聞く事があるが、それよりか薬毒の方がずっと多いんです。それからもう一つは、憑霊と言っても、そういう霊は悪霊ですが、悪霊が憑くのは頭が曇っている。曇っているというのは薬毒です。薬毒で曇ると、そこに霊が憑くんです。ですから憑霊を何うしよう斯うしよう、解決しようという事は気にしなくて良いんです。それより薬毒を取っちゃおうと考える。それが根本です。精神病というと霊に違いないが、(もと)は薬毒です。精神病は不眠になる。不眠が因という事は延髄に固りがある。延髄に固りがあるという事は薬毒です。だから、精神病でも何んでも、そういった心の病気も全部薬毒です。そこで人間不幸の原因も薬毒なんです。だから薬を身体に入れなかったら其人は仕合せです。色んな災難なんかはないんです。魂が曇っているから、曇り相応の浄化が来るんです。災難というのは浄化です。そうすると薬毒で血が濁っているから霊が曇るんです。だからこの根本は薬を無くする事です。そうすると地上天国が出来るんです。だから浄霊というのは曇を取る事ですよ。薬で逆に曇らせたのを浄霊で取るんです。ですから浄霊すると血を吐いたり、鼻血を出したり、下からくだったりしますが、それはそういう訳です。

 之はやっぱりそれに関係した、伝染病の事です。

(御論文「伝染病恐るるに足らず」)【註 栄光一六四号】

伝染病恐るるに足らず

(栄光一六四号)

 これから夏期になるに従って、諸種の伝染病が続出するとして、当局は大童になって、予防方法や色々な施設に懸命であるが、吾々からみるとまことに情ないのである。何となれば医学はその根本が分っていないからでもあるが、根本さえ分ってみれば何も心配も要らないばかりか、むしろ伝染病に罹ればそれだけ健康は増すのである。その何よりの証拠は伝染病が治ると当分は(おこ)らないばかりか、病種によっては一生免疫となり、健康はよりよくなるのである。こんな事をいうと現代人は到底信じられないだろうが、それが真理だから、仕方がない。そこでその理由を詳しくかいてみるがこれを読んだなら何人もなるほどと合点がゆくであろう。

 そもそも伝染病なるものは最も急速に行われる浄化作用であって、これ程結構なものはないのである。というのは今日の人間は非常に血が濁っている。この原因はいつもいう通り無暗に薬を体内に入れるからで、薬は元々毒であって、その毒が血液へ吸収されて濁血者となるのである。ところが濁血者は虚弱で病気も発り易いから、ここに自然はその濁りを排除すべき浄化作用が発るので、人体は実によく出来ているのである。

 ところが面白い事にはその濁りを解消する作用として、黴菌という微生虫が発生してその仕事をする。すなわち黴菌はその濁りの微粒子を喰いつつ繁殖するのであるからつまり濁血の不純物こそ黴菌の食物になる訳で、殖菌作用ではなく食毒作用である。

 右のように浄化作用が起るという事は、人間ばかりではない。地上一切の物に対しても同様で、これが万有の原則である。すなわち暴風雨も、雷火も空間の浄化活動であり、戦争も、火災も、洪水ももちろんそれである。従って人体も血液が濁れば浄化が発るのは、自然の生理作用であるから、伝染病に罹らないようにするには血液を濁らせない事である。では浄血者になるにはどうすればいいかというとはなはだ簡単である。すなわち薬を用いなければいい。何となれば人間が生きるに必要なものは自然に作られる。五穀、野菜、魚鳥、獣肉、水等がそれであるから、それを飲食していれば、決して病気に罹るはずはないのである。何よりもそれらことごとくに味があるという事は、その物自体が食うべきものである事を教えている。それをどう間違えたものか、苦い薬を服んだり不味いものを栄養などといって食うのは、いかに自然に反するかが分るであろう。そればかりか結構な浄化作用を悪い意味に解釈し薬という毒物で一時抑えをする。その方法が医療であるから、これほど間違った話はあるまい。

 以上の理が分ったなら伝染病は恐ろしくないばかりか、健康上必要なものである。そうして本教浄霊の意味であるが、浄霊とは黴菌の食物である血液の濁りを解消してしまう神力であるから、黴菌の食物がない以上、たとえ伝染しても繁殖出来ず、死滅してしまうのは当然でこれが根本的伝染病防止法である事が分るであろう。

 

 

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