八月五日

 この一日の晩に大浄化が起きて夜中中下痢で、寝たのは朝の三時頃です。それも時々痛む、ウトウトすると腹が痛む。それから凄い下痢でして、何処に斯んな材料があるのかと思う位です。食物にあたったかと思ったが、若し食物にあたったとすると、他の人もならなければならないが、私丈ですからそれもない。一昨日は一日中何も仕事しないで寝たり起きたりしてました。アメリカ人が美術館を見に来たので仕方なしに二度行きましたが、私としては大変なのです。今日はあらかた良くなりましたが、よく調べてみると此処(後頭部)に元から固りがある。八つ頭の小さい様なもので、固くて骨みたいなものです。之は何んだと言うと以前歯の薬をつけた、それが此処に固まってそれが溶けて来た。だから非常に良い事なのです。そして少し原稿なんか書くと、直き此処(後頭部)が凝って来て、三十分は書けるが一時間は難しい。そうすると後三十分か一時間休まなければならない。処が下痢の為に之が大分小さくなったので昨日も書いてみたが非常に工合が良い。頭の働きが良いのです。だからもっと出たら尚良いと思います。未だ可成人りあります。そんな様な工合で私が何時も言う、赤痢は頭の浄化だと言うがよく合うのです。之は赤痢ではないが、兎に角後頭部に浄化しているのです。ですから近頃は非常に浄化が強くなって来て、家の太田が非常に強く下痢して日に十数回あったが、之は頭なのです。だからお腹なんかも頭をやると治って来るのです。以前ですとそういう浄化はなかった――頭が痛いとかガンガンするとか、そんなだったが、今のは頭の浄化で下痢をするのです。之は早く治って大変良いのです。そこで今の人の浄化は殆ど頭と頸です。ですから一番先に此処(前頭部)をみて、熱ければ此処に浄化が起きています。それから頭を見て、何処かしらに熱がありますから、それを浄霊する。そうすれば下痢も治ります。私は斯んな事は五、六年振り位です。私は斯んな浄化は大抵一日です。で、普通の浄化は大抵半日かゝる。之は私丈でなく、何んな人でも体の毒が或程度に減っていくとそういう風になるのです。ですから病気は恐ろしいどころでない、甚だ簡単なつまらないものなのです。ですからその後非常に工合が良いから大いに病気を礼讃して良い。病気位有難いものはないのです。健康には最も良いものです。ですから之丈のことを知ればどれ位人間は幸福だか分らないのです。恐ろしいものが有難いものだから、凡そ違い差がひどい訳です。それで苦痛で仕様がない時以外は我慢が出来る丈働いても差支えないのです。だから病気になったとすれば、もう治るに決まったものなのです。だから何んでもない訳です。之丈を世の中の人に分らせたら大変な仕合せになります。

 それから浄化が強くなったりするに就いて、肺病の治し方を変えなければならない。一番怖いのは結核の再浄化です。一旦治ってから暫く経ってから又起きるのです。あれが一番怖い。ですから再浄化になった場合には浄霊を一週間に一度位にするのです。そうして安静にする。安静と言っても医学の様に床縛りになる様なそんな安静ではない。まあ床の上で寝たり起きたりする位で、便所位は行っても構わない。そうして浄霊を一週間に一回位やる。そうすると段々熱が冷めて来ます。そうして熱が冷めたらボツボツ動き出す。そうして浄霊も一週間に二回か三回やっても良い。浄化が強くなって来たから、再浄化の場合には衰弱してそれで参ってしまうのです。それには浄霊をしないで安静にする事です。そうして熱を無くする。というのは再浄化が起る様な人は薬毒がうんと入ってますから、以前ですと薬毒がチビチビ出たが、今は薬毒がチビチビでなくてドシドシ出ます。その為に熱が出る、咳が出る、痰が出る、食欲が減りますから、そこで衰弱してそれで駄目になる。ですから今はそういう様にゆったりと極く気長に、早く治そうとしない――そういうやり方でも、良い加減浄化が起るのです。兎に角それが一番順調に行く方法ですから、そういう風にやる事です。

 此間も言いましたが、今「文明の創造」を、今度は仕上げをしようと思って書始めました。以前のは気に入らない処が沢山あるので、可成り根本的に書直した点があるのです。それを今序文から読ませます。

 御論文「文明の創造 序文」   【註 栄光一七〇号】

文明の創造 序文

(栄光一七〇号)

 この著は歴史肇って以来未だ嘗てない大聖著であり、一言にしていえば新文明世界の設計書であり、天国の福音でもあり、二十世紀のバイブルといってもよかろう。即ち現在の文明は真の文明ではなく、新文明が生まれるまでの仮の文明であって、聖書にある世の終りとは、この仮定文明世界の終りを言ったものである。また今一つの〝(あまね)く天国の福音を()べ伝えらるべし、然る後末期到る〟との予言も、この著の事であろう。そうしてバイブルはキリストの教えを綴ったものであるが、この著はキリストが繰返し言われた処の、天の父であるエホバ直接の啓示である。そうしてキリストはこうも言われた。それは『天国は近づけり、爾等悔改めよ』との警告である。してみればキリスト自身が天国を造るとは言われなかったのである。

 併し私は〝天国は近づけり〟とは言わない。〝天国は已に来れり〟というのである。何よりも私は目下天国の基礎的準備に取掛っており、甚だ小規模ではあるが、日々驚くべき力と奇蹟を(あら)わしつつあり、人々は驚歎している。そうして右の如き模型的経綸が漸次発展するに従い、他面世界的には旧文明の清算の幕が切って落される。それが最後の審判の開始であって、眼目は善悪の立分けである。即ち悪は亡び善は栄える段階に入るのである。これが為如何に多数の犠牲者が出るかは計り知れないものがあろう。併し乍ら神の大愛はこれ等犠牲者を最少限度に食止めらるべく、救いのその第一声がこの著出版の理由である。といっても、旧文明世界からも神は善悪正邪(せいじゃ)()り分け、善にして役立つ者は残されると共に、悪にして見込なき者は永遠に滅びるの止むなきに至るのである。

 以上の如く、最後の審判が済むや、続いて新世界設計の順序となるのは勿論だが、その転換期に於ける凡ゆる文化の建直しこそ、空前絶後のものであって、言う迄もなくそれは旧文明の誤謬(ごびゅう)是正(ぜせい)と共に、新文明の指針を示すのである。処が茲に悲しむべき事がある。というのは、人類が数千年の長い間に堆積された処の罪穢(つみけがれ)であって、当然この大浄化作用が発生するのである。それをこれから詳しく説いてみるが、幸いこれを読む人々は救いの綱を目の前に出されたのであるから、何等の躊躇(ちゅうちょ)なく摑まれん事である。それを前以て人類に知らせ、悔改めを私は神に代って勧告するのである。これぞ神の大愛でなくて何であろう。従ってこれを知った以上、一時も早く頭の切替えは固より、心の準備に取掛るべきである。そうして審判の最後に到っては、罪深き者は亡び、罪浅き者は救われるのは決定的であるから、これを信ずる者こそ永遠の生命を獲得すると共に、将来に於ける地上天国の住民として残るのである。そうして主神の経綸の深くして、そのスケールの如何に大なるものであるか、又現在までの文明が如何に野蛮極まるレベルの低いものであるかを、この著によって充分知らせ、確固たる信念を得させるのである。

 御論文「梗概」

梗概

(地上天国三十九号)

 馬鹿に真面目に丸で教科書みたいですが、今度は少し砕けて書いたのです。之は文明の創造ではないのです。つまり今の文明というものは、道具立ばかり良くしてあるのです。道具立が良ければ良いと思っているのですが、道具立を良くするというのは、もう之で良いのです。つまりそれは人間の運営にある。悪に利用するから何んな良い組織でも駄目なのです。処がその悪の急所を分られるのが苦しいものだから、目立たない様にして制度の方ばかり良くするのです。それがつまり急所なのです。邪神の急所なのです。だからそういったずるいやり方が良く思われているのです。医学でもそうです。注射をしたり薬を飲ませて一時良くなる様にみえるでしょう。そうして次の病気になる様に作られているのです。それが分らない。要するに世界中が瞞されている。要するに邪神のずるさに世界人類が瞞されている。やれ共産主義が何うだ、資本主義、社会主義が何うだと言っているが、共産主義、社会主義で立派に立っている。只それを用いる者の腹の中が悪い。だから破壊活動をしたりする。共産主義だって立派で、貧乏人を仕合せにしようとするのです。それを、つまり暴力を振ってやるのが悪いので、つまり心の根本的の悪がいけなくしている。そんなつまらない事でゴテゴテ日本中が大騒ぎしているのです。馬鹿の骨頂です。ですからいろんな道具立は実に良く出来ている。道具立が良くても、使う者が間違ったら良い働きはしない。悪い働きをする。そこに気が附かないのです。情けないものです。というのはつまり神というものは無い、と――神が在るという事が怖いのです。そうすると自分の悪をみんな暴露して了うのです。そこで神が在る事と悪を追放する事とが大事なのです。尤も神がある事が分れば悪は追放されます。それ丈で良いのです。それが根本です。そうすれば病無き世界が出来て皆健康になる。病気は浄化作用で有難いものだという事がはっきり分るから、人間の病気は無くなり、不安は無くなるのです。それを上手(うま)く隠蔽しているのです。お医者さんも――処がそういう心があってやっているのではないが、良いと思ってやっている。又瞞されているという事を意識しないでやっている。それが怖いのです。だから瞞されているという事を教えて、それを暴露するのです。浄霊という事はそれを分らせる一つの手段です。それを神様がやられている訳です。

 それを分り易く書いたのです。

 御論文「悪の追放」   【註 栄光一七三号】

悪の追放

(栄光一七三号)

 現在の世の中は、まだ文化の進歩が遅れている為ではあろうが、どうも識者なるものは実に馬鹿々々しい事に骨を折っている。それは何かと言うと、ヤレ共産主義とか、社会主義とか、資本主義とか、何々主義などと言って、色々な主義を作り、一生懸命になっているが、帰する処(どん)(ぐり)背比(せいくら)べにすぎないのである。昔から、主義なるものは現われては消え、現われては消えているだけの事である。これは何が故かと言うと、丁度今日の結核新薬とよく似ている。やれストマイ、パス、テラマイシン、クロロマイセチンなどと言って、ヤイヤイ騒がれているかと思うと、今度はヒドラジドなどという新薬が出来ると共に、最初はドエライ宣伝で、これで結核問題は今にも解決出来そうに思わせられたが、最近は余程怪しくなって来たようだ。このように、嬉しがらせたり、失望さしたり、同じような事を繰返しているのが文化的というものであるとしたら、実に馬鹿々々しい話で、迷わせられる人間こそいい面の皮である。

 話は戻るが、政治屋などもその通りで、何々主義、何々政策などといって、映画館の看板じゃないが、客呼びに骨を折っているが、肝腎な中身はどうも空ッポーのように思われる。だから本当を言うと、主義主張などという御題目は二の次で、要はそれを扱う人間様の了見次第で、つまり善か悪かである。例えば、今みんなが怖れている共産主義にしても、理論は結構だが、暴力や破壊手段などを用いたり、自分達の仲間だけがよければ、社会全体の不安など余り気にとめないという、利己主義が悪いのである。又資本主義にしてもそうだ、資本家ばかりが懐を肥し、贅沢三昧な暮しをしながら、使用人や労働者は、物価高で食うや食わずになっていても、見向きもしない行り方が悪いのである。又社会主義にしても至極公平なようだが、実はこの位不公平なものはない。それは偉い人間も偉くない人間も、働く者も怠ける者も、家畜動物のように一列一体の扱い方であるからで、それが為社会の進歩は阻止され、天理に外れるから悪いのである。

 玆で総選挙も近づいたから、これに就いても少し書いてみるが、悪がなくて誠実の人は世間からも信用されるから、候補に出ても三当二落(さんとうにらく)などという馬鹿気た金を使わずに済む筈だから、偉い人が出そうなもんだが、今日のようでは、そういう人は出られないから引込んでいる。その反対に、誠実などは二の次で、大いに札ビラを切る人程出られる率が高いようであるが、無論こういう人は名誉欲の亡者か、何か腹に一物ある人に違いないから、立派な議員とはならないに決っている。日本の議員のレベルの低いのは、原因はこの点にあると私は思っている。

 又重ねて言いたい事は、新薬に就いては信者はよく知っているが、どんなに良い薬が出来たと言っても、病気の治らない事は太鼓判を捺しても間違いない。元来薬で病気は聊かも治る筈はない。何故なれば薬は全部毒であるからで、毒を飲んで身体が健康になるなどは〝石が流れて木の葉が沈む〟である。つまり薬という毒で、一時病気を抑え苦痛を緩和させるだけの事で、その結果薬毒が病気を作り、年中鼬鼠ゴッコをし乍ら、人間は段々弱まってしまうのである。今日のように病人の多い事実がよくそれを証明している。従ってそんな箆棒(べらぼう)な医学や、恐ろしい薬を何とか知らせたいと思って、我々は身を砕いて一生懸命になっているのである。 

 之も一寸知って置いて良い事なので――。

 御論文「御説教」   【註 地上天国第三十九号】

御説教

(地上天国三十九号)

 昔から宗教と名の付くものは、例外なく戒律(かいりつ)が主となっており、それを御説教によって教えたのは誰も知る通りであるが、我が救世(メシヤ)教に至っては、御説教が非常に少ないのは信者も知る通りで、これに対し幾らかの疑問をもっている人もあるであろうし、(また)未信者から聞かれた場合、その理由を話さなければならないであろうから、それを書いてみよう。言う(まで)もなく、宗教の目的は改過遷(かいかせん)(ぜん)にあるのだから、それには魂の曇りをとる必要がある。魂さえ清くなれば、悪い事は出来くなり、世の為人の為に善を行う立派な人間になるからである。

 それに対し、耳からの教えによって魂を清める手段が御説教であり、目からと言霊からそうするのが、バイブルや経文(きょうもん)御筆先(おふでさき)等であるのは勿論だが、本教は耳から目から、又言霊での清めもあるにはあるが、それらは従であって、主とする(ところ)は浄霊である。何となれば五官(ごかん)(かい)して清めるのは間接的方法であって、見えざる魂に向っての体的方法であるから、効果の薄いのは勿論である。(ところ)が本教浄霊に至っては、直接魂に向って霊光を注いで浄めるのであるから、その効果たるや到底体的の比ではない。丁度病気の治り方と同様、他の療法を散々(さんざん)行っても治らない病気が、短期間に訳なく治るにみても明らかである。

 右の如くであるから、いつも言う通り本教は宗教ではなく、超宗教と言ってもいいのである。そうして宗教とは、読んで字の如く宗祖の教えであって、教えによって人心を済度(さいど)するのが建前(たてまえ)となっているが、前記の如く本教は教えは第二、第三で、浄霊によって人を善化(ぜんか)するのであるから、第一手数も時間もかからずして、効果百パーセントという訳である。実に宗教以上と言っても()えて過言ではあるまい。そんな訳で今は適当な名前が見当たらないので、仮にメシヤ教と名づけたまでである。これも今迄にこのような素晴しい救いがなかったから名称もないので、(また)止むを得ないと言えよう。()いて言えば救いの光とでも言うより外に言葉はないであろう。

 

 

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