一日の晩に腹が痛んで下痢をして夜中中――四回でしたか、随分沢山――斯んなにもあるかと思う位出たのです。で、何かにあてられたのかと思って食物を考えてみたが、それらしいものもない。若しあてられたとすると、同じに食べた人もそうなるが、ならないからどうもそうでない。で私は後頭部に固りがあるのです。八つ頭の小さい様なものですが、之は先に一年間歯の薬を毎日つけ通しだった。之は私の書いたものにありますが、之が此処(後頭部)に固まっていた。之が長い間固まっていたのが、去年あたりから私の浄霊で溶けて来た。之が下痢になっていた。ですから毒というものは――今度知ったものではないが、之位のものが溶けると、此位(多く)になります。薬だって、仮に薬一合飲みますと一勺よりもっと小さく固まるものです。三十分の一か五十分の一位に固まります。ですからそれが溶けると、何十倍というものになります。之は信者さんは皆知ってますが、毒は溶けると実に多いものです。痰などいくら出しても出るし、それから膿でも何んでも、いくら出ても出ても後出来ます。その位増えるものです。そうして後見ると少し小さくなりましたが――十分の一あるかなしか位に小さくなったが、未だ相当あります。そうしてみると人間の毒の量というものは大変なものです。だから今信者さんも、特に幹部の人なんかは特に猛烈な浄化が起って驚いている人がありますが、そういう人は神様の事に働いた色々な功労によって浄化が早く来るのです。逆に考えると良いのです。あれ丈一生懸命やって、あんなに酷い浄化で苦しむのはひどい、とあべこべに考える人があるでしょうが、その逆です。あれ丈一生懸命神様の事をやったので、浄化を早くして戴くという訳です。之をもう一層深く考えると、一般の社会の人間がいずれはそうなるのです。ですからそうなった時の想像をしてみると、助かる人というのは先ず幾らもないでしょう。それも、早く浄霊すると良いがやっぱり医学の方に頼りますから、そうすると一時抑えをやる。処がもうそういう時になると浄化の方が強いですから、一時抑えが反って逆作用になって苦しんで死ぬというのが多いです。ですから病気になるかならない内に片っ端から死んで了います。そういう時が来るのです。特に怖いのは結核なんか近頃死亡率が減ったとか言っていますが、あれが怖いのです。あの結核の新薬というのは、今迄の薬より毒が強いのです。毒が強いから、一時止めるから死ぬ人が一時延びるのです。それで喜んでいるとその毒の浄化が起ります。そこにもっていって浄化が厳しくなっているからして、それはもう悪性の結核が沢山起ります。当局もまごつくし、一種の恐怖時代が来ます。それが最後の審判です。之は二千年も前から神様の方ではちゃんと警告を与えてあるのです。で、日本人なんかでも極く上等で三分の一――三割助かったら極く上等です。或いは助かるのは一割位かも知れません。何しろ今の一般人というのは固まり健康です。固まって僅かに健康を保っているのですから、溶け出したら想像もつかない位の大悲劇が起ります。実に恐ろしい話なのです。で、今私はそういう事を書いてますが、今書いて来たのを読ませます。之は「文明の創造」の中に入る項目です。
御論文「病気と寿命」
病気と寿命(健康と寿命?)
(『文明の創造』より)
私は之から医学を全面的に批判解剖してみるが、其前に健康と寿命に就てもかかねばならないが、現代医学が真の医術であるとすれば、病人は年々減ってゆかなければならない筈であり、それと共に寿命も漸次延びてゆかなければならない道理であるばかりか、そうなる迄に数百年で充分であるのは勿論、現在最も難問題とされてゐる結核も伝染病も全滅するし、病気の苦しみなどは昔の夢物語になって了ふであらう。処が事実は全然其反対ではないか。としたら真の医学でない事は余りにも明かである。
そうして次の人間の寿命であるが、之も造物主が人間を造った時は、寿命もハッキリ決めた事である。尤も之に就ても私は神様から示されてゐるが、最低百二十歳から、最高は六百歳は可能といふ事である。従って人間が間違った事さへしなければ、百二十歳は普通であるから、そうなったとしたら実に希望多い人生ではないか。而も只長命だけではなく一生の間溌剌たる健康で、病気の不安などは消滅するのであるから、全く此世の天国である。では右の如き間違った点は何かといふと之こそ驚くべし医学の為である。といったら何人も愕然とするであらうが、此百二十歳説に就て、最も分り易い譬えでかいてみるが、先づ人間の寿命を春夏秋冬の四季に分けてみるのである。すると春は一、二、三月の三月として、一月の元旦が誕生日となり、一月は幼児から児童までで、二月が少年期で、梅の咲く頃が青年期であって、今や桜が咲かんとする頃が青年期で、それが済んで愈々一人前となり、社会へ乗出す。之が花咲く頃であらう。次で四月桜の真盛りとなって、人々の浮き浮きする頃が、四十歳頃の活動の最盛期であらう。よく四十二の厄年といふのは花に嵐の譬え通り、花が散るのである。次で五、六、七月は新緑から青葉の繁る夏の季節で、木の実はたわわに枝に実るが、それを過ぎて気候も下り坂になって、愈々稔りの秋となり、之から収穫が始まる。人間もそれと同じやうに、此頃は長い間の労苦が実を結び、仕事も一段落となり、社会的信用も出来ると共に、子や孫なども増へ、人生最後の楽しい時期となる。そうして種々の経験や信用もあり、それを生かして世の為人の為出来るだけ徳を施す事になるのである。それが十年として九十歳になるから、それ以後は冬の季節となるから、静かに風月などを楽しみ、余生を送ればいいのである。然し人によっては活動を好み、死ぬ迄働くのも之亦結構である。
以上によってみても、四季と寿齢とはよく合ってゐる。此見方が最も百二十歳説の裏付けとして好適であらう。此理によって医療が無くなるとすれば、右の如く百二十歳迄生きるのは、何等不思議はないのである。処が単に医療といっても種々の方法があるが、二十世紀以前迄は殆んど薬剤が主となってゐたので、長い間に薬剤で沢山の病気を作って来たのである。何しろ薬で病気を作り、薬で治そうとするのだから、病気の増へるのも当然であると共に、寿齢の低下も同様である。此何よりの証左として、医学が進歩するとすれば病気の種類が少なくなりそうなものだが、反対に増へるのは、薬の種類が増へるのと正比例してゐるのである。今一つ人々の気の付かない重要事がある。それは医学で病気が治るものなら、医師も其家族の健康も、一般人より優良でなければならない筈であるのに、事実は寧ろ一般人より低下してゐる。何よりも種々の博士中医学博士が一番短命だそうだし、又医師の家族の弱い事と、結核の多い事も世間衆知の通りである。そうして現在の死亡の原因は突発事故を除いて悉くは病気である。而も病死の場合の苦しみは大変なもので、之は今更言う必要もないが、よく余り苦しいので、一思ひに殺して呉れなどの悲鳴の話をよく聞くが、では此様な苦しみは何が為かといふと、全く寿命が来ない内死ぬからで、中途から無理に枝を折るやうなものであるからで、恰度木の葉が枯れて落ち、青草が枯れて萎れる。稲が稔って穫入れるのが自然であるのに青い内に葉をむしり、青い草を引抜き、稲の稔らないのに刈込むと同様で、不自然極まるからである。といふやうにどうしても自然死でなくてはならない。然し近代人は弱くなってゐるから、自然死といっても九十歳から百歳位が止まりであらう。
以上説いた如く、神は人間に百二十歳以上の寿命を与へ、病気の苦しみなどはなく、無病息災で活動するやうに作ってあるのを、愚かなる人間はそれを間違へ、反って病苦と短命を作ったのであるから、其無智なる、哀れと言っても云ひ足りない位である。
それから何時も言う通り、下痢――赤痢もそうですが、これは頭の浄化作用という事は良く分るのですが、之を知らない人なんかは、今度の私の浄化でも、無論何かにあてられたに違いない。或いは虫ではないか――蛔虫とか十二指腸虫という様に考えるし、お医者もそう思います。まさか頭の毒が溶けるなどとは夢にも思いません。それは以前は下痢というと、腹の固まりそれから背中の固まり――そういうのが多かったのです。頭の下痢は、近頃浄化が強くなった為です。今年は赤痢が多いのもそういう関係です。そこで下痢の本元は頭だという事は大発見という訳です。今、大田という男がそれと同じ様な事をやってます。昨日浄霊してやったが、熱があるのです。見ると頭に熱があるのです。この下痢は昨日から今日にかけて三十分置きです。それはあの人は頭に特に毒が多いのです。そういう訳だから、之から下痢患者は頭を浄霊する。そうしてお腹の方や何かは簡単で良い。頭を主にする。頭も前頭部の方と後頭部の場合がある。前頭部は触ってみると熱が強い、後頭部は固りがありますから、それをやると一時は余計下痢をしますが、後治りが良いのです。その代り頭が良くなります。私も、昨日あたりから原稿なんか書いても非常に工合が良いのです。それ丈を覚えて置くと良い。
それからもう一つは結核の再浄化――一旦良くなってそれから再浄化が起って、それが反ってしつこくて、症状も熱が出、痰と咳が出て、食欲が減り衰弱が強い、という事は御決の様になってますが、それはやっぱり浄化が強くなっているのです。そこで浄化が激しい為に、それに堪えられなくて命迄無くするという事がよくあるのですから、之からは再浄化の場合は――之は再浄化に限るのです。最初は今迄通りで良いのですが、結核の再浄化の場合は一週間に一度です。その位にする。
処で、私の話を間違える人が非常にある。私は随分はっきり言うのですが、昨日も一週間に一回と言ったら、今日は二回という人がある。一週間に一回と二回では倍違います。頭に就いて、信者さんの頭が――信者さんの頭許りでなく、世間の人は信者さん以下ですが、信者さんでも非常に頭が悪いのです。というのは私の言う通りに考えないのです。明主様は斯う仰ったが、あれは斯ういう意味なんだ。斯ういう意味というのを自分で作って了うのです。それで間違う事がよくある。それで又私の言った通りをやるという事は自分が値打がなかったり頭が悪かったりする様に思うのです。ですから私の言った通りにやる人が少いのです。私は何時も言うのですが、私が思う通り言った通りにする人は英雄と言うのです。偉いです。処が一般は必ず違います。之は信仰ばかりでなく、庭の方もそうです。私の言う通りにやる職人というのは一人も無いです。之を此処にやれと言うと、必ず此処にやる人はないです。こっちにやるとか、あっちにやる。私がこっちにやれと言うとあっちにやる。だから職人には手を焼いているのです。処が私の言う通りやるのが一番易しいのです。その易しい事を嫌うのですから不思議です。植木屋で一人斯ういうのがあったのです。此の石を一尺こっちにやれと言うと、一尺やれない。二、三尺しかいかない。それで私が、何うして一尺やらない。こっちにやれと言うと、今度は五、六寸やった。それから、駄目だもう一度やれと言った。すると今度は斜にやった。斜にしては駄目なのです。之で三度駄目なのだから、四度目に違ったらその職人は断るからと言った。言う通りにやれそうだが、その通りにやらない。何故かと言うと、自分は手を引いて親方に頼むと言うのです。親方に斯うやって呉れと言ってやったら二、三時間で出来ました。処が先にやった人は三、四日かかりました。そういう事があるのです。特に日本人はどうも言う通りにやらない、言う通りに考えない、という一種のくせみたいな、病気みたいなものだと思う。だから私が何時も話する事がよく違って了うのです。だから明主様が斯う仰ったので斯うやったがどうも旨くいかない。そういう筈はないと、良く聞いてみると違う。今の病気の事もその通りです。私は決して駆引や嘘はないのです。それは、よく昔からの偉い人も、いろいろ――何と言いますか、有の儘でなく幾らか形容したり色々そういうきらいがありますが、私はそれが嫌いで、何んでも有の儘率直に言いますから、その通りにやれば必ずうまくいきます。今の結核の話も、それを間違えない様にその儘聞いて、その通りやって貰いたいと思います。そうすればきっと旨くいきます。そうして再浄化の場合には、熱が一番出るから溶けるのだから、それで咳と痰が出るのです。そうすると食欲が減って体が弱る。そこで熱を無くするのです。何うして無くするかというと、安静です。だから再浄化で熱のある間は安静にする。安静にすると言っても、医学でやる様に床縛りみたいにするあれではない。寝たり起きたり位です。それで熱が無くなる迄――無熱になる迄そういったブラブラ安静を続けている。そうすると熱が無くなりますから、浄霊をするし、ボツボツ運動をするという様にして、又熱が出たら安静にするという様にすると、長くはかかりますが必ず治ります。之から浄化が強くなるに従って余計その方針でやらなければならない。ですから今再浄化を急にやろうもろなら馬鹿に浄化が強いです。ドンドン衰弱していく。
美術館も中々外国の偉い人がちょいちょい来ます。昨日来たのはニューヨークのメトロポリタン博物館――アメリカでは一番ですが、そこの東洋美術部長という人が来て、中々良く見て、私も大いに款待してやりました。中々目が利いていて、日本人より目が利いてます。この部屋で之が一番良いと言う、それが合っているのです。日本人でもそう言う人は無かったです。それから二、三日前に来たのはフリーヤーという個人の美術館ではアメリカで一番です。其処の図録を私は見た事があるが銅器が一番良い物がある。支那の銅器では世界一です。之は自分でも言ってました。私のはアメリカ一だが、世界一と言っても良いでしょうと言ってました。そんな工合で銅器は非常に良い。私の処に一つ疑問の銅器があってそれを見せましたが、それは日本の学者で京都で一番の梅原何んとか言うが、之は関西の方では一番の支那銅器の目利きなのです。東京では田澤金吾と言って、こっちの顧問になっている。梅原の方は素晴しい銅器だと言い、田澤の方はイミテーションだと言う。両方の意見があるので、道具屋が美術館に出して呉れと言うのです。そうすると誰か分る者があるからと言うが、何しろ狭いので出せない。丁度フリーヤー美術館の館長でウェンリーと言ったが、見て貰った処、之は良い物だ立派な物だ。と、それを説明して呉れましたが、中々大したものです。字が書いてありますが、日本人では字の意味が本当に分らない。処が其人は之は斯ういう字が書いてある。之は斯う文字、とか。之は最初からの字ですが、大抵持主の字を入れますが、それは入ってない。斯ういう字は何時頃出来たという様な事が実に精しい。之は周の何年と。それから色んな銅器を見せましたが、之は明の時代に写した物とか、之はずっと新しいイミテーションと、そういう様な工合に実に研究している。そんな様な工合でアメリカ人の方がどうも分るらしいのです。昨日の人なんかも急所々々をピタピタと言うのです。それは随分驚く事があります。今度は、ワーナー博士という人が来ますが、あの人は中々分ると思う。皆非常に驚いて、斯んな素晴しい美術館が日本に出来るとは思わなかった。アメリカに帰って一つ大いに好きな人とか権威者という様な人に言って寄越す様にするから、色々頼むという事を頻りに言ってました。ですから私の思った通り相当認めたに違いないです。で、良く聞いてみるとアメリカにあるのは、日本のは鎌倉以後桃山あたりから、支那では明以後――そういうのは相当数があるそうです。然し古い物は寔に数が少いそうです。今度其人達が来たのも、アメリカで今度日本の美術展覧会をやるので、それの用で来たのです。それ等の人は皆アメリカの美術の権威者です。ですから益々日本の美術というものに関心を持って来たという事は充分分ります。で、今迄日本の美術を見なかったのです。ですから蒔絵にしろ陶器にしろ絵画にしろ、未だ見た事がない、と随分言ってました。ですから分ると言った処でそういった局部的に分るので、全般的には初て見たものが多いのです。斯ういう事も、向うの一般的に分る様にしなければならないと思うし、それの一つの機関として非常に良い役目をするわけです。
それから之は一寸面白い論文です。
御論文「悪の追放」 【註 栄光一七三号】
悪の追放
(栄光一七三号)
現在の世の中は、まだ文化の進歩が遅れている為ではあろうが、どうも識者なるものは実に馬鹿々々しい事に骨を折っている。それは何かと言うと、ヤレ共産主義とか、社会主義とか、資本主義とか、何々主義などと言って、色々な主義を作り、一生懸命になっているが、帰する処団栗の背比べにすぎないのである。昔から、主義なるものは現われては消え、現われては消えているだけの事である。これは何が故かと言うと、丁度今日の結核新薬とよく似ている。やれストマイ、パス、テラマイシン、クロロマイセチンなどと言って、ヤイヤイ騒がれているかと思うと、今度はヒドラジドなどという新薬が出来ると共に、最初はドエライ宣伝で、これで結核問題は今にも解決出来そうに思わせられたが、最近は余程怪しくなって来たようだ。このように、嬉しがらせたり、失望さしたり、同じような事を繰返しているのが文化的というものであるとしたら、実に馬鹿々々しい話で、迷わせられる人間こそいい面の皮である。
話は戻るが、政治屋などもその通りで、何々主義、何々政策などといって、映画館の看板じゃないが、客呼びに骨を折っているが、肝腎な中身はどうも空ッポーのように思われる。だから本当を言うと、主義主張などという御題目は二の次で、要はそれを扱う人間様の了見次第で、つまり善か悪かである。例えば、今みんなが怖れている共産主義にしても、理論は結構だが、暴力や破壊手段などを用いたり、自分達の仲間だけがよければ、社会全体の不安など余り気にとめないという、利己主義が悪いのである。又資本主義にしてもそうだ、資本家ばかりが懐を肥し、贅沢三昧な暮しをしながら、使用人や労働者は、物価高で食うや食わずになっていても、見向きもしない行り方が悪いのである。又社会主義にしても至極公平なようだが、実はこの位不公平なものはない。それは偉い人間も偉くない人間も、働く者も怠ける者も、家畜動物のように一列一体の扱い方であるからで、それが為社会の進歩は阻止され、天理に外れるから悪いのである。
玆で総選挙も近づいたから、これに就いても少し書いてみるが、悪がなくて誠実の人は世間からも信用されるから、候補に出ても三当二落などという馬鹿気た金を使わずに済む筈だから、偉い人が出そうなもんだが、今日のようでは、そういう人は出られないから引込んでいる。その反対に、誠実などは二の次で、大いに札ビラを切る人程出られる率が高いようであるが、無論こういう人は名誉欲の亡者か、何か腹に一物ある人に違いないから、立派な議員とはならないに決っている。日本の議員のレベルの低いのは、原因はこの点にあると私は思っている。
又重ねて言いたい事は、新薬に就いては信者はよく知っているが、どんなに良い薬が出来たと言っても、病気の治らない事は太鼓判を捺しても間違いない。元来薬で病気は聊かも治る筈はない。何故なれば薬は全部毒であるからで、毒を飲んで身体が健康になるなどは〝石が流れて木の葉が沈む〟である。つまり薬という毒で、一時病気を抑え苦痛を緩和させるだけの事で、その結果薬毒が病気を作り、年中鼬鼠ゴッコをし乍ら、人間は段々弱まってしまうのである。今日のように病人の多い事実がよくそれを証明している。従ってそんな箆棒な医学や、恐ろしい薬を何とか知らせたいと思って、我々は身を砕いて一生懸命になっているのである。
御論文「御説教」 【註 地上天国第三十九号】
御説教
(地上天国三十九号)
昔から宗教と名の付くものは、例外なく戒律が主となっており、それを御説教によって教えたのは誰も知る通りであるが、我が救世教に至っては、御説教が非常に少ないのは信者も知る通りで、これに対し幾らかの疑問をもっている人もあるであろうし、又未信者から聞かれた場合、その理由を話さなければならないであろうから、それを書いてみよう。言う迄もなく、宗教の目的は改過遷善にあるのだから、それには魂の曇りをとる必要がある。魂さえ清くなれば、悪い事は出来くなり、世の為人の為に善を行う立派な人間になるからである。
それに対し、耳からの教えによって魂を清める手段が御説教であり、目からと言霊からそうするのが、バイブルや経文、御筆先等であるのは勿論だが、本教は耳から目から、又言霊での清めもあるにはあるが、それらは従であって、主とする処は浄霊である。何となれば五官を介して清めるのは間接的方法であって、見えざる魂に向っての体的方法であるから、効果の薄いのは勿論である。処が本教浄霊に至っては、直接魂に向って霊光を注いで浄めるのであるから、その効果たるや到底体的の比ではない。丁度病気の治り方と同様、他の療法を散々行っても治らない病気が、短期間に訳なく治るにみても明らかである。
右の如くであるから、いつも言う通り本教は宗教ではなく、超宗教と言ってもいいのである。そうして宗教とは、読んで字の如く宗祖の教えであって、教えによって人心を済度するのが建前となっているが、前記の如く本教は教えは第二、第三で、浄霊によって人を善化するのであるから、第一手数も時間もかからずして、効果百パーセントという訳である。実に宗教以上と言っても敢えて過言ではあるまい。そんな訳で今は適当な名前が見当たらないので、仮にメシヤ教と名づけたまでである。これも今迄にこのような素晴しい救いがなかったから名称もないので、亦止むを得ないと言えよう。強いて言えば救いの光とでも言うより外に言葉はないであろう。
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